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出口澄「聖師さんとわたし」

○出口すみ子「聖師さんとわたし」(教示集-昭和26年8月)

△第一印象
 聖師さんが初めて綾部に来られた時は、私は知らなんだ。なんでも一晩泊まって帰られたそうな。位田(綾部から半里ほど北)に用事があって、その帰りにうちに来られたのやが二度目の時は四方平蔵さんが迎えに行ったので、その時は知っとります。私が奉公していましたら、教祖さんが「おすみ、神さんが、経綸が遅れる、とおっしゃる」といって迎えに来てくれたので、うちへ帰っとりました。
 聖師さんに初めて会うた時、面白い、ほんとに変わった人やと思いましたね。むかしの侍が着ているやろ、腰ぐらいまでしかない、おしりが少しわれているあの“ぶっさき羽織”を着て、お歯ぐろつけて、人間が入れそうな大きな鞄をさげて来やはりました。いきなとか、綺麗なところが少しはあってよいのやのに、ほんに妙な変わった人でした、そんな格好でひょろりんと来て、ぼやんと空を仰いで、星やお月さんばかり見ていました。
 ちょうど、聖師さんが来た前の晩に芝居を見に行ったが、袖萩の出る芝居、宗任、貞任(さだとう)かいな、その貞任の方にそっくりでした。聖師さんが、お歯ぐろをつけているのも、白い顔をしているのも、貞任とちっとも違わない、まるで生き写しやった。
あんまり変わった人やので、友達が遊びに来て、のぞくのです。
「お澄さん、あの先生、ずいぶん変わった人やなぁ、どこの人や」
「穴太の方から来はったのや。見とんなよ、もうじき天のぞくでよ」
 …といって面白がっていましたが、暇があるとすぐ空ばかり眺めていられました。
 神界のことばかり考えているので、人間ばなれがしていて、ほんとにおかしかった。町を歩くにも高下駄をはいて例のぶっさき羽織を着て、コーモリ傘さして、そのコーモリのさし方が、またおかしいのや。ひくく、頭すれすれに柄を握ってな、ほんとにもっさりした格好で、一軒一軒表札をのぞきもって歩いている人でな。あの人、あほうみたいな人やから逢うても知らんやろ、と思って黙ってすれちがうと、それでもよう知っとりましてな、「お澄さんですか……」なんて言っとりました。「おかしな人ですな」と開祖さんに言うと「そうかい」と、開祖さんも、先生のこと分からんので、そう言うとられました。
 私は田舎娘なので、開祖に黙って、その時分、京か大阪へ奉公に行こうと考えていたのやが、今度来た先生は天眼通で、よう何でも当てるので、どこへ行ってもすぐ分かるなぁ、と思って止めることにした。
 先生の手眼通がよう当るので、人がたくさん出て来ました。そうなると、いままでの蔵の家では狭いので、本町の中村竹蔵さんの家へ移ったのです。

 これは話が別になるが、四方平蔵さんが園部へ先生を迎えに行ったころやと思う。平蔵さんが一晩うちへ泊まったことがあった。真夜中に眼が覚めると、真っ暗がりの中で、御神前に大きなたいまつが盛んに燃えている。どえらいことやと、驚いた平蔵さんが「お直さんお直さん」と、いくら起しても開祖の返事がない。そのうち、外でザアーザアーと水の音がするので、開祖さんが水行しておられるのやなと思った、と言ってましたが、開祖が水行をしている時には、神さんが水をたいてくださっているのやで。
 ほんまでしたよ、これは。

 私はだいたい、先生を好きでも嫌いでもなかった。なにや、おかしげなものやったな。艮の金神さんがおっしゃったのだと思う、筆先ははっきり知らんが……。神さんの言われることやから結婚せんならんと思うたのやろな。別になんとも思っていなかったな。結婚するのが嬉しいとも思わず、大体、私は何事についても無頓着な女でした。
 結婚したのは、先生が来た翌々年の正月でした。はっきり覚えんが、田町の塩見さんと四方平蔵さんとが仲人やなかったかと思います、来ていたのがこの二人だけだったから。外には親類も誰も来ていなかった。
 御神前のみすを下ろして、おみすの中で開祖さんから盃をもらったのです。その時、西町の大槻鹿蔵が、結婚式をあげるのに、親類の者をだれも招ばんということがあるか……と、文句を言いに来ましたが(※1)、これは神さんが知らせなかったのです。
 先生は親切なことは親切やったと思うが、なにせ、人間離れがしているので、こっちが気がもめてな。けれども芝居へ行きたいなぁ、と思っていると先生が「開祖さんに知れたらいかんから、黙っててやるから行って来い行って来い」と、こっそり芝居見にやってくれることもありましたが、家に寝かして来た赤ん坊が泣くと、先生が芝居小屋の前まで抱いて来て、芝居が終わって私が出て来るまで待っていてくれました。そうやから親切やったのでしょうな。しかし先生は、神界と現界がまぜこぜなので、ハッキリ分かりませんでした。
「この者は化物じゃ」(※2)
 先生のすることは、なんというのか、人間界にうける方のやり方でな、開祖さんはその反対で、中に立つ私がずいぶん苦しみました。何もかもがむずかしかった。つまり、先生は外国や、と開祖さんが言われるので、外国はいかんもんやと思っていると、先生が「外国がいかんと言うてたら、神さんの大きな経綸が、小さい小さいものになってしまって、神さんに申し訳のないことになる」と言われるし、そんなことで、大本の中はいつもゴタゴタしていました。しかし、開祖さんと先生との仲は非常によくて、開祖さんは先生やないと夜も日もあけんのや、大事で大事でたまらんのやけれど、どこがどう違うのか知らんが、とにかくおかしなものやった。
 神さんが「この者じゃぞ、この者でないと大本の経綸はできんのじゃ」と言われるのやが、先生がおかしなことばかりするので、いつも私はハラハラしていました。御神前で開祖さんを真ン中に、両側に先生と私が座ってお礼をするのやが、神言の「かくのらば……」というところで頭を下げると、きまって大きないびきをかいて寝てしまうのです。なんぼしても頭を上げん、祝詞が済んでしもうたころに、ぽかんと眼を開けて「もう済みましたのか……」といった調子でな。そして、立ちしな、御神前のお供え物を、なすびやろが、きゅうりやろが、何でも供えてある物を、ちょいとつまんで、お詣りに来ている信者の前をむしゃむしゃ食べながら、おりて来る。お広間に行っとって、御神前からお供えの芋をとって来ては、火鉢の上にのせて、焼いては食い、食いもっては唱を歌うとるという具合で、初めてお詣りに来た人は、びっくりしたやろと思う。あれでは、どもならんなぁ、ということになったのですが、しかし、“おかげ”はいくらでも立つのや。
 開祖さんはどんなことでも、何一つとして神さんに伺わずにするということはなかった。先生の本当のことが分からないので、神さんに伺うと、「ほほほ」と笑われて「化かしてあるぞ。この者は化け物じゃ、この者でなけらいかんのじゃ」と言われる。神さんが、ああいう風にさしとったのです。

△たたかいの型
 開祖さんと先生の争いは、初めは花を植えるとか、植えたらいかん、とかの喧嘩でしたが(※3)、しまいには神界の立替えの型になってきて、素戔嗚の命が高天原を奪りに来た、と言ってどえらい戦いになったのですが、初まりは、出雲まいりの帰り道からでした。神さんが「この者がどんなことをしても何も言うな。好きなようにさしとけ、この者の代わりをする者がないのやから」と言われるので、開祖は先生のしたい放題のことをさしていました。私が作っている畠の多きを先生が刀を振り回して、無茶苦茶に暴れては、みんな切り倒してしまうのや。家の壁なども、大きな石をぶっつけて、あちこちに穴があいていたものです。
 明治三十四年から戦いがひどくなって来ました。開祖が「素戔嗚の神が、この高天原を奪りに来た」と言って怒ると、先生は「そんなことはない、わしが何がために高天原を獲りに来るものか。それどころか、高天原を良くしようと思って来たのや」と、これまた大変な勢いで怒り出し、髪の毛をさか立てて、刀を振り回して一人であばれるのや。朝も早う起きて、どこへ行ったのやろと思うと、畠へ出て暴れている。役員やみんなが「それ、また素戔嗚の神があばれとるぞ」と言うと、余計あばれる。そういうように、朝から晩まで喧嘩ばかりで、弥仙山に開祖が岩戸がくれをなさったのが、そのころでした。
 開祖さんが「いつになったら先生と仲ようなれますか」と神さんに伺うと、「御苦労だがもう暫くじや、あとはちゃんと良うなるわい」と言われます。「先生、神さんに伺うたら、もうしばらくすると、仲ようなれると言われます。ほんまに、こんなこといつまでもかないませんなぁ」「そうですか、本当にかないません」と話しておられる。その内にまた、どたどたっと音がしてえらい喧嘩になる。座っておたけびするのと、立ってあばれるのと、立ち合いになるのや。それが鎮まると「本当にかないませんなぁ」と話しもって仲ようお茶を飲んでいる。とにかく、妙なあんばいでした。
 近所の者が「金神さんの喧嘩を見に行こかい」と大勢来て、柿の木などに登って見ているが、しまいには「金神さんの喧嘩はチョッとも分からん、面白うない」といって、帰ってしまうが、「世を盗んだ」とか「盗まん」とかの喧嘩ばかりだから、そりゃ、分からんし、面白うもありませにゃろ。そんな具合に、いつなん時、喧嘩になるかしれなかったものや。この戦いが、はっきり覚えないが、八重野が生まれたころだから[注:王仁三郎夫妻三女・出口八重野は明治42年(1909年)5月1日(旧3月12日)生まれ]、明治四十二年頃、黒門を入った所の榎の下に、初めてお宮が建った頃まで続きました。

△旧役員の妨害
 先生は、紙があると、ほんとに書いてばかりいる人でした。夜さり、カンテラをとぼして書いているが、腹がへっても食べるものがない。「お澄や、じゃこでもくれやい」と、よく言っていました。その時分、私達は支那米の麦飯を食べていたが、それを持って行くと「ああ、うまかった。もうお前は寝ろ寝ろ」といった調子の人でした。
 役員や信者は、先生は悪神じゃというので、先生の書いた物は、うちにあるものはもちろん、あちこちの信者へやった物まで集めて来て、「神」という字だけを切り抜いて、裏の畠へ積んでどんどん燃やしたものです。
 ある時、四方平蔵さんが「とうとう正体を現しましてのう」と、鬼の首でも取ったように、あわてて飛んで帰って開祖に注進していましたが、先生があんまり「四つ足、四つ足」と言われるので、わざとあずき飯を炊かして、それを這うて食って見せたことがあったのや。「狐の真似してのたのた這うて見せると、みんなが喜んでのう」と言うてましたが「ああみんなが固うなってしまっては、手も足も出んなぁ」とこぼしていました。
 なにせ、先生から送ってくる物であろうが、なんであろうが、みな焼いてしまうのや。地に埋めても後に残る、人にやることもできんというのやから、困ったものや。あれは、霊が反対するのやなぁ、ミロクさんに敵対うた霊がうつって、先生を押しこめようとしたのやろ。
 とにかく、私は開祖と先生の間に立って、大変な苦労をした。しょっちゅう、二人の仲のとりもち役やった。それで、私は縁結びの神やと思ってみたりします。
 そんなわけで、先生はお道を開こうとしても、邪魔ばっかりされるので、暫く園部や大阪へ行っていたことがありました。そのころ、直日が三つぐらいでしたが、ある日、先生から園部にいるから来い、という葉書が来ました。私は行こうと思って、こしらえをしていると、何も知らんはずの開祖が「おすみや、行くでないぞ」と言われるので、びっくりしました。そのうち、知らん顔して行ってやろうと思ってこっそり、こしらえをしていました。
 その時分、馬車ができてな、それに一ぺん乗ってみたいと思っていたものやから、これで園部へ行こうと思い、金龍餅屋[注:開祖四女・お龍さんの店]の近所で馬車がとまるので、荷物をそこへ預けておいて、開祖に知られんように、直日をつれて、馬車が来たらぽいと乗ってやろうと待っていました。馬車が来たから急いで乗ろうとすると、上谷の四方甚さんがひょっこり出て来て「奥さん、さっきから探してましたのや。ちょっと帰って来てくれまへんか」と言うのや。私はてっきり開祖が迎えによこしたものと思って、叱られるものと、こわごわ帰ってみると、開祖は裏で畠をしていて、私を見ても別に何も言わん。「甚さん、何の用事かいな」と聴くと、甚さんは「いや、別に何もごわへんが……、きびの苗、持って来ましたので……」とあほみたいたことを言うのです。神さんから引き止められたのやな。あの時、先生の所へ行ってはいけなかったのやろうと思う。

△初めて夫婦らしい生活
 [注:第二次大本事件の]未決から帰ってから、これが本当の夫婦らしい生活や、としみじみ思いました。
 それまでは人間らしい生活や人間界の楽しみといったそんな悠長なことはありませんでした。毎日毎日それは厳しいことで、開祖の教えで唄一つ歌われんのやからな。「世におちとる神を世に出さんならん」とか、開祖には先の世の中の有り様が見えとるで「人には何も知らせんが、先のことを見せていただいているので、じっとしておれん。口で言えない大変な世界中のことなのや。あんなことが出て来たら、みんなは一体、どうするやろ、どうするやろ」と、いつも神さんに、世界中の大難を小難に……というお祈りばかりでした。本当に、明けても暮れてもお祈りばかりで窮屈なことでな、気が休むということがなかったものや。
 未決から帰って、夫婦というものは、こんなものかいなと初めて嬉しく思いました。

(※1)
○「大槻鹿造と王仁」 玉鏡(昭6/8)
 開祖様の長女 米子(よねこ)さんは大槻鹿造の妻であった。鹿造は綾部の無頼漢の親分であった。王仁が綾部に来て澄子と結婚すると、錆刀をおっ取ってやって来て「こら、貴様は何処の牛の骨か馬の骨か知らないが、俺が長女の婿だ。一体全体嫁に貰ったのか婿に来たのか、どちらだ」と刀をつき立てて雄叫びする。「そんな事はどちらか知らぬわい、だがお前は喧嘩を買ひに来たのかい、それなら相手にならう」と両肌ぬいで坐り直したら「ウン、申分が気に入った、若ざうに似合はぬいい度胸だ、俺は帰る」と云うて帰って行った。爾来王仁の為めには随分よくして呉れたものである。

(※2)
大本神諭「大正3年旧7月11日」
 変性男子(出口直開祖)の身魂も、変性女子(出口王仁三郎聖師)の身魂も、三千世界の大化物であるから、霊魂に曇りの有る人民には見当が取れんぞよ。この大化物を世界へ現はして見せたら、如何(どない)に悪に強い守護神も人民も、アフンとしたして吃驚いたして、早速には物もよう言はん事が出来するぞよ。昔の根本の世の本から末代の世まで、一度あって二度ないと言ふやうな、大望な神界(かみ)と現界(このよ)の大立替であるから、「アンナものがコンナものに成りた」と申す経綸であるから、人民では見当は取れん筈であれども、改心いたして神心に立復(たちかへ)りた人民には、明白(ありやか)に能く判る仕組であるぞよ。「世の変り目には、変な処へ変な人が現れて、変な手柄をいたすぞよ」と明治31年の7月に筆先に書いて知らしてありたぞよ。もう現れる時節が近寄りたぞよ。

(※3)
出口すみ子「花明山夜話 (十五)」
 聖師さんとはよう喧嘩したなァ。大本の筆先(大本神諭)に『このほうは色花が嫌い……』というのがあるやろう[注:水商売や売春のこと]、ところが聖師さんは昔からえらい花の好きな人やった。わしは、『先生ここでは色花を植えることなりません』言うてこれは苦労したでぇ。あのころの大本は梅と松やないといかんように皆がうけとらしてもろうとったんや。それでも聖師さんは我慢ができんのやろう。あの花、この花と植えてしまわれたのや。「そんなことされたらどもならん」とわしは花の萎れるようにしたのや、花が枯れたらこの大本では色花を植えてもあかん、すぐ枯れてしまう、と聖師さんが思われるやろうとわしは一人合点したのや。(笑い声) そこで聖師さんは昼は鉢をよそへあずけといて、一夜になるとコソッと縁の下に入れては楽しんでなさるのや。わしはそれを見つけてハハンと考えた。そこで早速これに煮え湯をかけて萎れさせてやったのや。知らん顔して見ていたのやが、あくる日は不審そうな顔しとってやったでぇ。

テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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