第十七章「日常訓のお筆先」 おふでさき(壱)

○第十七章 日常訓のお筆先

△浩簡の大冊籔

 皇道大本の聖典であるお筆先は、明治二十五年正月以来廿有七年間に亘り、半紙二十枚綴りとして、實に壹萬冊に達する浩簡(こうかん)たる大冊数を成して居る。其の内容は預言警告の分子と、教訓指導の分子と、その他神人の関係を明示した教理の分子等が錯綜して組立てられて居る。
 そして此のお筆先は、在来世界の人が見慣れた有(あら)ゆる経典の類とは異なって、現下当面のいろいろな問題に対して、活きた指針とすべきものばかりだと称せられて居る。仮りに雑誌一頁の字数約一千字と定めて、それが一箇月十六頁に掲載されるとしても、約百年を要せざれば全部譯載し得られぬと云う程、大部を成したものである。今是等のお筆先の中から、日常教訓に関する一小部分を摘出すれば、實に左の如きものがある。


△おふでさき
 これからは筆先通りが世界に現れて来るから、心と口と行と三つ揃うた誠でないと、今度神から持たす荷物は重いから、高天原から貰うた荷物が持てんやうな事では、余所から人が沢山出て来だすから、其時に恥しうないやうに、腹帯を確り締めて居らんと、肝腎の寶の山を取り外す事が出来るぞよ。今度はこの大本に立寄る人民に、神からの重荷を持たすから、各自に身魂を十分に研いて置いて下されよ。どんな神徳でも渡して、世界の鏡に成る様に力を附けてやるぞよ。改心と申すのは、何事によらず人間心を棄てて了うて、智慧を手依りに致さず、神の申す事を、一つも疑はずに、生れ児の様になりて神の教を守る事であるぞよ。霊魂を研くと申すは、天から授けて貰うた、元の霊魂の命令に従うて、肉体の心を棄てて了うて、本心に立返りて、神の申す事を何一つ背かん様に致すのであるぞよ。
(大正五年舊十一月)

 この大本は、他の教会のやうに、人を多勢寄せて、それで結構と申すやうな所でないから、人を引っ張りには行て下さるなよ。因縁ある身魂を神が引寄して、それぞれに神が御用を申付けるのであるぞよ。大本の経綸は病気直しでないぞよ。神から戴いた結構な身魂を外国の悪の霊魂に汚されて了うて、肉体まで病魔の容器になりて、元の大神に大変な不孝を掛けている人民が、病神に憑かれているのであるから、元の日本魂に捩ぢ直して、些ッとても霊魂が光り出したら、病神は恐がりて逃げて了ふぞよ。この大本は医者や按摩の真似は為さんぞよ。取次ぎの中には、この結構な三千世界の経綸を取違ひ致して、病直しに無茶苦茶に骨折りて肝腎の神の教を忘れている取次が多数(あまた)在るが、今迄は神は見て見ん振りを致して来たがモウ天から何彼の時節が参りて来たから、今迄のやうな事はさしては置かんから、各自に心得て下されよ。
(明治三十二年舊七月)

 今の世界の人民は、此世に神は要らんものに致して、神を下に見降して人民よりエライ者はなき様に、思ふて居るが、見て御座れよ、立替の真最中に成りて来ると、智慧でも學でも金銀を何程積みて居りても、今度は神にすがりて誠の神力でないと、大峠が越せんぞよ。
(大正五年十一月八日)

 二度目の世の立替は、戦争と天災とで済むやうに思ふて、今の人民はエライ取違ひを致して居るなれど、戦争と天災とで人の心が直るのなら埒能う出来るなれど、今度の世の立替は其んな容易い事でないぞよ。
(大正四年舊十二月二日)

 誠の神の道は修業した丈けの事より出来は致さんぞよ。世に落ちて居りた身魂は、何んな辛い修業も致して居るから、サア爰と云ふ所では、ビクトモせずに楽に御用が勤まるぞよ。世に出て居りて、今迄結構に暮して来た上流(うへ)の守護神よ、一時も早く改心なされよ。モウ世が迫りて来たから横向く間も無いぞよ。
(大正五年舊十一月八日)

 初発から大本へ参りて、色々と誠の神の御用を致す、変性女子の身魂を悪く申して、見損ひを致して、まだ其上に我の目的を立てやうと致して、悪い鏡に成りた人が大分ありたぞよ。
(大正五年十二月三日)

 大本さへ信神致して居りたら、善き事が出来る様に思ふて、サッパリ嘘じゃったと申して居るなれど、出口の日々の願で大難を小難に祭り替へた所で、何なりと日本の中にもそれぞれの見せしめはあるぞよ。
(明治三十五年七月十一日)

 此信心は中々判り難いぞよ。一を申せば十を知る位な身魂でないと、誠の御神徳は無いぞよ。
(明治三十三年七月三十日)

 日本魂(やまとだましい)と申すのは請合ふた事の違はんやう、一つも嘘は申されず、行儀正しう、天地の規則を守る身魂を申すぞよ。今の人民の申して居る日本魂とはチット違ふぞよ。
(明治三十七年一月十日)

 世の元の誠の生神は、今迄は物は言はなんだぞよ。世の替り目に神が憑りて、世界の事を知らせねばならぬから、出口直は因縁ある身魂であるから、憑りて何事も知らせるぞよ。世が治まりたら神は何も申さんぞよ。狐狸や天狗位は何時でも誰にでも憑るが、此金神は禰宜や巫子には憑らんぞよ。何程神憑に骨を折りたとて誠の神は肝腎の時でないと憑らんぞよ。何も解らん神が憑りて参りて、知った顔を致して、色々と口走りて肝腎の仕組も解らずに、世の立替の邪魔を致すから一寸の油断も出来んから、余程審神者がしっかり致さんと大きな不首尾が出来(しゅったい)するから、嫌がられても世界中が大事であるから、不調法の無い様に気を附けてやるのを、野蛮神が何を吐す位により取りて呉れんから、誠に神も出口直も気苦労を致すぞよ。神憑で何も彼も、世界中の事が判る様に思ふて居ると、サッパリ量見が違ふぞよ。
(明治三十八年四月十六日)

 此大本は、月の形の御簾の内、日に日に変る経綸が致してあるぞよ。大本の経綸は引掛け戻しであるから、余りトントン拍子に行きよると又後へ戻すから、其覚悟で居らんと辛うて堪らんから、茲を貫く身魂でないと、三千年余りての経綸の御用には使はんぞよ。此大本は多勢は要らんと申してあるぞよ。
(大正五年舊二月三日)

 神の申す事を、疑はずに誠に致す守護神に使はれて居る肉体は、其日から善の神の守護があるから、思ふ様に行き出すぞよ。斯んな結構な教は外には無いなれど、此内の直接(じき)の御用致す身魂が、悪に見せて化かしてあるから、誰も誠に今に致すものがないなれど、何彼の時節が参りて来たから、実地の生神が世界へ実地をして見せるから、実地が出来てくるまで近くほど判らんぞよ。我の心が悪いと人が善き事を致して居りても反対に悪く見えるぞよ。悪い心を持ちて居ると悪い守護神が覇張りて、悪い事斗りを為せるから、一つも思はくは立たんぞよ。今の世の中は悪魔が九分あるから、天地の実地の生神の力でも、中々に骨が折れるぞよ。人民は神なら直に悪魔位は退治が出来さうなものじゃと申すなれど、世界中に眞實(まこと)と云う事がチットモ無い様になりて、泥海同様で、生神の片足踏み込む所も、手を差出す所も無い様に成りてしまうて居るから、神も中々苦労を致すぞよ。此世界の大掃除を、今の上の守護神人民に為せた處で、誠の掃除は出来は致さんから、実地の生神が世界の大掃除を始めると申して、日々知らして居るなれど、近所(ちかく)ほど何も分らん。気の毒なものであるが、遠国から開けて来て、遠国の明りで足元がジットして居れん様になると云う事が、明治二十五年から筆先で知らしてあるぞよ。
(大正五年舊二月三日)

 肉体から胴を据えて、守護神に言ひ聞かせる位確りして居らんと、肝腎の御用の間に合はんぞよ。是まで世に出て居れた守護神が善の道へ立帰りて、末代の御用を致さうと思ふたら、是迄のやり方を一寸でも用いん様に心得て、一から何事も行りかたへて下されよ。此大本の中へ来て直きから上の御用を致し度い様な霊魂の守護神に使はれて居ると、大きな間違が出来て善い御用は為せてもらへず、シホシホとして居るのを見るのがいやであるから、世に出て居れた守護神が大本へ化けて来ても、一目に判るから、真心になりて、初心(うぶ)になりて、霊魂に出来る御用をさせて貰へば、其日から嬉し嬉しで暮らせるなれど、上へ上りて直ぐから善い御用を致さうと思ふと、不調法が出来るから、我れの霊魂に似合ふた御用を致せばらくに勤まるから、此先で仕損ひを致したら、末代悪い名が残るから、是迄の行り方を変へるのには、心が水晶に成らんと大本の初発の御用は出来んぞよ。
(大正六年五月六日)

 今の人民は自己に罪穢(めぐり)のある事を、チットも知らずに居るから、天地の先祖は此肉体に守護して居る霊魂には、こう云ふ罪穢を負ふて居る、と云ふ事を明白に知りて居るから、何程隠しても、何れ程甘い辯解を致しても、神の目は晦ます事は出来んぞよ。
(大正六年五月六日)

 日々に自己の腹の中を能く考へて、自己の審神者を致さんと、大本の御用は、向ふの霊が一寸でも混じりて居りたら、間違ふた事が出来るぞよ。各自の霊魂の性来の事外(ほか)出来は致さんぞよ。
(大正六年五月六日)

 是迄悪を働いた守護神は一旦は天地へ揃ふて御詫を致さんと、赦すと云ふ事が出来んから、縛られた如くで、吾が肉体が我の自由に成らん様になるから、我は利巧な者じゃと思ふばかりか、他人が阿房に見えたのが恥しうなりて、ヂリヂリ悶え苦しむからと申して、筆先で知らして置いたが、何彼の事が近うなるぞよ、と申して知らしてある事は、皆出て来るから赤児の心に立ち復りて、神心になると何事が出て参りても楽に暮せるぞよ。
(大正六年五月六日)

至仁到愛(みろくさま)の世の教に致すには、女の髪の道具から清らかにして変へてしまうぞよ。衣類は平人には、絹布は着せんなり。履物も女にあれば木綿の花緒なり、男子であれば竹の皮の捻花緒で良し。旅する時には茣蓙笠(ござかさ)で出れば、雑用も要らず、便利も良し。婚礼をするにも祝事を致すにも、一采一汁の定めになるなり。初幟祭初雛祭いたすにも、何事を致すのにも、余分の馳走をする事は成らぬなり。土産物も身分不相応の事は差止めてしまうて、至仁至愛(みろく)の世に立替る世界の大本であるから、此の大本から其行方に替へて下さらんと、何時迄も神界の誠が判りて来んぞよ。
(明治三十六年十一月九日)

 結構な田地に木苗を植えたり、色々の花の苗を作りたり、大切な土地を要らぬ事に使ふたり致して、人民の肝腎の命の親の米麦豆粟を何とも思はず、米や豆麦は何程でも外国から買へると申して居るが、何時までもそうは行ん事があるから、猫の居る場(とこ)にも、五穀を植付けねばんらんやうになりて来るぞよ。
(明治三十六年十一月九日)

 誰に由らず、是からは神の申す事を叛いて何事なりとも致したら、善い鏡と悪い鏡とを、今から出すから、大本へ出て来て、是迄の世の行り方と、是からの善の行方とを能く腹へ入れて、其行を致して、此大本へ立寄る人民から、一番に改心をして、世界中の守護神人民に善の鏡を出して見せたら、自然(ひとりで)に神は表に現はれて三千世界が助かる経綸であるから、世が治まるまで筆先で気を附けるぞよ。
(大正六年四月二十六日)

 上(かみ)に立ちて居る人は大きな思ひが違ふぞよ。日本の人民慾にホウケテ學計りに凝りて、自己主義(われよし)の行り方で理屈計りを申して、学力で辯解を致して、我の悪を隠さうと企みて、一生懸命に學を勉強して、人を下に見降して、我が上へ昇りて楽に暮す事を考へて居るが、是が外国の悪のやりかたであるぞよ。日本の國は神力で、何事も行ける結構な国であるのに、外国のカラの教に従うて、二本の紙の教をチットモ用ひずに、サッパリ誑されて居りて、外国に何んな仕組を致して居ると云ふ事も判らずに居る、日本の上下の人民は、今に天地の先祖(おやがみ)様に申し譯の無き事が出来致すぞよ。
 綾部の大本は信者を沢山寄せて喜ぶ所でないぞよ。是迄とは旧道と新道と道が二道こしらへてありて、何方(どちら)の道に就くと云ふ事を見て居れば矢張り楽な方へ就く。是では誠が無いと云ふことが能く判りて居りても、サア今変へると云ふ事も出来ず、一日延ばしに延ばして、モウ一寸も前に行く事は出来ず、直に言はしても聞く者は無いし、天から御両神(おふたがみ)の御手伝と云ふ様な、畏れ多い事が出来て居りても、何を言ふやら位にほか感得はせぬぞよ。何事も言葉の代りに筆先に細かう書いて見せても、それも分らず、何彼の事が遅くなりて、世界の事が動きが取れん事になりて来て居るから、モウ一度に開かな、御用する身魂が無いなれど、チットは有りも致すではらうから、是丈け続いて日々に大望な事ばかりを、因縁の身魂には為して、辛い目に逢ふて居るのに、大望は何時来るかと申して、大本へ不足を申す守護神が、何ぞ善い事が出て来る様に思ふて、大きな取違をして居ると、却って其人に困る事が出来て来るぞよ。
(大正四年六月十一日)

 余り登りて空ばかり見て居ると、地の世界の事がチットモ判らずに、上に目のつく人民が多くあるから口をツマへて下を見て居ると、今度は好い御神徳が貰へるぞよ。御蔭取るも落とすのも、心一つの持ち様ぞよ。
(大正四年舊六月十一日)

 末代に一度ほか無いと言ふ様な、大望な身魂の立替立別であるから、取違と慢心とが一番に此中は恐いぞよ。
(大正四年舊六月十三日)

 一ツ平に上流(うへ)と下流(げす)とが、イッチ改心が出来難いぞよ。
(大正四年舊六月十三日


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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