生いたちの記(壱)

☆『生いたちの記』
<「神霊界」大正十年二月号に“故郷及弐拾八年”(瑞月)の題名で発表された。大正九年十二月二十六日に”執筆の理由”から開始。大正十年二月の第一次大本事件で中断され、再開されなかった。>


○執筆の理由  大正九年十二月二十六日
 大神様の御神諭に、「第一に変性男子の御魂が現われて、次に変性女子の身魂が現われ、次に禁闕要の大神が現われるぞよ。男子と女子との御魂が天晴れ世界に現われん事には、三千年余りての神の経綸が成就いたさんから、早く之を新聞で世界へ知らして呉れよ」と、書き示されてある。王仁は、弥々神示を実行する時機の到来せしものと思うたから、本月の「神霊界」から、変性女子の因縁を赤裸々に表示する事に為たのである。王仁の別名を、神様から「瑞月」と附けて下さったので、有り難く御請けして、今月より「瑞月」と云う号で執筆する事に為たのである。

○序
 神理の蘊奥(うんのう)を極め、至善・至美・至真の皇道を宣揚し、天下万民をして神皇の徳沢に浴せしめんが為に、千辛万苦して、皇道大本を天下に拡充するに到った事は、決して人間の努力のみで無い。又如何に智識が万人に卓絶して居っても、如何に忍耐力が強くても、如何に勇気が有っても、今日の治教皇道大本の勢力を造る事は、到底出来るもので無いのだ。昔から聖人・君子・志士・仁人の出でて、治国安民の為に心血を搾り、心志を労し、以て人生を指導輔益したる神人は沢山に在った様だ。然れど其の人の生前に於て、皇道大本の如く天下の問題となり、天下に不可抜の大勢力を発揮し得たるは少ないのだ。是全く時の力の然らしむる所である。
 王仁(わたし)は以下順を追うて、二十八歳、初めて道を宣伝するに立ち到った一切の経路を、極めて簡単に、真面目に、一点の構造も無く、装飾も無く、誇張も無く、波瀾縦横の故郷生活を赤裸々に筆にして見たいと思うのだ。併し元来の浅学不文の悲しさは、事実の万分一をも描写することの出来ないのを遺憾とする次第である。古人日う。「書は言を尽くす能わず。言は意を尽くす能わず」と。况んや、五十年以前の記憶から曳き出すに於ておやだ。けれども、嬉しい事と悲しい事とは、一生忘れられぬもの也と云う事がある。実に至言である。王仁も其の嬉しかった事と、悲しかった事実だけは、今猶歴然として記憶に存して居る。否(いな)存す而巳(のみ)ならず、極めて悲しかりし事の在った為に、自己の神魂が発動して、総に天下の治教皇道大本を開設するの動機を造らしめられたと謂っても良いのだ。

○誕生の地
 王仁は祖先が源平で在ろうと、藤橘であろうと、将又その源を何の天皇に発して居ようと、詮議する必要は無い。只王仁は日本人であって、畏くも、天照大御神様の御血統の御本流たる天津日嗣天皇様の臣民である事だけは、動かぬ事実だ。
 そして王仁の生家は上田家である。丁髷(ちょんまげ)の爺さんの話によると、昔から上田・松本・斎藤・小嶋・丸山の五つの苗字を有って居る家柄を、「御苗(ごみょう)」と謂って、顔が良い家柄だと謂って、蛙切りの土百姓の癖に、村内の多五作や、杢平等が威張ったものだ。縁組一つするにも、御苗が何うの、帯刀御免のと八釜敷く、御苗以外の家柄を「平(ひら)」と蔑視したものだと聞いた。上田家は御苗の所謂家柄であって、貧乏して居っても、夫れだけは世間並に自慢したものであった。丹波国南桑田郡曾我部村大字穴太の宮垣内と云う所に、茅屋は破るるに任せ、檐廂は傾くに委し、壁は壊れて骨露れ、床は朽ちて落ちんとする悲惨なる生活に甘んじ、正直男と名を取った水呑み百姓の上田吉松と日うのが、王仁の父である。

○父の誕生地
 父は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである。男兄弟が九人で女の姉妹が四人、都合十三人の同胞が有った。系図を見ると、宇多天皇の後裔と云う事である。代々紺屋を営み相当の資産も有ったが、元来の好々爺であつた為、人の為に非常な損害を受け家産は次第に衰えた。併し村内では、中流階級の部に属して居たのである。外の兄弟は、各自相当の家に養子に往ったり嫁し付いて居るが、父に限って、他家へ丁稚奉公に、幼少からやられて了うた。その理由は、余り肝癪が強くて腹が立つと、親でも擲(なぐ)り付けると云う乱暴であったので、懲らしめの為に、父母が相談の上八木町の醤油屋に丁稚に出したのである。八木の「醤油角」と云う主人からは、正直もの、律義ものとして、大変に寵愛されて居た。
 十年の年期を首尾能く勤めて二十三歳の年に、初めて穴太の富豪たりし、斎藤庄兵衛氏の雇人と成って住み込み、親方児方の関係が出来た。二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で、上田家の養子と成り、「吉松」の襲名を為たのである。父の元の名は佐野梅吉と云うた。梅吉が吉松を襲名したのも面白い。神諭に「梅で開ひて松で治める」とあるが、王仁の父が丁度この御神諭の通りに成って居る。茲に序を以て一つ書き加えたい事がある。それはかの有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である。翁は十三歳にして達磨を描いたが、其の妙筆は神に迫って居る。今も佐野家に保存されてある。

○上田の家庭
 王仁(わたし)の祖父は吉松と云い祖母は宇能子(うのこ)と云い、祖父は五十九歳で帰幽し、祖母は八十八歳の高齢を保ちて帰幽した。父は梅吉、母は世根子と云う。結婚の翌明治四年(旧)七月十二日を以て一子を挙げた。是が目下綾部大本の教主輔・出口王仁三郎である。幼名は上田喜三郎と日う。王仁三郎と名乗ったのは参綾後に神界より賜わった名であつて、明治四十三年に戸籍上の出口王仁三郎と成ったのである。
 王仁には八人の弟妹があって、次を由松・三男が幸吉・四男が政一・五男を久太郎と日う。久太郎は出生後数十日にして帰幽した。長妹を絹子と云った。是も四歳にして帰幽した。次妹を雪子・末の妹を君子と日う。残った六人の兄弟は無病健全に、神務に従事して居る。只次弟の由松のみ穴太の片田舎にて、家督相続を為し、農業に従事して居るのである。

○穴太の名義
 王仁の郷里なる現今の穴太(あなお)に就いて、其の名義の起元を記して置こう。大昔は丹波国曾我部の郷と云ったのが後に穴穂(あなほ)と成り、穴生(あなふ)となり、穴尾(あなお)となり、次に現今の穴太と改められたのである。宮成長者の創立した西国二十一番の札所は、即ち穴太に遺って居って、今猶信仰者は京阪を初め全国に在る。三荘大夫(さんしょうだゆう)に虐使された槌世丸(つつよまる)・安寿姫(あんじゅひめ)の守本尊たる一寸八分の黄金仏像は当寺に祭られ、本尊は三尺三寸の丈で、雲慶の作である。菩提山穴太寺は即ちこの名刹で、院主の姓を代々穴穂と名乗って居る。
 今は故人と成った斎藤作兵衛翁の談に依りて、穴太の名義は明瞭に分明した。翁は世々里庄の家に生まれ、翁も亦里庄として村治に尽くした徳望家である。
 翁の談に由ると、上田家の遠祖は、天照大御神天の岩戸に隠れ玉いし時、岩戸の前に善言美詞の太祝詞を奏上し、大神の御心を和め奉りし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。降って、大織冠鎌足公(藤原/中臣鎌足)の末裔である。有為転変の世の常として、浮世の荒風に吹き捲られ、文明年間、大和国より一家を率いて、大神に因縁深き丹波国曾我部の郷へ落ちて来たのである。
 上田家は藤原と姓を唱えて居ったが、今より八代前の祖先・藤原政右衛門の代に成って、上田と改姓したのである。
 雄略天皇の勅命に依って、豊受姫大神(豊受大神)を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より、神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜う神幸(みゆき)の途次、曾我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿(しんよ)御駐輦(ごちゅうれん)あらせられたのである。
 祖先が天児屋根命と云う縁故を以て、特に其の邸内に御旅所を定められた。一族郎党は恐懼して、丁重なる祭典を挙行し奉る際、神霊へ供進の荒稲の種子が、太く老いたる槻(けやき)の樹の腐り穴へ散り落ちた。それが不思議にも、其の腐り穴から稲の苗が発生し、日夜に生育して、終に穂を出し、美わしき瑞穂を結んだ。里庄以て神の大御心と仰ぎ奉り、一大祈願を為し、神の許しを得て、所在の良田に蒔き付け、千本と日う名を附して、四方に植え拡め、是より終に穴穂の里と謂うたのである。
 当時の祖先は家門の光栄として、此の祥瑞を末世に伝えんが為に、私財を投げ出して、朱欄青瓦の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神・豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し、親しく奉仕したのである。
 其の聖跡は、現在上田家の屋敷なる、宮垣内である。宮垣内の名称は神明社建造の時より起こったのである。同社は文禄年間、川原条に移遷され、今猶老樹鬱蒼として昔の面影を止め玉うのである。
 王仁が今日、治教皇道大本の教主輔として、神君の為に一身を捧ぐるに臻(いたった)のも、全く祖先が尊祖敬神の余徳に因る事と、深く深く感謝する次第である。

○綾部の聖地
 比沼真奈井神社(比沼麻奈為神社/ひぬまないじんじゃ)(※1)の所在地は、太古は綾部の本宮山であった(※2)。そして天真奈井川原と云うのは、現今の和知川原の事である。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡久次村の真奈為が嶽の麓に、神社の旧蹟を移遷したと云う伝説が古来行なわれて居ったのである。そうすると、綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座の途中、曾我部の郷に、一時、御旅所として御駐輦になったのである。
 太古、同社の神職は綾部の出口家が奉仕して居ったと日う事であるが、後世に到って、山田の外宮(伊勢神宮外宮:祀神は豊受大神)に奉仕せる社家に出口姓が伝わって居る。かの有名なる神道家・出口延佳(のぶよし)は、外宮の社家中で最も電要なる家格の人であったのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明礼を創建して奉仕せし藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来たりて、出口家の相続者と成ったのも不可思議な神縁で在ると思う。
 神明社が宮垣内から川原条へ遷座されてから、後神明社(こうしんめいしゃ)と改称されたが、何時の間にやら、後神社(ごうしんしゃ)と里人が唱え出し、今では郷神社(ごうしんしゃ)と日うように成って、穴太の産土なる延喜式内・小幡神社の附属となり、無格社に列せられ玉うに到ったのである。


(※1)
○比沼麻奈為神社。京丹後市峰山町に鎮座する。伊勢神宮下宮の御祭神:豊受大神は、この神社から伊勢へ分霊されたとされ、『元伊勢』と呼ばれる。なお「元伊勢」は籠神社や皇大神宮など、丹波福知山綾部地方を中心に複数個所存在する。

(※2)
○「本宮山は平重盛の居城」 水鏡(昭2/1)
 丸山(本宮山)は平重盛の居城であった。本宮、新宮、熊野神社、那智の滝等皆紀州の地名と同じである。また舞鶴はもと“田辺”と云ふて居たのであるが、それも同じである。以仁王は重盛を頼って綾部の地に来られて、遂に薨去されたのである。本宮山の中腹にある治總神社は私が重盛の霊を祭ったものである。

○「歴史談片」 月鏡(昭4/2)
 本宮山はもと「本居山」と書きホンゴ山と称へられて居た。そして豊受大神様を御祭り申上てあったのであるが、それが後世、比沼の真奈井にお移りになったのである。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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