出口澄「花明山夜話(十七)」

○出口すみ子「花明山夜話 (十七)」(教示集 「木の花」昭和27年2月号)

乕雄「お母さん、お元気で何よりです。二、三日前説く島でのお作品展を済ませて帰って参りました。」
澄子「電報や何かで報らしてもろうとったが、えらい成功やったそうで、結構やったな。」
乕雄「神さまの御守護はもとよりですが地元の人たちの熱意の賜物と思っております。楽天社分社長の多田さんを中心に皆さんが本当に協力されて、本部から出掛けている私たちまで感激させられました。」
四海「栄屋というデパートの四階でやらせてもらいましたが、会場としては万点でした。三日間で三千五、六百名の観衆が押し寄せる盛況でした。」
澄子「木田さん、あんたも一緒に行っとったんか。」
四海「陳列のお作品を全部こちらから運びましたので、乕雄先生のお伴して参っておりました。二代さま、申し遅れましたが、徳島に参ります直前、直日先生から、四海平安という名前をいただきました。四つの海の平らな安であります。」
澄子「“しかし”、“へいあん”さんか、おもしろいええ名前やな。」
四海「ハア、どうぞお見識りおきではない、お聞き覚えくださいませ。今度のお作品展で特に感じましたが、地方の人たちの頭には大正、昭和の両大本事件で、新聞や雑誌で悪口書いた時の印象がまだ相当根強く残っているのですが、聖師さまのお作品を見せると一パツですわ。みんなウーンとうなって感心しとります。お作品で目に物みせるに限りますわ。」
澄子「そやそや、論より証拠というでなぁ。」
乕雄「徳島で展覧会をやるについて主催者である地元の人たちは大変な力の入れようで、随分早くから県の美術協会、文化協会、新聞社、あるいは県や市の有力者などと折衝を重ねていたようです。そのため色んな方面の人たちが協力してくれたのも成功した一つの大きな原因でした。徳島市内にあります興源寺という禅寺の住職の伊藤さんなんか、初め多田さんから、『王仁書画集』にあります聖師さまの観音像を見せてもらって以来、すっかりお作品を通じて聖師さまに傾倒してしまわれました。というのが、ご自分で何か願をかけるような気持ちで、これまで何千という観音像を書いておられるのです。それで一層聖師さまの観音像の立派さが強く感じられたらしく、わざわざ自分から申し出て下見会の会場にお寺を提供してくださいました。」
四海「そのお坊さんが言うとられましたが、こんな立派な作品をのこされた方を、国賊扱いにするなんて、した方こそ国賊ですと憤慨していられました。それからこれは会期中でしたが、中野先生のところから拝借して行って陳列した滝の絵がありましたが、その絵の前に立つと滝の音が聞こえるというのです。帰って寝ても滝の音が耳から離れない。翌日またやって来る、またその翌日もやって来る、とうとう三日間通いつめて来た人がありました。」
澄子「そうかい、それはその人の霊が見たいのやな。」
乕雄「東京の展覧会でもそうでしたが、徳島での展覧会でも、聖師さまは大正八年に描かれた襖十枚一杯に枝をはった松の絵が、会場全体に雄大な気宇を漲らせていました。何かそのころ、聖師さまの絵を描いておられたことについて、お母さん、おぼえておられることはございませんか。」
澄子「そうやなぁ、先生は大正五、六年時分から、よく松や達磨の絵を描いていられたのを覚えているが、そうそう、もっと前にこんなことがありましたな。大正二、三年ごろやったかな、私がある日教祖さんのところに朝の挨拶に行きますと、教祖さんが、『お澄や、昨夜不思議な夢を見たんやで。東の方から鶴が七羽飛んで来たんや、するとそれが、西門の松の木に来てとまったんや。なんぞ不思議なことがあるんやで』と言われるのを聞きながら下がって来ますと、先生が、『お澄や、これを見いや』と言って、自慢げな顔をして掛け軸を持って来て、『これ俺が書いたのやで』と言って広げられるのを見ると、今聞いて来た教祖さんの夢とそっくりの、西門の松の木に鶴が七羽とまっている絵や。」
乕雄「みょうですね。」
澄子「わしも不思議に思いながら、『あんた、なかなか上手やなぁ』と言うてあげたら、先生は得意そうにして説明してやったが、なんでも、西門の松の木に鶴が七羽とまっているところが霊眼に見えるので描いたのや、と言うとってでした。先生の描かれた絵を見たのは、その時が初めてやったな。」
乕雄「初めて伺いました。珍しい話ですね。」
澄子「こんなこともあったな。ある日大きな達磨(だるま)の絵を先生が描いとられたが、描きおわってしばらくすると、『俺はこんなコワイ達磨はきらいや』と言うてクシヤクシャに丸めて紙屑籠に放ってしまわれたのや。私はあんまりよく描けているので、惜しいと思って拾い上げて残しておいたのや。先生はコワイのは嫌いと言われたが、私はコワイのが好きなんや。掛け軸にして奥の間にかけておいた。すると錫杖をついて高野山の坊さんが訪ねて来て、その達磨を見ると、坊さんビックリしてな、『これは王仁三郎さんが描かれたのですか、ウーン、これは八方にらみの達磨さんです』と感心しながら、おじぎをして出て行きましたが、それからその坊さんは本宮山に登ったらしく、また私の所へやってきて、『仏の方で蓮華台ということを説いているが、ここのお山が、まさにその蓮華台じゃ、山を登る時 錫杖でたたいて登ると、その音の響きでよくわかる。仏の方でいう極楽というのが、この山じゃということを今度初めてさとらしていただきました』というて大変喜んで帰って行っちゃった。」
四海「(長さ八尺、幅四尺の聖師筆 大達磨の軸をカモイに掛けながら)二代さま、今度このお軸を小松島の分苑にお下げ願いたいと思いまして」
澄子「(見上げながら)ホオ、立派やなあ、大本にもミロク殿やなにかだんだん大きな建物がたつで、本部にいる時はときどき貸してくれるようにいうといてや。」
四海「別院や分苑は大本の出屋敷のようなものですもの、いつでも持って来てもらうように言うときます。」
澄子「本部にもこれから大きなのが入用やで、此方へも持って来んとあかんで。」
四海「ハイ承知しました。聖師さまはチャンと入用なものはどこかに隠しておられますよ。
澄子「昔教祖さんが、信者さんが出て来られると、よく書いてあげられたのや。すると四、五年もたってから、フツと思い出したように、『お澄や、どこそこに書いてあげたの、返してもらって来てくれ』というようなことを言われるのや。私は『いやどすで、人に一ペンやったものを返してくれなんて』と言いますと『神様に御神徳を頂いたら、頂いただけの活動をすればよいのやが、活動もせず、お道もよう広めんような人は、持っていることができんのや』と言うとってでした。私は教祖さんい『あんたの神様は、どうも勝手なことばかり言うてやなぁ』(笑い声)と言うてましたがな。お軸でも楽焼でも貰ったからというて、私(わたくし、私物化)するのはいけませんで。」
乕雄「地方を回りますと、大切にするあまりですが、押入れの奥深く蔵い込んでしまっている人がありますが、頂いたお作品は、いわばその人が皆を代表してお預りしているようなものですから、御神徳をわかちあうような気持ちで、なるべく多くの機会にみんなが拝観できるように心がけるべきだと思います。」
澄子「宝の持ちぐされではいけませんな。(苑主、掛かっている達磨像を見上げながら) これは良いなぁ、チャッチャッと書かれて、私はこの達磨さん好きや、もっと長くかけといておくれ。」
四海「ハア、そうどっか。この達磨さんの目玉は聖師さまの御拇印ですわ、こんなのほかにはおまへんで。」

澄子「だるまさんは瑞の御霊さんやで(※1)。いかつい顔でこわそうにも見えるが、ダルマさんダルマさんいうて、子供の玩具にもなっていられるんや。悪にも見え善にも見えるミロクさんや、その人の心が鏡にうつるようにうつるんや。聖師さんかてそうや、聖師さんのこと悪う言うてるもんがあるが、それは自分の心が悪いのや、自分の心が映って悪うみえるのや。

四海「今度のお作品展で、滝の絵の前で滝の音が聴こえると言うとったのは女の絵描きさんでしたが、やはりその人が、聖師様の富士山の絵の前で『この富士山は裏富士ですな、富士山は裏から見ると、厳(いか)しい感じがするものです。しかしこの絵は前景に和やかな感じの優しい松を描いてありますので、いかしい裏富士も優しく見えます。この絵を見ていると感じられますが、聖師さんという方は強い方の優しい方だったのでしょうね』というておりました。」
澄子「ほう、よう観る人やな、その人は。」
四海「(苑主に写真をお渡ししながら)徳島でのお作品展の会場を写した写真です。」
澄子「えらいたくさんな人やなぁ。」
乕雄「それは、お楽焼の前に集まっている人たちです。若い人でしたが会期の三日間、毎日毎日やって来て、魂をすいとられたように長いこと、ジーッと見つめていた人がありました。聞いてみると、茶盌の綺麗な色が、眼にちらついて夜になっても眠れないのだと言っていました。」
澄子「光平さんのお母さんの妹さんの家は、道具なんか立派なものがたくさんあってな。そのご主人が大へん焼き物が好きで、自分で焼き物の窯まで築いているほどの人や、そのこと聞いてるもんやで、亀岡へ来なさった時、聖師さんのお茶盌二つほど持たしてやって、どっちかあんたの好きな方をお土産にあげますと言うたら、その人ビックリして、お茶盌持ったきり離さへんのや、二つとも好きや言うてな、とうとうその人一晩中寝れなんだそうな。それで二ツともあげてしもうたがな。」
乕雄「だんだんそうなふうになって来るので、お父さんも歓んでおられるでしょう。」
澄子「先生が茶盌作ってること、私は『あんたエライふうふういうてぶるぶる汗かいて、そんな事せんでもちょっとでも寝たら良いのに』というていましたが、『あほなこと言うてるが、先みてけっかれ、先になるとどんなものや、みんながビックリするで』と独りで力んで言うていられました。それでも時々おかかにでも、ほめてもらおうと思うて、『お澄や、これみてみい』と言うておられましたが、わたしはちょっとも知らん顔していたが、つまらん顔しとってやった。」
四海「聖師様の御在世中はそんな具合で、ほんとうに皮肉なものどすな。」
乕雄「今度のお作品展で感じたことですが、大本や、聖師さまに対して、いろんな悪い先入観があって、頭から近づこうとしないような人たちが、お作品という芸術を通じてだと、容易に近づいて来るし、親しさを感じてくるのがわかります。作品を通じてだと、聖師さまの人物や、感情というものが何の隔たりもなく、直接観る人の心に感じられるのですね。」
四海「年末で、人が来るかどうか心配していましたが、毎日正午過ぎなど会場が人で埋まるほどでした。」
澄子「多田さん、喜んどってやったやろ。」
乕雄「盆と正月が一緒に来たような喜びようでした。多田さんといえば、徳島県下での名望家で、顔が広いものですから、『多田の親子が大本教に呆けとる』と、相当噂が拡がっておるらしいです。多田さんとしてはそれが残念でたまらないらしく、下見会の時や、会場で、知人や親戚の人なんかが見えると、一人ひとり会場を案内しながら、相手がお作品に感心して、うなづいていると『どうや、これ観て多田の親子が大本に呆けた訳がわかったやろ』と、日本晴れのように笑っておられました。」
澄子「ハハハハ、『大本に呆けた訳がわかったやろ』とは、多田さんらしゅうて面白いな。」
四海「どうもいろいろ珍しい、楽しい話を伺わせていただきましてありがとうございました。」
澄子「さあ、あんたら蜜柑でもむいて食べておくれよ。」(と言われながら、寝につかれる)
[注:この対談は昭和26年12月30日、綾部要荘で行われた。昭和27年3月31日、澄子二代教主は昇天された]

(※1)
大本神諭「大正6年旧9月30日」
 天の御先祖様が天之御中主大神(みろくさま)であるぞよ。全智全能(つきのおほかみ)様であるぞよ。地の世界では達磨と現はれて、隠れて守護致しなされたのを、世界の人民は何も知らずに、禅宗のダルマと混ぜ交ぜに致して、弄びにまでなりて、世に落とされて御出遊ばした結構な神様を、今度世に表はして御神徳を拡めるのが、変性男子の御役であるぞよ。
 ミロクの大神様は、弥勒菩薩と仏事に化りて御出遊ばしたなり。日の大神様は光明如来(阿弥陀仏)となりて、仏事に落ちてお出遊ばしたのを、今度の世の立替で全部(すっくり)現はれて、御神力を御見せなさる時節が循りて来たぞよ。天照皇大神宮(てんせいくわうだいじんぐう)殿も表面は神道で立て、奥の院は矢張り仏事が祭りてありたぞよ。大国常立尊は余り力が強すぎたので、「こんな猛烈(はげし)き神を、この世の大将に仕て貰うたら、ほかの神は一柱(ひとり)もよう勤めむ」と神々の心が一致して、天のミロクの大神様へ御願ひありたゆえ、「それなれば一柱と多神(おおぜい)とは代えられん」と仰せありて、「艮へ押込めよ」との御命令が下がり、八百万(やほよろず)の神に艮へ追退られて、艮の金神と名を付けられ、独神(ひとりみ)となりて、日の本の大神が仏事の守護致して、ここまでは来たなれど、何彼の時節が廻りて来て、仏事の世の終が末法の世と申して、まだ万年も続くのでありたのを、世を縮めて艮の金神の世と致して、結構な神代に捻じ直すのであるぞよ。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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