出口澄「花明山夜話(八)」

○出口すみ子「花明山夜話 (八)」(教示集 「木の花」昭和26年1月号)

山本萩江「年の初めで、何かと御多忙のところ、ご迷惑とは存じましたが、実は二代さまが明日綾部にお帰りになりさらに紀州路に御旅行になるよう承りましたので、今夕突然新春”花明山夜話”の催しを行うことになり、工房にお集まり願いました次第です。どうぞよろしくお願いします。」
乕雄「二代さまは?」
山本「ただ今、瑞祥館に参りまして申し上げましたところ、ご揮毫の最中でして、済み次第に来てくださるとのことでした。」

――その時、内海健郎ご入来――

内海「三代さまはこちらでしたが、これはうまいところへ参りました。カムナガラタマチハエマセ。」
直日「まあ内海のお爺さん、狂言を見ているようですわ。」
内海「新年早々、聖師さまのお茶碗の袋と箱ができて参りましたので、今日は銘をお願いして箱書きをしていただきたいと思いまして、どうかよろしくお願いいたします。それでは早速に捧持して上がります。」
直日「お爺さんになるとよろしおすな、人の言うことは聞こえなくとも、自分の言いたいことだけはさっさと言っといて。まあ、どうしましょう。箱書きなど、うまくできますかしら。」
乕雄「ご謙遜には及びません。あんなに喜んで帰られたからには、すぐに御持参ですよ。」(笑い声)
日向「内海さんはこの前の病気でもう危ないところまでゆかれたのですが、その時奥さんに『ほかに心残りはないが、聖師さまがあれだけ精魂込めてお造りになり しかもお手づからお授けいただいた楽茶碗が、まだお箱もさしていただけないままになっている』と言って嘆かれたということです。ところが御神徳を頂いて命拾いをされ、私がお見舞いにあがったとき、そのご相談をうけましたので、京都で名人と言われている方に一切を依頼してあげたのです。」

――内海翁角盆の上に置き並べたる数個の桐箱をささげて再び御入来、座に着くや直ちに一個を直日先生の前に――折から苑主(澄子)、梅田夫人をつれて御光来――

内海「これは、これは、二代様まで、また今日はなんて間がいいんでしょう。カ・ン・ナ・ガ・ラ・タ・マ・チ・ハ・エ・マ・セ。」
直日「内海さんの面白いこと。」
澄子「やっこらしょ。内海さんもきとってんか。」
乕雄「お母さん、どうぞお炬燵に。」
澄子「これはええ具合やな。わしも綾部にこういうところを作りたいなぁ。」
木田「それはぜひ、綾部の機場(はたば)は芸術的な工房にさしていただきたいものです。」
直日「内海さんどこでお作りになりましたの、よい箱ですこと、袋もよく合っておりますわ。」
内海「いくらかかってもいいから、充分に念を入れて作ってくれろって、そう言ってやりましたので。」

――名物裂うつしの袋より、まばゆき藤色の耀碗が現れる。

直日「まあ。」
乕雄「これはすごいものですな。他に類形がないように思います。」
日向「なるほど内海さんの秘蔵のものだけあり、まことに御立派なるものを。」
直日「藤色というのでしょうか、古代紫といいますか、このような美しい紫を私はまだ知りません――“紫野”――そうです“紫野”という銘にしましょと。平安朝のころの朝廷の薬草園の名です。そのころは普通人は足を踏み入れることさえ禁じられていましたそうで、往時の紫野は美しい極みであったことと偲ばれます。」
澄子「みればみるほど、よい“うつわ”やな。ようこんなものが作られたものどすな。」
直日「東京で久志さんという方でしたか、父の作碗を孤高の作品という言葉で賞めてくださいましたが、本当にそうですね。こういう美しいものを作っても周囲には誰も美を理解するものがなくて、どれだけ淋しいことだったでしょう。そういう寂しさの中で孤独に美を楽しんでいた父の孤高の精神が作品をみているとわかってくるようです。」
澄子「ほんまに、誰も賞めて上げるでなし。」
乕雄「父が宗教家であったと同時にこのような美を創り楽しんだ芸術家であったことは、まだほんの少ししか認められていません。しかし私たちは今からでも、父の真の姿を学ばさしていただきたいと思います。」

――つぎつぎと机の上に桐箱が運ばれ、桐箱の蓋がとられると、中から緞子(どんす)の袋に包まれたまま出され、袋の口袋が解かれて、耀盌がその名の如く人々の目の前に耀き初める。この日の耀盌は加藤義一郎先生も御覧になってないらしく、みなさまも初見にて、一つ一つ机の上におかれるごとに感嘆の声があがる。

日向「これは内海さん大したものばかり頂いておられて、いままで秘しておられるとは。」
澄子「喜んどってやったはずや。両手で脇の下にかかえるようにして見せにきてやったが。」
直日「まあ、まあ、ほんとうにどうでしょう。こんなによくては銘のつけようがありません。」

――“花影”、“春日野”、“若女”、“潤水”とそれぞれのお茶盌に銘がきまり、また嘆声がおこる――

乕雄「内海さん鼻が高いでしょう。」
内海「聖師さまはいつでも『どれでも良いと思うのをとって持ってゆけ』とおっしゃいましたので、他の人はアレコレと自分の眼で選んで、それではこれをと言っていましたが、私は『聖師さまが私にやろうと思し召すのを、どうぞお授けくださいませ』と申し上げたのでいつでも聖師さま御自身が選んでくださって、お手づから私に渡してくださいました。それですから私のところには、聖師さまのお眼鏡によるものばかり頂いております。」
澄子「よろしおしたな。――鶴山に妻は錦の機(はた)を織り――と先生が歌碑にも書いてくれやったで、私はこれからこの茶盌の着物になる錦の袋を織ってあげよう。草木染めですれば良いのができるで。」
日向「それはこの裂(きれ)の元になる裂はみな植物染めです。漢島の縞裂のようなものでも、二代さまが縞がらをお作りになれば、これはまた天下の名物です。」
澄子「きれいな着物をきせて、きれいなお家に入れて……。」
直日「まあ、どうでしょうこれも。」
澄子「その茶盌は内海さんを見ているようやで。」
内海「エッ、私し、あら恥ずかしや恥ずかしや。」
直日「内海さんはなかなかの狂言師ですね。ほんとにこのお茶盌は内海さんの感じです。」
乕雄「内海の春としたらどうでしょう。」
直日「なるほど内海の春ですね。大体に春と夏の茶盌が多く、秋と冬の感じの茶盌は少ないですね。」
澄子「それに気性が春から夏へかけての感じの人やったから。」
直日「この一碗は冬山の感じですね。“松の風”という銘にしましょう。粋なものですね。この一碗は“色香”という銘にしましょう。古今集でしたか――春の夜のやみはあやなしむめの花、色をも香をも知る人ぞ知る――という歌がありましたでしょう。あとの一碗は“青垣山”という銘にしましょう。」
乕雄「刻の深い彫刻を見ているようですな。」
澄子「先生は、その彫刻をするから道具を買え、彫刻がしたい、彫刻がしたいとおっしゃってやった。それは御昇天の前までおっしやってやった。
乕雄「そうですか。それは惜しいことでしたね。」

――箱書きが終わると内海翁は拍手をうって――

内海「これはどうもありがとうございました。これで安心して眠れます。」

――内海翁前の如く角盆の上に耀盌をおさめて退場。

木田「内海さんのように、茶盌を大切にさしていただくといいですな。」
日向「新春早々眼の覚めるような綺麗なお宝を拝ませていただき、結構な御神徳をいただきました。」
乕雄「お母さま、おいそがしいところをありがとうございました。いろいろ御心配をかけまして楽天社一同に代わりましてお礼申し上げます。」
澄子「今度の火事(昭和25年12月31日午前2時、亀岡天恩郷本部事務所焼失)は、日の出で目出度いのや[注:この火事の意義については出口すみ子「三位一体の御用」を参照されたい]。火のない楽天社から火が出たのやで、これからは、楽天社は大きくなるで。昔から焼け太りというが、今年はようなるで。ちょうど焼けた時間が暁方のさし潮やろう。それに同じ晩、舞鶴でも火事があって、鶴亀から火の手があがって日の出を向かえたのや。それが明けて卯の春やろう。宇知麿(王仁三郎夫妻三女・八重野の夫)が卯の年で、聖師様は宇知麿をつれて外国にいって働いとってや。」
木田「町の人が大本さんは、焼け太りやで見とってみいと言うでいます。」
澄子「これは神様がなさったことや。しかし皆は反省するところは反省し、本当に元気を出して、千騎一騎の御用をつとめさしてもらわんならんで。」
木田「十二月号の『木の花』の“おさながたり”をいただきましても、二代さまのお小さい時は大変な御苦労をされています。」
澄子「ううん、この婆さんはえらい目に逢うとるので、今度はどんなことが出とるのや。」

――乕雄氏 合併号の“おさながたり”を音読すれば苑主眼をつぶって静かに聞かれる。

澄子「わしはこれまでに実地の苦労を神さんからさしてもらったでなぁ。子供の時の苦労は忘れられんものや。中でも王子の苦労はわしはもう死のうと思うたくらいやでなぁ。なんであんなにいじめられたのか訳が分からん。王子は酒呑童子(しゅてんどうじ)のいた大江山のあるところやからその悪霊がわざわいしたのですな。とにかくお琴さん[注:出口なお開祖次女]は今の言葉でいう虚栄心のたかい人でした。商売の髪結いで十円儲けると派手に使うて人目には二十円くらい使うたようにみせる。つまりえらそばりたい性分でした。それで、綾部の自分の親元のことも自慢しぬいていたので、その親元から厄介者がきたと思うて世間体のみから辛くあたったのでしょう。お龍さん[注:なお開祖四女]も七つくらいの時、お琴さんのところに子守りに来てえらい眼にあわされたということです。半期ぐらいいたそうですが、お米姉さんが[注:なお開祖長女]が、王子にみにきた時やせてやせてひょろひょろになっていたのでお米姉さんがひどう泣いて『食わさんとこんなにしてしもた』というてお菓子やらいろいろ買うてお龍さんに食べ食べ言うて、お龍さんは空き腹に食い過ぎてヘド吐いたそうです。お米姉さんは『これではあんまり可愛想や』というてお龍さんを綾部に連れて帰ったそうです。そのあとでまた私が行ったので親元から代わりの妹が厄介もんに来ているとでも近所から言われるのを恐れてですやろ。私をいじめぬいたのです。

 晩げになると毎晩、肩打ちをさせられました。それも『わしらは寝るさかい、お前もねむとうなったらそこそこ肩打ちしたらねるがよい』というてくれるのならまだよいのですが、自分ら夫婦はぐうぐう高鼾で寝ていても私が昼間の疲れでうっかり姉さんのそばに倒れようものなら『コラやっかいもん、誰のおかげでメシを食うとるのじゃ』と言われてなかなか肩打ちはやめさしてくれません。それから夜中の十二時過ぎに神社の下の泉へ真っ暗な道を姉さんの飲み水を汲みにやらされたことがあんまりこわかったので覚えています。長煙管(ながきせる)で叩かれたことや、庭にけり落とされたことは何べんあったか分かりません。夜、平太という姉の子をおんぶして疲れ、家にはいりかけてはへっこみ、平太が泣くとそれを拍子に家にはいりましたが、一度はもう死のうと思うて平太を連れて行って死んだら姉さんに叱られるし、家におきに行って姉さんに逢うのがこあいし、幾度も迷いました。」

直日「そこいらがお母さんも子供だったのですな。平太を連れて行って死んだら姉さんに叱られるなんて、死んでからまでこわがるところが。」
木田「どうも二代様からじかにこういうお話をきくと胸がつまってきます。しかしようそれだけ御苦労をされてひがまれなかったものですな。」
澄子「それが“おかげ”です。そういう苦しい時代の私にも楽しい思い出もあります。今は汽車で行くが昔は街道を歩いて京都に行ったので京街道の道筋になっていた王子は道の両側の家に赤毛布を敷いた床机が置いてあって絣(かすり)や縞の着物を着た女の人が『まあお入りやす、まあお入りやす。休んでおいきやす』というて道行く人を呼んでいたものです。」
乕雄「そのころは賑やかだったのですね。」
澄子「そうや、車力も人力も商人も旅人もみな休む茶屋があって、お琴姉さんの家の前も茶店で、こんやく、くわいが一皿二文か三文で皿にのせてあった。お茶は一厘五毛で飲んだ後の湯呑みの中へチャリンと音をたてて入れて行くのや。」

乕雄「そのころですね。お父さんと初めて逢われたのは(※1)。」
澄子「わしは覚えてないけど、先生は毎日、車力をひっぱって京都へ通われたので『王子の茶店で一服している時、子供をおんぶしたかわいい女の子がいつでもわしの休んでいる前に立っていたがあれがお前やったのやなぁ』と言うてでした。」

木田「私この前、二代さまのお供をしてバスで王子を越えたことがありますが、その時、二代様が幼いころの行場として感無量のものがありましたと想像しておりましたが、『木田さん、王子にいたころなぁ、いつも面白い唄を唄うて車引きが通ったのや。“ちょんこどころか今日のこのごろは五厘の煙草も買いかねる”というてなぁ』と明治初年の俗謡をお唄いになった明るさに非常に驚かされました。」
澄子「ああ、あの唄か、悠長なものやろ。昔は言う言葉はきたなかったが、風情のあったものや、今は言葉はようてもかえって乱れている。昔の煮売り屋はそんな唄を唄うてたわいないことを言うて働人が一服していた。火鉢に土瓶がかけてあって、勝手に入って飲んで茶代を置いて行くんや。柿が一盛り二銭で売ってあったが竹の筒がおいてあって買うた人が金を入れて置くのや。また障子を開けてお婆さんがお針をしている店もあった。一枡に栗が盛ったのやら、“こうじみかん”というて小さな種のあるみかんが盛ってあってなあ。昔はよいものやって。」
直日「お母さんが大法師から教えてもろうた唄がありましたね。」
澄子「あああれか、あれは王子に来るずっと前、綾部で教祖様と二人で住んでいた時分に習うたのや。ある日、五十くらいのお婆さんが教祖様が門で飯炊きをしておられるとこへ来て話しこみ、教祖様もお茶をくんで話しておられると、晩げになってもそのお婆さんが『あんたんとこ二人暮らしなら一晩だけわしを泊めてくれんか』というので教祖様も『どうぞお泊りやす』というて泊められました。それが一晩でなくずっと、座りこんで五十日近うもいて教祖様も食べさせるのに困られたことがあった。そのお婆さんが、どえらい大法師やって。」
乕雄「大法師ってなんですね。」
澄子「今でいう山師やが綾部では大法師というていた。なんでも舞鶴に男があってその婆さんは鳥取の方から来たらしいが、毎日、土を探しに行って赤瓦を焼いて一儲けするつもりやったらしいが、お米姉さんのところへ立派な箱包みを持って行って、この中に大切な物が入っている、これを預けて行くから舞鶴で金を取ってくるまで少し借してくれいというて、お米さんから金を取って出て行ったきりになった。後でその箱を調べたら、中身は瓦やったそうな。まあ、そんなお婆さんやったが毎日わしを相手に遊んでくれ、そのころはやり唄を教えてくれた。それでわしが八木へ奉公に行っているころも、みんながわしをみると『おすみさん唄を唄うてんか』というて唄を唄わした。またオー澄みさん奥の方から雨がざあざあ降って来たでと言ってわしをからかった。八木辺りではそのころ京都の方を上方、綾部の方を奥というたのや。」
乕雄「大法師の教えてくれた唄はどんなのでしたか。」
澄子「それか、“みかんきんきん、こちやすかん、こどもにたくさんやりゃ毒ぢゃ。にはとりはだしで土つかぬ。相撲とりゃ、はだかで風引かぬ。橋のらんかん屋根ふかぬ。馬は○して○ふかぬ”というのや(笑い声) みんなが面白がってわしに唄わした。昔はべったり子守りをやとうような家は少なく忙しい時だけ二十日とか五十日とか子守りに雇われた。八木でも、魚屋、枡屋、酒屋と方々に雇われた。また隣の彦兵衛さんとこの八木の姉さんはおのちゃんという子の守りもしました。後では神様の御都合でああいう役に回らされたが親切な姉さんであった。[注:開祖三女・福島久子には一時期、金毛九尾狐が憑依し、王仁三郎聖師と激しく対立した。] 私の髪をキリッとした気のきいた男結げに結うてくれ、そのころ、指輪でもサンゴ、サンゴ珠のかんざしをくれた。珠がはやって、それを夜半に便所に行って落とし、便所から取り出しで前の小川で洗うたことがあった。八木の兄さん[注:久子の夫、福島寅之介]は私の顔を見ると『この子はようなればとことんようなる、悪うなれば手に負えん者になるやろう』といいながらまた『この子の顔、この子の眼をみてみい。ただの子ではないわい、ご飯だけはよう食べさしてやれい』というて大切にしてくれましたが、私は遠慮な気持ちがありまして、家にいるよりはどんな寒い小雪がちらつく日でもコクバかきに山で働くのを楽しみました。姉は働き者で私にセリやタンポポを摘まし時分は冬でも川へ雑魚取りに行って、きりつめたくらしをしていました。ある時、そのころ亡くなっていた福島の大祖母さんのことで義兄と姉がいさかいをし、そのことがあって私は綿入れの着物二枚と、紅もじのいまきを作ってもらって王子へ行きました。王子ではそれもとられてしもうたがよ。」
直日「まあ脱衣婆さんのようでわ。腹が立ちますね。」
澄子「王子にいたころ、やっぱり一番楽しかったのは亀岡に糸引きに来ておられた教祖様に逢いに行くことでした。不思議にそのころ、道に煎り豆が落ちていてそれを拾うて食べるのも楽しかった。ご飯というては仏さんに供える小さいお茶碗、あれに一ぜんより食べられんものやと思うておったからなぁ。」
日向「その教祖様が糸引きに来られた家というのは今、小山内匠さんが住んでられる家の隣なそうです。小山さんの住まいは元は亀岡一の八百屋だったとかで金助というたそうですから。」
澄子「王子で上下の豊助さんに逢うた時、『小父さん、すまんけど三銭借してんか』というたのを覚えてるが、よほど腹が空っていたらしいので教祖さまに逢うて豆など買うてもらうのは楽しかった。教祖様はわしが行くと仕事が手につかんらしく糸引きをやめて、食べ物を買ってきては私にくださいました。まあ、昔のことはこのくらいにしておこう。わしも今年は七十歳になった。はっきりしたことはいえんが行かんならんようになったら四月にはローマへも行く[注:ローマ行きは取次ぎ役員の反対で頓挫した]。子供の時、ブイコ(ブランコ)に乗って遊んだ気になって飛行機に乗って飛んで行くつもりや。信神一つで力はなんぼでも湧いてくるところやから、みんなもしっかりやりなよ。」

――木の花座 田武謙三氏、夫人母堂を案内して苑主に面会あり、苑主面談のあと瑞祥館にお帰りになる。

乕雄「お母さんの一人話になりましたがいつもながらお母さんの御記憶のよいのには驚きます。」
直日「どういう頭なのでしょう。お母さんは今度の火事を綾部で聞かれた時、最初からめでたいめでたいといっていられたそうですが、自分の家が焼けても喜んでいる人が世の中におるものでしょうか。今朝も信者さんに話されているのを側で聞いていると漫才を聞いているようでした。」

[後略]

(※1)
伊都能売神諭「大正7年12月2日」
 艮の金神が出口直の娘を王子(わうじ)と八木へ遣りてありたのは、神の経綸であると申して、男子の手と口とで知らして在りたが、王子の梨木峠(なしのきとうげ)で、昔からの因縁に由りて本田親徳(ほんだちかあつ)と変性女子との面会をさして、女子に霊学を授けるやうに致したのも、王子の産土(うぶすな)暗(くらが)りの宮を仲立に致しての事でありたぞよ。澄子も王子へ暫く遣りて、幼い年から色々と人の能ふせん辛い目をさして在りたが、其時から変性女子に面会さして綱が掛けてありたので在るから、肉体は二代と夫婦に致して、坤の金神の奧役を為してあるぞよ。是も人民には一寸見当の取れん仕組であるぞよ。八木へ久子を遣りてあるのも、深い経綸であると申したが、明治三十一年の紅葉の色の真盛りに、八木からの頼みで変性女子が参りたのであるぞよ。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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