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祝詞の心得

☆祝詞の心得

出口王仁三郎氏を囲む座談会(第四夜 第2回)
大崎「外国人が大本に入信しましたとき、礼拝はどうなりますでしょうか」
聖師「外国は、外国通りにやらしたらよい」
大崎「そうすると神床なんか作って神様を奉斎した時にはどうなるんでございますか」
聖師「奉斎したり、習慣によってしなかったりするけれども、別に奉斎せんでも、なんか形のあるものでも拵えて目標にしておればよい。日本人は神に仕うるべき人間として出来ている。そして外国人は祈る為に出来ている。日本は顕斎(けんさい)の国である。つまり形の上で祭るという事になっている。外国の方はただ天の神を信じたらよい。祈ったらよい。祭式なんかするのは、──日本は世界の親国やろうが(※1)、つまり村中の人は祈っておっても神主だけが氏神様のお守りをして祭っているようなものや。日本人が神様を大切にしてお祭りをすれば外国まで助かるのや、世界中の人が助かるのや、それが日本人の使命やがな。……外国人は写真ばかり祭っている」
富田「お札よりも聖師様の彫像なんかの方を喜んで祭るでしょうね」

○「惟神」 水鏡(大15/9)
 惟神(かんながら)と云ふ事は、天地の真象に倣ふと云ふ事である。
 又、大自然、或は真理のままと云ふ事である。

○「惟神霊魂幸倍坐世」 玉鏡(昭7/11)
 神様の御心のまにまに霊の善くなるやうお願ひしますといふので、神様に対する祈りの言葉である。それを祖霊の前で云ふのは、祖霊に祈って居るのではなくて、祖霊のために大神様に祖霊が幸はふやうにと祈るのである。

○「易」 月鏡(昭5/1)
 孔子の教は現世的のものであるが、晩年に至りて孔子自身も甚だ物足りなくなって、天に問ふやうになつた。周易即ちこれである。孔子が易によりて方針を定める様になった事は、即ち宗教心が出来たので、周易をこしらへた事に依って、孔子の名は残ったのであつて、之なかりせば孔子といふものは残っては居まい。
 天津金木は七十五声の運用であり、天津菅曽は七十五本を運用して天意を伺ふのである。易は五十本の中一本をぬき四十九本の運用であって二十六本だけ足らぬ訳である。但し、金木にしろ周易にしろ過渡時代の物で神代の遺物としてのみ価値あるものである。今は皆肉の宮に納まって居るから、その必要はないのである。

○「人間と現世」 月鏡(昭4/4)
『人間は幽界から現界ヘアク抜きの為めに送られて来たものだ』との説を真なりとするならば、そのアク(悪)さへ抜けたら、幽界又は神界へ引き取られる筈だから、何時までも長生して居る人間は、アク抜けが為ないために壮健なのだと思ったら、吾ながら、吾身が浅間敷くなって来るだらう。しかしながら人間は決して現界ヘアク抜きの為めに生れて来たのではない。神が天地経綸の司宰者又は使用者として、現世へ出したものである以上は、一日も長く生きて、一事にても多く神の御用を勤めねばならぬものである。朝夕の天津祝詞や、神言は其日其日の罪科、過ちを祓ひ清めて天来その儘の神の子、神の宮として神界に奉仕すると共に、現界に於ても人間生存上大々的に活動すべきものである。

○「祝詞奏上」 玉鏡(昭7/4)
 人間は往々にして無意識に祝詞を奏上することがある。さう云ふ時、祝詞が中途に止まると後がすぐ出なくなるものである。機械的に祝詞を奏げるのは全く蝉が啼いてゐるのと同じで、ただ囀るだけのやうなものである。これでは本当の祝詞奏上にはならない。また本当の信仰と云ふことは出来得ないのである。祝詞はベンベンダラリと奏上するのも宜くないが、駈足で奏上するのもいけない。

○「宇宙の声音」 玉鏡(昭6/4)
 この大宇宙には、アオウエイの五大父音が鳴りなりて鳴りやまず不断に轟いてゐる。そして此父音より発する七十五声の音響は種々様々に相交錯して、音楽の如く、鳥の声の如く、秋野にすだく虫の音の如く微妙の音声を絶えず放ってゐる。この微妙の音声は、天地進展の響きであつて、これによつて森羅万象一切が生育発達を遂げてゐるのである。言霊の幸ふ国、言霊の天照る国、言霊の助くる国等といふ言葉は日本のみの事でなく、天地森羅万象一切の進展的活動に対して称へたる言葉である。大声裡耳に入らずと云つて人間の聴覚力には限度があつて余り大なる音響も亦微細なる音響も聞きとる事が出来ないのであるが、言霊の大道に通じた人の耳には五大父音を始め森羅万象より発する七十五声の微妙の音声を聞く事が出来得るのである。
 大本開祖(出口なお)はいつも宇宙万有の微妙の声を聞いてその天造力の偉大さを讃歎されてゐた。然し老齢の為耳鳴りがしたのとは全然訳が違ふのである。人間の聴覚力は風雨雷霆の音や禽獣虫魚のなく声、人間同士の言語又は器物より発する音楽の外、宇宙の声音は聞きとる事が出来ないので、王仁が宇宙の声を常に聴くといっても容易に信ずる事は出来ないのを遺憾に思ふ次第である。

○「ヨハネ伝」 玉鏡(昭7/1)
 今日の牧師[注:キリスト教]に一番惜むべきは、ヨハネ伝福音書の第一章が真解出来ぬ所にある。「太初に道あり、道は神と偕にあり、道は即ち神なり」とあるが(※2)、言葉即ち道は充ち満つるの意味で高天原のことである。この天地は言霊の幸はふ国で言葉は即ち神である。祝詞や祈の言霊によって、よい神が現はれるのである。声の澄んだ人ほど魂はよい。

○「宇宙の声」 玉鏡(昭7/4)
 「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。

○「宇宙の声」 玉鏡(昭7/4)
 「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。

○「天津祝詞と五大父音」 玉鏡(昭8/10)
 宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。

○「天津祝詞と神言」 水鏡(昭2/2)
 天津祝詞は岩戸開きの折、天之児屋根命(あめのこやねのみこと)が岩戸の前で奏上せられたのが嚆矢(こうし)である。神言は神武天皇の時代、天之登美命(あめのとみのみこと)が作られたもので、児屋根命以来この時代迄全然無かつたのである。天津祝詞も神言も共に神世言葉で出来て居って、それを今のやうな言葉や、文字に翻訳したのは聖武天皇の時代、常盤(ときは)の大連(おほむらじ)がやつたのである。

○「無我の境」 玉鏡(昭7/1)
 真の無我の境といふのは人間としてあるものではない。「無我の様な感じ」を起すことはある。それは或る事業に没頭して、それに一生懸命になって居れば、他の仕事に対しては無我の境に入ることになる。併し夢中になって居る其仕事に対しては、決して無我ではない。精神統一といふが、これ又言ふべくして出来得べきことではない。祝詞を奏上しながらも種々なことを思ひ浮ぶるのが本当である。鎮魂といふのは「離遊の運魂を招いて身体の中府に鎮める」ことであるから、種々の雑念が集まり来るが当然である。その雑念は罪障に対する回想や希望となって現はれて来るもので、それを想ふのは、別に悪い事ではない。

(※1)
「大正5年旧11月8日」
 日本は神の初発に修理(こしら)へた国、元の親国であるから、世界中を守護する役目であるぞよ(※1)。世界の難儀[義]を助けてやらねば、神国の役目が済まんから、日本の国の人民を一番先き神心に捻じ直して、外国人まで一人も残らず、神心に復えてやらねば、日本の神と人民の役が済まんので、天の大神様へ、日々艮の金神が御詫びを致して、世の立替を延して貰うて、其間に一人でも多く日本魂に致したさに、神は昼夜の気苦労をいたして居るから、日本神国の人民なら、チトは神の心も推量致して、身魂を磨いて世界の御用に立ちて下されよ。モウ世が迫りて来て、絶体[対]絶命であるから、どうする間も無いぞよ。

(※2)
「ヨハネによる福音書 第1章」
 初めに言(ことば 日本語)があった。言(ことば)は神と共にあった。この言(ことば)は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。こと言(ことば)に命があった。そして、この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。
 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネ(四八音 ”音”は音色など”ネ”とも読む)と言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によって総ての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするために来たのである。
 すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。そして言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみと真誠(まこと)とに満ちていた。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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