大本教開祖御傳記(3)

 物質的文明の壮年そうねん時代たる大正の今日において、維神いしん大道だいどう 幽界の真理を説く皇道の大本霊学を以て、世人ややもすれば世にありふれたる催眠術・幻術・妖術・稲荷ろしの類のものと誤認してかえりみず、神聖不可犯の神術をもっかえって淫祠ゐんし邪教とののしるに至る。れ幽顕二界確立の真理を解する者無き所以ゆえんなればなり。二十世紀は文明極致の世なりと思推するもの多しといえども、今の所謂いわゆる文明なるものは片輪かたわの文明なり。今の哲学は偏狭へんきょうの哲学なり。何ぞ無限絶対無始無終の宇宙の大真理をかいするを得ん王仁わに元来浅学菲才びさい至愚至痴何等なんら学術の造詣ぞうけい無しといえども斯道の為に黙視するに忍びず、帰神に関する略解りゃっかい並びに本教創立の徑路けいろを筆にし、以て開祖の帰神の神聖無比一点の迷妄めいぼう無く、宇宙の真理大本たいほんに合致せしものたるを、あまねく教信徒及び社会達識の士に知悉ちかいせしめんとする所以なり。

 霊学の先覚者・研究者として有名なる、本田親徳ちかあつ翁あり、伯爵副島そえじま種臣たねをみ翁あり、長沢雄楯かつたて翁あり。王仁三郎は以上三翁の懇篤こんどくなる直接間接の教授を得また親しく開祖の教えを永年実地に目撃し修練し、つい審神者さにわ得業とくぎょうを許さるるに到れり。そもそも帰神かんがかり往古禁廷おうこきんていの神伝秘法として、国政の大事を神界へ奏伺ほうししたるものにして、其の実例は往々にして古事記こじき、日本書紀其の他の古史に散見するを得べし。「あま窟戸いわとの段」に於ける天之宇受賣之命あめのうずめのみこと神懸かむがかりしたるが如き、仲哀ちゅうあい天皇の朝に於ける三韓征伐さんかんせいばつに際し、神功じんぐう皇后を神主とし武内たけうち宿禰すくね沙廷さにはて神勅を請い奉りしが如き、文徳もんとく天皇の斉衡さいこう三年、常陸国大洗磯崎おほあらひいそざきに於ける塩焚しおたきをうに神懸りありしが如き、和気わちの清麿きよまろが宇佐八幡の神宣しんせんを奏したるが如きはいちじるしき例証なり。王仁が先師せんし長沢雄楯翁は、霊学の研究家として世に知らるるの人なり。翁が霊学の研究に腐心せるもの実に二十有余年、その抱負や遠大当に国家社会の為に多謝すべきなり。ここに長沢翁のひとりを略叙せんとす。

 往年徳川氏の駿河するがに移るや、当時聖堂に在りし碩学せきがく鴻儒こうじゅ随へて此の地に来集せしをもって、静岡藩にては私学校をおこもっぱら育英の事に従えり。翁は十二歳にして始めて藩立学校に入り、漢籍を研究し五ヶ年にして広く経史けいしに通ずるに至る。後明治五年、教部省を置かれ、神官僧侶を以て教導職に補任せらるる事となり、神仏聯合にて静岡市浅間神社内に中教院ちゅうきょういんを設けられしより、翁は同院に入り専ら国学を渉猟しょうりょうし、あまねく本邦の典籍てんせき研鑽けんさんし、続いて明治七年皇学漢学の教授となれり。当時翁は本居もとい・平田の書を渉猟し、傍ら理学・科学・地学等を研究せしより、本居・平田の説の十中七、八は泰西たいさいの学理と矛盾せることを発見し、今日に在りてはあまねく泰西の学術を究め、以て本居・平田の説の当に訂正すべきものあることを確信し、その後このの思想は絶えず翁の胸中に往来せり。

○長沢翁の奮起  翁は神道の萎微いび不振を慨歎かいたんし、明治十年八月、一の論文を起稿し、東京開智かいち新聞に投書せり。同新聞はこれを歓迎してそのの社説に掲げたるより、天下の志士其の説を賛成せしもの多く、千葉県の沢田総平そうへい・岐阜県の鍵谷かぎや龍雄たつを等を始めとして奮然一躍起するも四方よもに現われ、翌明治十一年三月、皇道振興しんこうの為全国有志大会を東京に開く事となり、会場は神道事務局を以て之にて、翁は会幹かいかんとして専ら枢務すうむ鞅掌おうしょうせり。

○撰抜生渡欧の議  翁は其の蓄積ちくせきせる平素の抱負を発表し、宿志しゅくしの貫徹するは此の機会を逸して他に求むべからずとなし、常に皇道に志厚き学術に素養あるの士を選びて欧州に留学せしめ、専ら泰西の学術を研鑽せんことを熱心に主張せしかば、幸いに同会の議長たりし平山省斎しょうさい氏の深くるる所となり、議員の賛同を得てたちまち評議一決し、続いて神道事務局の裁許さいきょする所となり、当時英国に公使たりし森有礼ゆうれい氏は幸いに中教正おおとり雪爪せっす氏知友なるの縁故を以て、氏の尽力により、神道事務局より一名の留学生を渡英せしめ、留学中は駐英公使館に於てまかない方を引き受くる事を快諾されたるを以て、神道事務局にては、当時同局の生徒寮に在りし黒山くろやま久雄ひさをなるものを留学生に撰定し、留学資金三千円を供給し出発せしめしが、黒山は如何なる訳か横浜に於て行衛不明となり、折角の美挙も中止の止むを得ざるに至れり。
 当時の「開智新聞」紙上には、長沢翁と鍵谷龍雄氏の二名を以て更に留学生となすの急務なることを熱心に主張せしが、学資供給の道なきより、遺憾ながら実行する事あたわずして事止ことやみとなりたり。

○長沢翁の霊学研究の動機  翁は如何にもして其宿志しゅくしを貫徹せんとし、職務の余暇を以て英学をおさめ、又深く宇宙の原理を研究せんと欲せしより哲学史を読みて哲学の一班いっぺんを知り、ここ希臘ギリシャのアイラニック派のテールスより今日に到る上下二千年の間、有神説と無神説との総論ありていずれとも決定するあたわざるは、学術隆昌の現世紀に於いて遺憾のきわみなれば、いづれの方法を以てこのの決定を与えんことに苦心せしもの多年、かくて翁の研究は六箇年を経過せり。あたかも明治十八年旧薩藩の士 奈良原繁げんしげる氏静岡県に知事となり、同藩の硯学せきがく 本田九郎親徳ちかあつ翁を招聘しょうへいして、青年及び有志を薫養くんようせられたり。其時そのとき翁は両三回親徳翁に面会の後、一昼夜にわたりて『古事記』『日本書記』等の難題疑問を攻究こうきゅう激論し、ついに親徳翁に抵抗するあたわず、深く其の卓見博識に畏敬いけして、其の門下生と成るに至れり。

○故本田おうの人とり  翁は鹿児島に生まれ、幼時漢字と撃剣げっけんとを学び、十九歳にして藩を脱し水戸にいたり、会沢えさわ正志まさし翁の門に入り学ぶこと三年、その後もっぱ漢皇かんこうの学を研鑽けんさんし、其の他翁の学術としては百科にわたれり。翁は『古事記』『日本書紀』及び経書けいしょ等にいては多く古人の説を採らず、講説の七、八分は自説なりしが、其の説の卓抜たくばつにして識見の崇高なる天下並ぶ者なし。かつて故副島種臣たねをみ伯の深く志を皇道に抱きしものは、全く本田翁の説に服従せしに因る。伯は常に翁を偉人として尊仰し厚く敬意を払いつつあり。翁と伯との『真道問対』なるものありて、幽玄なる真理を推究すいきょう断案だんあんしたる卓論たくろん高説こうせつなり。しかれども翁の在世中之を公にするに至らざりしを以て、此書を知るものすくなきなり。

○本田翁が霊学研究の動機  翁は学術深遠にして玄妙けんみょうきわめし力より、必ず宇宙は霊的の作用にるものならんと推測せしに、あたかも翁が齢二十二歳にして京都に在るの時、市中説をなす者あり、十三歳の少女にきつね憑依ひょういく和歌をえいずと。おう思えらく、くのごとき事あるべし道理なし、しかれ共百聞ひゃくぶんは一見にかずと、いってその少女を視る折りしも、晩秋のこう時雨しぐれの降る頃なりき。翁は少女に向かい聞く、「汝には狐が憑依して和歌を詠ずと、はたたして然るか」と。少女はたちま相貌そうぼう変わりいわく、「如何いかなる題にても出せ」と。翁は「此庭前ていぜん紅葉の散り居る模様を詠ぜよ」と云いたるに、少女は立ちどころに筆を執りて、

 庭も世に 散るさへ惜しき もみぢ葉を
   打ちも果てよと 降る時雨しぐれかな

…と手跡てあとも見事に一片の短冊たんざくに書き終わりしかば、少女の相貌はただちに元のごとくなれり。の実験に翁は深く感嘆し、れいの人に憑依すること有るものなることを知れり。翁はその後之等これら霊的作用の研究に従事せしもの実に二十五年間にして、始めて神人感合しんじんかんごう即ち神懸かんがかりの術を研究し得たり。其の間翁の苦心焦慮しょうろは実に名状すべからず。或は深山に入り或は名祠に参籠さんろうする等千辛せんしん万苦ばんくついに神懸の術を知得せり。

○帰神・鎮魂の二法  神懸かんがかりには正神せいしん邪神じゃしんとありて、其の階級数百段なることを発見し、更に之を区別すべき審神者さにはの法を発明し、深く其の原理を究極きゅうきょくせり。また自己の霊魂を運転活動自在ならしむべき鎮魂ちんこんの法を発明せり。翁の学術の深遠しんえん洪博こうはくなるはうも更なるが、神懸・鎮魂の二法は千有余年間廃絶せしを再興さいこうせしものにて、実に当時学者として天下並ぶべき人物なかりしなり。おしかな、翁は深く期する所あり、秘して此の二術を伝えざるうち故人となりたるを以て、天下之を知る者かつてなく、王仁をには幸いに其端緒たんちょを修得するに至れり。



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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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