『大本神諭』 大正2年旧9月11日

○大正2年旧9月11日(火の巻)

 ……二度目の世の立替の来るのを、待ち兼ねたぞよ。末代に一度の大望な世の立替は、何彼の事に大変骨が折れるから、世の元の天と地との根本の大神の仕組通りに、何事も成りて来て、モう一度に致さなならんなり。世界には大きな事も小さい事も、一度に成りて来て、世界の人民はトチメンボウを振るぞよ。大本の役員胴を据えて居らんと、「綾部の大本は病気(やまひ)治[直]しの神でないぞよ」と、毎度筆先に書いて知らしてあらうがナ。病気などは、自己の心を水晶に致したら、病魔は体躯の内へは、怖うて能う這入らんぞよ。

 今の世は、外国のみぐるしきカラの身魂になりて居るから、亡霊(しにみたま)やら、根底国(むかう)の極悪神の眷族やらが、皆悪事を企みて、神国の世を汚して居るから、日本の国には邪神(わるがみ)の霊が殖るばかりで、斯ンな醜(みぐる)しき国になりてしまふて、真の神から眼を開けては見られんぞよ。汚うて、世の洗濯を致さねば、何時迄も人民に言ふてきかしたとて、些ツとも効能(ききめ)が無いから、効験(しるし)の無い事に永く懸りて居りたら、ドちらの国も亡くなりてしまふぞよ。日本の国の人民も醜しいが、外国の人民は、なおなお神の眼からは醜しいぞよ。
 大本の分支会合所(でやしろ)の布教者(とりつぎ)の中には、「信者を大本へ詣らしたら、大本へ取られる」と申して、邪魔を致して居る守護神が出来て居るが、誠意(まこと)が無いと申しても、余ンまりであるぞよ。天と地との元の大神は、見て見ぬ振りを致して居りたが、最早これからは、厳しく審査(あらため)致すぞよ。気のついた守護神は、一時も早く改心致されよ。真正(まこと)の事は、大本へ詣りて、変性男子の筆先と、変性女子の実(まこと)の行動(こと)を見て、我の心に照らして見んと、何も判らず、却てお蔭を取り外す事が到来致すぞよ。斯ンな判らぬ布教者に手引しられて居る信者は、可哀相なものであるぞよ。斯ンな布教者は、全然(さっぱり)四足の魅いた守護神であるぞよ。早く改心致さんと、最う赦さん事になりたぞよ。
 日本の行り方、今ではさツぱり邪神界(わるがみ)の守護となりてしまふて、男子までが頭に油を塗り、顔にお白粉を附けて歩く時節になりて、さツぱり化物の世になりて、大和魂の人民は薬にしやうにも無いやうに成りて居るが、これでも日本の神国の人民[気]と申されやうか(※1)。腰抜ばかりで、世が何時までも続いて行く道理がないぞよ。ようもこれ丈乱れて来たものであるぞよ。神の眼から見れば、今の日本の神国には、人間らしい人間は何程(なんぼ)も無いぞよ。これでは日本も、世が続かんのであるぞよ。又婦女(おんな)も、身たしなみは肝腎なれど、今の婦女は、紅、白粉、油を無茶苦茶に塗りつけて、服装(みなり)を凝らして、表面(うへ)から見れば立派なやうであるが、それ丈精神は反対に汚れて居るぞよ。今後(これから)世の立替と成るから、男子も女子も、今迄のやり方を全然かへて居らんと、神世になれば、今迄のやうな行り方は神から赦さん事になるぞよ。
 今迄の世は、表面(うはつら)ばかりの世でありたから、心の中は腐りて居りて構はぬ暗がりの世でありたが、最う斯ンな醜しき世は終末になりたぞよ。明治25年に出口直の手と口とで、「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」と知らしてあるが、最う一度に開く時節が参りたから、外国(むかう)の国の七頭(ななお)も八頭(やお)もある八岐大蛇(おろち)を平げて、日本の天と地との大神の仕組で、この世を治めるぞよ。一度筆先に出したことは相違は無いぞよ。
 綾部の大本は、この広い世界に、外では判らん事の判る、世界の大本に成る尊い霊地(とこ)であるから、ちツと違うた業の出来て居る守護神に使はれて居る肉体でないと、此方の御用はさせんぞよ。三千世界の事を、さぱり変へてしまうのであるから、一番に夫婦の事から変えてしまふぞよ。この世に夫婦といふものは、因縁の深いものであるぞよ。御魂の因縁性来を調査(あらた)めて、この霊魂と彼(か)の霊魂が夫婦といふ事に縁を結びて、又児になる霊魂を授けて、児の身魂を親に世話させるのも、因縁の深い事であるぞよ(※2)。夫婦の道は、何につけても世の基本(もと)であるから、一番大切であるぞよ。世の紊(みだ)れるのも、夫婦の道から大方は出来て居るぞよ。この世を末代続かすには、水晶魂に致して、一人も悪神の守護神の無きやうに致してしまうから、みぐるしき身魂は、一人も日本国に置かんやうに厳しく致すぞよ。曇りた御魂の肉体は、最う出直して、えらい根底国(とこ)へやられるぞよ。きびしく成るぞよ。

(※1)「日本人の堕落」
○「現代の日本人」 月鏡(昭3/12)
 日本魂(やまとだましい)のチャキチャキ、裸一貫の荒男、世界経綸の当路者(たうろうしゃ)と称する現代の日本の男子には情ないかな勇気と根気を欠き、第一に信仰心なく、仁義なく、自負心強く、自重心なく、男子の気魄と実行力を欠き、かつ狷介(けんかい)にして人を容れず、自己の小主観を以て事を律する故に、志と違ふ場合多く、尚且つ之を反省せず、神人万物に対して感謝の念なく、怠惰にして朝寝を好み陰徳陽徳を欠き、人情薄くして大器晩成的の力無く、軽佻浮薄にして剛健の気骨なく、道徳観念絶無にして意気地なし。又青年に特有の気魄と奮闘心を欠き、後進を指導する度量なく、正義公道を解せず、只眼先の事のみに心をくばりて、思慮浅く、不真面目にして、排他心強く、且つ偏狭なり。平素女性の如く脂粉に浮身をやつす事のみ知りて、新進気鋭の勇気なく、かくして神の建て玉ひし日本神洲の国家を傷つけつつあるものは、現代の日本人、殊に男子はその最たるものである。吁々(ああ)一日も早く一刻も速に我大本の教理を普く同胞に伝達し、以て祖先の給ひし日本魂を振り起さしめ、世界統一の神業に奉仕せしめたきものである。

 日に月に日本魂の消えて行く
  世を活かさむと伊都能売の神

(※2)「夫婦と子供」
○「石女」 玉鏡(昭5/12)経綸・神諭
 御子生みの神業は人間として重大なる御用であるが、子が出来ぬからと云うて、それが罪の結果であるなどと思ふのは間違ひである。それは唯だ単なる体の欠陥に過ぎない。石の上に播かれた種と同様で育たない。故に「うまず女」の事を「石女」といふのである。人は二人の子供を自分等夫婦の代償として生んで育つべき義務があるのであるが、生まない人があるので、其代りに多くの子供を生まされるのであって、神諭に「自分が生んでも自分の子ではない。神の子の世話がさしてある」とあるのは其意味である。子のなき人は、最初に誰かが貰へと云うて呉れた子が、自分の霊統の子なのであるから、それを貰ふがよい。人間心を出して「あれが気に入らぬ、これが不足だ」と云うて、この最初のものを断ると、次に云うて来るのは、もはや自分の霊統の子ではないのであって、他人の子を貰ふことになるのである。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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