出口澄「花明山夜話(十三)」

○出口すみ子「花明山夜話 (十三)」(教示集 「木の花」昭和26年8月号)

金重陶陽=金重 金重素山=素山 佐々木松楽=松楽

乕雄「今晩の集いは瑞生大祭を迎える、『木の花』八月号の夜話になりますので、いろいろ聖師さまの御生前を偲びたいと思いまして、特に聖師様晩年の最大の御事蹟たる耀盌製作の詳しい模様を、当時側近でお手伝いされていた内海さん、松楽さんらに伺いたいと思って、ご足労願いました。松楽さん、楽焼製作を始められた前後の模様から一つ……。」
松楽「終戦の前の年ですから昭和19年の12月28日の晩のことでした。中野三郎(義弟)が日向さんと来ると言っていましたので『今晩は』と入って来たのにもその心算でいたのです。家内が丁度留守にしていましたから、聖師さまということを知らなんだ。私の寝ている枕もとに座られてから気がついたわけで、飛んで起きました。えらい間違えてしまってね。その時は森良仁さんがお伴していられました。聖師さまが私に『土持って来てんか』と言われるので持って行くと、『こういう格好のものをつくりたいから、土の段取りしてんか』というわけです。こねた土を渡しますと一つひねられて『この式でやるのや』とお示しになりました。その式で二十ばかり大晦日までにつくり、元日に下焼きしたのを持って行きました。それに聖師さまが『トリ』の絵を描かれすぐに持って帰って焼き、農園におさめたのですが、そのあくる日ぐらいから来られたのです。新年の挨拶にみんな来ているのにその眼の前でセッセと絵を書いておられました。」
内海「正月早々、聖師さまが私にお伴せいといわれて、二人して町を見物して歩いた。すると知らん人が『どっちが爺さんやろ、婆さんやろ』と言っている。はじめ大阪から来た中川さんの所に寄り、藤津さんに寄って次に南さん、木庭さん、それから東尾さんに寄り、最後に家口さんに寄って今度は宮口さんを加え三人になり、松楽さんの所に行った。その時以来ずっと最後までお手伝いをさせてもらいました。」

(中略、原文欠如)

松楽「はじめは割り木入れにしようかと思って今の家を千五百円で買うたのです。月に二束か三束しか割り木の配給のないころで、それで亀岡の割り木を京都に運んでつかう心算でしたが、戦争がきつうなってきて、割り木の持ち出しがきかんようになった。とにかく何千という割り木です。交通が不自由になり車に積んで運ぶのやが、途中で巡査が誰何(すいか)する。『京都に持ち運ぶことはならん。組合に半分持ってきたら運搬の許可証を書いてやる』という有様です。そして『陶器をやりたかったら満州にでも行ってやれ、ここでは絶対焼くことならん』と商工省の役人が言う時代です。そこで亀岡に引っ越してやろうと思い、京都から三千斤(約1.8トン)の絵の具を持って昭和十九年の八月十五日にやって来たわけです。
 ここに来たら割り木があるから十年ぐらいはやれると思っていたのです。聖師さまが後ほど『わしがひっぱって来たのや』と言われたが、京都でやろうとしても絵の具はあるが割り木がない、亀岡なら絵の具もあるし割り木もあるというわけです。さしずめ問屋は土屋が京都に取りに行こうとしても、陶器の職人がみんな軍需工場へ転向して土もなし、庭に少しこぼれとるぐらいのものです。聖師様は農園の裏の池の土や天恩郷の土を取って来いと言われたが、それは非常に弱い土でポサポサのホロイ壁土よりもホロイ土です。素焼きにしたらボサボサッとゆくのです。それで結局京都の腰の強い土と混ぜて使うということになり、私が日曜ごとに京都から少しずつ背負って土を運びました。そんなわけで京都の土を混ぜて、どうにか形が崩れぬようになり、どんどんお茶盌が焼けて行ったのですが、さっき申しました何千束と買い込んだ割り木はそういうわけで聖師さまの焼き物に使うことになったのです。」
乕雄「戦争中のあれだけ極度に物の欠乏している時代にあって、あれだけの優美な作品を、しかも多量に生み出されたというところに聖師の面目がありますね。」
松楽「上絵付けの絵の具など各地方から聖師さまのためにと言ってドンドン送って来ましたが、聖師さまのような高徳の方なればこそ、あの物の不自由な、何もない時にでもああいう風にできたのだとつくづく思いましたね。そのころ亀岡の内丸にあった軍需工場に行っていましたが、……五時に帰宅すると聖師様は更生車で来て待っておられる。早速土のこしらえをせんならん。昼の間に内海さんが『カンナガラタマチハエマセ』と言いながら土はたきをして細こうしてくれている。それを私が帰って来て練るのです。たいがい夜の十二時ごろまでやりましたね。おそい時は一時ごろまででした。(原文中略)聖師様は大きなことばかりされて、昔(昭和十年以前、前期楽焼製作時代で絵付けだけを主にされた)素焼きの茶碗をトラックに一杯注文されたりしましたね。それに絵付けをされ明光社の庭に築いた窯で焼き上げておられました。」
乕雄「当時明光の短歌や句の賞品にその楽焼をどんどんお分けになったものです。」
金重「事件前に、聖師さまがご自分でひねられた大きな茶盌がありましたが。」
松楽「あれは私たちがお手伝いさせていただく前にやってられたのです。谷前さんがお手伝いされていましたが、初めは電気窯でやっておられたので夜しか焼けないのです。また停電の時もあったりして、日出麿さまがお父さん(聖師)が気の毒だとおっしゃって昼にも焼けるように改造してくれとおっしゃったのを母が聞いて来て、私と父とで行き、安生やからに二、三日泊まって窯を築かせてもらいました。窯が完成して試験の具合も良くて京都へ帰ろうとしていますと、聖師様からしばらく待っとれという伝言です。それで待っていたのですが、その日は衛生掃除の日で、陽の暮れになってからやっと農園かどこかへ避難してらした聖師様が帰ってこられました。腹も減るし、御挨拶だけ済まして帰ろうとすると聖師様が待っておれと言われる。二、三時間も待ったでしょう。後でわかったのですが、その間聖師様は冷めている窯に火をいれて本当に焼けるものかどうかを見ておられたのです。私は聖師様をそれまで知らなかったので『何とこの二人は素人なのにえらいものやなァ』と思っていました。二、三時間待たされてから晩の九時か十時ごろでした、立派な御殿に案内されました。
 見ると綺麗な近侍の人が三十人ほど並んでいます。そこで大変なご馳走になったのです。どうしてやろうと思って聞くと『窯開きのお祝いや』ということ。『マア一杯やってくれ』とじきじきに聖師様から盃をもらいましたが、それが一番はじめでしたね。」
素山「私は昔からカマタキでしてね。それでつい、その明光社の窯の口をいらっていて叱られたことがありますよ。」(笑い声)
内海「聖師さまのされることは、すべて先端を切ってられた。世界の型を見せるぞと言われたが。」
乕雄「全くその通りです。加藤さん(日本美術工芸社主幹、加藤義一郎)が明日の茶盌といわれたゆえんです。松楽さん、驚いたでしょう。あんな赤や青の茶盌がどんどん焼けて。」
松楽「なんということをされるのやろ、と思っていました。彩色一つにしても子供のやるようなことをされると思って観ていました。」
乕雄「今までかつで類がないのですからね。」
日向「何で茶盌をつくったかということをおっしゃってられませんでしたか。」
内海「『五大州を型っどっているのや。それをこの茶盌に示してあるのや』と言われていました。」
素山「『霊がかかって来る』とか言われたと聞きますが……。」
乕雄「天然色の幻灯を創るため、金重さんに『天国二十八』を御持参願っているのでご披露願いましょう。」

――金重陶陽氏 秘蔵の天国二十八を出される。

金重「(感嘆して)実に端正な、実に素直な形ですね。」
直日「(工房の隅で楽茶碗に絵付けしていられたが、筆をとめ)いつ見ても驚くほど新鮮な感じですね。……」

――苑主、瑞祥館からやって来られる。

直日「お母さん、いらっしゃい。」
澄子「どうもようけ見えとるやなぁ、こんなにおっちゃったら恥ずかしいなぁ。(ちゃんと座って)ハイ、皆さん今晩は。」
乕雄「お母さん、今晩は聖師様がお茶盌を造っておられたころの話をいろいろ伺っているところです。この茶盌が加藤さんが一番最初に雑誌にのせて紹介された『天国二十八』です。」
澄子「ああ、ええこと。あのおじいさん(内海さんに)おじいさん言うたらいかんのかいなァ。聖師さんがおいでる自分、毎日茶盌焼きに行っとりなさったこと思うとなつかしいなァ」
内海「二人とも二代さまに気兼ねしながら行ったもんです。」
澄子「ほんまに済まんとおもいますわ。二人とも私にかくれてコソコソ行っとってやった。『どこぞへおすみが早う行けばよいのに』と言うてやったそうな。……あんまりきばられて病気にでもなってはと、心配したのや。ヒョロヒョロしもって車から下りても私が玄関まで迎えに行くと、シャンとしてな『えろうござんしたやろ』と言うても『イヤ、エロウないエロウない』ときばっとってやったが、たんまに行くとよにやが毎日のようにつづけて行かれるのでなァ。……茶盌造りに行っての時は私の顔を見て内海さんの顔を見とる。ハハア今日行くのやな、とすぐわかったで。内海さんが土をやっとってやったんかい。」
内海「ええ、寒中でも寒いとか冷たいとか少しも感じませんでした。普通ならできんが、あの時は土にさわっていても平気の平左でしたね。」
澄子「なんぼ窯したのかい。」
松楽「三六回でした。」
澄子「ああ、“みろく”やなァ。それは自然にそうなったのか、それとも自分でそうしたのか、どっちやろ。」
松楽「別に一回二回というように数えて焼いたわけではありませんでした。後で帳面の記録を見たら偶然そうなっていたのです。しまいのころは腕が動かんと言われて、(お傍付きの方や)家内がよくおさすりしていました。一つひねっては一服され、一つしては一服されながらやってられました。」
素山「一窯くらほど焼かれたのですか。」
松楽「平均すると百五十くらいでしたか、とにかく一生懸命でしたからネ。」
澄子「茶盌にかぎらずなんでもや。ほんまに憎らしいほど一生懸命にやっていましたな。……天恩郷の月の輪台を造りなさる時も[注:太平洋戦争敗北後]テントの下で工事を指揮しとんなさったが。私が一日一緒にいましたが、私のような上部なものでも、一日テントのしたにいると二、三日えらかった。それに聖師さんは朝から晩まであっちこっちと指揮してな。帰ってからフラフラッとされたものやった。……月の輪台ができ上がったその日から病気になられたのですな。」
日向「そうなんです。月の輪台を築きおわられてから病気になられたのです。月の輪台に参拝していますと聖師さまの霊魂が本当にこもっているような気がします。」
乕雄「松楽さん、お茶盌焼いておられたころの話を続けてください。」
松楽「一回焼けると百五十から二百の綺麗なお茶盌が、床の間から座敷からいっぱい並ぶのです。全く壮観でした。日曜ですと私は会社をやすんで、その日はカマタキをするのですが、朝起きて顔を洗って表の戸をガラリとあけるのと聖師さまが入って来られるのと殆ど一緒です。戸をあけるといつも立っておられました。南さんの更生車を待ってられんと言われて、よく歩いて来られました。尻からげをしてね。それから聖師様は彩色を一日中され、できたのから私が焼いて行く。その中 二、三の人が車を持って焼けたのを取りに来られるのです。茶盌を焼き尾張みんなしもうて入って来るまで茶盌を並べさして見ておられるのですね。『ただ今終わりました』と言うと『御苦労やったな、みんなこれをみてくれ』 みんなをそこに集めて『ドヤ、ヨイヤロ』と言われた。また帰られる時、よく『松楽さん、こんなに立派なものが、丹精してできたのやが、これをわしが持って帰ったらお前淋しかろう。また二、三日したら来るでな、辛抱しとってくれ』と申されるのですね。私はそれを聞くだけでうれしくて……。普通の人ならできたらサッサと包んで自分だけで帰る。後のことなどほっときよる。どこの旦那でもそうです。しかし聖師様はそうでない。みんなが跡片付けしているのが済むまで待ってござる。それからみんなで包むのですが『さあ、これあげよう、内海さん、ホイ南さん』という具合にみんなに一つずつあげられる。包むのが終わると御自分は更生車で先頭になられ、その後ろにリヤカーで五台ほどお茶盌を満載して意気揚々と帰られるのです。」
金重「桃太郎が宝を持って帰るようですね。」
澄子「まるでそうでしたよ。鬼ヶ島から帰って来るようやった。桃太郎さんみたいになァ。」
素山「五時から夜の十二時までにどれくらいされたのですか。」
松楽「一日に、と言っても日の暮れから十二時ごろまでに二、三十ですかな。それを一週間ぐらいつづけられ、日曜日に彩色されたのです。」
澄子「『今日は途中で人が来やがったので、グニャグニャとなってアカなんだわい』と言うてられたことがありました。」
内海「お客さんが来ると必ずお茶盌がわれた。それで私はみんなから意地が悪いといわれたが、お客さんはみんな帰ってもらった。」
澄子「焼く時、グニャッと潰れる事があったとか……。」
松楽「それくらい、ここの土はホロイ土なんです、ひねっていると水がジトッとわいて来るほどで、ちょっと横を向いていると、すぐペタンとつぶれてしまうのです。それで『人が来るのがかなわん』と言われるのです。」
乕雄「専門家が、よくこんな腰の弱い土で茶盌がひねれたものだと感心していました。」
内海「聖師さまは必ず、焼き上がった時など『みんな自分の好きなのを持って行け』とおっしゃったが、決してそのお言葉に甘えたらいかん(※1)。いい気になってやろうものなら……(聖師の顔を真似ながら)人はキョロキョロして、あれがよい、これがよい、それがしまいに口に出て来て『これはヨイ、これはワルイ』と言い出す。聖師さんと私はホラホラ、またハジマッタと見合わしたものです。私は『聖師さまのやろうとおっしゃるのをいただきます』と言うのです。」
松楽「本当に、みんなにわけらる時内海さんはいつも逃げて帰ってこられたですね。それで聖師様が後で内海さんの持って帰られたものでした。」
内海「聖師様におまかせしておきさえすれば、いいのをよってくださるからまちがいない。『ホレ、持って来た。このスレッカラシめが』と持って来てくださる。『イヤ、コレハコレハ』と……。(三拝、九拝のゼスチュアたっぷり)『スレッカラシめが、ホイッ』というわけです。」
乕雄「『スレッカラシ』と言われたのですな、なるほどね。内海さんがそうやって聖師様にいただかれたというお茶盌を一つ披露してください。」
金重「ぜひ、一つ拝見させてください。」

(数人が出掛けて行って内海さん秘蔵のお茶盌数点と聖師手作りの楽焼のコンロを持参する)

澄子「(コンロを見て)アレアレおもしろいなァ。」
日向「これは内海さんの顔ですよ。」
澄子「ホウ、なるほど。」
内海「『口が似とるやろ』と言われたが、これは天下一品でしょう。」
金重「こりゃいい。」
日向「これでカンカンと火をおこすのです。」
内海「これは天下一品をいただいたと思った。」
日向「とにかくこれは他にないですね。」

(――内海翁秘蔵の楽茶盌を順次箱からとりだしてそれに見入る)

乕雄「これはみんな直日様が銘をつけられたのですよ[注:銘付けの様子は出口澄「花明山夜話(八)」を参照]。みな逸品ばかりです。それに信者さんでちゃんと仕服(お茶盌を包む袋)を作られたのは内海さんが初めてです。」
内海「エヘヘヘ、有り難い仕合せで…。」
松楽「この箱や仕服をつくる時『京都で一番の道具屋を呼んで来い』と内海さんが言われた。そんなことしたら高うとられるからドモナランというと『わしは江戸っ子や、取るだけ取れ。ケチケチするねィ』と言われましてね。」
内海「先へ行けば行くほどよくなって来るからね。」
澄子「あんたまた大したもの持っているやなァ。」
内海「(手を合わせて)神様からちょうだいしたのです。」
澄子「仕服も立派なものやな。」
乕雄「何と立派な茶盌ばかりですなぁ。」

(――若女(シャクメ)や内海など銘のついた耀盌続出)

乕雄「内海さん、いずれも『牡丹芍薬花菖蒲』というところどすな。」
澄子「(内海翁に)スゴイ、おっさん、タマランほど良いわ。」
乕雄「内海さん、二代さまがタマランほど良いて(内海翁、耳が遠いので大きな声で取り次がれる)。」
内海「エヘヘありがとうございます。」
澄子「私にな、こういうものに気がなかったから、みんながお茶盌もらえたのやで。私が好きやったらみんな私がもろうてしもうて、あんたらの手には渡らなんだかも知れんのやで、ほんまに。」
(笑い声 拍手)
内海「ハァハァ。」
直日「今感心するほどあのころ私が感心していたら、お父さんは本当に喜んで何ぼでもくれちゃったやろに。」
乕雄「これもやっぱり神様の摂理ですね。そうなっていたら、みんながたまりませんよ。」
澄子「松楽さんのとこへ行く時は、道で車をまたしといて、逃げるようにしてなァ、まるでヨメはんにかくれてベッピンさんのところへ行くようやった(中略)」

(――次々に出される耀盌に)

金重「よいお茶盌ですなァ。これはよい。おおこれもいお茶盌ですね。」
乕雄「『紫野』という銘です。この時ぐらいから藤色が多くなりましてね。色がなくなって、みんなをかきあつめて描かれたのでしょう。……こんなに藤色にあがっているのはそう無いですね。」
葉山「みんなよいですなあ。」
金重「(一盌を包んであった白羽二重のフクサに目を留め)二代様、良い記念になりますのでこれに何かお書き願えませんでしょうか。」
内海「書いてくださるなら、トットキの墨があるから、それで願いましょう。『あとになるほど艶が出る、わしはこの墨ばかり使う』と聖師様が言われたのでね。」
澄子「『土コネリのお兄さん』とでも書こうか。」

(――内海翁、墨と硯を持参して現れる)

内海「……聖師様が『墨をするのは男じゃいかん女にすってもらえ、男は気がみじかくて、力を入れてゴシゴシやるからいかん』とおっしゃった。」
日向「それでは男にはワサビをすらせたら良いでしょう。(笑い声)……私は聖師様から水さしを頂いた。これがまた素晴らしいのです。ところが蓋が忘れられたのか、なかった。それから半年ほど過ぎてから蓋をいただいたが、チャンとおぼえてられましたね。そして道具一揃いになるまで次々に一つずつ頂きました。」
澄子「『先生、たんと焼いちゃったけど、わしには一つもくれらんですなァ』と冗談いうと『みんなお前のや、みんなお前のや』と真に受けていうてはったで。」

(――苑主、白布にいよいよ揮毫を始めらる)

澄子「“土こねり”かいな。」
金重「“土ハタキ”です」
澄子「“土ハタキのお兄さん”と……。年なんぼや。しかしお兄さんと書いたから歳はモウいらんか。」
金重「そのあとへ『すみ子』とお書きになりましたら、もう結構なものでございます。」
澄子「そうかい。」

(それから年月日をお加えになり揮毫を終わる)

内海「盆と正月が一緒になったみたいだ。イヤイヤ、これはアリガトウゴザイマス」(ゼスチャア充分)
金重「私、二代さまにおねがいに上がろうと思っていたのですが、今築いております本窯で瑞生祭の時に初窯を焼かせてもらいたいの思っておりますが、窯印は二代様に書いていただいて捺したいと存じますので、一つお願い致します。」
澄子「何と書くのや。」
金重「“かめやま”と書いていただければ結構でございます。」

(――かくて白紙に“かめやま”と書かれる)

金重「ありがとうございました。」
乕雄「それではこれが最後です。(と言っておしまいの茶盌の箱のフタをとる)やっぱり最後にはいいのが出て来ましたよ。

   春の夜のぞみをあやしむめの花
     色をも香をもしる人ぞしる

   (直日様の箱書きになる歌)“色香”というのですね。」
金重「これは珍しいですね。綾になっているじゃありませんか。このようにたくさん並べて見ますと目まいがするほどつかれますね。」
日向「これは全く歌通りのお茶盌ですなァ。」
金重「仕服には二代様の織られる鶴山織りでやるとよいのですがね。」
澄子「ああ、あのネクタイにしているようなのかい。ぜひ織らしてもらいますわ。」
金重「ええ、そうお願いできれば全く素晴らしゅうございます。」
澄子「ああ、今夜は立派なお茶盌よけいに見せてもろうて、目の正月やったな。それでは帰らしてもらいますわ、皆さんおやすみ。」
(苑主が帰られたのを機に一同も散会)
注:佐々木松楽氏は京都の清水で親の代から引き続き楽焼を焼いていられる陶工。戦争ちゅ、亀岡下矢田町に移住、ここの庭に築かれた楽焼窯で耀盌は製作され、松楽氏は一貫してそのお手伝いをされた。なお内海翁は槌で陶土を叩くお手伝いをされたのである。


(※1)
○出口王仁三郎『水鏡』より「霊と記念物」
 霊と云ふものは、篭めれば篭める程深くなるものである。私は茶碗を一つ捻るにも一々性念を篭めてやるのであるから、深く霊が入っている。それ故、この器で毎日湯でも茶でも呑んで居ると、相応の理によって、”お蔭”を頂けるのである。私が遣らうとも思はぬのに、呉れ呉れと云ふて貰っても、お蔭は少い。又遣ろうと思ふものを辞退するのもお蔭がなくなる。滅多に人から記念物を貰ふのもよくない事である。霊が反対して居ると、品物を貰ふたが為めに、とんだ災難を受ける事がある。生前お互が好意を持ちあうて居たものの記念物で無くては貰ふものでは無い。又自分が一番愛して居たものに一番霊が篭もるものであるから、昔は其一番愛して居たものを御神体として祭ったものである。但、心を篭めると云ふのと、霊を篭めると云ふのとは意味が違ふ。


○『水鏡』より「御手代と国替」(大15/9)
 国替をすると、御手代や、楽焼のお茶碗お盃などを其人の所有として埋めてやれ…と聖師様が仰有ったと云ふ怪宣伝があるさうだが、そんな事は決して無い。それでは折角私が霊を篭めて造ったものが、皆地中に埋もれて仕舞ふことになる。そんなつまらぬ事をしてはならぬ、後に取っておいてお祭りの度に供へるやうにしたらよいのである。



テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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