『大本神諭』 大正6年旧8月22日

○大正6年旧8月22日(火の巻)

 何彼の事が迫りて来て、お筆先で出して居る通りに、何事も世界が成りて来てるぞよ。従来(これまで)の事は、何も些とも用いられん様に成るのが、世が変はるのであるぞよ。信心を致しても、従来の精神(こころ)では神徳(おかげ)は無いぞよ。何もお筆先に出すから、お筆出したら、大国常立尊の言葉の代りに、大出口直に書かせるのであるから、温順(すなお)に致す守護神に使はれて居る肉体でありたら、何事も思うように行くなれど、従来通り自己(われ)一力で、自己の勝手に致さうと思うても、何も思惑は立たんぞよ。世が変るのは、その事であるぞよ。「上流(うへ)から下流(した)まで些少(ちいさ)い取違でない」と云ふ事が、ドの筆先にも気がつけてあるぞよ。お筆先を読むばかりでは、何も判りも致さんぞよ。あれ丈に同一事(おなじこと)が、未然(いくさき)に書いて知らしてありたら、これはドうであると考へて……。世に出て居れる方の、学で出世をして居れる守護神は、いろはの勉強は阿呆らしうて改心が出来ず、学では間に合はず、この転換期(かはりめ)に大変辛い守護神が多数(たっぴつ)あるから、「思うて居る事が大間違である」と申して、未然に知らしてあるが、今に気の附く守護神が無いぞよ。直(なお)の初発(しょっぱな)は、親子三人は他人から見ると大発狂者(おおきちがひ)でありたが、世界の事を、何も世の元から何んな事でも説いて聞かせる、三千世界の大発狂者であるぞよ。世界の事が、何も逆様(さかさま)に成りてしまうて居りた世を、本様(ほんさま)に、昔の彌勒(みろく)様の世にねじ直すのであるから、何につけても大事業(たいまう)なことであるなれど、世界の大本に成る所であるのに、いまだこの村、綾部の町は何も解らんが、世界へ恥かしい事の無いやうに致されよ。遠国から解りて来るから、神は困らねど、世界へ面目ないやうに、御筆先で気が附けて置くから、お筆戴いたら違はんぞよ。後の後悔は間に合はんぞよ。

 旧九月になると、世界はモう一つ激しう成るから、日本の国の仕組通りにして立て別けてしまふから、従来のやうには行かんから、何事も月も日限も決りて居るから、其用意を其所(そこ)へなる迄に致されよ。日本の規則は、従来の様な放縦(ずんだら)な事は致さんから、上へあがりて居りて、日本の国を自由にここまでは出来たなれど、ここまでは夜の守護でありたから、眼を塞いで居りたなれど、時節参りて日の出の守護と成りて来たから、心で皆揃うて用意を致さんと、世界中へ面目無い事が出来て来て、潜(ひそ)かに改心を致して、温順に致す方が結構であるぞよ。自己が致さうと思うても、従来の霊が利かん様に成るが、世が変はるのであるから、自己の守護神が、是迄のやうに一力では、モう些とも行けんやうに成りたぞよ。根本の先祖は爰迄(ここまで)の苦労、口惜しい事、残念を十分耐(こば)りつめて来て、今に残念を耐り詰めて居るなれど、絶命に世が迫りて来て、一度に開く梅の花、御筆先通りの事に世界は成るぞよ。一度の改心は後へ戻るから、気を附けた上にも気が附けてあるから、「向後(このさき)は何時も三、四月、八、九月」といふ事と、お筆先と毎度出してあらうがな。
 何があらうともモう知らせる事が無いから、末代に一度ほか無い、天地の岩戸が開けるといふやうな、二度目の世の立替であるから、天地の御恩といふ事が今度は判るぞよ。悪に反(かへ)りて居る身魂が、徹底的(とことん)一日の日(ひ)の間(ま)に改心を致さんと、ここへ成る迄にすツくり改心致して、善一つの心に成りて居らんと、九月の月に成ると、何も一度に成りて来て混雑と成るから、ここへ成る迄には、些と神の間に合ふ人民を造(こしら)へて、神の御用の出来るやうにと、神は夜昼、暑さ寒さを厭ひなく、人民には見えも判りも致さねど、根本の活神はお筆先に書かしてあるが、お筆先通りが、あれ程実地(あり)ても、眼前(めのさき)にして見せんと、眼前にありても身体が暑う成りて来んと、今の人民に守護して居る守護神が、苦労知らずの守護神ばかりであるから、他人の苦労が眼に附かんから、現今の行方(やりかた)は、利己本位(りこしゅぎ)の行方であるから、何れ丈実際(せうまつ)を書いて見せても、実地の事を申して聞かしても、心が反対であるから、是非なく、何(いず)れは厭な事が世界にはあるなれど、今度世の立替を致すには、世に出て居れる守護神に、お手伝いをさせる守護神が些とも無いとは、ようもここまで曇らしたものであるぞよ。世に出て居れる方の守護神が、霊主体従(ぜん)へ立ちかへりて、日本丈が大和魂の性来が出来て来たら、埒良う立替が出来るなれど、体主霊従(がいこく)の性来に成り切りて居るから、日本の実地の根本の活神は骨が折れるぞよ。

 大本へ来て居る人は、男も女も、他人から見て「彼(あ)の人は違ふ人」と言はれて、眼に着くやうの行状(おこなひ)が出来んと、大本は世界の亀鑑(かがみ)の出る所であるから、何事を致して居りても、お筆先 肚(はら)へよく入れて置かんと、人が出て来出すと、余程の神力を貰うて居らんと、これから出て来る人は迅う解るから、これ迄の心の持方をさつぱり変へて、言葉の使用法(つかひよう)を直さねば、従来の様な事でないぞよ。「外国の方が早う解る」といふ事も、お筆先で知らしてあるぞよ。「日本の国は大和魂」と、口では申して居るが、日本の国に大和魂の性来がありたら、神もこれ程には思はねど、日本の国が余り酷い身魂に成りて居るので、直(じき)の取次は咽から血を吐かんばかりで、苦みて御用を致して居るなれど、輔佐(すけ)をさせる身魂が無いのであるぞよ。
 変性男子と変性女子との御役は、他の身魂に佐(すけ)て貰ふことの出来ん辛い御役、各自に勤め上げてしまはねば成らん辛い御用であるぞよ。変性男子の御役は誠一つを貫いて、嘘といふことは一言も申されず、つくらひ事といふ事も出来ず、頼まれた事は致さんならず、誠の道は辛いぞよ。さるかはりに、貫いたら亦と再びこの世に無い事であるから、綾部の大本の御用を致す人は、一と通りの身魂では、一寸の御用でも他所(ほか)の様なことには行かんから、男も女も余程の行が出来んと、途中で変はる事があるから、抜刀(ぬきみ)の中に立ち居るやうの心で、何時になりても気ゆるしのならん気遣な[は]、世界の大本に成る尊い所であるぞよ。今では化けたり化かして大望な御役がさしてあるから、この盲者聾者の世の中へ、言ひ切ることは出来んなり。辛い所であるなれど、未然(さき)には大事の仕組は申されず。機(はた)織る人が何んな模様が出来て居るといふ事の解らん、仕組の言はれん所であるから、ここまで来るのが骨が折れたなれど、何彼の時節が参りて来て、明けの烏(からす)と成りて来て、この先き日の出の守護に成りて来るから、大事のことも何も一度に開けて来るから、身魂を磨いて居らんと、良い御用が出来んぞよ。解りて来たらそれぞれの御用の命令がさがるなれど、向後(このさき)の行方は従来とは天地に変はるぞよ。
 些とは天地の根本の先祖の、初まりの心の思ひやうといふ事が無いと、この世の人民は万物の長と申して、人民を神の次ぎに造へて、神の容器(いれもの)に致してある尊い肉体が造へてあるのじやぞよ。今度の二度目の折には、人民を使うて神は人民を助ける也。人民は神の道具と成りて働く也。今度二度目の世の立替は、末代の世の事が決まるのであるから、人民の精神を直すのが何より大事業(たいまう)であるぞよ。彌勒様は余り善の深い、底の分らん御方、天から御守護遊ばしなさるなれど、ドの様にでも成るやうに思うて、表面(うはつら)から敬ふやうに見せて、肚(はら)の中は体主霊従(からみたま)で、肚の中に誠が無いから、「地の先祖は力量(ちから)があり過ぎて手に合はん」と申して、皆の心が揃うて、末代この世へは出さん所思(つもり)で押込めて、「これで楽じや、これからは好きなやうにして世を持つじや」と申して、皆の心がよく揃うて、一方(ひとかた)も「それは可かん」と気の附く神が無かりたとは、偉い慢心を致したものであるぞよ……。
 上へあがりて大将附々(つきづき)に成りて、今に頑張りて居るのを、旧九月一パイにはあらはして、三段に分けてある違うて居る血筋を速(すみやか)にあらはすから、あらはせずに立替を致して、徹底(ほっこん)の改心を致せば、善へ立ちかへらして従ふ心に成りたら、この先きは結構に致してと、「ここまで何(ど)うぞ、どうぞ」と思うて直接(じき)の取次致して呉れる、変性男子も女子も辛い目に逢はして居るぞよ。この上に聴き入れ無くば、この方もモウ堪忍袋が切れるから、この上はドういふ事が世界にあらうとも、天地を怨むことはよもやあろまい。「世界には人が二三分になる」ことが、初発から申してあるが、これ丈 天地の元の先祖が色々と致して、何でもこの世、人民を善く致してと思ふ程、人民の心が悪るくなりて来るから、ここへ成る事が世の元から、よく判りて居るのであるから、助けやうが無いから、成るべく従来の醜しき心を入れかへさして、身魂の洗濯と一同(いちど)に洗濯を致して、成るべく従来の醜しき心を入れかへさして、身魂の洗濯を致して、成るべく不遇(つつぼ)に致さんやうに、向後はお筆通りに上から致すから、上が致せば血筋眷属(ひっぽう)が致さねば、致すやうにして改心を致さすぞよ。今往生を致せば、すつくり名を露はせずと、世の立替を致して、大難を小難にまつり替へて(※1)、天の彌勒様へ御詫を致して、その悪るい霊魂の性来を善の道へ立ちかへらしてと、「今に何(ど)うぞ、どうぞ」と思うて居るなれど、モウ大変迫りて来たから、向後に世界には何う云ふ事がありても、神、取次に不足をよもや言はれまい。

 人民も守護神も、従来のやうに自己一力では何も出来んぞよ。大本の御筆先通りに、何事も天地の命令の降下(さが)らんことを勝手に致したら、向後は大変厳しう成るぞよ。自己が偉いと思うて勝手に致したら、初発は行けるなれど、九分九厘行くと、後戻りを致さなならんぞよ。従来のやうな放縦(ずんだら)な行方は、さツぱり変へてしまふから、心見ぬいた其上で、地の世界の先祖の大国常立尊から、命令降下(くだ)らんことには、他の命令では、何も買ってにはしられんやうに厳しう成るぞよ。従来の事は何も用いんやうに大変りが致して、日の出の守護と成りて来ると気づかひに成るぞよ。これまでは上が下に成りて、下の身魂が上へあがりて、身魂が上下に引ツくり返りて居るのを、「天地が引ツくり返りて居る」と申したのであるぞよ。

(※1)
○第二次大本事件回顧歌集「朝嵐」より
・餓病戦は小なる三災起るを謂ひ 風水火をば大三災と称ふる
・餓病戦今や世界に実現し風水火の災起り初めたり
・人心の改心なくば神明は大三災を起こし給はむ
・大三災小三災の頻発も 人の心の反映なりけり

○「小三災」 玉鏡(昭8/7)
 末法の世に起る小三災と云ふのは飢、病、戦であるが、飢と云ふのは食糧の欠乏とのみ取ってはならぬ。経済上の飢饉もある。病気と云ふのも、単に体が病むと解するのは誤りである。思想的の病気も此中に入るので、皇道の正中を歩むのが健康者であつて、左傾だの右傾だのと云ふのは思想上の病人である。特に赤い思想などは膏肓(かうこう)に入つた大病人である。戦も兵器をもっての戦の意味だけではない。政戦、商戦等々種々ある。議員選挙に於ても、「あの人に是非出て貰はねばならぬ」と選挙人の方から懇望するのがあたりまへで、候補名告りをあげて逐鹿場裡(ちくろくじょうり)に鏑(しのぎ)を削るのは即ち戦争である。名誉餓鬼、屈従外道等によつて善い政治は出来ない。
 大三災の風、水、火については云ふまい。唯これは人力の如何ともする事が出来ない天然現象である。一向神様に祈って惨禍の少しにても少なからむ事を希はねばならぬ。火と云ふのは火事だけの事ではない、大地火を噴く地震の事である。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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