第十七章「日常訓のお筆先」 おふでさき(弐)

△おふでさき

 遠国から出て来る鼻高さんに、割りとは早く改心が出来て、立直の御用が予期(おもわく)とは早くなりて、外国の方が改心が早うならうも知れぬ、と云ふ事も知らしてあるぞよ。
(大正元年舊十月五日)

 他人の苦労の徳で世を持ちて見ても、心に誠の無い守護神計りでは、世が持てさうな事はないぞよ。
(大正元年舊十月五日)

 綾部の大本は、病直しの神で無いぞよと、毎度筆先に書いて知らしてあらうがな、病気等は自己の心を水晶に致したら、怖うて能う這入らんぞよ。
(大正二年舊九月十一日)

 正松の事は大本へ詣りて、変性男子の筆先と、変性女子の実地の事を見て、我の心に照らして見んと、何も判らず、却って御蔭を取外す事が到来致すぞよ。
(大正二年舊九月十一日)

 三千世界の事を、サッパリ替へて仕舞ふのであるから、一番に夫婦の事から替へてしまうぞよ。此世に夫婦と云ふものは因縁の深いものであるぞよ。身魂の因縁性来を審査(あらため)て、此霊魂と彼の霊魂が夫婦と云ふ事に縁を結びて、又児に成る霊魂を授けて、児の霊魂の親に世話させるのも因縁の深い事であるぞよ。夫婦の道は何につけても世の基本であるから、一番大事であるぞと、世の乱れるのも夫婦の道から、大方は出来て居るぞよ。
(大正二年舊九月十一日)

 此方も我でしくじりた神であるから、我が出されん世であるぞよ。今度の事は自尊心がチットモなくてはいかんぞよ。我もなくては斯んな御用致すには、おとなしい計りでも間に合はんぞよ。我は成る丈け臍下丹田に鎮めて置いて、是迄の心をサッパリ棄てて了うて、元の大和魂になりて居りて下されよ。
(大正二年舊九月十一日)

 眞實の経綸は智恵や學や世に出て居れる人民では判りは致さんぞよ。生れ赤児の心にならんと、神の心は判らんから、肝腎の御用は勤まらんぞよ。是からは申してある通りに、善と悪とを立て別けて、皆に改心を為せてやるぞよ。
(大正元年七月四日)

 今の世界の人民と心が合う様な事で、到底勤まらんぞよ。人民の心とはサッパリ反対であるぞよ。有難い計りでは、神の御用は出来んぞよ。此の大本の中に居りても実地の判る者でないと、永らく神の傍へ寄りて苦労致した功能が無いぞよ。
(大正元年七月四日)

 今度の事は世に落ちて居て貰はんと、神が世に落ちて居ての経綸であるから、初発に直に糞粕よりも落ちて居て呉れと申して置いたが、神の申す様にして呉れた御蔭で、神界の経綸は成就致したから、誰が出て来ても爪も立たん様に成りたぞよ。如何な大望でも誠さへありたら貫けるぞよ。
(大正三年舊七月十四日)

 外国好きの人民がビックリ致す事が近よりたぞよ。余り大きな取違で大きな息も出来ぬ様な事に成るぞよ。何んぼ先きの見えぬ守護神でも、チットは物を控え目に云ふて置かんと、実地の大本の仕組は一寸には分らんから、後で恥しき事が出来るぞよ。言へば言へ笑へば笑へ、悪口やそしりの苦に成る様な小さい経綸はして無いぞよ。此神はチット経綸が大きなから、智慧や學で何程考へても、綾部の新宮本宮の大本の真相(まこと)は解らんぞよ。
(大正四年七月十五日)

 天地の御宮の御用致した誠の人民は、末代帳面に附けて、其身魂を結構に致して御禮を申すぞよ。
(大正四年七月十五日)

 二度目の世の立替を致す綾部の大本の御用は、一と通りの誠正直の身魂では、間に合はんと申してあるぞよ。産ぶの心の身魂でないと昔の元へ立て替へる天地の御用であるから、末代肉体の其儘で居る活神が出て働かねば、霊魂ばかりの神では到底間に合はんぞよ。天の大神様の御指図で、地の大国常立命が命令を下げて使ふから、鎮まりて発根と胴を据えて居らんと、ポカツイテは何も出来んぞよ。ジックリと揃ふて、各自に我の心を査べて見て、此心では掃除が出来て居るか、此心では活神の御用が出来るものかと、云ふ事を、充分に我が考へて見て、誠が通りたなら、神からそれぞれ身魂相応の命令を下げるから、其上でないと、大事の御用は直きからは出来んぞよ。
(大正五年舊五月十四日)

 明治二十五年から知らしてありたが、道を二途拵えて辛い道と、楽な道と二筋拵えて見て居れば、皆が楽な方へ就いて楽な行り方で行きよるが、此道は暫くするとトント行き當りて、行先が無くなると云ふ事も筆先で知らしてあるが、知らした事は皆出て来るぞよ。今出る筆先は早いぞよ。
(大正四年舊八月二十八日)

 是までの筆先は熱心の信者に一冊宛渡して置いたなれど、今度の筆先は他所へはやれんぞよ。何程筆先を持ちて居りたとて、御神徳は吾が心じゃ。神の気に入らねば誠の神徳はやらんぞよ。御蔭が欲しくばサッパリ腹の中の掃除を致さんと、皆慾信心であるから、誠の利益は無いのじゃぞよ。神の申す様に致せば、便り無き様にあれど、誠の便りになるのが、人民と申すものは今一寸善さそうなと、直ぐ寄りて来るなれど、引掛け戻した折に皆逃げて了ふが、神は誠の心を見抜いたらドンナ利益も遣るなれど、遣る人民が無いので物が遅くなるのじゃぞよ。昔から無い事計りであるから解らんのも無理はないが、筆先を熱心の立寄人は見て下されよ。
(明治三十三年閏八月朔日)

 此筆先で昔からの事が解るのであるから、之を一字も直したら、合はん様になるぞよ。大変気着けを致すぞよ。元の筆先は返して下されよ。元のはやらんぞよ。筆先で手柄を致さうと思ふて大変に隠して居るが、其んな精神では、神は利益はやらんぞよ。筆先が結構じゃと申して持って居りたとて、筆先は一節も分りては居るまいがな。眼の付け所が違ふて居るから、思わくも違ふのじゃぞよ。心丈けの事より神は為さんぞよ。人を欺すと又欺されるし、心次第の事をさすぞよ。皆吾が身の心を考へて見るが良いぞよ。誠の人には誠が出来る、良い利益はチット遅いなれど、出口に申してあるが、誠の人程御蔭は遅いなれど結構な事に成るぞよ。遠国から参りて来たとても、神を松魚節に致して、自己の目的を立てに来ても、充分の事は無いぞよ。
(明治三十三年閏八月一日)

 親が御蔭を貰ふて居りたとて、子が良くなるに限らんぞよ。親に悪気がありたとて、一人の其人の霊魂は皆違ふから、神は能く調べてあるから同じ兄弟姉妹でも一人一人違ふぞよ。霊魂の因縁に由って、それぞれの事をさすぞよ。
(明治三十三年閏八月一日)

 艮の金神が世をかまうと申すのは、霊魂を末代かまう世が参りたのであるから、肉体のある内に変性男子の書いた筆先を能く腹へ入れて置いたら、死んでも亦今度此世へ出して貰ふても、人がタタキ落としても落ちん霊魂に徳が附くのであるから云々。
(明治三十七年七月五日明)

 信神して居りて憂事があると、神の道の判らん人民は、神を悪く申すなれど、身魂の因縁の解る時節が参りて来たのであるから、此世界の霊魂の入れ替へ、世の洗濯と云ふ様な大望な時節が参りて来て居るのに、今の人民は何も判らぬ故に見苦しき心を持ちて、神の御心に叶はん事計りを致したり、申したり、其罪障をとりてやるには骨の折れた事であるぞよ。人民には言ふてやりても能う解けず、盲目聾の世に成りて居るので綾部の大本から世の立替の事が、日日出口直の手で知らして居りた事の実地が始まるぞよ。是から改心の出来た身魂から善い方へ廻してやるぞよ。
(明治三十七年七月五日)

 金神の世に成れば、慾を捨て、神に持たれたならば、何も不自由は致さねど、何程申して聞かしても、誠の者が無き故に、チットモ物事が思ふ様に行かんのは、我が身の心が悪いのじゃぞよ。我を出し慢心を致して思ふ様に行かんと、神の業の様に申して居るが、此金神は一言申したならば、何に由らず違ひは無い神であるぞよ。神の申した事もチット延びる事があるなれど、延びるのも神界の都合のある事ぞよ。人民を一人なりと助けたさに延ばすのであるぞよ。改心人る、是からは世界の洗濯致して良く致すのであるから、人民の心から直さんと神の心と同じことにならんから、神の心になりたなら、斯の世は思ふ様に成るぞよ。早く改心致されよ。何程言ひ聞かしても、聞かねば聞く様に致すぞよ。
(明治三十一年十一月五日)

 現世で御役に立てる身魂と、帰幽さして使ふ霊魂と、又神へ引き取る霊魂と、あるよって、改心致せば天地の大神様へ御詫を致してやれば御赦あるから、改心致せと申すのじゃぞよ。
(明治三十一念舊一月五日)

 仕事も致さずの信心は此神は嫌ふぞよ。信心は業務の間暇に出来るぞよ。出口直に是丈けの御用をさしたが、六年程は仕事の間暇にさしたぞよ。
(明治三十二年四月二十二日)

 改心出来ねばモウ何事がありても神と出口を恨める所は無いぞよ。表面(うはつら)ばかり立派な事を申して居りても、心の中に塵埃ありては、神国の御用には使はんぞよ。悪神が守護致すと、自己がエラウ見えて、誠の人が阿呆に見えたり、悪魔により見えは致さんから、取返しの付かぬ大間違が出来るのであるぞよ。気の毒なものじゃぞよ。
(大正六年舊九月五日)

 人民はチットモ先の見えぬものであるから、常に何彼の心得を致して置かんと、マサカの時に狼狽へるぞよ。信心は常にあるぞよ。日々神に縋りて身魂を綺麗に研いて居る人民と、此世に神は無きものと申して居る人民とは立て別るから、それで常から信心致せと申すのであるぞよ。俄信心は間に合はんぞよ。
(大正六年舊九月五日)

 何を申さいでも時節が廻るから、時節を待らて喜ばれて返報がやしは出来るから、人民に何事も時節を待てと毎度筆先で知らして居るなれど、人民は直ぐに返報がやしを致さうとするから仕損ひが出来るのであるぞよ。
(大正四年舊四月六日)

 日本の神国と申しても、外国魂に成り切りた中に生まれ育ちて居る子供までが、国の害を致すハイカラの真似ばかりをして喜びて居る中へ、大事の仕組を知らしたら良い金儲けが出来ると申して、実地の世の立直の大邪魔を致すから、日本の國の経綸は、智慧や學力では何程考へても判りはせんぞよ。チト深い仕組が致してあるぞよ。
(大正六年舊十一月二十三日)

 大本の誠の御用を致さうと思ふたら、人から見て違ふた人じゃなあと言はれて、ヒックルブイテ仕事をしもってでも、筆先の精神を考へて見て夜分に寝ても寝られんやうな、一心の人でありたなら、此方が天晴れ現れて、是で宣いと云ふ様になりたら、善の方へ廻して、神から直接の神力をやりて、守護を致すから、何事も思ふ様に箱さした様に行けるなれど、今の人民は思ひが大本(おほもと)の神とは反対であるから、神力が渡されんのであるぞよ。
(大正三年舊九月十七日)

 長き世に 世に落ちぶれて 淋しきぞ
  夜を待ち兼ねた螢むし
   戀に焦がれて水に住む (歌のお筆先)(※1)


 大本教祖 出口直子傳 終


(※1)
○「開祖様のお歌」 玉鏡(昭8/9)

 燈し火のきゆる世の中今なるぞ
  差添へいたす種ぞ恋しき

 これは皆の知る通り開祖様のお歌である。王仁は此のお歌を歌碑として亀岡の天恩郷に建てたいと思って居る。「差添へ致す種」と云ふのは王仁の事である。又

 ひぐらしの啼く声聞けばつきの世に
  なるは淋しき日の出まつぞよ

……といふお歌もある。自由律のお歌である。日暮の啼く声と云ふのは、其の日暮しの人民即ち細民の事である。「啼く声聞けばつきのよになるは淋しき」云々と云ふのは、細民が生活に追はれて悲鳴をあげる事をさすので、「つきのよ」は盡きの世で澆季(ぎょうき)末法(まっぽう)の世をさすので、「この淋しさから早く日の出をまつ」と云ふのである。

テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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