第五章「神格者の結合」 神童が八ツ耳か

△神童が八ツ耳か

 教祖と教主との結合については、更に物語るべき挿話の一つがある。そもそも性来超然として立つ人は、屡々しばしば幼い時から一般普通の人と異なる点を見出すものである。教主の人とりのごときも其の類例中の一人である。郷党では教主を目して神童あるいは八ツ耳の麒麟きりんとさえ呼ばれた位、才気溌剌はつらつたるものがあった。

 明治三十年七月厳父いて後は、愈々いよいよ、多年の宿望であった神業を極めて、もっぱら人心救済の決心を堅め、身も心もすべてをささげて精進すべく内部生活の統一を計っている時、それは、明治三十一年の二月九日の夜半の出来事であったが、心の底からの世と萬人の運命を祝福する心持ちになって、一室に閉じこもっていると、突然一人の神の使つかいが目前に現はれた。そして何事か耳にささやかれたかと思うて、はっと気か附いた時に、教主の心に閃いたものがあった。翌日直に高倉山の巌窟がんくつに到って一週間の荒行を遂げた(※1)の僅かな日数に体得したものは、神の正しい道で、帰神の秘法は既にの時獲得したのであった。
 一切を捧げての神業は益々ますます進轉して行った。教主のの最も円熟した帰神成業の或る一日の事であったが、何処いづこより来るこえとも知れず、いとほがらかに、

由良ゆら川の上流に数年前より一人の預言者現はれ、清水を以て潔身けっしんほどこせる神女しんにょあり、なんじは霊を以て万民に潔身を施すべき天職あり、西北の神女は汝の至るを鶴首かくしゅして待てり』

 妙音みょうおん耳に徹して教主の身も心もほとん霊霧れいむとざされた。此の一種神勅に依って刺衝ししょうされると、一日もっと坐っている事は出来なかった。ゆめまぼろしの内に神示されたの預言者を尋ねるべく、多くの門弟に別れを告げ、表には布教伝導遍路の旅とのみ申し置いて、内に燃ゆる探究心を秘して旅立った。
 づ、丹波の国内を神行の地と定め、目的とする方角は、神示の通り北へ北へと指して足を運んだ。やしろやsろいのり、やどりやどりのつとめは夢にも怠らなかった。勤修を積んで急ぐ内に八木やぎの村へと差掛ったのであった。秋風たびごろもの袖をはらって、ゆうべを告げる遠寺の鐘に送られて、辿り着いたのはすなわち前述の八木の村端の茶店であった。これが神縁となってはからずも神業三昧に行いすましている教祖の棲み家なる、頽廃たいはいした土蔵の扉を叩いたのであった。時に教主はだうら若い二十八歳のときであった。


出口王仁三郎「本教創世記」 第三章
 明治三十年八月下旬より、またまた産土の小幡神社に夜間窃かに参籠して神教を請いつつあったが、神は余の至誠を嘉納ましまして、三七日ののぼりに、左の如き神教を賜ったのである。

 一、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし。
 一、万有の運化の豪差なきを見て真神の力を思考すべし。
 一、活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし。

 三条の天則を授かりてから、百万の味方を得たる如く大に勇気鼓して、亦々各教の教義を探り、誤れる宗教を改良せんと思料し、以後は営業は人任せに為し、各教を尋ね廻りつつ神示の三則を説くと雖も、暗黒の余は一人の良教師なく、可とする者も不可とする者もなく、余も頗る手持不沙汰にてありたり。又方面を替えて、地方の学識ありと云う人に向って説き示さんと思いて、二、三の名士を訪えども、余の貧民なれば門前払いを喰わし、加之(のみならず)大反対を唱えて「山子」なぞと詈しる者のみ。平常の親密なる朋友迄も、余をうたがいて一言も信ずる者なく、却って反対の側に立ち、種々の批評を恣にせり。然れども一旦決心したる余は、飽くまで真理を闡明にして、国家の為に、人生の為に、宇内哲学を一変せしめ、至粋至醇なる惟神の大道を発揮せん事を務めて止まず。益々幽斎を鍛錬したりしが、此度は神の御告げに従いて、深夜に一週間高熊山と云う奥山に通い、鎮魂と帰神術とを一心不乱に勉強し、卒(つい)に神人感合の妙境に達する事を得たるなり。


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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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