第十六章「二度目の沓島詣で」 教祖の帰幽

△教祖の帰幽

 大正七年も愈々いよいよ終末に近づいた。草枯れどきの十一月六日に、神政開祖 なほいた。帰幽きゆうは自然が定めた予定の因縁で、起こるべき時機じきに起こったのである(※1)。人間心の浅ましさからは、の一大神人の逝去せいきょは、おおいいたむべきである。しかし余り教祖の臨終を飾るは、むしろ神の心にもあらざるべく、ここにかくひつして大本教祖伝を結ぼう。

<<参考>>
出口澄「開祖ご昇天当時の思い出」
出口和明「大地の母」 メモ15/直の昇天


(※1)
○「開祖様の御昇天」 玉鏡(昭7/7)
 開祖様御昇天の事を王仁おには神様からうけたまはって二年前から知って居た。それで貴賓館の名において教祖殿を造って置いた。当時金が無くて困って居たので、開祖様は大層御心配なされたので、八畳の間一ぱいに取っておいた金銀貨を積みあげてお目にかけたら、「これで安心した」と云うて大層お喜びなされた。十年事件以来みな出して仕舞ったが、開祖様は御安心なされて御昇天になったのであった。

○「宗祖と其死」 月鏡(昭5/8)
 釈迦没後五百年にして仏法は台頭して来た。キリスト教はイエス没後三百年にして台頭して来たので其死の当時は共に気の毒な程勢力が無かったものである。我国のある一二の新宗教についても某教祖は其昇天の時ほんの僅かの信者で葬をすました。また某教祖の如き一層ひどかった。大本開祖(出口なお)の葬儀の如きはけだし稀に見るさかんなものであったのである。

○「開祖様の奥津城」 水鏡(昭2/7)
 霊界物語二段目の水獄とよく似通つた場面を蒙古で実際に目撃した事がしばしばあるが、墳墓の如きも其一つである。蒙古では人間の死骸を地を掘っては埋ない。平地の上において、其上に土を被ぶせるのだから、土饅頭が出来るのであって、至って簡単なものであるから、どうかすると直土饅頭が壊れて、髑髏どくろがごろごろと転び出す。随分気味の悪いものである。蒙古では地中に深く埋る事を地獄にやるのだと考へて居るので、こんな埋葬の仕方をするのである。地下三尺以下は地獄に相応するのであるから、この信念は一理あると云はねばなるまい。大本の教祖様(出口なお開祖)の奥津城は左の通りに築かれて居る。
 先づ地上より二尺五寸高いコンクリートの台を据え、其上に同じコンクリートで箱を作り、其中に御遺骸を納めた棺を入れ、蓋をなし、其上を又コンクリートで塗って、所々に空気抜の穴を穿ってある。其上を又石で囲んであるので、地を掘って埋葬しては無いのである。因にこの奥津城は築き直されてからの方が、私の計画通になつて居るのは、不思議である。私がかって、こんな具合に築くのであると、描いて渡しておいた図面が、旧役員の所に残って居るが、それを見た人達は驚き合って居た。私は初めから今のやうな形にせうと思って居たので、桃山御陵に似て居るとか云ふああした形にするつもりでは無かった。私の云ふ通りにして呉れないから、神様が官憲の手を借りて、本当のものに直されたのである。役員の中には奥津城を直させられたと云ふて、随分官憲の処置に憤慨して、矢釜しく云ふたものもあつたが、かう分って見ると、どちらが悪いのか分ったものでは無い。

○「直美と操」 玉鏡(昭7/7)
 出口なお〔注:三大教主直日の長女、王仁三郎孫〕は開祖様の生れ変りであって、その御性質をスックリうけついで厳格である。かつて二代が直日の衣服を着た事がある。さうすると「お母さんの着物だから、お母様にかへして」と云うて聞かないのだ。他のものと自分のものとを、ゴッチャにするやうな事は開祖様の大変お嫌ひなことであった。開祖様は又煙草たばこがお好きであったが、直美も子供のくせにそれが好きだ。操は一二三ひふみの生れ変りであるから、よう似て居る。王仁は何度も生れかはって来て居る。印度いんどにも生れた事がある。あらゆる境遇を経て来た。

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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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