出口澄「花明山夜話(十五)」

○出口すみ子「花明山夜話 (十五)」(教示集 「木の花」昭和26年12月号)

乕雄「お母さん、大本大祭を明日に控えました今晩は特別面白い夜話をお願いします。来月は楽天社も発足二周年を迎えることになり、社友の皆さんに十二月号掲載中の最も楽しい贈り物のおさながたりとともにお願いします」
澄子「これから毎月、おさながたりも出すでぇ、楽しみにしとってよ。楽天社も二周年を迎えるのやなァ。えらい早いもんや。そういえば昭和十七年、聖師様が未決を出られなさって、それからやなァ、楽天社も。神業の大事な片棒や。きばんなはれよ。今晩は“えのき”の話をするで、ほんのちょっとだけな。このぐらい、わしは自分にいうといても、すぐ長話になってしまうのやが。」
乕雄「私とこは思う壺です。」(笑い声)

澄子「そんなら話します。あれは明治二十五年ごろでした。教祖はん(出口直開祖)はいつとはなしに何やらヒソヒソと神さんと話をしてござった。それから夜さになるとわしは寂しい留守番や。寝床から帰ってきちゃった教祖はんに『どこへ行っとってでした』と尋ねると、『馬場へ行って来たじゃあ』、といつもえろう優しう言うとってでした。西村さん(綾部)の近所にニセイ殿があり、その横に清らかにされた馬場があってお祭りの時には綾部中の七社の神さんが集まられたのや。そこにえらい大きな杉の木があってなァ。この大杉が金神様や御眷属のとまり木やったのや。教祖はんがよくお参りに行かれたのは、この清い尊い大杉やった。教祖はんは神さんと何か話してなさると、えらいいきおいで馬場へ行かれたことがたびたびありました。

 明治二十七年、郡是(グンゼ)の波多野さんが綾部にキリスト教を始めたのや。これが綾部のキリスト教のはじまりや。ある日そこの信者で高倉平兵衛という人の奥さんが死んでな、そのヨメはんを綺麗な花でえろう飾んなはって棺に寝かせて馬場に立て、町の人たちに三日ほど見せたのや。キリスト教に入ると死んでもこんなに綺麗にしてもらえる、と宣伝のためにやったのや。それからというもの神さんの御機嫌をそこねたのやろ、一週間ザンザンザンザン雨が降り続いた。これは神さんがケガレを雨で清めなさるのや。町の人は、あんな所に死人を見せ物にしたから、たたって一週間も雨が降り続くのや、困ったもんや、と噂をしとりました。そのうちに大杉が枯れてしもうたのや。それからというもんは子供が遊び場にする、人が馬をつれて入る、人ぐぞ、馬ぐそ、牛ぐそがつもる、馬場をさっぱり穢してしもうたのや。そこで杉の木から榎(えのき)の木に神さんが移られたのや。
 教祖はんは昼間に蒲鉾の板をひろって来なさる、そして夜になると床の間に枕や板、柴を立ててお話してござるのや。わしは不思議に思うて聞くと、『これはお宮を建てて神様をお祭りする稽古をしているのやで』と教祖はんは言われとりました。わしは子供やったので何もわからんままに見とりました。庭におもとの木を植えられたのもこの頃で、これは世界中の神様がここへ集まって来られるように、だそうです。そして葉蘭を植えられました。『この世が開けたと人は思うが、世が開けたのではない。世がバラけてしもうたのだ』と言われとりました。
 教祖はんが神がかりになられてから七年間は、うちはえらい貧乏で家がなかったのや。――出口や大島の家はそれから買うたのやが――それで大島の倉を借りてお筆先を書いておられた。そのころ、町に時田というのが誰にでも頼まれてする人やったが、四方みつ枝さんがエノキの切って割り木にしてもらわんと貧乏で薪がないと頼んだのや、そこで時田さんの裏のエノキを切ることになった。教祖はんは机に向かって筆先を書いておられたが、『おすみ、ちょっと行って見て来てくれい。エノキを切ると言うてるで、それをとめてこいよ。あの木を切ったらどえらいことができるでよ、日本中の金神様がおやすみなさるとまり木でなァ』 もし切ったらどえらいことになると教祖はんは言われましたのや。そやけど自分とこの木を切ってやでしょうがないわいな。そう思ってわしは別に切るのをやめなされとも言いに行かなんだが、別に切らなんだ。それから教祖はんは『神さまの御神体にせんならん』言うて毎日毎晩お水とか洗米を供えてお参りになっていたのや。」

乕雄「梅野[注:王仁三郎夫妻次女、乕雄の妻]が言うていたのですが幼児の折、教祖様がエノキの上をじっとみつめておられる。子供の梅野が不審に思ってお尋ねすると、『この木の上にはたくさんのえらい神さんがおられるのやで』と言ってられたそうです。」
澄子「事件後、未決から帰って来たら大本の建物はなんにもなかったが、エノキだけが一本ぽつんと残っていたのや、あの時はとても嬉しかったでよ。これにもまた話があるのやが、これは清さん、あんたしてんか。」
米川清吉「由良金一さんが昨日見えまして、誰にも今まで話さなかったことですが、とのことで――この人はもと町長もやられたこともある綾部の人望家で、大本の前を通るとええことをしたとエノキを見る。十年の事件後(第二次大本事件)、ここを運動場にしてしまったのですが、ある日由良さんが通りかかると人夫が今まさにエノキを切ろうとしています。『まァま、待ってくれ、前から思っていたのやが枝振りも良いし、運動後の憩いの場所になることだし切ることはないじゃないか』、ということで、早速、時の町長にかけ合われ反対も相当あったそうですが、エノキを切らずに残すことに談合されたのです。と言って由良さんは、このエノキにいろいろの因縁があることなど少しも知るよしもなかったと申されてました。で昨日、そのことを二代さまに申し上げますと大変喜こばれて、由良さんに歌二首を詠んで染筆なさってあげられたのです。」

(――米川氏、半切を出して広げる、苑主、お詠みになる――)

 母君の伝えおかれし庭のえのき
  よろづの神のとまり木と聞く

 官の手にかかりて切らるる大えのき
  君の言葉で今もさかゆる

澄子「なんにも知らん由良さんを神さんがつかわされなさったのや。これを書いてあげとくと、由良さんの子孫が大本の大エノキを見るたびに先祖がええことをしたとよい思い出になってよろしいやろ。」
乕雄「結構でした。」
澄子「エノキには色々の話がありますなァ。清さんあんたとこのお父さんが亡くなったのはいつやったな。」
米川「大正十一年十二月二十七日でした。」
澄子「あの時な、聖師さんと米川さんの昇天はいつやろうと話していたら、突然屋根の上の方から十二時やと聞こえたのや。男の神さんのお声やった。あとから思うとあれはエノキの木やったのや。聖師さんがすぐ飛んで行って、米川さんの横を向いていた死顔を真っ直ぐに向けると笑顔をしとってやったそうや、『あれはエンゼルが迎えに来たのやでぇ』と聖師さんがいうとられました。

 ……この間の暴風にはえらいお蔭を頂きましたで。七月の時は亀岡がひどかったが、今度はその反対で亀岡はなんともなくて綾部の方がえらいひどかった。あれは何日やったなァ(昭和26年11月14日未明)。(原文中略)ものすごい風で三時ごろ目が覚めたのや、どえろうびっくりしたでぇ。お宮は造営中でテントも張ってあった。人はどうか知らんがわしは心配したえ。風がどんどnはらんで今にもお宮がとんでしまわへんかと思うたのや。お祭り(大本大祭)も近いし今飛んでしもうたら大変や、立ってもおれん気持ちやった。わしは神さんに静めてもらうよう一生懸命頼みました。全国の信者さんが夜に日についで建ててくれたこのお宮がもし飛んでしもうたら申し訳ないやら、それにこの地場のお宮が飛ぶとなれば悪い雛型が出ると思うてなァ。雨の神、風の神さんやら五つの神さんに静まっていただくよう頼んだのや。わしは神さんに二回おがんだ、もしも宮が飛んでしもうたら信仰もやめますと無理をいうてなァ。」(笑い声)
乕雄「大事がなくて結構でした。」

澄子「それからもう一つ御神徳を頂いたのや。今度のお祭りまでにお池(金龍海)を掘らしてもらおうと思ってやり出しましたやろう。聖師さんが大正の折掘られたときは池ができあがるとその日に水がどっと入りましたが。
 わしの場合は雨がちよっとも降らん時やし、もし掘れ上がっても水がなかったらどうしようと思ったのや。お祭りにみんながせっかく来てくれてもお池に水がなかったらなんにも意味がないで、『龍神さん水がのうて困っとりますのじゃ、どうぞお水くれやす』とお祈りしたのや、そしたら有り難いことにその夕方から雨が降り出したのや。うれしかったでよ。皆が毎日毎日手弁当をさげてやって来て掘ってくれたのにもし水がなかったらお祭りもはずまへんやろし済まんことや、面目ないと思うてなァ。」
米川「夕方から翌朝までよく雨が降り続いたのです。」
乕雄「そうですか。お母さんは二つ御神徳を頂かれたのですね。」
澄子「喜んどりますのや。わし一人の御神徳やないけど一人よろこんでるのや。もしお水が金龍海に入らなんだらこれはおかげがないのやでなァ。ちょっと話して寝るつもりやったが今晩はえらい話がはずむでぇ。」

乕雄「お母さん、第一回の夜話の時に屁話が出て随分面白かったのですが、今夜も……。」
澄子「屁の話か、屁言うたら聖師さんはえろう屁の好きな人やった。一年中夏でも冬でもプップッと屁ばっかりしてやった。(笑い声)……聖師さんはフシ穴に尻を当てて、廊下に誰か通るのを待ち構えてなさるのや、わしらはなんにも知らんやろう、そこを通るのをすかさずプッと射撃するのや。(笑い声) 聖師さんはこれがまた面白いらしいのや。えらい喜びなはってなァ、世の中にこんな面白いものはないやろうと、こればっかり言うとってでしたよ。(笑い声)
 またある日の綺麗な晩げに腹這いになって尻をまくってウンと上げてなさるのや。わしは『先生、どうしなはったのです』と聞くと。『おすみ、わしの尻は下ばっかり見てるやろ、便所ではくさいとこばっかり見つめてる、これではあんまり可愛想やで今夜は月見をさせてやってるのや』言うて、えらいのに尻をお月さんに一生懸命つき出しとってんや。」(笑い声)
乕雄「聖師さんらしいですね。」
澄子「未決の独房にいる時もそうやったげな。お月さんに尻からげして前をブラリと照らしてなさるのや、そしてブゥラリブゥラリと振りなさる、そうすると後ろの壁に金の影が吊り鐘のようにゆれてるのや、これがまた面白うて面白うて、たまらんかったそうな。」(笑い声)
米川「聖師様は風呂に入ってられる時もよう放屁されたそうで……。」
澄子「そうやそうや、湯の中で屁をこくと風船玉がブクブクと腹につとうて舞い上がってくるやろう。そこをプッとにおうのや、これはまた格別くさいでぇ。(笑い声) 風呂へ入るとこでばっかりして遊んでなさる人やった。」(笑い声)

《原文欠落》

澄子「またこんなことがあった。わしが芝居が好きなもんやから、よう聖師さんが『おすみ、芝居見に行ってこい』と内緒で言うてくださるのや[注:出口なお開祖は芝居見物を許さない]。わしは早速直日を抱いて見に行ったものやったが、芝居がはねるころには聖師さんが迎えに来てくださったとりました。ある夜もだいぶ更けた頃やったが、帰り道にいぬがおったのや。聖師さんは餌物ござんなれとばかり犬に向かって尻をまくり金を出して、四つん這いでお尻を向けてどんどん犬に向かって行きなはる。犬は吃驚してワンワンと吠えたてながら逃げる。聖師さんはそれを追いかけながらブンと打ち出す。そしてたアーーと四つ這いで追っかけるのや。またこの這い方がものすご早いのや。(笑い声) 犬はワンワン吠えては逃げる。これが面白いらしいのですわ。あんなんやから人にバカやアホやと言われなさったのやなァ、無理もないな。

 聖師さんとはよう喧嘩したなァ。大本の筆先(大本神諭)に『このほうは色花が嫌い……』というのがあるやろう[注:水商売や売春のこと]、ところが聖師さんは昔からえらい花の好きな人やった。わしは、『先生ここでは色花を植えることなりません』言うてこれは苦労したでぇ。あのころの大本は梅と松やないといかんように皆がうけとらしてもろうとったんや。それでも聖師さんは我慢ができんのやろう。あの花、この花と植えてしまわれたのや。そんなことされたらどもならんとわしは花の萎れるようにしたのや、花が枯れたらこの大本では色花を植えてもあかん、すぐ枯れてしまう、と聖師さんが思われるやろうとわしは一人合点したのや。(笑い声) そこで聖師さんは昼は鉢をよそへあずけといて、一夜になるとコソッと縁の下に入れては楽しんでなさるのや。わしはそれを見つけてハハンと考えた。そこで早速これに煮え湯をかけて萎れさせてやったのや。知らん顔して見ていたのやが、あくる日は不審そうな顔しとってやったでぇ。(笑い声)
 わしがあの手この手とかぎつけて邪魔をするのやが(笑い声)
 ――思うとわしもあほやったなァ――そんなことでやめる人やない。わしもしまいに根負けしてしもたがな。
(笑い声)
 そういうわけで聖師さんが亀岡では花を植えなさっても、わしは見て見ん振りをしてました。言うても聞かんし、またこんなに好きなもんをしまいにかわいそうやとも思い出したんや。それがとうとう昭和8年には綾部にまで鶏頭(ヒユ科の一年草。茎の上方に鶏冠状または円錐状の赤・黄・桃色などの花穂を立てる)を蒔いてしまわれたのや。これにはわしもおこったでぇ。亀岡で自由にしとってやのに綾部にまで植えるとはもってのほかや言うてなァ(※1)。鶏頭が一尺ほどになった時、わしは嫌がる北村さんにみんな引いてくれ言うて引き抜かせたんや。聖師さんは久しぶりに亀岡から帰って来て、もうこれくらいかいや一尺ぐらいかと生長ぶりを楽しんどってやろ。家にもよらずにその足で鶏頭を見に行かれたところが、あとかたもない。
『こらア、おすみやい、花どうしたんじゃい』 えらい権幕や、“何おっ” わしも負けるかい、
『何ィ言いやがる、この大本は色花はいかんのじゃい、このドタヌキ親爺』『何おッおすみ、生意気な、容赦はせんぞ』『そら、こっちのセリフじゃい』。どえらい権幕でわしは艮の金神さんの掛け軸を逆手に持って『これでもくらえ、わしがなぐるのじゃのうて、艮の金神さんがなぐるのじゃ』言うて、追っかけたら『うえー』と逃げ出された。『こらア待たんか、親爺ッ』言うたらよっぽど吃驚したんやろう、えらい勢いでカバンを持って逃げ出してしもうたがな。」(笑い声)
米川「私は聖師様の後を追って『カバンをお持ちしましょう』と申し上げると『まだ追っかけて来るか』とおっしゃって石を拾って振りむかれましたが私だったものですから、気恥ずかしそうに石を隠すように落として『もうこんなとこ帰ってこんわい』とおっしゃって寂しそうに行かれました。私はその後姿を見送りながら泣いておりました。」
澄子「その日、亀岡へ行かれたんかいな。」
米川「いいえ、直日さまがやっとのことでなだめられ、気をなおしてその夜亀岡へ立たれました。」
澄子「わしはそれから数日して亀岡へ行ったら机に向かって短冊に絵を書いとってでした。わしはこわい顔して聖師さんをニラミつけながら、デンとその前に座ったのや。聖師さんはもじもじしてとうとうよう顔をあげんかったでよ。(笑い声)あのときは後から、三日ほどしてからわしから話しかけたでよ、と聖師さんが言うてられました。」
乕雄「お母さん、鶏頭でもいかんかったのですか。」
澄子「後からわかったのやが、筆先にヒッポウのケイトウという言葉があるやろう(※2)、聖師さんのはその意味の鶏頭や、わしの鶏頭はケトウなんや。それでわしはいかん思うたのや。」(笑い声)
乕雄「ああそうでしたか。」
澄子「わしは取り違いしてたのや。筆先の色花とは、手かけやお妾のことをいうのや。それでも、わしのあのころの気持ちは、四季の花は神さんがくださるのやからええが、無理して咲かすのはあかん、そんな気やったでぇ。」
乕雄「聖師さんは、天国はいつでも美しい花の満開につつまれてしますから、いろいろの花々を植えて、ご自分のお住いを天国化したかったのでしょう。」
澄子「うん、そうやったのや。わしも随分ひどい荒いかかアでなァ。そやけど聖師さん、あんまりおこってやなかったで。また喧嘩の話やが、わしが聖師さんとの喧嘩の終わりはなァ、神島さんにお参りした時のことや。わしはどこをついたのかいな。とにかくわしはデンと胸の辺を押したのや。そしたら聖師さんは倒れなさったのや。倒れたままなかなかおきなさらん、わしはびっくりしたでぇ。あれは目を回した振りをしておられたのや。」(笑い声)
乕雄「お父さん(義父:王仁三郎)は一度お母さんを心配させてやろうと、まるで子供っぽい策を立てられたのですね。」
澄子「今度はしてやったと思うとりなさったのやろう。(笑い声) 聖師さんはどんなにおこっても、子煩悩やから子を抱いてじだんだしておこってる人どした。『おい金神さんの喧嘩見に行こかい』言うて、近所ではえらい有名やった。(笑い声)
 柿か何かあったら皆さんにあげとくれよ。

(――美しい色感の柿と黒砂糖が出される――)

 わしの子供の時は貧乏やったで屋敷がないやろ、それで柿の木がなかったのや。今の秋の思い出の一つは、皆が柿の木によじのぼって柿をボイでる。わしは柿の木がないのでボイで遊ぶ真似をして過ごしたのや。妙なことにそれが今では村の柿の木みんなわしの木になってしもうたのや。妙なもんやな。(注:村というのは綾部本宮村のことで、現在は大本梅松苑の敷地内)

 今晩はあれやこれやといろいろ話したけど尉と姥の話をします。
 わしは前から尉と姥の話のケリをつけとかんならんと思うて常々考えとりましたんやが……。」
乕雄「前にいただきました尉と姥を少し読みましょうか。――私もこのごろは、すっかり煙草をやめまして煙草の代わりにお水を頂いとります。」
澄子「このごろは煙草の代わりに黒砂糖を頂いとりますのじゃ。(笑い声) (二代教主、黒砂糖をなめられながら) 乕雄はん、話しするで聞いておくれよ。――昨年の暮れの火事(※3)[注:昭和25年12月31日午前2時、亀岡天恩郷本部事務所焼失]は神界では誠に日出度い(めでたい)火事でした。ツルとカメの両方から火の手が上がったんやでな[注:舞鶴の“鶴”と亀岡の“亀”で同時に火災があったから]。あの大きな火事で、木のケのあるものは皆黒こげか灰になったのやが、その次の中から二個の木彫りが出て来て、それを洗ってみるとちょっとも焼けもせずに元の綺麗なお姿のままの尉と姥の御二体が現れなさったんやが、これは教粗はんの筆先に『尉と姥とが現れて松の根元の大掃除をするぞよ』とありますが、尉と姥は伊邪那岐尊、伊邪那美さま御夫婦のことやし、艮の金神(国常立尊様)、坤の金神(豊雲野尊様)のお働きのことや。世間でいう結婚式のときの高砂の尉と姥さんは猛火をくぐって表になられたのや、地の高天原に帰っとってんやで。
 大正五年、聖師さんが『おすみ、行く島がわかった』と言うで行かれたのが播州の神島さまやった。そして神さんのおともして帰るという電報があったのやが。これが一つ。この行かれる前に霊眼で見られて金龍海に尉と姥がおられんと言うとりなさった。
 電報が来たとき教祖はんに相談すると神さんにお伺いされて『おすみや、どえらい神さんをお迎えするのやからすぐお迎えの準備せい』とのことでしたが、それからわしは心にふと湧いた思いを早速に、神前にあった狐カヅラで神島の型をつくって三方にのせ、石をのせて月の向こうへ月が出かけたろことをつくったんや。そしてその前に尉と姥、梅と松をかざり、目出度いので鯛をお供えして神様からみろく様がお上がりになるのをお待ちしたのや。これは考えてしたことやない、わしは心に浮かんだまましたんや。これが二つやろ。
 聖師さんに坤の金神(ひつじさるのこんじん)、一行五十人の信者さんにはそれぞれ眷族の神さんがかかって帰ってこられ、その時の土産に聖師さんにもろうたのが不思議なことに尉と姥との絵葉書やったのや。これは三つ。
 それから、播州の神島さまのお宮が建ったときのことやが、海の景色を眺めていると聖師さんが二本の松の小枝を投げられたのや。すると、尚江[注:王仁三郎夫妻五女。大正4年3月5日/旧1月20日生誕]がまだ乳をのんでるころでしたが、一二三[注:王仁三郎夫妻四女]と尚江がひょこひょこ出てきて、小枝を広い、砂をかきかき波際まで行ってまた帰ってきた。そして尚江がわしの乳をのんどりました。このとき教祖はんが『おすみや、こどもがしとるのでない、神様が実地を見せてなさるのやで』と言うとってでした。これが艮の金神、坤の金神様の世の立替立直しの実地を、尉と姥の掃除のなぞで見せられたのや。このようにいろいろと不思議がつづいてあったのやが、これは地の高天原にお帰りになっとるとこやでぇ。
 イヅノミタマ艮の金神様は丹後のメシマに、ミヅノミタマ坤の金神様は播州の高砂沖の神島に世をしのんで陰の御守護をなさってこられたのやが、三千年の時節がきて綾部の神宮坪の内の元屋敷にお帰りになったのや。ちょっと本宮村の因縁を話しときますが、教祖が神がかりになって『出口が本で大島が入り口、龍宮館の地の高天原の宮屋敷と相定まった。この神屋敷はこの方の住居するところ、悪人どもが汚してしもうて、もとの神屋敷にもどしてしまうぞよ』とあります。これにはいろいろの因縁がありますのや。(原文欠落)
 不思議なことが山ほどあるで、みんな神さんから教えられてるのやが……考えてみると、わしもこれからいろいろ大事業があるな。家や御殿はえらいことやが、みんなの信仰とお金でできるのやが、わしの物語は色々の歴史は、わしが昇天したらもう聞きとうても聞けんのやでぇなァ[注:この対談は昭和26年10月31日、澄子教主の昇天は昭和27年3月31日。嗚呼已んぬる哉]。直日のことやいろいろ言うで、乕雄さん、よう聞いてあんた本に出しておくれよ。」
乕雄「間違わないよう万々を期しておりますから、どしどしお話しください。」
澄子「エノキの話だけちょっとしようと思うたのが、またえらい長なってしもたな。もう遅いで皆さんよう寝なはれよ。わしはお先にやすましてもらうでよ。どなたはんもお休み。」
一同「結構なお話をたくさんありがとうございました。お休みなさいませ。」

(※1)
○「庭園」(月明、昭和2年5月)
 古来日本人は、性得淡白にして風雅の趣味に富み、折りにふれては和歌をよみ、句を作り、茶の湯に親しみ、花を活け、あるいは家屋の周囲に種々の樹木を植え、床の間には書画をかけ骨董品をかざり、春は花見、夏は涼み、秋は紅葉狩り、冬は雪見など、そのほか躑躅見(つつじみ)、枯れ野見、虫聞きなぞ、さまざまの無邪気なることを好むものである。ゆえに家屋のごときも、科学文明の力をもつて種々さまざまに工夫をこらし構造せしよりも、むしろ平易簡単なるを好み、宮殿のごとく荘厳を擬(ぎ)したるよりも、野趣満々たる藁屋根づくりなどを、風趣ありとなすをもって、平常の住居にも、石畳、煉瓦造りなどの類は厭い、多くは木造の書院造りにおるをもって、もっとも理想に適したるものとしていた。ゆえに家屋はたいてい東面、南、面として建築するを例とする。西または北に面するを厭うは、陰に向かうのみならず、西または北の烈風を避くるためにも好都合であり、日光をうくるにも勝手がよいからである。
 日光は日の神の御光て、この光をうけざれば、いっさいの生物は生存すべからずと思えるをもって、古来の国民は、とくにこの点に注意していたのである。日光の有無多少はもとより、人身の健康にもおおいに関係あることなるをもって、南面または東面をえらぶはもちろんなれども、人身以外に庭園をつくるにもまた便否の差がある。樹草のごときは日光のよくあたる地でなければ繁殖しがたく、果実にいたってはとくに影響があるものである。ある人の説に、すべての花は南方に向かつてひらくをもって、人は北方に向かうを便宜とすなどといつている。
 しかれども、夏時に草花などを室内から眺めるには便宜であるが、しかし日本の庭園は、室内より眺めるのみにあらず、朝夕に立ちて逍遙(しようよう)するがためなれば、草木のほかにも岩があり、泉水があり、灯籠も橋もあり、あるいは山形も丘陵もあり、小さい祠などもある。されば机上における盆栽とは趣かわり、ほとんど日本人の邸宅は小公園をそえたるごとき観がある。また日本の神社仏閣などはほとんど公園のごとき庭園を有し、一般賽者や、公衆の遊楽場となれる趣がある。しかしながら、わが国は家々の小さき庭園といえども、すべてが宇宙の縮図として惟神的に伝わってきたもので、ただたんに家人の目を慰め清鮮の空気を吸い、あるいは朝夕、散歩逍遙するのみが目的ではないのである。
 しかし現在の日本人はそういう意味は全然忘却し、人の目を驚かすような珍木奇草を植えこみ、大金をだして珍しき岩石や、あるいは由緒ある古寺の灯籠や仏像、はなはだしきは古墓の五輪の片砕などを持ち込み、一見、墓場のごとき光景を演出し得意がっている時代である。庭園の入り口に、巨大なる銅鉄または石造の獅子の巨像を据えてみたり、化け狸が一升徳利を手に提げばっちょ笠をかぶり、酒買いにゆくところの陶器像を据えてみたり、種々さまざまの奇怪事を平気でやり、四つ足身魂の本性を発露しているのは、じつに歎ずべきしだいである。
 すべて人間の庭園は、宇宙の縮図であり、天地の移写である以上、屋敷内においてもっとも清浄の地域であり、天地神明の昇降される至聖所であるから、なるべく冬枯れのしない常磐木を植えこむべきものである。松に杉、檜、木斛(もっこく)、木犀(もくせい)、樅、多羅葉(たらよう)、躑躅(つつじ)、梅、南天、青苔、万年青(おもと)、岩檜葉(いわひば)、棕梠(しゅろ)などは、もつとも庭園に適当したる植物である。そうして天地神明のお休み所となし、一面には歌人や、客人の心を清め、かつ疲労を慰する唯一の機関とすべきものである。外国などは個人の住宅に庭園がないから、机上に草花をかざり、挿し花などして心を慰め、日曜などには、とくに公園をつくって一週日の疲れを慰することとしているのである。
 わが国にても東京、大阪のごとき大都市にあっては、地価も高くしたがって住宅も狭隘であるから、個別に小庭園をつくることができない。富豪の家庭は別として中産以下になれば、とうてい居ながら小公園を見て楽しむことができないから、大公園の必要も起こってくるが、山や野につつまれたる田舎の小都市に公園をつくるなどは、じつに不必要な、無用の長物である。近き例をいえば戸数千戸にたらない山間の園部町には、小麦山公園という土地不相応のものが設けられ、綾部のごときも、形ばかりの公園がつくってある。しかしながら山水の美に飽いた土地の人士は、一年に一度も足を向けたものがないくらいである。大都会に公園があるといって、田舎の町村まで公園をつくるなぞは、じつにばかばかしい無意味のことで、要するに猿の人まねである。

 かくいわば、「青垣山を四方に繞(めぐ)らした、山紫水明の綾部大本になぜ大なる庭園をつくつたか」、と反駁するものがあるかもしれぬが、綾部大本における庭園は、大都市の公園や、個人の家屋に添いたる庭園とはおおいに趣を異にしているのである。天地創造の主神が、永遠に鎮まりたまう天国の移写であって、天地相応の理により、天上の荘厳なる、神苑の形はたちまち地上にうつり、地上の荘厳は『また天国に相映ずるものであるから、大本の神苑は一木一石の配置等にも、すべて言霊学を応用し、左進右退、霊主体従を基としてつくられてあるので、天国に大なる湖水があれば、したがって地上神苑内にも湖水をつくらねばならぬ。金竜池のごときは、天之真奈井湖(あめのまないこ)の移写である。そうして池中の島々は、五大州に形づくられ、天国にもやはり五大州が写っているのである。丸山の蓮華台、和知の清流、四継王の山 天王平、味方富士、弥仙山、三岳山、大江山、烏ヶ峰の高山や清川がとりまいているのも、要するに、天国の中心地点と寸分(すんぶん)のちがいないのである。
 ただ、綾部の神苑に欠けているのは、花壇の設けがないことである。天国の神苑には、樹草いっさいときじく花が咲き満ち、芳香を薫じ、天人をしてつねにその美に酔わしめ、その心を清めしめている。
 しかるにもかかわらず、天国の移写たる綾部の神苑に、梅をのぞくほか、いっさいの花を植えつけることを忌み嫌い、自分が神命をうけて、種々の花を植えこまんとすれば、極力迷える役員信者たちが妨害をくわえ、自分を悪魔の反映とまで嘲笑し、花の心になれば世が乱れる、なぞとわけの分からぬ地獄魂を発揮したため、不幸にしてまだ完全なる天国の移写ができていないのである。
 花は造化の心の現われであって、花を愛する心のなきものは、けっして神を愛するものでない。蜂や蝶のごとき虫類ですら、花を唯一の伴侶とし、命の親として愛している。しかるに人問として花を愛せない道理があろうはずがない。大正十年以前の信者の精神は、いっさいの花を悪魔とみなしていたものである。花を愛する心はすなわち人を愛し、神を愛し、万有を愛する心の現われである。何人といえども、一輪の花を見る時はただちに心身に爽快を感じ、かつ濁らんとする魂の水も、自然に清まるものである。汚濁の極に達せる現代を救わんとすれば、まず人心の汚濁を清めなくてはならぬ。かつ汚濁を清むるには第一着として、優美なる、高尚なる、芳香の薫ずる一、二輪の花から、縁づけらるるものである。

 自分は、まだ綾部の聖地において、完全なる天国の移写を現出することができないことを悟り、大正十四年の春より意をけっして亀山城趾にたて籠り、まず霊国の移写工事を開設せんものと、埋もれし石を掘りだし、高大なる石垣をつくり、園内隈なく雑木雑草をとりはらい、清爽なる大神苑をつくり、一方には花壇、温室[注:温室は下記の理由で廃止]などを設け、四季の花を咲かせ、地上の霊国を実地に建設せんとしているのである。
 また芸術の都として、第一着手に楽焼きの釜を据え、さかんに珍器をつりくだし、活版所を新設し、明光社を創立し、和歌、冠句、その他の文芸を奨励するなど、夜を日についで大活躍をこころみているのである。亀岡の城趾を花明ヶ岡と改称したのも、花によって、神の心をなごめ、求道者の心を清め、役員信徒の心身に爽快の念を与え、更生の恵みに浴せしめんとするためである。信徒のなかには神の教えをする天恩郷に、温室や花壇の必要はないとか、西洋かぶれだとか、ハイカラだとか、蔭で小言をいっている方があると聞いたが、そういう人でも、きつと美人を見、美花を見た時は、けっして閻魔顔はせないであろうと思う。

○「温室をやめた理由」 玉鏡(昭8/8)
 大分長い間温室に於て花を育てて居た。それは天国の移写たる聖場には、冬といえどもも花がなくてはならぬからであった。だがガラスで囲って温湯で暖めてやらねばならぬやうな花、外へ持ち出すとすぐ萎れるやうな花は到底駄目である。雪霜を凌いで其中に凛として咲くやうな花でなくては物の役に立たぬと思うて、断然温室栽培をやめる事にしたのである。


(※2)
大本神諭「大正4年旧11月6日(火の巻)」
 今の御用は、どの身魂でもと云ふ事は行かんのであるから、時節を待ちて因縁の身魂が寄りて来んと、ほかの身魂では頭(てん)で判らんから、その系統(ひっぽう)の身魂でないと判りもせず、改心も出来んから、その系統の身魂に御話しを致させると、自分が是までして来た事が、肝胆(きもたま)に感動(こらえ)て来て、依然(じつと)して居れぬ様に成りて、その系統系統へ判りて来て、思ふたとは何彼の事が延びた丈は、速う成るやうの仕組がしてはあるなれど、何に就ても事業(こと)が大きなから、余り肝胆の小さい守護神に使はれて居りて、愚図愚図いたして居りたら、全然(さっぱり)後廻しに成りてしまふから、我と我身を攻める事に成るから、余程大きな心を持ちて居らんと、万古末代に一度の結構な御用に外れる事が出来いたすから、神がクドウ何時までも気を附けるのであるぞよ。

(※3)
○この火事の意義については出口澄「おさながたり」 思い出の記6 尉と姥に詳しい。他の言及については以下を参照のこと。

出口澄「花明山夜話(八)」
澄子「今度の火事(昭和25年12月31日午前2時、亀岡天恩郷本部事務所焼失)は、日の出で目出度いのや。火のない楽天社から火が出たのやで、これからは、楽天社は大きくなるで。昔から焼け太りというが、今年はようなるで。ちょうど焼けた時間が暁方のさし潮やろう。それに同じ晩、舞鶴でも火事があって、鶴亀から火の手があがって日の出を向かえたのや。それが明けて卯の春やろう。宇知麿(王仁三郎夫妻三女・八重野の夫)が卯の年で、聖師様は宇知麿をつれて外国にいって働いとってや。」
木田「町の人が大本さんは、焼け太りやで見とってみいと言うでいます。」
澄子「これは神様がなさったことや。しかし皆は反省するところは反省し、本当に元気を出して、千騎一騎の御用をつとめさしてもらわんならんで。」

出口澄「三位一体の御用」
 この間の火事ですが(昭和25年12月31日、亀岡天恩郷事務所焼失)、あれは神様のおいましめであり、お怒りではありますが、結局のところ目出度いことです。あの時、亀岡から電話で「いま燃えています」と知らせてくれたのですが、妙なことに私は、ちょっともびっくりもせなければ困ったなァとも思わなかった。腹の底から、めでたいな、結構やなァ、と思えて来るのです。
 一番最初に火の手が上った焼け跡の灰の中から尉(じょう)と姥(うば 15cmくらいの木像)とが出て来ました。周囲にあった十六束の薪はすっかり燃えてしまっているのに、尉と姥は焼けないどころか、ちょっとも焦げもせず色も変わらずに、そのまま出て来ました。不思議なことですな。尉と姥とは水におぼれず、火にも焼けず、と言い伝えられているが、その通りでした。
 亀岡の火事と時間もほとんど同じころ、舞鶴の方にも火事があったのですが、尉と姥には鶴亀が付きものです。めでたい夜明けの火の出で鶴亀の仕組です。世界的の御教えの火の手が上ったのです。これからは、しっかり信仰をはげんでもらいたいと思います。とにかく、聖師さまの御昇天から今日まで、非常に結構なことになって来ております。節分祭を間近になっているのに、皆さん遠いところ、ようお参りくださいました。


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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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