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小松林の命とは?

おおもときょうの教祖、ぐちさぶろうさん(大本教ではせいの肩書き。以下敬称略)。昇天から七十余年が過ぎましたが、いまだ多くのなぞつつまれています。そんな王仁三郎さんを取り巻くなぞきりひとつに、「まつばやしみこと」というしんれいがおられます。


○大本神諭明治33年旧正月15日(天の巻)
『 これから上田( 改名前の出口王仁三郎 )には、小松林を御用に使ふて、何彼なにか委細ゐさいを解決さすぞよ。 』


出口王仁三郎さんの予言歌・確言歌として名高い『みず神歌しんか ― いろは歌(2)』でも「小松林命作」としるされています。つまり出口王仁三郎≒小松林命とみてよいでしょう。では、小松林命という神様とは、どんな神様なのでしょうか? どこの神社にまつられているのでしょうか?

出口王仁三郎著『本教創世記』には「付記す。小松林ははちまんぐうの高等なるけんぞく神にして、生前は武士なり。じんぐう皇后の軍に従いて、さんかんせいたまいしえいゆうなりしなり。」とかれています。ここで言及された「八幡宮」とは、はちまん大神=はたおほかみのことです。一般的に、八幡宮の主祀神(八幡大神)は、神功皇后の御子で人皇第十五代のおうじんてんのうほむわけのみこと)とされます。余談ですが、おうじん天皇の〔 応(おう) 〕を〔 王(おう) 〕、〔 神(じん) 〕をじんの〔 仁(じん) 〕と漢字変換すると、おうじん天皇となり、天皇とも読めますね。

『霊界物語』で、大本教は三五あなない教の名前で描写されます。三×五=十五(おうじん天皇は人皇十五代)。霊界物語を(直接)著述したのは、おうじんならぬ三郎聖師。

さて、小松林命が八幡大神と関連する神であることは、三郎・・・ではなく三郎さんの師匠であったながさわかつたて翁が追認しています。
『明治34年頃は最も出口でぐち(王仁三郎)のかみがかりの腕の出来た頃です。三十四年に例のおなおさんの近く日露の戦争があり、〔 天子てんし 〕は綾部へ豪塵せられると云ふ筆先を持って来た時に、出口を神主として、私がうかがって見ると出口に、岩清水八幡宮の眷属で外交通たるまつばやしのみことかかかって来られて、露国の戦争は早くて今年の三十四年八月、遅ければ三十七年二月から開戦、日本は連戦連勝で局を結ぶと出ました。それから色々とこまかいところまで示されましたが皆的中しました。当時の出口でぐちにはぐらいの腕がありましたが、最近十年となっては大本教はんじょうさくに没頭して修業をおこたったためか、以前から見れば腕の落ちたのは残念です。それに当時は私も腕は今よりじゅくでしたが、あれぐらいにはあががらしたのですが……』と追認しています。つまり小松林命は、人間が神上がりした存在で、石清水八幡宮の八幡大神のけいと推定できます。
 ちなみに八幡大神(≒応神天皇)の母親たる神功皇后は『 御安心なされ、うしとらこんじん、大国常立尊が、じんぐうこうごう殿どのまゐ時節じせつが近よりたぞよ。(大本神諭、明治32年旧7月1日)』・・・とあるように、国常立尊様と極めて縁深い女神と、わかっています。国常立尊~八幡大神のラインがうかがえます。
ところが、出口王仁三郎発言集『新月の光(上巻)』を読むと、王仁三郎さんは「後小松天皇は小松林の霊ですみよし神社じんじゃけんぞくである」と発言しています。八幡神社は応神天皇と神功皇后を祀りますから、八幡と住吉はえんぶかく、小松林命が住吉神社にいても不自然ではありません。



出口王仁三郎著「いろは歌(下)より
さとひたるははり残し、くにつくますの、こころそらつきやみくら斯世このよてらさむと、おもひをくだきつつ、とせあまりてかんながら、神の御教みのりつたへつつ、おさまるまつやまやまほととぎすれて、よぶこゑさえもやみの、ひとこころくらやまやまたけおほかみの、古巣ふるすくぐへびむかで、はちむろいくたびか、れられてなほまたはりむしろすはりつつ、そでなみだみつがはわたりあぐみしまるばし生命いのちけてわたらゑの、みやましますすめかみの、いづひらけしおほもとは、斯世このよなかおほはしと、とほちかきのわかく、まですすみしは、きよ和泉いづみすみの、かみつかえしいきがみの、まつばやしいさなり。



そこで、住吉神社について、おお雑把ざっぱに紹介してみます。住吉神社の主祀神は『 住吉三神 』と云われ、そこつつおのみことなかつつおのみことうわつつおのみこととされます。住吉三神は神功皇后にかみがかりした神霊であり、住吉大社には神功皇后(別稱おきながたらしみこと)そのかたも祀られています。大阪住吉大社の公式ホームページとグーグルマップより、住吉神社本殿の配置図をいんようさせていただきます。

住吉大社01

住吉大社02

第一本宮は底筒男命、第二本宮は中筒男命、第三本宮は表筒男命、第四本宮は神功皇后=息長足媛命をお祀りします。上三つ(第一本宮、第二本宮、第三本宮)と、みなみにずれて配置された第四本宮。不思議な並び方です。じつは、星座のオリオンのほしの形になぞらえているという説があります。オリオン座の実際の写真を見ると、なるほど、ぼし・第四本宮・若宮八幡宮の配置と合致します。オリオンだいせいうんにあたるのが住吉大社神館ですね。
 さらに、出口王仁三郎聖師自身が、オリオン座を非常に重要視しています。王仁三郎聖師にとってオリオン星座はなつかしいものというより、むしろごくしゃ・刑務所の象徴でした。それは和歌にしめされています。オリオン星座の形はしかく(左上にベテルギウス、右上にベラトリックス、右下はリゲル、左下サイフ)となり、三ツ星とオリオン大星雲の「イ」がたの位置関係を「ひと」とせば、「しゅう」となります。しゅうじんです。



○出口王仁三郎曰『水鏡』より「地上に移寫するオリオン星座」(水鏡、大正15/11)
 「あきらかオリオン星座にもあり」というかんが出ていたので抜いておいた。オリオン星座を地にうつすのがげっきゅう殿でん丹波たんばかめおかじょうに王仁三郎聖師がきずいた大本教の神殿 〕であって、敷地もおなじ形にできているのである。つきだいは、ミロク様のおられるところである。


○出口王仁三郎曰『三鏡』より「月は母体」(玉鏡、昭和6/6)
 いまの学者たちはなにも知っていないが、そのなかでもてんもん学者が一番ものを知らぬ。あのつきおもに見ゆるおうとつめんについて、学者は噴火口のあとだなどと種々の説を主張しておるが、何もわかっていない。あのくろく見えておるのは、星をみだしたあなの跡である。星も、人間とおなじく生まれたときはちいさくっても、だんだんと成長するのである。月より大きな星があっても何も不思議はない。親よりも大きな子がいくらでもあるじゃないか、それと同じどうである。
 星のうちでは、オリオンのぼしが一番に生まれたので、これは月のそうりょうである。
 ほしははつきであって、ちちたいようである。を合はせて、つぎつぎに星をんでいったので、それでほしすなわちと呼ばるるのである。太陽系に属する星は、みなつきからうまれたのである。ゆえにおつきさまをははがみといい、またミロク様ともいうのである。
 月は西にしから出てひがしまわり〔 註:にちれん上人のかんぎょうはちまんに既出。かいにっしょくの時、太陽を固定位置とみなすと、月は西から東へ動くように見える。変じて、月氏国=インドから出たしゃ様&仏教が、西のインドから中国をて、いづづまの国、あづまの日本に伝来したことを意味する。 〕、右から左へとまわる。太陽は左より右にまわるのである。
 廻るというても、太陽と地球は傾斜運動をするだけで、お月様だけが運行しているのである。月のみに軌道きどうがあるわけである。月は三十日で地球をいっしゅうし、太陽は一日で一周する。一周といえども、傾斜運動の程度によって一周するごとくゆるのである。


○『新月の光』下巻、284ページ「○三ツ星と三角星と北斗星」
 ぼしひとをしているだろう。オリオンせいとらわれをしている。三角星はあれとあれとふたつだ。ほくせいと三角星と三ツ星は二百七十五日で一周するのである。(解説略)(昭和20年4月13日、旧3月2日)〔 私註:冬の大三角系は、おおいぬシリウス、こいぬ座プロキオン、オリオン座ベテルギウス。 〕


おほかみふるにしばしとどめられオリオン星座にりしわれかな
しこやかたの十一番のオリオンの星座に安く一夜を眠る
だいしゅうこしえたるここしてわれはオリオン星座に楽しむ
ひさしきになれし吾身はオリオンの星座もわがと思ふたのしさ
○帝都が安全なように「きみにさかえませといしもてつくりしげっきゅう殿でんかな」と祈って月宮殿〔 丹波亀岡城の神殿 〕をいしつくった。その時に、これをこわすのは大変だと言っておいた。〔 私註:月宮殿は、第二次大本事件で大日本帝国政府により爆破。太平洋戦争で大日本帝国も米国のつちにより爆撃され崩壊。伊勢神宮はかろうじて大炎上せず存続したが、伊勢の神前街ははら。 〕
(出口王仁三郎著、大本事件)



○ときさとくみろくしん まつばやしせいれいに(霊界物語 第52巻27章「胎蔵」より)

上記の発言によれば、王仁三郎≒小松林命=まつ天皇と解釈できます。王仁三郎聖師は「後小松天皇のことをよく調べるように」と勧めています。たとえ王仁三郎聖師の言動といえども、盲信は禁物(裏の神諭一、上を参照)。審神さにわが必要です。では、後小松天皇を調べてみましょう。ほとんどの日本人は、「後小松天皇」と聞かれても「だれだっけ」になると思います。私もです。ですが、いっきゅうさんの実の親と言われれば「あの一休さんの!」となり、俄然がぜん、親しみがわいてきます。童話やアニメで知られる一休さんは、後小松天皇のらくいん(隠し子)とする説が有力なのです。



後小松(ごこまつ)天皇は、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日)。室町時代北朝最後の第6代。歴代人皇代第百代の天皇(在位:弘和2年4月11日〔1382年5月24日〕 - 応永19年8月29日〔1412年10月5日〕)。諱はもとひと。父親は、えんゆう天皇(北朝五代)。母親は、三条きんただの娘いつ(通陽門院)。ただし、後小松天皇の本当の父親は足利よしみつ(足利幕府第三代将軍、のち太政大臣。金閣寺を建てた人)だった可能性もある。この場合、一休さんは足利義満の孫、後小松天皇の落胤という血統になる)。

後小松は、弘和2年(1382年)12月28日、後円融天皇から譲位されて6歳で即位。もちろん後小松天皇に実権はなく、彼は室町幕府三代将軍足利義満(もしかしたら、後小松天皇の実父)の傀儡かいらいである。みん国との交渉や貿易でも、日本国王と名乗った(認識されていた)のは、足利義満であった。しかも、後小松天皇の妻・日野みつの姉妹・なりは足利義満の正妻だった。

明徳3年/元中9(1392)年、北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)は和議を結ぶ。この時点で北朝は軍事的にも経済的にも南朝を圧倒していたが、唯一、正統性がなかった。三種の神器じんぎを南朝(かめやま天皇)が所持していたからである。後小松天皇は、まだにせものの天皇だった。同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇(人皇第九十九代)は三種の神器(八咫やたのかがみ八尺瓊やさかにの勾玉まがたまくさなぎのつるぎ/あめのむらくものつるぎ)を後小松天皇に譲り、ここに南北朝時代は終わる。この日、後小松天皇は、晴れて第百代天皇となった。

応永19年(1412年)8月29日、後小松天皇は第一皇子のひと親王(当時12歳)に譲位し、後小松上皇となる。実仁親王は人皇第101代天皇、しょうこう天皇となった。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に違反していたので、だいかく統(亀山天皇系統)の大規模蜂起を招いた。

応永32年2月16日(1425年3月6日)、後小松の第二皇子(小川宮)が22歳で急死(息子なし)。 正長元年7月20日(1428年8月30日)、称光天皇が28歳で崩御(息子なし)。後小松の息子二人は、いずれも病弱や奇行があり、親子の仲も悪かった。男子直系血族がなくなったことで、後小松は伏見宮さだふさ親王(こういん)の第一皇子ひこひと王を猶子とする。彦仁応は、即位して後花園天皇(人皇第102代)となった(正長元年7月28日/1428年9月7日) 。
永享5年(1433年)10月20日(1433年12月1日)、後小松は57歳で崩御した。ふかくさのきたのみさぎ(京都府伏見区深草坊町)に葬られた。


○出口王仁三郎著『関の地蔵様と一休和尚』(水鏡、昭和2/2)
せきぞう様におしょうねんを入れてくれといっきゅうしょうに頼んだものがあった。そうすると一休は、自分のしていたふんどしはずして地蔵様の首にかけた。それが後世、地蔵様のよだれけのらんしょうである。ふんどし をかけたので霊が入ったのだから、地蔵様は一休のぶんれいなのである。石にでも木にでもれい はあるがせいれいはない、神様の神霊が宿やどって、神格化したものがお性念である。さんじゅうさんけんどうやなぎのおりゅうは、人々が「大きな柳だなあ、大きな柳だな」とっては見上げるので、その精霊がこもって人格化したものである。



後小松天皇の生涯と事績を簡単にまとめてみました。如何いかがだったでしょうか? 男子の息子二人が死んだ・・・という点では、王仁三郎聖師の長男六合大くにひろさん、次男相生すけなりさんに通じるところがあります。ですが、隠し子(一休さん)の存在や、なにより足利義満のあやつり人形でしかなかった後小松天皇と、スサノオ台風ごとき大活躍で三千世界の立替・立直しの基礎を完成させた「丑寅之金神国常立尊の切り札、出口王仁三郎」とは、あまりにも違う印象を受けます。むしろ一休さんの方が、王仁三郎聖師にた印象があります。

ところが、後小松天皇の名前に、意外なヒントが隠されていました。「 あとの 」小松天皇(後小松院)と名乗るからには、「先代の」小松天皇がいるはずです。「小松天皇」とは誰か? 平安時代の人皇第五十八代・こうこう天皇のことでした。葬られたみさぎの名・小松山陵から、小松こまつのみかどの別称がありました。後小松天皇は「小松こまついんと名乗りたかったけど、おもみがないから後小松院にした」そうです。それでは、光孝天皇について紹介します。



光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - にん3年8月26日(887年9月17日)は、第五十八代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。いみなときやす。仁明天皇の第三皇子。在位中の年号を以て仁和にんなのみかど、また山陵の名を以てまつみかどとも呼ばれた。小倉百人一首を謳う(歌番号十五=三×五)。

きみがため
春の野に出でてわかつむ
わがころもに 雪はふりつつ

第五十六のようぜい天皇が乱行を理由に17歳で廃位。そのため五十五歳で即位する。甥のさだやす親王に帝位を譲る時にそなえ、自身の息子息女を臣籍降下させてげんを名乗らせた。だが実力者・藤原もとつねの意向により貞保親王は選ばれず、孝光天皇の実子で源氏に臣籍降下していた源さだが皇族に復帰、孝光天皇崩御(仁和3年8月26日/887年9月17日)により天皇(人皇第五十九代)となる。宇多天皇時代に名を馳せたのが、藤原時平や、のちにてんまんぐうに祀られ天神様と崇められたすがわらみちざねである。



ついに、源氏が出てきました。源氏が信仰した神様といえば、石清水八幡宮や鶴ヶ岡八幡宮に代表される、八幡大神(八幡大菩薩)。小松林命が所属するのは、石清水八幡宮でした。後小松天皇=小松林命の証明はできませんでしたが、「小松林命は八幡大神と縁がある」について、こうとうけいの発言ではなかったのです。

出口王仁三郎氏いわく「みな言い切ってしまったらいかん。いんをもたすところにいい所がある、チョット思わせるくらいでやめとくのもいいな──それからワシの言う事はたらのようだけれど、みんなどっかにこんきょがある。そのつもりでおってくれよ」(出口王仁三郎氏を囲む座談会、第四夜・第4回



テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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