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出口直日『思い出の祖母』

☆出口直日 『思い出の祖母』(心の帖より)

 祖母(出口なお)は、幼いころから、父(出口王仁三郎)よりも、母(出口すみ)よりも、私のいちばん好きな人でした。
 いつも、ものしずかな人で、私はいつも祖母の部屋にいっていました。
 母が祖母の身辺を気づかい「よいもんあげるで、こっちおいで」などといって呼び出しても、もらうものだけもらうと、祖母の部屋にゆくのでした。
 祖母は、夜な夜なむかしばなしをしてくれました。それで、夜がくるのを待ちかねて、祖母の部屋へ泊まりにゆきました。夜の灯影がもの静けさを深め、私にはピッタリとした、みちたりた時を過ごすことができました。
 丹波縞の夜着の中で、両方からせりあって、祖母によりそい、毎夜、同じ話を聞かされているにもかかわらず、なにかせつない、真実につつまれる思いであったのでしょう。
 今にしておもうと、祖母の話しぶりは、甘い感傷が漂うて、祖母にも、うら若い乙女の日があったことを、ほほえましくしのばせるのでした。
 祖母は、いつまでも清純な乙女のような、みずみずしいものを、もちつづけていました。
 貧困の町家に生まれ、小さいうちから奉公に出なければならなかった祖母は、家庭をもってからも、ひとかたならぬ苦労をしたのに、そのような境遇の人にありがちな陰影がなく、私の少女のころ、もと武家の奥さんの中に気品の高い老婦人をみましたが、祖母は武家育ちのような気品のなかにやさしさがあって、やさしいわりにシャンとした感じをもっていました。
 祖母は、手織木綿の着物を、いつもさっぱりと着ていました。
 ときおり、「女はいつも薄化粧ぐらいはしているほうがよろしい」といっていましたが、自分は色が白くて、キメが細かく肌がきれいなので、ちょっとでも化粧すると目立って気はずかしかったので、素顔でいたそうです。

 祖母の性格は、体質にあらわれ、食事にもつながっていたようです。
 行燈の灯影で、祖母はしずかに膳にむかっていました。そして朱塗りの大きな椀に二口三口ほどのご飯をもり、それにいつも白湯をかけて、ゆっくりといただいていました。そうして、一度かえるくらいでした。いたって食の細いほうで、これは老境のせいばかりでなく、祖母は、地の上にたいへんな日がくることを知らされていて、世の終わりの迫ってくることをおもって、多くの人々が――大難を小難にて過ごさしていただきたい――という祈りの一念で、食慾が枯れてゆくような日がつづきました。「世の中の難渋している人のことが思われて、食べものが喉をとおりませぬわいナ」ともらされていたこともしばしばです。わずかのご飯にも、お茶でなく白湯をかけていた心がわかるようです。
 おかずは、菜食で、野菜はなんでもたべました。それに乾物の干ずいき、高野豆腐、椎茸、生湯葉はことのほかに好きでした。年に一度か二度、体を養うため鯉こくをたべました。それに鮎の塩焼は好きでしたが、これも年一度か二度のていどでした。そのように祖母は食事は清貧に徹していました。
 そうした祖母のそばで育ったせいか、私の食べものの好みも祖母に似て、膳が出ると祖母のことを想いだします。
 祖母が、ご飯のとき、焼きものの茶碗をつかわなかったことにも、祖母らしさがひそんでいます、明治もなかばをすぎると、文明開化の風にさらわれ、庶民が使う焼きものの美しさまでくずれてゆきますが、それでも綾部のような山陰の町では、まだ、幕末に見るしずかな呉須の染付や温かい土灰釉で心をなごめてくれる日用雑器がのこっていたと思います。それをさけたというのは、焼きもののもつ触覚と接触音からではないかとおもわれ、より温かい、よりしずかなものを愛した気持ちが、祖母の掌に木の椀をとらしめたのでしょう。
 わずかにひびく音感にも、ものやわらかさを愛したように、祖母はこころの奥行のふかい、やさしい人でした。
 無地の朱塗りの、形は奥州の秀衡椀のように豊かな椀をつかっていた好みにも、祖母の日々の気持ちが映っていました。朱塗りのいろには、苦労のかたまりといわれる人生体験が、つやをおびているようでした。

 あのような人がらを、もうふたたび私の身近にみることはできないでしょう。

 それにつけても、したわしく思いおこされるのは、明け方近く工場の汽笛が鳴りひびくとき、祖母が示した美しい陰影のある表情です。
 喉ながくひびく笛で、睡りを醒ましている私に、すでに起きていた祖母は近よって「いま“製糸”の女工さんがおこされていますのじゃ」といたわりのこもった声で、ささやきました。
 祖母は、当時、新しく興ってきた工場で働いたことはなくとも、少女のころから、生糸の賃びきに出た経験があって、雇われ人の苦労を、充分に味わってきたところから、女工の生活を思いやって、いつも涙ぐんでいました。
 しっとりとした、山陰の朝々を甍(いらか)の波を越えてわたってくる汽笛の音にも、女工のあわれをしのび、胸がいたんだのでしょう。幼い孫の私に、その胸の痛みをうちあけるように、女工のみじめな一日が始まろうとしていることを告げました。
 祖母はまた、私に、「兵隊さんは可哀そうや」と、これも、祖母が女工に示したと同じかなしみをこめて、いくたびも、いい聞かせてくれました。
 祖母は――次男(出口清吉)と日清戦争で別れ、戦争と人民の悲惨を、まのあたりにしたことから格別の気持ちをもっていました。
 祖母の書いた筆先(文章)には――戦争ほどこの世につまらぬものはない(※1)――と人の生命の尊さを、強く訴えた言葉が、いくところにもでています。その気力のはげしさは、あたかも胸の中に、金鉄の筋がねを打ちこまれる思いがしますが、祖母の世を思うやさしい心根が明るくにじんでいます。

 祖母は蔬菜づくりが好きで、畑に出て世話をするのを楽しみにしていました。ことに南瓜つくりはじょうずでしたが、後年に踏み違いで少し足をいためてからは、好きな畑にも出ませんでした。それから、前よりも筆先がたえまなく出るようになりました。
 祖母は、梅の杖をついて、コツンコツンと、ゆったりと間をひびかせながら、廊下からお庭のほうへまわっていました。あるとき、「きょうは悪霊が来ておったから叱ってきてやりました」といって、杖の音を夜の闇にひびかせながら寝床に臥ている私のところへかえってきたことがありました。

 ある夜のこと、祖母が煙管(きせる)でタバコを喫っていて、これまでついぞないことと、思わず「おばあさん、タバコが喫めるのですか」と声をかけてしまいました。祖母は、私の声に驚いたようで、「おすみ(出口すみ)がおいていったので、ちょっといただいてみましたのじゃ」と恥ずかしそうでした。
 そういうときの、祖母のういういしい美しさも、今に忘れえぬものとなっています。
 祖母の生家の隣りに、葉タバコを刻んで商っている店があって、幼いとき、むずかったりすると、祖母の母なる人がその煙草屋の縁先に祖母をつれていって坐らせておくと、何時間でもおとなしくしていたそうです。
「私はほんとうはタバコが好きやけれど、いただかんだけや」といっていました。すきなもの、それを欲するままに求めず、一生たしまなかったところに、祖母が、そうした面ででも、努力家であったことを思います。
 克己心の強い性格は、小さいころからのものでしょうが、祖母は「お母さんがよく気をつけて育ててくだされたから」といっていました。

 私が琴を弾き初めたころのことです。祖母から――直日さん、久しぶりで琴の音を聴くことができました――と、それは乙女がものの美しさに酔ったような表情で声をかけました。祖母のものの好みは、気品のあるもの、やさしいものに趣味をもっていたようです。
 生まれつきの性格なのでしょうが、祖母の生まれた福知山というところが、金剛流の能が盛んで、少女の頃、子守りのかたわら能の笛や、鼓を、求めて耳にしていたようです。祖母の気質にお能の雰囲気が合ったのでしょう。祖母がいま生きていたら、きっとお仕舞をみずから舞ったことと、私はひとり想像しています。

 祖母の日常は、朝は暁まえに床を離れて水ごりをとり、ご神前に坐って礼拝をしていました。そのときの祝詞の声のさわやかさは、私にとっていちばんつよく印象づけられているものです。すがすがしい声で若々しく、おだやかな調子のうちから、凜とした力がひびいていました。
 ご神前での祖母は、かすかに首の辺りをふるわせながら、ながながとだれかとお話をするように、口の中でなにか言っているようでした。
 祖母が、神様とお話をしたり、筆先を書いたりしたほかの時間は、禅宗の雲水の生活に似通う、立居などのしずかさでありました。
 もちろん、祖母は、禅堂に坐ったことも、茶の湯の点前を習ったこともなく、それでいてどこかに、相似たものが感じられ、いうにいわれぬ雰囲気となっているのでした。
 それが、祖母の周辺の人々にも影響したように、私も、自由奔放にありたい子どものころでありながら、祖母のもつ雰囲気に魅きつけられ、きびしい規則正しい生活に一種のあこがれをいただき、祖母と日常をともにすることに、生きる楽しみのようなものを感じたものです。
 祖母の日常は、質実で剛健というか、そういう気風があって、とくに、お土のご御、火のご恩、水のご恩、人のありがたさがやかましくいわれ、きびしいまでに大切にされていました。
 祖母は、そうぞうしいことは嫌いで、それも時・所・位でやかましく、いつどこででも鼻唄気分でいることはきらいました。
 行跡の定まらぬこと、偉そうなことをいうこともきらいで、ひそかに目立たないところに注意してゆくという気風でした。
 祖母は、いつも身ぎれいにしていました。お水で体じゅうを拭い、またお湯にはいっても糠袋などで、ていねいによく洗いました。それでいつも肌につやつやとした輝きがありました。お湯に入るときにも、必ず、お湯を手ですくい、額に三度あてて礼拝して入り、お風呂から上がるときには、湯殿のあとしまつをして、あとの人のためにぬるくなった湯をたくようにいいつけました。
 もののすみずみにまで心を入れ、家事でもいっさいのものを生かしてゆくというのでした。
 大根の切れはしや、赤葉も、大切にして、味わいよくいただくことを工夫しました。
 起居は、端正で、ものしずかな暮らしの中で、たくさんの筆先をしるしました。
 祖母は、筆先がしっかりとお腹に治まりさえすれば、人の姿は、しぜんと奥山のようにしずかなものになってくる、といっています。
 夕方になると、縁先にうずくまって、空の星に見入って、時の経つのも忘れたようにしていました。
 いつも、苔の上に打ち水をしたような、侘びた、ゆかしい暮らしでした。


 祖母は、敏感な感受性をひめて、いつも、澄んだ、やさしい世界に生きていたので、祖母の手記した世の立て替え立て直しの筆先は、その根底に澄んだ温かいものがあります。
 このことは、祖母の人格や人生経験を素地として、神の啓示が現われ、それらの啓示にたいして、祖母が、やさしい、あたたかい全人格をささげて厳しく受けとめていったからで、祖母の筆先を読むうえに、まことに大切なことであるとおもいます。

『大本神諭』 明治31年旧9月13日
”世界には運否運(うんぷ)がなき事に致さぬと、今までは余り運否運が在りたから、世界を洗濯いたし、人民に改心を致さして、世界を桝掛曳くのじやぞよ。改心一つで能くなるぞよ。悪るき事をいたすやうに思ふて、何時迄も敵対(てきた)へば、物事が遅くなるから、余り敵対へば日本の国に何が在りても構はぬぞよ。日本の国は助けたいと思ふて、神々様は大変な御骨折じやぞよ。何にも知らぬ人民には相手には成らね共、余り敵対へば神も堪忍袋がきれたれば、何事在りても神は知らんぞよ。判らんといふても、あんまりであるぞよ。”

 この筆先が出た当時から今日までの歴史の流れを、じっと、ながめてみますと、たしかに運、不運の差が一歩一歩とちぢめられつつあることを感じます。
 日本においても、祖母の眼に映っていたそのころの女工や兵隊のそのままを、今日の社会で見いだすことは困難でしょう。
 それほどに、わずかな歴史の流れのうちに、祖母の書きとめた筆先は事実となって動き出しています。
 こうした見方を、あまいと考える方もあるでしょうが、神の啓示として、近代史を貫いている新しい潮流となり、厳然として生きていると思うのです。
 歴史の、とくに近代の変革には、そのときどきの人間の叡智や情熱が、歯車となっているでしょうが、その歯車だけで、歴史は動いているのではなく、もう一つの偉大な波動がこれに働きかけていると感じられます。
 第二次大戦直後まで、日本の社会で、多くの問題をはらんでした小作制度が、今日の農業経営に切り換わった経路にも、また、日本が世界に魁けて平和憲法をもつようになったことにも、日本人の叡智と情熱のみによって、かちとったとはいいきれない、もう一つ何かが加わっていると考えられないでしょうか。それは、あるときは、もののはずみのような形で、突如として、歴史の上に現われることさえあると思います。
 そこに、私は不思議な摂理を感じます。
 歴史学は、あくまで現実的に、科学的な立脚点に立とうとしているので、この不思議な力を度外視してかかるのも当然でしょうが。


(※1)
大本神諭「明治…年…月…日」
 至仁至愛(みろく)の神の御出ましに御成(おなり)なさる時節が参りて、大国常立尊が出口の手で書き知らして置いた世が迫りて来たから、世界中の人民が改心を致さねば、この世では最う一寸も先へは行けず、後へ戻ることも出来んぞよ。
 此世の来ることを、明治25年から今につづいて知らしておるのに、チツトモ聞入れが無いが、国同士の人の殺し合ひといふやうな、こんなつま)らん事はないぞよ。
 一人の人民でも神からは大切であるのに、屈強ざかりの人民が皆無くなりて、老人や小児ばかり残して、前後(あとさき)を構はずのやりかたであるぞよ。こんな大きな天地の罪を犯して、まだ人の国まで取らうと致しておるのは、向先(むこさき)の見えぬ悪魔の所作であるから、どの国が仲裁に出ても、天地の大神の御許しのなき事には、いつまでも埒は明かぬぞよ。出かけた船であるから、どちらの船も後へ引く事もならず、進む事も出来ず、まことの仲裁もはいらず、つまらん事が出来るから、外国の守護神[人]に長らくの間、気が付けてありたぞよ。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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