大祓祝詞解説(2)-霊界物語より

☆大祓祝詞解説(2) 出口王仁三郎

天津罪あまつつみとは、はなち 溝埋みぞうめ、樋放ひはなち 頻蒔しおまき 串差くしざし、生剥いけはぎ 逆剥さかはぎ 尿戸くそへ 許々太久ここたくの罪を、 天津罪と詔別ことわけて、国津罪くにつつみとは、生膚断いきはだだち死膚断しにはだだち白人胡久美しらひとこくみおのが母をかせる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、けもの犯せる罪、昆虫はふむしわざわひ高津神たかつみの災、高津鳥たかつとりの災、畜殪けものたお蠱物まじものせる罪、許々太久ここたく罪出つみいでむ。

△天津罪  天然自然に賊与ふよせられたる水力、火力、電磁力、地物、砿物、山物、動植物等の利用開発を怠る罪をいふ。前にも言へる如く、いはゆる積んで置く罪、包んで置く罪也。宝の持腐れをやる罪也。従来は文明だの進歩だのと云った所が、まったく穿違はきちがいの文明進歩で一ツ調子が狂へばたちまち饑餓きがに苦しむやうなやり方、現在世界各国の四苦八苦の有様を見ても、人間がいかに天津罪を犯してゐるかが解る。神諭に『結構な田地に木苗を植たり、色々の花の苗を作りたり、大切な土地を要らぬ事に使ふたり致し、人民の肝腎の生命の親の米、豆、粟を何とも思はず、米や豆や麦は何程でも外国から買へると申して居るが、いつまでもさう行かぬ事があるから猫の居る場にも五穀を植付けねばならぬやうになりて来るぞよ。皆物質本位の教であるから、神の国には神国の世の行方に致さして、モーぼつぼつと木苗も掘り起させるぞよ』 (※1)とあるなどは実に痛切骨に徹する御訓戒である。現在の神国人とても欧米人と同じく決して天津罪人の数には漏れぬ人間ばかりである。採鉱事業などになると今の人間は余程進歩してゐる所存でおるが、試掘と分析位で地底に埋没せる金銀宝玉等が出るものではない。これに比べると、幾分霊覚を加味した佐藤信淵の金気観測法などの方がどれだけか進歩してゐる。神霊の御命令と御指示がなくんば、金銀その他は決して出ない。大本神諭に五六七みろくの大神の御出ましにお成なさるるにつき、国常立尊が現はれるなり、国常立尊が現はれると、(竜宮の)乙姫殿は次ぎに結構な大望な御用が出来て乙姫殿の御宝を上げて新規の金銀を綾部の大本に………。二度目の立替を致して、何も新規になるのであるから、乙姫殿の御財宝を綾部の大本へ持運びて、新規の金銀を吹く準備を致さなならぬから云々』 (※2)とあるなどは時節到来とともに実現して、物質万能機械一点張りの連中を瞠苦どうくたらしむ事柄なのである。

また現在人士は電力、火力、水力、その他の利用にかけて余程発達進歩を遂げた心算で居るが、一歩高所から達観すると、利用どころか悪用ばかり間接または直接に人類の破滅、天然の破壊に使用されぬものが、いくつかある。是等の点にかけて現在の人士は、いはゆる知識階級、学者階級ほど血迷ひ切ってゐる、天津罪の犯罪者である。

☆「日本の古社 『伏見稲荷大社』 」(淡交社、2004年)14ページ 岡野弘彦「神々の物語」より
幾度か伏見稲荷山をめぐって、参拝者の熱心な祈りの姿に接しているうちに、私の心に理解せられてきたのはそういうことであった。そしてさらにいえば、私の子供のころ、内務省の国家神道に統一しようと仕向ける統制がそれほど窮屈でなかった時期、農家の主人達が神前で昔風な「大祓の祝詞」をあげ、拝殿の床に用意してきた小さな蝋燭やときに線香まで立てて、老人のなかには「般若心経」をとなえたりした、私の郷里の神社の講社の参拝を思い出させてくれる情景に出会えたことである。
神前で大祓の祝詞をとなえるときには、「天津罪と……」「国津罪と……」と、罪の条々をひとつひとつ数え上げて、自分の身を犯しかえりみながら唱えるのが、『延喜式』に定められた古いかたちであり、近代にいたるまでそれは崩れることなく守られていた。ところが大陸に戦火が拡大してしばらくたったころ、突然に内務省の神社局から各神社に通達があって、神前で大祓の祝詞をとなえるときには、ただ「天津罪・国津罪成りいでむ」と言って、その罪のひとつひとつをとなえることはやめるようにという指示があった。詳細な説明は何もなかったが、理由は簡単である。国津罪のなかに「生き肌断ち・死に肌断ち」の項目があって、戦場で兵隊たちが命令によってその罪を連日犯しているのに、その行為が日本人の古来からの罪障感に反するというのでは、考えの単純な為政者や軍人にとっては都合が悪かったのだろう。思えば浅はかな軍国下の宗教心の統制であった。そういう末梢的な統制が、日本人の伝統的な心のエネルギーを消失させ、敗戦に至らせたのであった。伏見稲荷山のお山めぐりをして、額に流れる汗を拭いつつ、累々と山肌をうずめつくしておし並ぶお塚を見つめながら、ふつふつと身の内に湧いてくる、祖(おや)の世の、そのまた先の祖の世の、宗教心のときめきを私は感じていた。(引用おわり)

△畔放ち  天然力、自然力の開発利用の事。畔(ア)は当字にてアメを約めたもの也。田のあぜを開つなどは単に表面の字義に囚はれたる卑近の解釈である(※3)
△溝埋め  水力の利用を指す。「埋め」には補足の義と生育の義とを包む。湯に水をうめる、根を土中にうめる、種子を地にうめる、孔をうめる、鶏が卵をうむなど参考すべし。
△樋放ち  樋は火也。電気、磁気、蒸気、光力等天然の火力の開発利用を指す。
△頻蒔き  山の奥までも耕作し不毛の地所などを作らぬ事。しき(シキ)は、敷地のシキ也、地所也。きは捲き也、捲き収める也、席巻也、遊ばせて置かぬ也、遊猟地や、クリケツト、グラウンドなどに広大なる地所を遊ばせて、貴族風を吹かせて、傲然たりし某国(現代追記:イギリスの事と思われる)の現状は、はたして如何。彼等が世界の土地を横領せる事の大なりしだけ、彼等が頻蒔しほまきの天則を無視せる罪悪もけだし世界随一であらう。しかしその覚醒の時もモー接近した、これではならぬと衷心ちゅうしんから悟る時はモー目前にある。イヤ半分はモーその時期が到着してゐる。しかしこれは程度の差違だけで、その罪は各国とも皆犯してゐる。
△串差し  カクシサガシの約にて、前人未発の秘奥を発見する事。
△生剥ぎ  一般の生物の天職を開発利用する事。生物といふ生物は悉く相当の本務のあるもので、軽重大小の差異こそあれそれぞれ役目がある。鼠でも天井に棲みて人間に害を与ふる恙虫つつがむしなどを殺すので、絶対的有害無効の動物ではない。剥ぎは開く義、発揮せしむる義也。「蚕をはぐ」などを参考。
△逆剥  逆(サカ)は、栄えのサカなり。酒などもこの「栄え」の意義から発生した語である。はぎは生剥の剥と同じく開発の義。即ち全体の義は栄え開く事で、廃物をも利用し荒野の地を開墾し、豊満美麗の楽天地を現出せしむる事を指す。
△尿戸  宇宙一切を整頓し、開発する義。クは組織経綸、ソは揃へる事、整頓する事、へは開発する事。
△許々太久  その他種々雑多の義。
△天津罪と詔別て  以上列挙せる天然力、自然物の利用開発を怠る事を、天津罪と教へ給ふ義也。
△国津罪  天賦の国の徳、人の徳を傷つくる罪を指す。
△生膚断  天賦の徳性を保ち居る活物の皮膚を切ること也。必要も無きに動物を害傷し、竹木を濫伐する事等は矢張罪悪である。霊気充満せる肉体に外科手術を施さずとも、立派に治癒する天賦の性能を有してゐる。人工的に切断したり切開したりするのは天則違反で、いたずらに人体毀損の罪を積ぬる訳になる。
△死膚断  刃物を以て生物一切を殺す罪。
△白人胡久美  白昼姦淫の事。白日床組といふ醜穢文字を避け、わざと当字を用ひたのである。淫欲は獣肉嗜好人種に随伴せる特徴で、支那、欧米の人士は概してこの方面の弊害が多い。日本人も明治に入つてから大分その影響を受けてゐるが、元来はこの点においては世界中で最も淡白な人種である。淫慾の結果は肺病となり、また癩病(ライ病)となる故に(※4)、白人胡久美を第二義に解釈すれば白人は肺病患者、または白癩疾者(※5)を指し、胡久美は黒癩疾者を指す。
△己が母犯せる罪  母の一字は、父、祖先、祖神等をも包含し、極めて広義を有するのである。大体において親といふごとし。犯すとはその本来の権能を無視する義也。換言すれば親、祖先、祖神に対して不孝の罪を重ぬる事である。
△己が子犯せる罪  自己の子孫の権能を無視し、非道の虐待酷使を敢てする事。元来自分の子も、実は神からの預かり物で、人間が勝手にこれを取扱ふ事は出来ない。それに矢鱈に親風を吹かせ、娘や伜(せがれ)などを自己の食ひ物にして顧みぬなどは甚だしき罪悪といふべきである。
△母と子と犯せる罪、子と母と云々  上の二句『己が母犯せる罪、己が子犯せる罪』を更に畳句として繰返せるまでで別に意義はない。
△畜犯せる罪  獣類の天賦の徳性を無視し、酷待したり、殺生したりする事(注:闘牛など)。
△昆虫の災  天則違反の罪をいふ。蝮(まむし)、ムカデなどに刺されるのは皆偶然にあらず、犯せる罪があるにより天罰として刺されるのである。故にかかる場合には直に反省し、悔悟し、謹慎して、神様にお詫を申し上ぐべきである。
△高津神の災  天災、地変、気候、風力等の不順は皆これ高津神の業にして罪過の甚い所に起るのである。災(わざわひ)は「業はひ」也、所為也。鬼神から主観的に観ればひとつの所為であるが、人間から客観的に観れば災難である。今度の国祖の大立替に、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、その他八百万の眷属を使はるるのも祝詞のいはゆる高津神の災である。皆世界の守護神、人民の堕落が招ける神罰である。
△高津鳥の災  鳥(注:昆虫害も含む)が穀物を荒す事などを指すので矢張り神罰である。
△畜殪し  他家の牛馬鶏豚等を斃死せしむる事。一種のマジナヒ也。
△蠱物  呪咀也、マジナヒ物也。丑の時参りだの、生木に釘を打つだのは皆罪悪である。

(大意)人間は神の容器として宇内経綸の天職がある。殊に日本人の使命は重大を極め世界の安否、時運の興廃、悉くその責任は日本人にかかわるのである。神諭に『日本は神の初発しょっぱなにこしらへた国、元の祖国おやぐにであるから、世界中を守護する役目であるぞよ。日本神国の人民なら、チトは神の心も推量致して、身魂を磨いて世界の御用に立ちて下されよ』 (※7)とある通り、天賦の霊魂を磨き、天下独特の霊智霊覚によりて、天然造化力の利用開発に努めると同時に、他方においては天賦の国の徳、人の徳を発揮することに努め、そして立派な模範を世界中に示さねばならぬのである。しかるに実際は大にこれに反し、いたずらに物質文明の糟粕そうはくをなめ、罪の上に罪を重ねて現在見るが如き世界の大擾乱となつて来た。無論日本人はこの責任を免るる事は出来ない。しかしこれは天地創造の際からの約束で、進化の道程として、けだしまぬがれがたき事柄には相違ない。さればこの祝詞の中に『許々太久の罪出む』とあり、また国祖の大本神諭にも『こうなるのは世の元から分つてゐる』 (※8)と仰せられてゐる。要するに過去の事は今更悔むには及ばぬ。吾々は現在及び将来に向って、いかなる態度をとり、いかなる処置を講ずればよいかを考究すべきである。次節にその要道を示されて居る。


如此かくでば、天津宮言あまつみやごともちて、天津金木あまつかねぎ本打切もとうちきり 末打断すえうちたてて、千座ちくら置座おきくら置足おきたらはして、天津菅曾あまつすがそ本苅絶もとかりたち末苅切すえかりきりて、八針やはり取裂とりさきて天津祝詞あまつのりと太祝詞言ふとのりとごと
如此かくらば、天津神はあめ磐戸いわと推披来おしひらきて、あめ八重雲やへぐも伊頭いず千別ちわき千別ちわき所聞召きこしめさむ。国津神くにつかみ高山たかやますえ短山へきやまの末に登りまして、高山の伊保理いぼり短山へきやまの伊保理を掻分かきわけて所聞召む。』


△天津宮言  宮言は『ミヤビノコトバ』の義也。正しき言霊也。宇宙の経綸は言霊の力によりて行はるる事は、前にも述べた。我天孫民族は世界の経綸を行ひ、天下を太平に治むべき、重大なる使命を帯びてゐる。しかるに現在は肝腎の日本人が、霊主体従の天則を誤り天津罪、国津罪、数々の罪を重ねて、その結果世界の大擾乱を来してゐる。これを修祓し、整理するの途は、言霊をただし、大宇宙と同化するが根本である(※9)。換言すれば、肚の内部から芥塵を一掃し、心身ともに浄化して、常に善言美詞のみを発するやうにせねばならぬ。悪声を放ち蔭口をききまたは追従軽薄を並べるやうな人間はそれだけでその人格の下劣邪悪な事が分る。世界の経綸どころか人として次の新理想時代に生存すべき資格の有無さへ疑問である。日夕祝詞を奏上しても、こんな肝要至極の点が、さつぱり実行が出来ぬでは仕方がない。お互に反省の上にも反省を加へねばならぬ事と思ふ。

△天津金木  すなわち神算木(かなぎ)也。周易の算木(さんぎ)に相当するものであるが、より以上に神聖で正確である。本来は長さ二尺の四寸角の檜材ひのきざいなのであるが、運用の便宜上、長さ二寸の四分角に縮製さる。その数三十二本を並べて、十六結を作製し、その象を観て、天地の経綸、人道政事一切の得失興廃等を察するのである。それは宇内統治の主が大事に際して運用すべきもので、普通人民が矢鱈やたらに吉凶禍福などを卜(ぼく)するに使用すべきものではない。無意無心の器物を用ゐて神勅を受くるのであるから、ややもすれば肉体心の加味し勝ちな普通の神憑りよりも、一倍正確な事は云ふまでもない。
△本打切末打断  神算木を直方形に作製する仕方を述べたまでである。
△千座の置座云々  無数の神算木台に後からズンズン置き並べる事。
△天津菅曾  周易の筮竹(ぜいちく)に相当するがその数は七十五本である。これは七十五声を代表するのである。長さは一尺乃至一尺二寸、菅曾は俗称『ミソハギ』と称する灌木、茎細長にして三四尺に達す。これを本と末とを切り揃へて使用する也。
△八針に取裂て  天津菅曾の運用法は先づ総数七十五本を二分し、それから八本づつ取り減らしその残数によりて神算木を配列するのである。
△天津祝詞の太祝詞  すなわち御禊祓(みそぎはらい)の祝詞の事で、正式に奏上する場合にはここで天津祝詞を奏上するのである。大体において述べると、あの祝詞は天地間一切の大修祓を、天神地祇てんしんちぎに向つて命ぜらるる重大な祝詞である。太(フト)は美称で、繰返して、天津祝詞を称へたまでである。
△宣れ  神に向つて願事を奏上するの義也。
△天の磐戸  天津神のまします宮門から御出動の義にて、人格的に写し出せるのである。
△伊頭の千別き云々  伊頭は稜威也。即ち鋭き勢を以て道を別けに別けの義。
△国津神  地の神界に属する神々、及び霊魂の神を以て成立し、各自の霊的階級に応じて大小高下、それぞれの分担権限を有す。
△高山の末云々  末は頂上の義。
△伊保理  隠棲也、隠れたる也。伊保理の伊保も、いぶかしの「いぶ」も、烟などの「いぶる」も、皆通音で同意義である。

(大意)天津罪、国津罪の続発は悲しむべき不祥事ではあるが、出来た上は致方がない。よく治乱興廃、得失存亡の理を明かにし、そして整理修祓の法を講ぜねばならぬ。世界主宰の大君としては、天津金木を運用して宇内の現勢を察知し(※10)、そして正しき言霊を活用して天津祝詞を「天津神と国津神」(※11)とに宣り伝へて、その活動を促すべきである。これが根本の祭事であると同時に、また根本の政事であつて、祭と政とは決して別途に出るものではない。さうすると、天津神も国津神もよくこれに応じて威力を発揮せられる。神諭のいはゆる罪穢めぐりのひどい所には、それぞれの懲罰いましめがある』 (※12)または『地震、雷、火の雨降らして体主霊従からをつぶす』 (※13)といふやうな神力の発動ともなるのである。

(※1)
「明治36年旧11月9日」
結構な田地に木苗を植たり、色々の花の苗を作りたり、大切な土地を要らぬ事に使ふたり致し人民の肝腎の生命の親の米、豆、粟を何とも思はず、米や豆や麦は何程でも外国から買へると申して居るが、いつまでもさう行かぬ事があるから猫の居る場にも五穀を植付けねばならぬやうになりて来るぞよ。皆物質本位の教であるから、神の国には神国の世の行方に致さして、モーぼつぼつと木苗も掘り起させるぞよ。

「大正6年旧11月23日」
日本の国だけでも是丈持余しておりて、他の国の事ども構ひ立する暇は有りもせむのに、肝腎(心)の足元は、よい加減な事に致しておいて、「終(しまい)には共倒れに成る」と云ふ事に気の附かむ様な明盲であるから、○○の国は一日増しに押詰りて来て、食物は段々と欠乏(ひっぱく)になるなり。菜の葉一枚でも大切な事に、今に成りて来るぞよ。何程金を貯て歓んで居りても、正可(まさか)の時には金銀では生命が継げんぞよ。百万円の金よりも、一握のお米(よね)の方が大切な世が廻りて来て、明治25年から毎度筆先で知らしてあるやうに、田地に植込みて喜びて居りた桑迄も、掘(堀)起さな成らん事に成りて来るが、人民と申す者は近慾で、近眼で、真(誠)の神の申す事は判らんぞよ。

(※2)
「大正5年旧5月14日」
天照大神月読神(みろくさま)の御出ましに御成なさるに就いて、大国常立尊が現はれるなり。大国常立尊が現はれると、乙姫殿は次ぎに結構な大望な御用が出来て、乙姫殿の御宝を上げて、新(さら)つの金銀を綾部の大本に、二度目の世の立替を致して、何も新つに成るのであるから、乙姫殿の御財宝を、綾部の大本へ持運びて、新つの金銀を吹く準備を致さな成らんから、立替の中で後の立直しの、大事の乙姫どのの御宝に光りを出して、変性男子の霊魂と、大国常立尊の霊魂が一つに成りて、その御宝は畏れ多くも天照皇大神宮殿と、玉水(たますい)の乙姫どののお両方が、○○の大神と現はれて、御受取申してあるのじやぞよ。

(※3)
「大正8年3月11日」
日本は豊葦原の中津国と申して、世の本の誠の天地の先祖が、初発に創造いたした結構な元の神国であるから、この神国に生れた人民は、外国の人民よりは一層勝(すぐ)れた身魂が授けてあるなれど、世界が段々と降るに連れて、肝心の元の因縁を忘れてしまふて、今では外国人と同じやうな身魂に化り切て、後も前も解らぬ惨い状態に世が曇りて居るなれど、日本の人民に我天職が判る者が無いから、物質上の発明は皆外国人の専有物の如うに思ひ、外国ほど文明な国は無いと、大変に崇敬致して居るが、それが八尾八頭(やうわうやがしら)の身魂に誑(たぶら)かされて居るので在るから、日本の人民も良い加減に眼を覚すがよかろうぞよ。日本には外国人の末代かかりて考へても、何れ程骨を折りても真似の出来ぬ立派な教があるから、日本人の身魂が研けて水晶に立復りたら、ドンナ事でも神力で発明が出来るのであるぞよ。延喜式の祝詞にも『天放ち水素利用(みぞうめ)、電気火力応用(ひはなち)全土開拓(しきまき)云々』と申して、天地を自由自在に開拓経綸いたす神業が現はして在るなれど、日本の人民の心が汚れ、言霊が曇りてしまふて居るから、枝の国の真似も出来ぬやうになりてしまふたので在るぞよ。

(※4)
○「祖先の罪」 水鏡
祖先の罪が人間に及ぶと云ふのは体的である、癩病の如き又肺病の如きがそれである。

○「癩病と肺病は天刑病」 水鏡
癩病、肺病共に体の組織が破壊される病であって、どちらとも天刑病である。癩病は外部に起る天刑病、肺病は内部に起る天刑病である。普通では中々癒らぬ。余程深い信仰に入らねばいかぬ。「云うて聞かせてやりたいけれど、今の人間は欲に呆けて居るから、取違ひをするから」とて、教祖様(出口ナオ開祖)もとうとう平癒の方法を示されなかった。

○白山菊理媛と伊邪那美命
金井南龍 ですから、白山菊理姫の顕彰もありましょうが、またイザナミを…実はね、菊理姫を裏返せはイザナミになるんです。
武田 えっ、これはまたややこしい。
金井 神というのは、何度も言うようですが、一人称的なものと考えては理解できません。神は変化するのです。菊理姫の裏変化がイザナミ…で、そのイザナミは目下のところ、黄泉の国に押し籠められて、黒髪大神になっているんです。
米津 群馬県の榛名山系、これのいちばん高い山が相馬山ですが、その頂上に黒髪大神というのが祀られている。
金井 ええ、私は、その相馬山の頂上で、会員を引きつれてお籠りし、黒髪大神の霊姿を拝見いたんです。「天刑の病あれるは母神を 根の根の底におしこめしより // とがりたる 嶺より落つる黒髪の しづくは凝りて朽ち果てるかも」 これは、そのときに詠んだ歌です。天刑の病、つまり癩病というのは、母神であるイザナミを根の底に押籠めたために発生したもので、癩病発生は必ずと言ってよいほど、尖った嶺の山麓に関係あるんです。
筑糸 まぁ、押し籠められたイザナミにしてみれば、癩病製造人になりたい気持ちは察せられますね。
金井 そうなんです。
筑糸 やはり、イザナミをちゃんと母神として顕彰せねばかんね、これは。

(※5)
○旧約聖書「出エジプト記」第4章
モーセは(主=ヤハウェ=国常立尊様に)言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。主は彼に言われた、「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「杖です」。また言われた、「それを地に投げなさい」。彼がそれを地に投げると、蛇(ヘビ)になったので、モーセはその前から身を避けた。主はモーセに言われた、「あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。」そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかで杖となった。「これは、彼らの先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたに現れたのを、彼らに信じさせるためである」。
主はまた彼に言われた、「あなたの手を懐に入れなさい」。彼が手をふところに入れ、それを出すと、手は、癩病にかかって、雪のように白くなっていた。主は言われた、「手を懐にもどしなさい」。彼は手をふところにもどし、それをふところから出して見ると、回復して、もとの肉のようになっていた。主は言われた、「彼らがもしあなたを信ぜず、また初めのしるしを認めないならば、後のしるしは信じるであろう。彼らがもしこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声に聞き従わないならば、あなたはナイル川の水を取って、かわいた地に注ぎなさい。あなたがナイル川から取った水は、かわいた地で血となるであろう」。

(※6)
○「輪廻転生」 月鏡
凡そ天地間の生物は、輪廻転生の法則を辿らないものは無い。蚕が蛹となり孵化して蝶となり産卵するのも、ガット虫が蛹となり、糞虫が孵化して蝿となり、瀬虫が孵化して蜻蛉となり、豌豆が蛹となり羽を生して空中をかけり、麦が蝶と変じ、米は穀象虫と変化し、栗の木から栗虫が沸き、椢のあまはだから甲虫が発生する等は、いづれも輪廻転生の道をたどって居るのである。
或老人の話に、田舎寺の高い梁の上に雀が巣を組んで雛をかへしてゐたところ、蛇が其雛を呑まんとして、寺の柱を這ひ上り、巣に近よらんとして、地上に転落し、庭石に頭をぶつつけて脆くも死んで仕舞った。それを寺男が、竹の先に挟んで裏の竹藪へ捨ておいた。四五日経って、雀の雛がけたたましく鳴き叫ぶので、寺男が訝り乍ら近よつて調べて見ると、数万の赤蟻が列をなし、柱から屋根裏を伝うて雀の巣に入り、雛の体をとりまいてゐる。蟻の列を辿つて行って見ると裏の藪の中に、縄を渡した様に赤蟻が続いて居た。その出発点をしらべて見ると、四五日以前に捨てた蛇の死骸が残らず赤蟻に変化してゐたといふ。執念深い蛇の魂が凝り固まって赤蟻と変じ、生前の目的を達せんとしたのである。実に恐ろしいものは魂のはたらきである。
またその爺さんの話に……或夕暮、鼬(イタチ)と蟇(ガマ)とが睨み合って居たが、ガマは三四間もある距離から、鼬の血を残らず吸ひ取って仕舞ったので鼬はその場に斃れて仕舞った。さうすると、ガマの奴のそりのそりと鼬の死骸の傍へ這ひ寄って、足を咥へ雑草の中へ隠して仕舞った。それから四五日経つと、鼬の死骸が残らず蛆となって居た。それを執念深いガマの奴、又もやのそりのそりと夕暮近く這ひよって、一匹も残らず、その蛆をぱくついて仕舞ったと言ふ。
斯くの如く生あるものは必ず転生し、且つその魂は恐るべき魔力を持つて居る事が悟られる。いわんや人間の霊魂に於ては、一層その力が発揮され、輪廻転生の道を辿って、或は蛇と変じ牛馬となり、犬猫となり生前の恨みを報いんとする恐ろしきものである。
犬に噛まれたり、馬に蹴られたり、牛に突かれたりして、命を捨つる者、皆それぞれの恨まるベき原因を持って居るので、自業自得と言ふべきである。
神様は愛善の徳に満ち給ふが故に、如何なる悪人と雖も罪し給ふ様なことはないが、人間の怨霊位恐ろしいものは無い。故に人間は人間に対し、仮にも恨まれる様な事はしてならぬ。どこまでも愛と善とを以て地上一切に対すべきである。人間の怨霊が、猛獣毒蛇となり、その人に仇を報いたり、或は牛となって恨みの人を突き殺したりして、禍を加ふるのであつて、神様が直接に罰を蒙らせらるる様な事は全然ないものである。仁慈無限の神様は、総ての人間が、私利私欲の念より相争ひ、相殺し、恨み恨まれ修羅、餓鬼、畜生道に堕行く惨状を憐れみ給うて、至善至愛の惟神の大道を智慧暗き人間に諭してその苦しみを救はんが為に、神柱をこの地上に降し、誠の道を説かせ給ふのであって、実に有難き大御心である。(現代注:祝詞、善言美詞も参照されたい)

(※7)
「大正5年旧11月8日」
日本は神の初発(しょっぱな)に修理(こしら)へた国、元の祖国(おやぐに)であるから、世界中を守護する役目であるぞよ。世界の難儀(義)を助けてやらねば、神国の役目が済まんから、日本の国の人民を一番先きに神心に捩じ直して、外国人まで一人も残らず神心に復えてやらねば、日本の神と人民の役が済まんので、天の大神様へ日々艮の金神が御詫を致して、世の立替を延して貰ふて、世界に一人でも多くの日本魂に致したさに、神は昼夜の気苦労を致して居るから、日本国の人民なら、チトは神の心も推量致して、身魂を磨いて世界の御用に立ちて下されよ。

(※8)
「大正4年旧5月13日」
天の根本の御先祖様の思(おもひ)を致さずに、「地の先祖のやり方が、余りに烈しい」と申して、徒党なされた初発の彌勒様の附き附きの守護神に、大きな目的がありた故に、太初(むかし)から世がこう堕落(なる)ことがよく判りて居りて、世に落とされるのもこれも時節である。元を吟味せば元は一ツじゃ。こういふ世に致すのも、霊魂の性来で、力一杯気張て、これだけ、「悪じゃ、鬼じゃ、大蛇じゃ」と、いやがられたものでも、改心といふものは結構なものであるぞよ。

(※9)
○「天津祝詞と五大父音」 玉鏡(昭8/10)
宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。

(※10)
○「易」 月鏡(昭5/1)
孔子の教は現世的のものであるが、晩年に至りて孔子自身も甚だ物足りなくなって、天に問ふやうになった。周易即ちこれである。孔子が易によりて方針を定める様になった事は、即ち宗教心が出来たので、周易をこしらへた事に依って、孔子の名は残ったのであつて、之なかりせば孔子といふものは残っては居まい。天津金木は七十五声の運用であり、天津菅曽は七十五本を運用して天意を伺ふのである。易は五十本の中一本をぬき四十九本の運用であって二十六本だけ足らぬ訳である。但し、金木にしろ周易にしろ過渡時代の物で神代の遺物としてのみ価値あるものである。今は皆肉の宮に納まって居るから、その必要はないのである。

(※11)
○「天津神と国津神」 玉鏡(昭6/4)
天津神と申すのは、現世で例へて云へば、官につかへたるもの、天皇陛下の臣、宰相、大臣、地方官、貴族院議員といったやうなもので、天照大御神様に従って、天から降られた神様のことである。だから大祓祝詞にも「天津神は天の磐戸を推披きて、天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて所聞召さむ」とある。又国津神といふのは、自治団体の代表、国民の代表、衆議院議員などに匹敵するもので、国に居った神、即ち土着の神様である。祝詞に「国津神は高山の末短山の末に上り坐して、高山の伊保理短山の伊保理を掻分けて所聞召さむ云々」の詞が証明して居る。八王八頭は皆、山に居を占めて居られたのである。

(※12)
「明治…年…月…日」
世界は今が罪穢の借銭済であるから、「罪穢のひどい処程、きびしき戒があるぞよ」と申して知らしてあるが、この世界は後にも前にも無いみせしめが出て来るぞよ。

「明治35年旧4月3日」
世に出て御座る御方に、チツト激しき神様ばかりが表に顕れなさると、世界は激しくなるから、そこに成ると、世界の罪穢が皆判りて来るから、各自(めいめい)の罪科の有る事は判らんから、未だ未だ神を恨めるものが多数(たっぴつ)出て来るぞよ。

「大正4年旧5月4日」
明治25年から、口と手とで知らしてある実地の事件(こと)が、世界の片端(はし)から、浜辺から始めるぞよ。国常立命の次に、乙姫殿の御用といふ事が、お筆先で知らしてあるが、筆先通りに出現来(でてく)るぞよ。遠国から始めて、段々外国は甚い事があるぞよ。明治27年の7月に、激烈い御筆先が書かしてあるが、外国の罪穢の甚い所には、惨烈い事があるぞよ。今度二度目の世の立替は、国の借銭、所々の身魂の借銭済であるから、身魂が悪い働きをして居る国土から、借銭済しを始めるぞよ。遠地近地(とほくちかく)の区別(へだて)は無い。罪穢の多大(ひど)い所には惨烈い事があるから、遠地から始まりて、段々近所へあり出すから、「近所は無い」と油断はチツとも成らんぞよ。国々、所々、家々に、身魂に借銭の有る丈の事は、何でなりと借銭を皆済(すま)してもらはねば、世の元の荒神の御揃になりて御守護があり出すと、中々世界の混雑と成るから、大峠と成る迄に改心を致して、身魂を磨いて居らんと、大峠越すのが辛いぞよ。

「大正4年旧6月11日」
「罪穢の甚深い所には、甚大い借銭がある由って、厳酷い審判があるぞよ」と申して知らしてあらうがナ。

「大正6年正月23日」
世界に罪悪の多い国には、それ丈けの戒めがビシビシと出て来るから、出口直に、モウ一度細々とある処を申してやるぞよ。筆先に書いて知らしてあるぞよ。何事も前つ前つに、くどう知らして気を附けてあるから、世界から何事が出来て来ても、神と直の落度はモウあろまい。不足のある守護神は、蔭でゴテゴテ小言を申さずに、綾部の大本へ出て来て、何なりと問ひたき事があるなら、平たう説いて聞かせるから、大本で膝を突合はして、御話を為たり聞いたり致して、打解けてしまはんと、実地まことの仕組は、解りかけが致さんぞよ……。

「大正6年旧5月6日」
明治25年から筆先に出してある事は、世界中の事であるから、彼方(あちら)此方(こちら)に致さんと、こんな事が一度にありたら、どう仕様も成らん様に成るから、彼方や此方に罪穢の烈い処には、それ丈の罪穢の借銭であるから、可成(なるべく)は大難を小難に致して、借銭済をしてしまはんと、身魂が罪穢を負ふて居ると、何一つ思ふ様には行んぞよ。今の人民は、自己に罪穢のある事をチツトも知らずに居るから、天地の先祖は、「この肉体に守護している霊魂には、こういふ罪穢を負ふて居る」といふ事を、明白(ありやか)に知りて居るから、何程かくしても、どれほど甘(うま)い弁解を致しても、神の目は眩ます事は出来んぞよ。

「大正6年旧11月23日」
「日本の人民も大きな取違を致して居る」と、毎度筆先で書かして知らしてあるが、その大間違の判る時節が参りて来たぞよ。余り一度に何彼の事が判りて来て、逆立にに成ってヌタクラ成らん如うになりてきたぞよ。神が一度申した事は、何事に由らず皆世界から出て来るから、一日も早く改心を致すやうに、日々に続いて知らして遣りたなれど、今に真(誠)に致さん故に、何彼の時節が九分九厘となりて来て、善悪の立て分けを致さな成らんから、彼方にも、此方にも、足元にも、何から始るやら、人民には見当が取れん事になるぞよ。四ツ足の覇張りた事を天晴れと露はして、末代の記録に残すから、ここへ成る迄に、「身魂を磨いて置け」と申して知らしたなれど、真(誠)に致して聞く身魂が無いから、是からは罪穢のある処には、罪過(めぐり)だけの借銭済を致さすのであるぞよ。どこも恨める所は無いぞよ。自分の身魂を恨めるより仕様は無いぞよ。

「大正7年旧正月12日」
昔から露国へ上がりておりた悪神の頭目(かしら)が、モ一つ向うの国(独逸)へ渡りて、人民の頭を自由自在に、我れの思惑どほりに悪を働き、世界中の大困難を構はず、何処までも暴れて暴れて暴れまわして世界を苦しめ、又た露国を自由に致して我れの手下に附けて、今に日本へ攻めて来る経綸を致しておるが、そんな事にビクつく如うな日本の守護神、人民でありたら、日本は到底続きは致さんぞよ。是から神が蔭から手伝ふて日本の軍隊(いくさ)に神力を附て与るから、今度は大丈夫であれども、向ふの国同士が、「戦争は到底かなはん」と申して、何い加減な事で仲直りを致して、一腹に成って、今度は日本へ押詰て来るから、日本の守護神も人民も腹帯をしめて掛らな、「万古末代取返しの出来ん事になるぞよ」と申して、明治25年から出口直の手をかり口をかりて知らして置いた事の、実地が迫りて来たぞよ。外国は悪が強いから、ドコ迄も執念深う目的の立つ迄行り通すなれど、九分九厘と云ふ所まで来た折に、三千年の神が経綸の奥の手を出して、外国を往生いたさすので在るから、日本は大丈夫であれども、罪穢(めぐり)の深い処には、罪穢の借銭済しが在るから、今の中の改心をいたさんと、日本にも酷しき懲罰が天地から在るぞよ。
霊主体従主義(ひのもと)の行り方で末代の世が立つか、体主霊従(から)の施政方針(やりかた)で世が末代続くか、今度は善と悪との力量比較(ちからくらべ)であるから、勝ちた方へ末代従うて来ねばならんぞよ。それで神界は、茲まで煉りに煉りたので在るぞよ。

(※13)
「大正6年旧11月23日」
この大本へ立ち寄る誠の人は、明治25年から、昼夜に出口直に書かしてある筆先を調べて下されよ。「一分一厘間違は無い」と申すことが、何程疑の強い人民でも判りて来るぞよ。それで改心の出来ぬやうな人民は、気の毒でも今度の二度目の世の立替には間引(曳)かれて、万古末代根の国、底の国へ霊魂を落としてしまうと云ふ、神界の規則であるぞよ。神は人民を助けたさの、永い間のこの苦労であるぞよ。兵隊を一旦日本へ引寄して、外国を地震、雷、火の雨降らして絶滅(たや)さねば、世界は神国にならんから、余り何時迄も神の申す事を聞かねば、三千年の経綸通りに致すから、世界に何事ありても、神と出口を恨めて呉れなよ。「我が身魂を恨めるより仕様は無いぞよ」と申してあろうがな。気の毒でも、モウ神は一切りに致さねば、天の御先祖様へ艮の金神の申訳が立たんぞよ。

大祓祝詞
大祓祝詞解説(1)-霊界物語より
大祓祝詞解説(3)-霊界物語より



テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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