生いたちの記(弐)

○祖父の遺言
{1871年 明治4年 1歳 12月 祖父上田吉松帰幽}

 祖父の吉松は、明治四年の冬十二月二十七日に帰幽した。王仁が誕生後六か月目である。祖父吉松は数年前より微恙(びよう)を覚え、日夜ぶらぶらとして日を暮らして居ったそうである。弥々病革まり、到底快復の見込み立たずと自覚し、王仁の両親を枕頭に招いて遺言した。
「上田家は古来七代目には必ず偉人が現われて、天下に名を顕わしたものである。彼の有名な画伯円山応挙(本名は上田主水/もんど)は、我より五代前の祖先・上田治郎左衛門が篠山藩士の女を娶って妻となし、其の間に生まれたものである。然るに今度の孫は丁度七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕わすものに成るであろう。先日も亀山の易者を招んで孫の人相を観て貰ったら、此の児は余り学問をさせると、親の屋敷に居らぬ如に成る。併し善悪に由らず、何れにしても異った児であるから、充分気を附けて育てよとの事であつた。私の命は最早終末である。然し乍ら私は死んでも、霊魂は生きて孫の生い先を守って与る。併し此の児は成長して名を顕わしても、余り我が家の力には成らぬとの易者の占いであるけれ共、天下に美い名を挙げて呉れれば、祖先の第一名誉であり、又天下の為であるから、大事に養育せよ。是が私の死後までの希望である」と、言終わると共に眠るが如く帰幽したと云う事である。王仁は生後僅かに六か月、祖父の顔も知らねば、其の時の現状も知らない。只祖母や両親の口から伝えられたのを記すのみである。

○円山応挙
 円山応挙は本名を上田主水と称したのである。京都の円山の辺に住んで妙筆を揮って居たので、画名を円山応挙と名告ったのである。然るに同じ穴太に丸山と日う姓が在るので、応挙は丸山家から出たものと世人は誤解して居るのである。現に穴太生まれの丸山某は京都の町に居をトし、いつの間にやら「丸まる」を「円まる」に変更し、円山応挙六世の孫なぞと日って居るので在る。厚顔無恥も、茲に至って極まれりと謂うべしだ。
 丸山某と云う人は、明治の初年に、伏見鳥羽の戦争に長州の武士から人夫として雇われ、敗戦の結果多数の死者が出来た。その際に某氏は死骸の中に潜り込み、死者の懐中物を一々探って、莫大なる金銀を集め、其れを資本として郷里に数町歩の田畑を購求し、傍ら三百代言をして、随分人に憎まれつつ持丸長者に成った所から、名誉慾に唆られて、終に円山応挙の末裔と偽称するに到ったのである。某は金の力で京都に出で、三百(代言)も余り面白からぬ如に成ったので、或方法に依って印紙屋を営み、数十万円の資産を造り上げ、府会議員まで鰻上りに上った容易ならぬ敏腕家である。そこで郷里の穴太に「円山応挙生誕地」と云う立派な碑を樹てて、裏面には「府会議員円山某」と刻して房る様な虚栄家である。

{1883年 明治16年 13歳}

 慥(たし)かに明治十六年(1883年)、王仁が十三歳の時であった。丸山某氏が訪ねて来て、「爰の家には上田主水さんの画の書き降しが沢山に在ると聞いたが、一度拝見したい」と申し込んで来た。そこで王仁の両親は心好く古長持の中に納めてあった数百枚の画の書き損じを出して見せた。某は非常に驚歎して帰った。四、五日を経て某は再び訪ねて来て日うには「お前さん処に斯んな反古を何時迄も大事に保存して置いた所で、何の役にも立たぬから、私は五円に買うて進げよう。五円あれば米が一石も買える。正月にも沢山な餅を搗いて小供を喜ばして与っては何うだ」と謂って、頻りに「売れ売れ」と迫るのである。肝癪持ちの父の吉松は、丸山某の言い草が気に喰わぬと大変に怒り出し、「お前さんに買って貰う位なら爰で灰にして了う」と謂って、其の中から数十枚持ち出して某の眼の前で焼き捨てて了ったので、某は詮方なく無礼を詫びて帰って往った。
 それからは種々と手を替え、人を頼んで売却の儀を申し込んで来たが、頑固一遍の父は、最初の某の言い草が気に喰わぬからと主張して、断乎として要求に応じ無かったのである。そうすると、今度は王仁を養子に貰いたい、大学へ入れて立派な人間に仕上げて与るからと、幾度と無く出て来て余り五月蠅くて堪らず、肝癩親父が到頭大喧嘩を追初めて絶交して了うた。持丸長者の某が、破れ家の水杏み百姓の小伜を養子に呉れと申し込んで来るのは普通では無い。何か、三百代言だから深い魂胆が伏在するに相違は無いと謂って、父が立腹して居たのが、歴然として王仁の記憶に今猶残って居るのである。

{1901年 明治34年 31歳 4月 穴太の上田家全焼、家族が綾部に来る}

 然るに不幸にも上田の倭屋(わいおく)は、明治三十三年(1901年)の(旧)二月七日に祝融子(しゅくゆうし:火事)の見舞うところと成り、家財家具は言うに及ばず、円山応挙に関する書類も絵画も悉皆(しっかい)烏有(うゆう)に帰したのである。さあそうすると例の丸山某は得たり賢しとして、自分が応挙の六世の孫なりと宣言し、終に応挙生誕地の石碑までも建立する様になったのである。然るに丸山某は代々西穴太に屋敷が在って、今は上田和市氏の邸宅に成って居り、生誕地と書いてある記念碑の建設地は、明治十二、三年頃に、穴太寺の桑園地で在ったのを購入して、新たに居宅を造り住んだので在るから、生誕地で無い事は明白な事実である。

○改姓の理由
{1886年 明治19年 16歳 春 久兵衛池事件}

 百姓に成ってから、藤原姓を名告(なの)って居ると、万一誤って藤蔓でも切ろうものなら家が断絶するとの巫祝(みこ)の妖言を妄信して、上田と改姓した。上田と名告った理由は、其の時の藤原家には五町歩の二毛作の上田を所有して居ったので、取り敢えず姓を上田に変更したと云う事を、祖母や古老の口から聞いた事がある。然るに五年か十年位に一度は大旱魃が巡って来て、稲穀の稔らないと云う困難を免るる為に、屋敷の西南隅に灌漑用の池を掘った。是は上田久兵衛の代に掘ったので、里人は久兵衛池と称えて居ったのである。此の久兵衛池に就いて王仁の一身上に関する経緯があるが、それは後節に述べる事にする。
 穴太には上田姓が三組在って、之を北上田・南上田・平上田と称して居る。王仁は北上田の家の出である。詳細なる系譜があったのを、曾祖父の代に極道息子が在って他家へ質に入れ、転々して吉川村の晒し屋と云う家に伝わったのを、王仁が種々として手に入れる事に成ったが、不幸にも又、前に述べた明治三十三年の火災で失くして了ったのは、返す返すも遺憾至極である。系図の示す所に由れば、文明年間には西山の山麓、高尾と云う所に大きな高い殿閣を建てて、其処に百余年間、高屋長者と呼ばれて住居して居たと云う事である。其の後、愛宕山の麓の小丘に城廓を構え大名の列に加わって居った所が、明智光秀の為に没収の厄に逢うたのである。其所は産土の小幡神社の境内に接続して居って、殿山と日う地名に成って居るが、今に城址が歴然として地形に遺って居るのである。

○祖父の性行
 祖父の吉松は至って正直で、清潔好きであった。今にも祖父の逸話は、古老の口から沢山に漏れる事である。然るに祖父には只一つの難病があつて、五十九歳で身を終わるまで止まなかったのである。その難病と云うのは賭博を好み、二六時中、賽(さい)を懐から放した事が無いのである。そして酒も呑まず莨も吸わず、百姓の隙には丁半々々と戦わして勝負を決するのが、三度の飯よりも好きであつた。それが為に祖先伝来の上田も山林も残らず売り払い、只壱百五十三坪の屋敷と破れ家と、三十三坪の買い手の無い蔭の悪田が一つ残った丈であった。斯様な家庭へ養子に来た父の吉松こそ、実に気の毒である。祖父は死ぬ時も賽を放さず、死んだら賽と一所に葬って呉れと言ったそうである。
 その時の辞世に、「打ちつ、打たれつ、一代勝負、可愛賽(妻)子に斯の世で別れ、賽の川原で賽拾う、ノンノコサイサイ、ノンノコサイサイ」。
 女房が米が無くて困って居ようが、醤油代が足るまいが、債鬼が攻め寄せて来ようが、平気の平左衛門で、朝から晩まで相手さえあれば賽を転がし、丁々半々と日の暮るるのも夜の明けるのも知らず、行燈と二人に成るまで行って行って行りさがし、臨終の際に成っても、博奕の事を云って屑った気楽な爺さんだったと、何時も一つ話に祖母が話された事がある。
 五月の田植え時と秋の収穫期を除くの外は、雨が降ろうが風が吹こうが、毎日毎夜、相手を探して賽斗り転がし、朝に田地が一反飛び、タに山林が移転して了うと云う状態であるから、柔順な祖母が恐る恐る諌言すると、祖父の言い草が振るって居る。
「お宇能よ、余り心配するな、気楽に思うて居れ、天道様は空飛ぶ鳥でさえ養うて御座る。鳥や獣類は別に翌日の貯蓄も為て居らぬが、別に餓死した奴は無い。人間も其の通り餓えて死んだものは千人の中に只の一人か二人位のものじゃ。千人の中で、九百九十九人までは食い過ぎて死ぬのじゃ。それで三日や五日食わいでも滅多に死にゃせぬ。私もお前の悔むのを聞く度に胸がひやひやする。けれども是も因縁じゃと断念て黙って見て居って呉れ。止める時節が来たら止める様に成る。私は先祖代々の深い罪障を取り払いに生まれて来たのだ。一旦上田家は家も屋敷も無く成って了わねば良い芽は吹かぬぞよと、いつも産土の神が枕頭に立って仰せられる。一日博奕を止めると、直ぐその晩に産土さまが現われて、何故神の申す事を聞かぬかと、大変な御立腹でお攻めに成る。是は私の冗談じゃない、真実真味の話だ。そう為なんだら上田家の血統は断絶する相じゃ。私も小供では無し、物の道理を知らぬ筈は無い、止むを得ず上田の財産を潰す為に生まれて来て居るのじゃ。大木は一旦幹から切らねば若い良い芽は生えぬ。その代わりに孫の代に成ったら世界の幸福ものに成るそうじゃ。是は私が無理を言うと思うて呉れるな。尊い産土様の御言葉である」と云って、産土の森の方に向かって拍手する。斯う云う次第で在るから祖母も断念して、其の後は一言も意見らしい事は為なんだと言って居られたのである。

 大本の御神諭に、「三千世界の一旦は立替であるから、先祖からの深い罪障を除去て遣りて、何一つ埃の無い様に掃除を致して、一代で除れぬ罪を神が取りて遣りて、生れ赤児に致して、神が末代名の残る結構な御用に使ふて、世界の宝と致すぞよ」と、御示しに成ってあるのを見ると、そこに深甚微妙の神理が包含されてある事を今更ながら感激して止まぬ次第である。「神の致す真の経綸は、人民では分らぬぞよ。何事も神に任すが良いぞよ」との御神示は、祖父と祖母とによって大部分実行された。その酬いで、王仁が至貴至尊なる大神の御用に召さるるように成つたのだと云う事を、忝なく思うのである。
 祖父一代の逸話は猶沢山に遺って居るが、是は王仁が奉道の経路に就いて余り関係の無い事であるから、省略しておく。

○祖父の再生
 鳥の将(まさ)に死なんとするや、其の声悲し。人の将に死なんとする、其の言や良しとかや。家内のものを貧乏に苦しめて置き乍ら、死ぬ三日前には賽の歌まで作って、博奕趣味を徹底的に死後にまで続行しようとした祖父も、最期の日に成ってから、和魂・幸魂の発動に依って、死後家内の心得や孫の身を守護する事まで遺言したのであった。其の二魂の至誠が凝結して、王仁が六歳の年まで幽体を顕わし、山へ行くも川へ行くも隣家へ遊びに行くにも、腰の曲った小さい爺さんが附随して居ったのを、王仁は七歳に成る迄、我が家には祖父さんも祖母さんもあるのだと確信して居ったのである。それが俄に見え無く成ったから、「物言わぬ祖父さんは何処へ往ったか」と祖母に問うて見ると、祖母は驚いて「それは祖父さんの幽霊だ、祖父さんは坊の一歳の冬に死なれた」と聞かされて、俄に恐く成り、臆病風に襲われて、暫時は一人で隣家へ遊びにも得行かぬ様に成った事がある。王仁が六歳の時、過って烈火の中に転げ込んだ事がある。其の時にも祖父さんが何処からとも知らず走って来て、火中から曳き出し助けて呉れた(※1)。王仁の左腕に大火傷の痕が遺って居るのは、其の時の火傷の名残りである。
 祖父は至って潔癖であって、野良へ出て畑を耕すにも、草切れ一本生やさぬ如にした人である。偶々一株の雑草が在ると、それを其の場で抜いて土中に埋めて了えば良いものを、態々(わざわざ)口に喰わえて、東から西まで一畔を耕し終わるまで放さず、畔の終点まで行った所で、之を畑の外の野路へ捨てるのが癖であった。祖父さんが死ぬ三日前に祖母に向かって云うには、「私も今死ぬのは厭わぬが、一つ残る事がある。是を遂行せなくては、産土様に死んでから申し解けが無い。」と云って泣き出す。そこで、祖母が「それは如何なる事が残るのですか。」と尋ねると、驚くべし、「未だ屋敷と倭屋と小町田が残って居る。是を全部博奕を打って無く為て了わねば、私の使命を果たす事が出来ぬ。」と日うのである。
 家内を一生貧乏に苦しめ、其の上永らくの看病をさせて置き乍ら、猶飽き足らいで、家屋敷を売る所まで負けない内に死ぬのが残念なとは、何たる無情の言ぞと呆れて、少時(しばし)は祖父の病顔を熟視し涙を流して居られると、祖父が云うには、「宇能よ、定めし無情惨酷な夫じゃと思うで在ろうが、毎時もお前に言う通り、因果ものの寄り合いじゃ。お前が私の家へ嫁に来てからと云うものは、一日片時も安心させて歓ばした事は無し。私も実にお前に対して気の毒で堪らぬけれども、何とも致し方が無い。皆先祖からの罪滅ぼしに生まれて来たのだ。上田の先祖は広大な地所を私有し、栄耀栄華に暮らして来たので衆人の恨みが此の上田家に留まり、家は断絶するより道の無い所を、日頃産土様を信心する御蔭で、神の深き御仁慈に依って大難を小難に祭り替えて助けて下さるので在るから、私が死んだ後は孫子に伝えて一層信心を固く為て呉れよ。」との涙乍らの教訓であったのである。
 次に又祖父が遺言して「孫の喜三郎は、到底上田の家を続がす事の出来ぬ因縁をもって生まれて居る。彼れが成人の暁は養子に遣って呉れ。此の上田家は再び生まれ代わって私が相続する。」と謂ったと謂う事である。祖母は態とに笑顔を造って「今一度博奕の相手を招んで来るから、冥途の土産に、心地能う博奕に負けて家屋敷を無くして、先祖からの罪障を除去て下さいな。」と日うて見ると、祖父は「否お前がそこ迄言って呉れる赤心は有り難いが、もう眼が少しも利かぬ如に成ったから、是非が無い。直ぐに又生まれ代わってお前のお世話になる」と謂って、落涙に咽んだと云うことであった。

 王仁は五歳の時脾肝の病に罹り、腹部のみが太く、手足は殆ど針金の幽霊の如に痩せ衰えて来たので、両親は非常に心配して各地の神社や仏寺に参詣して、病気平癒の祈願を為て呉れられたが病気は日夜に重る斗りで、何の効験も現われ無かったので、父母は人の勧むる儘に蟆蛙(ひきがえる)の肉を料理し、之を醤油の附け焼きにして毎日々々王仁に一、二片ずつ食わして呉れた。王仁が食おうとすると、腰の少し曲った小さい爺さんが出て来て睨みつけるので、何時も喰った様な顔をして父母に隠して棄てて居った。
 或夜の祖母の夢に祖父さんが出て来て、「孫の喜三郎には蛙の如な人間の形を為た動物を喰わしては成らぬ。喜三郎は神様の御用を勤める立派な人間に為るのじゃ。孫の病気は産土の神様の御咎であるから、一時も早く小幡神社へ連れて参れ。そして今後は敬神の道を忘れぬ如に梅吉(父)や世根(母)に訓(おし)えて与れ。」との事であった。祖母は夜中に眼を醒まして直ちに王仁の両親を揺り起こし、神夢の旨を伝えた。父母は其れを聞くより王仁を曳き起こし背に負うて小幡神社へ参詣し、今迄敬神を怠って居た事の謝罪を為たのである。其の翌日から段々と王仁の重病が快方に向かい、二か月間ほど経て全快する事と成った。「産土の神の霊験と日うものは実に偉大なものである」と、時々祖母の話であった。

 明治七年正月元旦の日の出と共に王仁の弟が生まれた。父母は死んだ祖父に赤児の顔が酷似して居ったので、(是は全く爺さんの再来であろう。又成人したら博奕打ちに成って両親や兄弟を苦しめや為ないであろうか)と心配して居った。祖父が吉松、父も吉松なので、松の字を入れて由松(よしまつ)と命名したのである。その由松が四歳に成った夏、畑へ父母が草曳きに連れて行って畑の中に遊ばして置いた。四歳の由松は畑の草を引き抜いては口に喰わえ、口に充実(いっぱい)になると畑の外へ持って出て捨てるのを見て、「あっ」と云って驚いて居ると、無心の由松の口から思わず知らず「己が判ったか」と叫んだのである。弥々間違い無き祖父吉松の再生と謂う事を確信したのであった。父母の心配した通り、由松は十三、四歳の頃からそろそろと小博奕を打ち出し、一旦は屋敷も小町田も全部棒に振って了い、倭屋は明治三十四年(1901年)旧二月七日に、祝融子(火事)に見舞われて、多からぬ財産を全部灰にして了ったのである。
 其の時は王仁は綾部へ来て出口(なお)教祖と共に、艮の金神様に仕えて居った。そうすると穴太の弟から「イヘマルヤケ ルイクワモ ケガモナシ」と云う電報が届いた。早速、教祖様に其の由を申し上げると、教祖は驚かれるかと思ったら、左も嬉しそうに、「ああ左様か、結構でした。其れは結構な御利益を戴かれました。先生も早く艮の金神様と、穴太の産土の神様へ御礼を申しなさい。妾(わたし)も一所に神様に御礼申して上げます。」との御言葉である。其の時は私も教祖の言行に就いて少しはムッとしたが、能く心を落ち付けて考えて見ると、教祖の御言葉に敬服せざるを得無かったのである。上田の家は一旦塵片一本も無い様に貧乏のドン底に落ちたが、其の後神様の御蔭で、祖先から持ち越しの罪障を払って貰い、再び出口家より元の家敷を買い戻し、小さい乍らも以前より余程立派な家を建てて貰い、祖父の再生したと云う弟の由松が、元の屋敷で上田家の相続を為て居るのは、皆昔から一定不変の神則であって、人間の智慧や考えでは如何ともする事が出来ぬと云う事の、実地の神証であると思う。

(※1)「他神の守護」玉鏡(昭7/5)
 私は常に「上帝一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物ニ賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之ヲ万有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ッテ之ヲ守ルニ非ズ。即チ天父ノ命永遠不易/上帝一霊四魂をもって心を造り、之を活物に賦す。地主三元八力を以て体を造り、之を万有に与ふ。故に其霊を守る者は其体、其体を守る者は其霊也。他神在って之を守るに非ず。即ち天父の命永遠不易」と説いてゐる。「他神在ッテ之ヲ守ルニ非ズ」といふことは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかって守護するといふ事はないといふのである。よく狐や狸が憑って守るといふけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守って下さるとか或は産土の神が守られるとかいふのは、自分の精霊が祖霊或は産土の神と相感応してさう思ふだけのことである。私の幼時、囲炉裏に落ちたときに祖父さんが現はれて私を助けて下さったといふのは、私の霊が祖父さんと見せてゐるので、私が祖父さんと感じて見てゐただけである。
 悪霊は人の空虚に入つて害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、或は断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚が出来るから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があっては正しい人といふことは出来ない。四魂即ち天賦の勇親愛智を完全に働かすことが大切である。産土の神が守るといふのは、村長が村民の世話をするやうなもので、決して人間に直接産土の神が来って守るといふことはない。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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