『惟神の道』(出口王仁三郎)より「皇道は神に基く」

「皇道は神に基く」

 満州事変の突発と共に、日本精神に還れ、皇道精神に目覚めよ、の叫びが高らかに唱へられた。しかして皇道の研究が卒然として起り、日本主義の読物がたちまち店頭を埋めるの遺観を呈した。その有様はこれを譬ふれば、春風に梢を鳴らす櫻(桜)の花ともいふべきか、遠く離れてそれを眺める者も、樹の下蔭に花の衣を着る人も、今を盛りの色に酔ひ、過ぎにし冬の寒さを忘れ、明日にも来らむ嵐を知らぬ風情であった。
 洵に、学者の教ふる惟神の道、思想家の説く皇道精神、そして軍人の叫ぶ日本主義、総て其の内容は精細を極め巧妙をつくしまた精力溢るるものがあぁつた。四十年間脇目も振らず、あらゆる試練を潜って皇道一本に突進んで来た自分でさへも、今更の様に思はず目を見張らなければならなかった。

 しかし余(王仁三郎)は、斯く皇道を叫ぶ人々の多くが最も肝腎な一事を忽(ゆるがせ)にして居る様に感ぜられた。しからば最も大切な一事とは何か。皇道は神より発する道であるといふことである。故に皇道に関する百の理論よりも、大切なのは敬神の一事である。神むながら言挙せぬ国が日本の本然の姿である。だからして神社参拝を実行しない者に皇道が判る筈はない。神様を吾家に齋かざる者に神ながらの道を説く資格は無い。神に一切を捧げ、神の心に融け込んでこそ、始めて皇道の真諦に触れることが出来るものである。神の無い皇道は稔る事なき徒花である。たとえ五色に色香は咲いても、稔らぬ花は栄えない。余が長い間、

『三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶ』

と云ったのは此処のことである。開いて散りて実を結ぶ、開いた花は散らねばならぬ。そして散った後に於いて始めて徒花と実の花が判って来るものである。
 満州事変直後、皇道の潮が澎湃として高鳴る時、今にも昭和維新が眼前に実現するかの如き勢を示した。実にここ数年間に、皇道の旗を掲げて革新日本の前線に踊り出た人々は無数である。
 しかし、開いて散りて実を結ぶ、開いた花は散らねばならぬ。今や皇道運動者に立別の嵐が吹いて居る。それは一度は通貨せねばならぬ必然の運命である。余は一面、これが早く来ることを待望して居ったのである。国家の大事を成す者は、如何なる時代に於いても金も名も生命も要らぬ赤誠の士でなければならない。故に真に神を信ずる者のみは、いよいよ辛酸が加わり益々試練が重なるにつけて、完成の日近づけりと心に歓喜を覚えるものである。永遠に栄えの実を結ぶ者は、唯神を信じ神の御心に生きる者のみである。


プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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