『大本神諭』 明治36年8月16日/惟神眞道彌広大出口國直靈主之命/元の生神/大宇宙/卍と○に十

○明治36年8月16日(火の巻)

 これまでのまっぽう〔 末法 〕ので、あくがみあくにんの世でありたから、此世このよことをしてるとおもうてして居る事が、さかさまばかりをして居るから、この世はまっさかさまに成りて居るといふ事が、だいを逆様にいて(※1)何処どこみやにも、みちばたにも、べんてんどうにも、どうやしろにも電信の柱にも、平岩にも、ゆくさきに書いて見せてあるなれど、そのような事に気のじんみんいぞよ。今の世界の人民には、何結構な事の実地じっちをして見せても、ける人民も無いぞよ。出口でぐちなおあきないに行って、先々でまるじゅう(※2)、大の字さかさまいてあるのを見て、「これは変な事じゃ」と思うててりて、かんじんの商売を忘れて考へて居りたぞよ。皆 うしとらこんじんが、人にうつりてかかしていたのであるぞよ。


世を救ふ ろくの神の 標章みしるしは まるじゅうかむさだめなる(出口王仁三郎聖師、霊界物語第1巻余白歌)




(※1)「大の字」
「大正4年旧6月11日(天の巻)」
大国常立尊、変性男子のたま全部さっぱりおもてへ顕れて、変性女子の身魂をあらはせんと、天晴あっぱ表面おもてへ出る事にならんから、余り世が進みて、天地がさかさま顚覆ひっくり返りて居りたから、地の世界に何を致しても逆様ばかりで、実効まことと云ふことが一ツも出来て居はせん。この世界中の事は、何も皆さかさまばかり。このさか様の世を本様に致して、御三体の大神さまを、元の至仁至愛の世へ世を戻して、元の日本のもとへ納めるぞよ。さツぱり悪神の自由自在にここ迄は致して、元の御先祖様を「機関である」といふことを申して、「天の日神月神おふたかただいさかさままるじゅうになりてある」といふことが、明治25年に初発に書してあらうがな。丸に十、八分余り真黒して、白い場所が二分にぶ切れて居ろうがな。身魂があの通り。その又の身魂が曇りて居るぞよ。今ではの身魂が真黒になりてしまふて、改善よくなるどころか一日しに悪なるばかり。どうも劇甚えらいことに曇りたものであるぞよ。


「大正6年旧9月30日」
元のミロク様の世の間は、まことに善き世でありたなれど、れて行くに従ひ、元の御血統の行方ではつらうてようこばらん神が出来て、しまひには大勢の神の自由に致して来たのであるぞよ……。この世一切の事を致すには、どの身魂もこしらえて置かねば成らんから、上の霊魂と、下の霊魂と、中の霊魂と、三段にたてけてありたものが、暮れて行く世に連れて、下の霊魂にエライ間違が出来て、上の霊魂を押込める如うになり、上が下に、下が上に、大の字さかさまの大きな間違がる事がよく見えて居りたから、○に十を書かして、白い所を二分、八分はまっくろに致して、明治25年の初発に知らしてある通りに、世界が成りて居るぞよ。何事も、物事がみな逆様に覆りて居るこの世を、元へなおさねばならぬから、何につけても大望ばかりであるぞよ。


○出口王仁三郎著「惟神眞道彌広大出口國直靈主之命」(水鏡、昭和2/12)
 かむながらみちいやひろおほ出口いつきくになほぬしみことの御神名は、(出口なお)開祖様だけでは無い。二代〔 すみさん 〕、三代〔 直日なほひさん 〕と私〔 さぶろう聖師 〕とが一緒いっしょにこもってるので、はや昇天しょうてんしたものから、第一惟神真道弥広大出口国直日主之命、第二惟神真道弥広大出口国直日主之命とばるるので、第三、第四もどうようである。
 おほつき大の字は「 おほきな 」と云ふ意味でなく、は大地のたい すなわちくにとこたちのみことあらはし、は大地のれい きんかつかねのかみ〔 金勝要之神 〕をあらはし、は大地のちから かむさのをのみことを現はし、さんしん世のもととなって居るのである。それになお〔 註:天帝の分魂にして、直霊としてけんげんした良心神のこと。感謝祈願祝詞参照。 〕を加へ、主の神がまもらるると意味いみである。


○王仁三郎著「元の生神」 (玉鏡、昭7/5)
 ふでさき「いよいよとなるとにくたいそのままのもといきがみあらはれてお手伝てつだひをなさる」といふ意味のことがしめされてある。りゅうたいその他いろいろの姿をもって、もとむかしからどほしの神様がげんぞん〔 現存 〕され活動されるのである。すなわ神諭しんゆしめされてあるごとく、このたびの大神業はれいかみだけではじょうじゅできないたいもうのである。開祖様がかつてて神様に「もとむかしからどほしの神様の姿すがたせていただい」とねがはれたら、神様は「ひと見ても吃驚びっくりする」ともうされたことがある。


○王仁三郎著「大宇宙」 玉鏡(昭8/9)
 だいちゅうへば、じんみなおおきな世界せかいふ意味に承知しょうちしてるやうであるが、さうでは無い。宇宙はだいかたちをして居るので、それで大宇宙といふのである。大の字また人間の形である。あたまがあり、両手両足があり、どうがある形だ。こうせいかんあらたにうまれた事を記念するめに「大の字の形」につくったのである。
 うしとらこんじん様は、そのふでさきおい「 いきがみである 」ことつねもうされて居る。これ”宇宙そのものがいきものである”ふ事をもうされて居るので、開祖様がかつて「一度、おほかみ様のお姿すがたおがみとうございます」ともうしあげられると「そのほうの姿がこのほうの姿であるわい」とおっしゃった。さうしてまた「本当の姿はあおくもかさて耳がかくれぬわい」とおおせられた。之は人体的にけんげんせらるる場合と、御本体とを区別くべつして申されたので、御本体すなわち大国常立尊としては宇宙とそのひろがりをひとしゅうせらるるわけである。実際きてられて、その姿すがた すなわち大宇宙の姿も人体とおなかたちである。ろん人間のにくがんをもってしても、また如何いかなるせいこうなる望遠鏡をもってしても決してるものではないのである。これたとへれば、ぞうの足にとまったありが決してぞう全体の形をぬとおなじ事である。たとへどんな遠方に離れてこれを見てもついその全部の姿を見得ぬであらう。毛の中に潜り込んだありなどは大密林にそうぐうし、けども行けども平地にられない・・・といふふうにも思ふだらう。大宇宙は生きて居る、大の字すなわち人の形をして生きて居る。頭もあれば、手も足もあれば、目もある。だがそれは人の想像にぜっしたものである。ぞう比喩ひゆでもって推理して考へてたらよい。


(※2)
出口王仁三郎氏に挙国更生を聞く(二)
鈴木「ヒットラーのはたですが、卍の形になっておりますが」
聖師「どこでも天地はたてよこだから、経と緯にきまっている。こう卍字まんじでも、はく卍字まんじでも妙見みょうけんでも──これは先をとがらしているだけの違いだ。大本もまるじゅうだ。 〔 ⨁ 〕 まるに十だけれども、それを具体化して○を十こしらえたんでみな同じである。仏教もきりすと教もみなそうだ。十というものは天地の数だ。丸いのは世界だ。他のは宇宙が書いてない。ただ十だけだ。大本は周囲に○がある。まるの中に十〔 ⨁ 〕 それを具体化して○を十こしらえた。どの宗教でもこれは当たり前だ。じゅうからみな作っている、経と緯、火と水〔 みず 〕だ」


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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