第十三章「教祖の恭儉」 困難のどん底/世が上り過ぎた/陰徳とは此の事

△困難のどん底

 当時の大本には、世間の幾多いくたの迫害と嘲笑とがわだかまっていた。そして大本の萌芽ほうが時代とも称すべき建設期に、如何いかに教祖〔直子刀自〕、教主〔王仁三郎聖師〕、役員幹部の間に、いろいろの苦心惨憺が繰りへされたか、かもの中にあって、貧困と困難とに戦わねばならなかったが、すなわち明治三十四年から同三十七年までの間の三ヶ年は、すべての点にもっとも困難のどん底にあった時代である。
 其日そのひの生計に追われて、皆が神業ばかりに没頭しているわけに行かない程のみじめさであった。夜になると一同がなわなひ、ただちにそれが金に換えられて、翌日の米鹽べいえんに供せられた。しかもそれがつも不足勝ちで、買物に出掛ける使者は、渡された金と入れ物とを見較べて、妙な顔をすることも度々たびたびであった。こんな時には
らんだけ足すのじゃ』
 と怒鳴りつけられるのが常であった。無理往生に出て行って、何處どこかで金を工風して品物を買ってくると云う様な事もあった。
 生活上のことはそれでもんで行かれたが、神前にそなえる饌米せんまいが毎々事欠いた。それを見るに見兼みかねて田中と云う信者は教祖に内証にっと自分の家から米を運んで饌米に供えたこともあった。そうすると教祖は何時いつそれを陰で見て居られたのか
『田中さん、今日のおさがりは持ってお帰りよ』 
 などと饌米を下げられた事もあった。教祖と教主は家の中で内仕事、田中 竹原 村上 四方等の役員は外に出て、土方どかた人夫にんぷの群にじって僅かな日給を得ては、神の偉業に捧げていた。の当時さいわいのことには綾部舞鶴間の鉄道工事が始まったときであったので、賃金なども比較的有利であったが、しかも優に生計をつぐなうまでには至らなかった。今度は更に夜になるとトロンコ押しをして、の賃金だけは教祖のお筆先に使用する紙代にてたのであった。其時のお筆先の紙はずき紙一貫目二円くらいのものであったが、三十六年頃は、非常に沢山なお筆先が出たので、同年五月だけでも五十八冊と云う大冊の紙量を示して居る。なお其の外に別へのうつしが五十八冊あるので、約百十六冊になるから、余程信者の人々も一生懸命働かぬと、其の位の賃金では紙代にも追いつく事が出来なかった。そんなわけで信者は夜昼、車力になったり、トロンコ押しになったりして、教祖の神業を補助して行った。一同のものが終日土方人夫の労働に疲労しって帰って来ると、教祖は
『土方をしてって神様の御用がつとまるか』
 とあべこべに怒られたりする事もあった。仮令たとえ叱言こごとがあっても、それをらねば他に生計費を得る方法がない。日々の神業の補助には、めてお筆先の紙代なりともと、彼等は殊勝しゅうしょうにも労働に従事したのであった。


△世が上り過ぎた

 大本の建設時代も、かくごとく艱難苦労の中に日一日と築かれて行った。教祖は始終生計の圧迫の中に人となられたので、平素の倹約も一通りではなく、水一杯でも決して粗末にしない。二十余年間で、神業成就の日が来て、本懐ほんかいげられて以来、何不自由のない身の上となられても、常に昔の辛苦しんく艱難を忘れた事はなかった。
『こう世があがり過ぎになってうえ、このままでは世が続かぬから、の時の用意に小さい事にかけたら、針の穴よりも小さい事でも、気を付けねばならぬ』
 と役員達に申して居られた。あと役員達の骨折りで、教祖の部屋が新築されたが、教祖は壁は中塗なかぬりだけしか許さなかった。着物は一切綿服めんふくばかり、履物のごときも常に紙巻きのわら草履ぞうり湯巻ゆまき木綿もめん晒布さらしを用いられていた。食事の如きも、極度の一汁一菜主義で、大根の煮物は常に皮つきのまま、皮を取る事は土のおんを無視するものだとの主張であった。俗にどんぐりを粉に引いて、それをもちにしたものを常食とされたこともあった。其他、蒲公花たんぽぽ常山木くさぎなど、そう云った植物を色々に工風くふうして食用とされた。そして教祖は
『こううものを食わねばならぬ時節が来ると困るから、其の時の用意じゃ』
 としいて皆の人々へも進められた。蜜柑みかんも柿もすべての果物くだものは、皮のまま食う美風が、今なお大本に残って居るのは、何れも教祖の遺徳いとくひかりである。


△陰徳とは此の事

 三 四月の春まだ寒いる朝、役員 湯浅ゆあさじんさいが広間へ参拝に行ったおり、教祖は寝巻のまま縁側に坐って、しきりに埃箱ごみばこを探して何か見附みつけ出そうとして居た。湯浅はそれを見て、教祖は何か大切な物でも紛失したので探ししていられてるのだろうと考えたから、側近く寄っていかけた。教祖は顔に微笑を浮かべて
『いやんでもない事や』
 と云われたが、なおも不審が晴れやらぬので、よくよくあたりを見廻すと色々な紙が並べてある。教祖は
れはな、こうして置くと紙屑屋が喜びますんでな』
 と今度はこえまで立てて「はッ……」と笑われた。其処そこには教祖の手に依って屑籠くずかごの中から、白紙と新聞紙と真紙とが三種に区別されてあった。
『なあ、湯浅さん。私は埃箱ごみばこの外に、ちゃんと紙屑籠を別に備え附けて置いたのに、心得のない人達が皆一緒ごったにの埃箱に捨てるものだから、今拾って集めている所じゃ』
 となおも熱心に拾い分けて、手の先は大分汚くなって居た。湯浅は自分がかわろうと申出たが、教祖は却々なかなか応じない。
陰徳いんとくとはこの事じゃ。人に見られぬ内にするのじゃ』
 湯浅はかかるきた教訓に恐縮して仕舞った。こんな風に教祖はすべての物事に対して繊細で几帳面きちょうめんであった。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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