大本教開祖御傳記(1)

☆大本教の活歴史 百済くだら博士はかせ(出口王仁三郎)稿

 大日本修斎会しゅうさいかいが宣教する皇道だいほんきょうは、大正維新の聖代に最も適當てきとうしたる真の宗教である。同教の開祖はぐち なほって当年とって七十八歳の高齢であるが、なお生々しゃくしゃくとして壮年者も及ばない程の元気で、じつげつごとき教理を日夜淳々じゅんじゅんとしてまず屈せず、国家社会の為に唱導しょうどうして居らるるのである。開祖は元来の無学で眼に一丁字ていじも無かったのであるが、去る明治二十五年に突然と神人感合の妙境みょうきょうに入り給うて以来、わずかに平仮名をかいさるる事と成った。そして社会の出来事は何時も前日、いな数年前に維神いしんの筆をふるって予言し、百発百中ごうあやまられた事は無いのである。
 開祖は慈悲の権化ごんげともふべき御方であって、又如何いかなる艱苦かんくにも忍耐し得る特性を備えて居らるるのである。いずれも一つの宗教をおこす位な人は、異常の精神を持って居るものである。創開そうかい以来日なお浅きにもかかわらず、今日こんにち既に数百の教弟おしへごと数万の信徒をかぞふるに至ったのは、まったく開祖の壮厳なる人格の力と言わねばならぬ。開祖の無限の大慈悲心は、今日の国家社会に必要欠くべからざる真の宗教を造るに至った事を思えば、至誠しせいの力は実に不可思議な程伸張しんちょう発揮はっきするものと、感歎かんたんせざるを得ないのである。開祖の慈愛と一定不変・公明正大こうめいせいだいの行為と神力とは、かる大宗教を創立すべき充分の価値がある。宗教は理屈や学文では無いのだから、宗教の事柄に詳しい学者が必ずしも宗教家では無い。表面のみの宗教家やウソツキの神道家しんとうかは、今日は余り沢山たくさんに有り過ぎて困るのである。

 そもそも宗教の本領ほんりょうは洋の東西を問わず人種の異同いどうを論ぜず、地球上在りと所在あらゆる国土の人類は、貴賤きせん貧富ひんぷ男女なんにょ老幼ろうようを問わず、如何な悲惨な状態におちゐってる者でも之を救い上げて、安心せしめ立命せしめて、如何なる者にいても総ての方面に力をあたえ、社会の幸福 ける人民総ての幸福を進め、国家の実力を進めて種々天地に代わるの功用をあらはさねばならぬ。の功用をあらわすべき神変不測しんぺんふそくの惟神の道は、天地宇宙到る所に充満みちみちてあるのである。
 道とは「天地てんちち」と云う意義で、吾人ごじんの力すなわ真心まごころが天地に充ちて天地の神と一致すれば、絶對ぜったい広遠こうえんな働きが出来て大活動者だいかつどうしゃとなるのである。すなわち生きながら神とれるのである。西洋の誰やらが言ったように、何事も自己の脈搏みゃくはくの上にこころみられたもので無くては、千百の知解ちかいといえども屁一つの役にも立たぬ。大本教はどうだの、開祖はどうだのと一回の研究もないものが、到底大本教の真諦しんていあきらむる事は出来ぬのである。

 開祖は頭髪純白じゅんはくにして容顔ようがん麗美れいび あたかも玉のごとく、口をづれば威儀いぎ高く英姿えいしおのずから備わり、口をひらけば温柔おんじゅう相貌すぼう愛らしく、美言びげん美辞びじ一言いちけん一句いっく粗野のおもむく、其の眼元・口元よりあふるゝばかりの愛嬌あいきょうただもって、不知しらず不知しらずの間に世人せじんを引き付ける技倆ぎりょうが備わって居る。何人でも一度、面談したものは、終身しゅうしんその温容おんようを忘るる事が出来ぬのである。まったく開祖の大慈だいじ大悲だいひの真心が、人を心底より感動せしむるわけである。

 開祖は天保てんぽ七年(旧)十二月十六日を以て、丹波国たんばのくに福知山ふくちやま町一宮神社(※1)氏子うじことして降誕こうたんされたのである。同地の士族 桐村きりむら五郎ごろ三郎ざぶろうの長女で、家兄を清兵衛せいべえと云い、桐村家を相続せられた。開祖は二十歳の花も恥じらうと云う妙齢みょうれいの春は弥生やよいの十五日、綾部あやべあざ本宮ほんぐうつぼうちなる出口政五郎まさごろうと云う大匠だいくし、一家きわめてむつまじく三男五女をげられた。長男竹造たけぞう、二男を清吉せいきち、三男を伝吉でんきちと云い、亦長女をヨネ、二女をコト、三女をヒサ、四女をリョウ、五女をスミと云う。新斎主しんさいしゅ末子ばっしのスミ子が継承けいしょうして居るのである。

 政五郎は建築術に達した人で、何時ものみのこぎり丁能てのうとを手拭てぬぐいにくくり付けて作事場へ行くので、そのほかには道具一切いっさい所持せなかったと云う気楽な大工であった。元来、滑稽こっけい洒脱しゃだつにして家事には少しも頓着とんちゃく無く、金銭は得るに従って酒食に費消ひしょうするのみならず、祖先伝来の田畑も全部売り払って飲んでまった。或時あるとき破屋あばらやの改築してこれに住む事となった。一切紅柄染べにがらぬりかわらぶきであった。政五郎落成らくせい祝いにたわむれていわく、

稲荷いなりの様な家建てて すずは無けれどうちはガラガラ」

 貧困一家を襲うも少しも意に介さず、常に奇声を放っては大笑たいしょうし、怪姿かいしもてあそんでは顛倒てんとうし、人のあごを解き、諧謔かいぎゃく剽軽ひょうきん限り無く、酒の為には遂には紅柄の新宅までまたたく間にんで仕まった。政五郎またたわむこわきものは無し、家打ち込めど穴は塞がず」、或時また「隣家には餅搗もちつく音のきこゆれど我は青息つくばかりなり」。大酒はその身にたたりして明治十八年の二月八日、六十一歳を一期いちごとして冥土めいど黄泉こうせんの旅におもむいた。 開祖は時に五十二歳、八人の男女を教養すべき大責任は、婦人の一身にかかって来たのである。

 政五郎氏は酒毒しゅどくの為につい中風症ちゅうふうしょうに悩まされ、身体手足の自由を失い横臥おうかすること三年、開祖はごう倦怠けんたいの色無く、忠実に懇切こんせつに看護いたらざる無く郷里の模範もはんしょうされて居られた。政五郎氏は開祖の小商売こあきないいでらるる後姿を寝床より見送り、常に涙を流し合掌がっしょうして、現在の女房つまを神のごとうるわしき貞操みさをを感謝された。
 帰幽きゆうの当日、開祖及び八人の児を枕頭まくらべに呼び集め、永年間えいねんかん開祖のあつき看護と親切と貞操とを呉々くれぐれも感謝し、且又かつまた我が死せる後の開祖の心労の一層加わるきを思いては涙に声を曇らせ、また八人の愛児に対しては、「勤勉正直をもって其の身を立て、家を起こし、独立独歩必ず人の救助を受くることなかれ。父は誤って、一生を酔生すゐしょう夢死むしうちに過ごしたりといえども、汝等なんじらは必ず父の素行そこうを見習うこと無き様呉々くれぐれも頼みおく。我が亡き後は母も嘸々さぞさぞ心細く世を送るならん。汝等父の今のことばを肝に銘じて母に孝養こうようを尽くし、家名を汚さぬ様にせよ」とをしふる声も次第しだい々々に細り行きて、眠るが如く上天しょうてんせり。

 開祖は八人の児の教養を、婦人の身にことに貧困なる家庭の如何いかんともする事が出来なかったのである。されど男々をヽしき気性の開祖は、親族や村内の厄介になっては、将来八人の児の頭が上がらぬというて、健気にも金龍きんりゅう餅屋もちやを片手に小商こあきないをいとなみ、星をいただいて家を出て月を踏んで家に帰り、一刻の安楽ということが無かったのである。開祖の勤勉にってわずかに其の日の煙を細々ながら立てていられた。災厄はまでも開祖の家を呪うて、遂に最愛の長女ヨネ子は、大槻おほつき 鹿造しかぞうという西町にしまち白浪男しらなみおとこに奪取されてしまった。力と頼む娘はの通りにっても、親族や近隣も之を引き戻す挨拶をするものが無い。いづれも大槻の怒りに触れて後難こうなんを招く事を怖れたからである。大槻は強力ごうりき無法むほう博徒ばくと無頼漢ぶらいかんで手の附け様の無い人間、一方開祖は弱き婦人の身の如何ともする事は出来ぬ。かてて加えて生活の困難は日に夜に襲うて来るのみである。むを得ず涙をんで大槻の為すがままに任された。大槻は更に開祖に迫って三男の傳吉(伝吉)氏を、自分に児なきを口実とし、養子とさんことをしきりに強請ごうせいして止まない。開祖はこれも彼の言うがままに任されたのである。

 其の頃長男の竹造たけぞう氏は大工の修業の為に、沖村の吉之助という棟梁とうりょうの家に弟子として住み込んで居たが、我が家の貧困を苦にして、不覚にも髪剃かみそりを持って咽喉部のどべを突き切り、自殺をはかった。折りくも傷は急所をはづれてようやく九死の中に一生を採り留める事を得た。また一つは大工職が嫌いで在った。慈愛深き開祖は竹造氏の小心なるを憂い、任意の行動を取るべくを許された。竹造氏は法被はっぴ姿に頬冠ほほかむ草履履わらじばきのまま恋しき我が家を後にして、何処どこを当てとも無く出て行かれたきり、十七年の間一回の音信も無く、生死の程さえ不分明であった。弟妹の心配は一方ならず、折々おりおり竹造氏の身の上を思い浮かべては涙に日を送るのみであった。されど雄々しき開祖は、一回の愚痴ぐちも漏らされたことはなかった。開祖は斯道しどうに熱心の為に、平素最愛の我が児の上を忘却していられたからである。開祖は余り社会公共の為に心を注がれ、一点の私情も持たれなかった、到底凡俗の企及ききゅうし得ざる宗教界の英傑である。
 竹造氏は明治三十六年の五月五日の早朝飄然ひょうぜんとして元のごとく法被姿で帰って来た。社会の激風怒濤げきふうどとうに悩まされたる面影を残していた。開祖を始め家族一同は無事の帰国を非常に喜び、祝宴を開いて大神に感謝したのであった。

 開祖は次男の清吉せいきち氏と細々ながら製紙業を営み、わづかかに其の日の煙を立てて居られた。間もなく清吉氏は適齢に達し、えらまれて近衛隊このえたいに入営した。開祖はあたかも盲人の杖を落とした思いでむなくまた元の金龍餅を売る事とせられた。次男の琴子ことこは亀岡へ奉公へ出で、次で王子おうじの栗山家に嫁し、三女の久子ひさこも同じく八木やぎへ奉公に出て、同地の福島氏の室と成った。跡には四女の龍子りゅうこと末子の純子すみこと三人暮らしでる。開祖は小商いに出らるる朝毎に両女に向って、「機嫌く留守をせよ、必ず人の物に目を掛けてくれれるな。欲しい物あらば何なりと、母が金を儲けて買って上げるから」と、日々にちにち勤務の如くに訓戒された。家庭教育には充分の注意を払われたのである。時に姉は十歳、妹は七歳。



(※1)いっくう神社
○一宮神社(いっくうじんじゃ)京都府福知山市大字堀に鎮座。府社。おほなむちのみことを祀る。天田郡の一宮と称せられる。この地は天正年間あけひゅうのかみ〔 明智みつひで 〕の領地となりふくやまと称せられてより、累代の城主本社をもって鎮守とし、社殿その他の修補改築をなし、就中慶安年間入封した松平氏のすうけい深く、社殿を再建し、社領十五石を寄進し、次いで朽木氏の世となってもかわるところがなかった。社地は福知山城の南方に位し、土地高燥にして、樹木鬱葱うっそうと茂り、眺望またく、風致に富む。例祭日、十月二十一日。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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