『大本神諭』 明治41年10月15日/死獅子と生鼠/聖賢では出来ぬ/元の生神/大宇宙

○明治41年10月15日(天の巻、火の巻)

 今度二度目にどめたてかへは、へんじょう男子なんしあっぱれあらはれてしゅごういたさねば、これまでかげからのしゅごうでありたから、わかるにひまがいりたなれども、このきはれるほうしゅごうじん大分だいぶわかけたから、かみわかりかけたらじんみんにははやわかるから、「ひとるいとこから、むごことがある」とまをしてあるが、なに一度いちどりてて、一度にひらくぞよ。「りんくと、てのひらかやす」とまをしてあるが、其所そこまでかんと、世界中はわからんから、なにらんあくはたらきして利己主義われよしの守護神が、まだ邪魔じゃまいたすなれど、わかりてるほど、なんとなく心が寂寥さびしく成りて来て、「ぜんみちにはかなはん」と、ほっこんおうぜう致すやうに、日本にほんくに大和魂やまとだましひたねが、そこおとしてありたその種で、もとむかしちかへりて大和魂にねじなをすのであるから、これまでほうだいにしてりた守護神は大分だいぶつらいなれど、りにはいたさせんぞよ。

 まことみちてるのは、我身わがみてて、われ体躯からだくだけても、今度の大事業たいもう御用ごようつとめあげて、もといきがみみなそろふて、世にあががるのであるから、それについては、われこといて、ひとたすける心のじんみんでありたら、あっぱれ表面おもてるにちかうなりたぞよ。今度は綾部あやべおほもと御蔭おかげおとして、他所ほかわかとこが無いので、一旦いったん御蔭かげを落して居りても、おほもとすがりてねばならんから、じゅうぶんみなけてくぞよ。温順すなをな人民からるから、これからきは判るがはやいから、今にてきたうる人民が可愛相かあいそうなから、くどをつけてくのじやぞよ。神がこまるので無いぞよ。もらへる御蔭があとはしになるから、それが可愛相なから、いまいままで気をつけるのであるぞよ。綾部あやべおほもとで御蔭をおとして、他所ほかわかところがあるなら、斯様このいくどうはまをさんなれど、他所ほかきょうかいみなさきばしりであるから、世界中をたずねてあるいても、この綾部あやべ仕組しぐみわかとこ何所どこにもいぞよ。綾部あやべの大本へふでさきりて、他所ほかまいりて、この綾部あやべてきたうりても、ちっとの左程さほど判りも致さねど、きにほどこうかい出来できるから、あとで出て来てしほしほとしてるのが、このほう出口でぐちなおせうらいいやな性来であるぞよ。まことてるのは、ちっとはちがとこいとしんぼう出来できんぞよ。まことみちまこといきがみが、誠心誠意まことで、日本の大和魂にへる世界せかいおほもとであるから、辛抱は痛苦えらいなれど、辛抱いたさねばまことみちたんぞよ。

 がれてりたもといきがみそろふてしゅごういたすと、一旦いったん世界せかいは、いろいろと彼方あちら此方こちらいやことがあるよって、はなたかさんもこころ寂寥さびしくなるから、わかとこ綾部あやべの大本よりほかには何所どこにもいのじやから、寂寥さむしうなるほど大本はせわしうなるから、何彼なにかこと心得こころえりてくだされよ。だすとなに一度いちどりてて、ひとらんやうにせわしく成るぞよ。かみほうからもだすぞよ。

 世界には、いろいろいずれはこんなんがあるよつて、神に一心いっしんすがりてりたら、立別たてわけてせてやるから、今度のたてかへは、何程なんぼ世界せかいじゅうじんみん霊魂みたまかみ憑依うつりて、「たてかへいたさう」とおもふても、零落おちて居りたいきがみが、海の底へりゅうぐうちてりたいきがみが、みなそろふて綾部あやべしんぐう ほんぐうもとみやあげりゅうぐうやかたたかあまはら出現あらはれて、世界せかいおほかみあらはれて、むかしからかりたことを致すのであるが、今の世界のじんみんは、がく出来でき智慧ちえであるから、「われがくがある」とはなだかに成りて、人を見下みさげて、しもへ落ちて居る者をあしけりばさんばかりのなかに成りて居るが、これががいこく霊魂みたましょうたいであるぞよ。露国ろこくごくあくがみせうらいを、日本の国へさツぱりうつ〔 移 〕らしてしまふてるぞよ。このきは日本にほんがいこくとのおほいくさるから、日本の国の人民に、大和魂やまとだましひしんぼう身魂みたまいやうに成りて居るから、むこふのくにつよいと思ふたら、外国へかうといたす人民がはちあるぞよ。その身魂みたま矢張やはがいこく身魂みたまりてるのじやから、「外国〔 がいこくゆきたくさんある」といふことがらしてあるが、これだけをつけていたら、何がても不足ふそくひにはもしまいなれど……。

 もとこしらへるのは、「これいろん」といふことは出来んのであるから、「霊魂みたまかみでは出来できん」とまをすのであるぞよ(※1)あま大事業たいもうな事であるが、今度の世のたてかへは、もとにくたいそのままであるくにとこたちのみことあらはれると(※2)ぎにりゅうぐうおとひめ〔 音秘霊 〕様が、かみをお使つかひになりてるから、ひきうてあらはれなさるなりいわかみかぜの神、れの神、あめの神、地震じしんの神、のこらずのこんじん……(※3)。金神の中にても、結構けっこうな金神と、さけみのどうらくな、御用ごようには使つかへん道楽なのもあるよつて、このほうが使ふのは、道楽ないやうにりて居る金神は、行儀ぎょうぎ品行おこなひをモ一度しらべて使ふから、流浪るろうつのがいやなら、今のうちおこなひ出来できんやうな事では、戦争いくさのお手伝てつだひぐらゐ出来できもするが、世をたてかへ天下てんかたいへいおさめて、至仁至愛みろくになると、これまでのようなおこなひは、モウ出来できんぞよ。かみみちもさツぱりつくりかへてしまふから、じんみんみちこしらへて、むかしもとへ世を戻すのであるから、人民からは神をうやまへばしんりきつよるから、人民を神がしゅごう致すなり。ちつもたれて、神の心にうつ〔 移 〕りてけば、それが神世かみよまをすのであるから、さうなりたら、人民もいまほどあせらいでも、おだやかけるになるのじやぞよ。




(※1)「霊魂の神では出来ぬ」
○出口王仁三郎著「死獅子と生鼠」(玉鏡、昭8/11)
 死んだ獅子ししよりもきたねずみほうがどのぐらゐはたらきがあるかわからぬ。百獣の王といえども死んではなんちからをもない。ちいさいねずみでも生きて居るものは、どんな働きをするか分らぬ。世人せじんはこの道理を考へないから駄目だめである。此世このよおいては生きた人間ぐらゐ尊いものは無い。神様は生きた人間をもっその経綸を実行しようとしてられるので、死んだ人を使はうとはして居られない。わが大本にても開祖様はえらいおかたに相違ないが、今は生きて居る王仁わたしの方が働きがあるのである。王仁が帰幽きゆうすれば、後を日出麿ひでまろほうが王仁よりも働きがある道理である。
 すべて生きて居るものでなくては働きが出来ないでは無いか。それだのに「開祖様が生前から仰有おっしゃっってゐらっしやったから、さうせなくてはならぬ」と云うて、王仁の云ふ事を用ひぬ頑迷がんめい固陋ころうの役員があっために、どのくらい神業の妨害となって居るか分らない。世は時々刻々に進展してく。それに適応してすすんでくのでなかったら、進歩も向上も発展も無い事になる。ゆえに神様は其時代をリードすべく、適当なる人を此世このよくだして、その経綸を遂行したまふのである。この道理どうりをよくさとらねばならぬ。


「大正4年旧11月26日」
 大国常立尊が変性男子の霊魂の宿りている肉体を借りて、末代の世を受取りて、世の本の生粋の誠の生神ばかりが表に現はれて、天地の先祖の御手伝で、数は尠いなれど、神力は御一柱(おひとかた)の生神の御手伝が在り出しても、霊魂の神が何程沢山でも、もとの誠の生神の力には敵はんから、同じ様な事を申して細々と今に続いて知らしているなれど、途中に出来た枝の神やら、外国から渡りて来ている修行なしの利己主義の遣方の守護神では、日本の肝腎の事は解りは致さんぞよ。


○王仁三郎著「聖賢では出来ぬ」 (玉鏡、昭6/11)
 おふでさきなかにも「今度の御用ごようにくたいをもったかみあらざればじょうじゅせぬ」しめされてある。どんなせいけんでも人間であってはこのたびの御用は出来できにくい。かみなおらなければ出来ぬたいもうである。


(※2)
○王仁三郎著「元の生神」 (玉鏡、昭7/5)
 ふでさき「いよいよとなるとにくたいそのままのもといきがみあらはれてお手伝てつだひをなさる」といふ意味のことがしめされてある。りゅうたいその他いろいろの姿をもって、もとむかしからどほしの神様がげんぞんされ活動されるのである。すなわ神諭しんゆしめされてあるごとく、このたびの大神業はれいかみだけではじょうじゅできない大望〔 大事業たいもう 〕なのである。開祖様がかつてて神様に「もとむかしからどほしの神様の姿すがたせていただい」とねがはれたら、神様は「ひと見ても吃驚びっくりする」ともうされたことがある。〔 注:この言葉の真意、大国常立尊様の真の御姿については大本神諭「大正4年旧6月11日」を参照されたい。〕


○王仁三郎著「大宇宙」(玉鏡、昭8/9)
 だいちゅうへば、じんみなおおきな世界せかいふ意味に承知しょうちしてるやうであるが、さうでは無い。宇宙はだいかたちをして居るので、それで大宇宙といふのである。大の字また人間の形である。あたまがあり、両手両足があり、どうがある形だ。こうせいかんあらたにうまれた事を記念するめに「大の字の形」につくったのである。
 うしとらこんじん様は、そのふでさきおい「 いきがみである 」ことつねもうされて居る。これ”宇宙そのものがいきものである”ふ事をもうされて居るので、開祖様がかつて「一度、おほかみ様のお姿すがたおがみとうございます」ともうしあげられると「そのほうの姿がこのほうの姿であるわい」とおっしゃった。さうしてまた「本当の姿はあおくもかさて耳がかくれぬわい」とおおせられた。之は人体的にけんげんせらるる場合と、御本体とを区別くべつして申されたので、御本体すなわち大国常立尊としては宇宙とそのひろがりをひとしゅうせらるるわけである。実際きてられて、その姿すがた すなわち大宇宙の姿も人体とおなかたちである。ろん人間のにくがんをもってしても、また如何いかなるせいこうなる望遠鏡をもってしても決してるものではないのである。これたとへれば、ぞうの足にとまったありが決してぞう全体の形をぬとおなじ事である。たとへどんな遠方に離れてこれを見てもついその全部の姿を見得ぬであらう。毛の中に潜り込んだありなどは大密林にそうぐうし、けども行けども平地にられない・・・といふふうにも思ふだらう。大宇宙は生きて居る、大の字すなわち人の形をして生きて居る。頭もあれば、手も足もあれば、目もある。だがそれは人の想像にぜっしたものである。ぞう比喩ひゆでもって推理して考へてたらよい。


(※3)
○王仁三郎著「竜神の御職務」 (水鏡、昭2/2)
 太古たいここくおほかみ大地だいちの修理固成の場合には竜神がさかんに活動されたものであるが、今はもうその必要がなくなったので、静まって天然現象をつかさどる事になって居る。すなわち雨をらせ風をかすなどの働きをしてるのである。
〔 私註:仏教で、ほくとうすなわちうしとら方角の守護仏は、ぞう菩薩ぼさつとされます。一方、うしとらこんじん国常立尊様は、こく大神でもある。『こくぞう』と『こくそ』、かさなるものがあります。『丑寅の守護神さま』 も参照。〕


○王仁三郎著「竜は耳が聞えぬ」(月鏡、昭5/2)
りゅうみみいてつんぼと読むが、竜は耳が聞こえぬものである。竜はしんかいに属して居るから人間の言葉はつうぜぬ。神様の言葉でなくては聞えぬのである。だから普通の人に風雨を叱咤しったするちからは無い。神界につうずることたまの持主のみが竜に命令し、天然現象を自由にしる権能をもってるのである。

テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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