『大本神諭』 明治36年旧6月4日/梅で開いて松でをさめる/梅で開いて/細矛千足の国/軍備撤廃問題

○明治36年旧6月4日(火の巻)

 うしとらこんじんわかみのみことぐちあらはれて、世界せかい守護しゅごいたすと、じんみんからはけんとうれん経綸しぐみが致してあるから、このあやおほもと仕組しぐみは、さきに言はれんのであるから、この経綸のわかる人民なればえらいなれど、これみなわかりたらものごと じょうじゅいたさんから、出来できがるまでは、かんじんの経綸はもうさんぞよ。
 人民といふものは如何様どないに申しても、こころはやかはるものであるから、「い事じゃ」と思うたらぐによろこぶし、「これおもしろい」と思うたら、すぐに心がかはるし、なつはな紫陽花あじさいいろほどくれくれかはるから、じゅうぶん見届みとどけたそのうへでないと、神は申さんぞよ。如何どんうれしき事でも左程さほどよろこばず、つまらいでも左程に心配をいたさずに、昔からチットも変らぬ色のまつごころらば、こんなたいもうたてかへよういたす、神のものにならねばならぬ御用ごようであるから、大本へたちる人は、人にじゅうばいかいしんが出来てらんとつとまらんぞよ。今度の大本の中の御用は、余程よほど神の心をらんと、とりそこないいたすぞよ。ふでさきしてはあるなれど、はらわたひきわけて見て、「これでなら」とこのほうとどけんと、実地の真実まことは申さんぞよ。
 このふでさきにはチットもうそかかして無いなれど、たますいしょうみがけてらんと、何もわかりはいたさんぞよ。くもりた霊魂みたまが見たら、くもりて見えるぞよ。こころごころに取れるから、トコトンまで改心いたして、たまみがいて居らんと、まことの神徳は取れはいたさんぞよ。水晶霊魂にはまたほかには無い結構けっこうな筆先であるぞよ。誰もこのほうの心はれまいが、あとではずかしく無いやうに、大本のわからんうちこころかんと、後になりてからはとりかえしがらんから、同じ事ばかりをたびたび書いて、気をけておくぞよ。出口なおが肉体でもうすと思うて、だんを致したら、先でジリジリもだへても、後のこうかいあわんぞよ。
 このほうの心のわかりたものは、神にも、ぶつにも、人民にもりはいたさんぞよ。
 おほもとにしきはたしきはた 〕には、どんなよう出来できておるか、機〔 はたひとにさへわからん経綸しぐみであるから、智慧ちゑがくかんがへでわかりさうなこといから、大本のうちの役員がひとつのこころになりて、筆先を見ておこなひさへ出来だしたら、世間から「アレデならこそ、神を信心するひとじゃ」とはれだすから、信者の人もおこなひを改めて、神の心にかなふやうに成りて来るぞよ。「大本へたちひとは、ほかの教会のひとおこなひとはだいちがうて、すぐれてる」といふ事が、世間せけんくやうに成りたら、うしとらこんじんあっぱれあらはれるなれど、今のやうなていさいうち全部すっかりあらはれてせたら、みなのものがトチめんぼう〔 面貌 〕をりて困るから、ひかえてわざとに出口なおなにの事を知らして居るのを、さしぞへの役員の間では、チットはたまみがけかけたなれど、モひとそろうてみがけんと、あっぱれ神が表にところで、ところも無いぞよ。たまみがいたりみがかしたり、余程よほど骨を折りておかんと、「はやおもてになりたら、成りたら」ともうして待ちてりても、この内部なか行状おこなひおさまらん様な事でありたら、日々のつとめがつらうてこばれんぞよ。神のいれものを余程そろうて研いて居らんと、せうまつが出て来たら、はげしうてよしあしが厳重にわかるから、大きな声もんやうにるぞよ。さう成らんと、まことの改心は、今の人民はう致さんぞよ。何時いつでもざはりのる人民が、この大本へりて来たら、なにとは無しに、そこらの事がはげしう成りて、こわうて逃げて帰らねばならんぞよ。
 今度はたまみがけた人民から、はやくなるぞよ。身魂みたませんたくが、何よりも一番に骨が折れるぞよ。 「あつしのいであきかぜてど、世界せかいさむしくなる」 とふ事が、ふでさきしてあらうがな。のぼりてひとくだまいりて来て、「のぼくだりで、世界はだいさわがしく成る」ともうしてあるが、天地てんちかえる世がまゐりたぞよ。「天地が覆る」ともうすのは、たまうへしたかはる事であるぞよ。外国ばかりでは無いぞよ。あしもと御用心ごようじんなされよ。三千世界のたま調あらため〔 審判 〕、身魂みたまの洗濯〔 せんたく 〕いたすのがおそりたぞよ。余りヒドイあかたまりてるので、神も骨が折れるぞよ。今度あやおほもとはなは、むかしからの苦労くろうかたまりであるから、いたら万古まんごまつだいしほれぬはなであるぞよ。めずらしき、世界にまたと結構けっこうはなであるぞよ。世界のおほもとたいもうところが、こんな粗末そまつところであるから、今からうれしいやうな事をしてせたら、人民と申すものはちかよくなものであるから、「けっこう」と申してみなりてるなれど、はやくやうなはなは、るのもはやいぞよ。

 今度おほもとに咲く花は、苦労くろうしのかたままった、しんこくみのりのいたすばなであるから、変性男子と変性女子と、りゅうぐうおとひめ殿ときんかつかねかみ〔 金闕要の神 〕と、こんそろうて世に落ちて居りたたまよういたして、神国の光を出すのであるぞよ。いままで世に出てれた神様も、この世のうへに立ちて居りた守護神も、かいしんなされて、ひとつの道へたちかへりて、日本のうちの御守護あそばすやうに成りたら、まことに結構であるぞよ。うしとらこんじんひとがらをするので無いぞよ。みな手をひきふて、そろふて良くなりてよろこばしたいのであるなれど、皆やうちごうてるぞよ。小さい心の人民、神はきらひ。うめは咲く、さくられる、たけたおれる、まつさかえる世が参りたから、日本の人民そろふて、がいこくよりも先に改心いたしてくだされよ。たけたおれる、さくらる世がまいりたぞよ(※1)。松と梅とは日本なり。竹はがいこくたとへてあるなり(※2)、桜はぶつたとへてあるから、こころりでくだされ。松と梅の心で無いと、日本の国にりての守護が出来ん事になるから、明治二十五年から気をけてありたぞよ。
 なかには、「日本にほんがいこくも〔 の 〕べつちごうたことは無いはずじゃ。おなかみつくりた国であるのに、日本、日本といきいたす、世間せけんずのせま勝手かってな神じゃ」ともうすものもたくさん現はれて来るなれど、ソレは天地の先祖の神の広い深いこころわからん、あくの守護神のうつりて居る外国身魂であるから、深い経綸しぐみおくわからんであるぞよ。人民のもうことは、一寸ちょっと聞くと立派りっぱ理屈りくつうたやうな事を申せども、天地の元の生神とは、精神が全部すっかり違うて居るから、トコトン改心〔 かいしんいたして今までのがくたまりた塵埃ごもくしてしまはねば、何もわかりは致さんぞよ。

 今度のたてかへは、昔からいんねんのあるへんじょうなんにょとのたまでないと、物事じょうじゅ致さんから、ほかの役員が何程智慧ちえで考へて相談をしてりても、途中で邪魔じゃまりて、あぶはちらずの事がしゅったいいたすから、このおほもとの経綸は女子にいたさすから、「自己われろうと思うたら、物事りんところかへるぞよ」と申して、毎度まいど筆先でらしてあれど、今の人民ははなが高うて、「われほどエライわかりたものは無い」と思うて、まんしんが強いから、何時いつしくじりが出来るぞよ。人民のかんがぐらいる事なら、三千年あまりては神はくやしい残念をこばりて、こんな苦労はいたさいでもよいなれど、今度の事は、なかなかくちもうすやうなあさちいさい事でないから、この大本のなか経綸しぐみは、何事もはた〔 旗 〕ひとさししたがうて致さんと、悧巧りこうしていたしたら、神の精神とはんから、かえっどくこと出来できるぞよ。

 うしとらこんじんは、三千年あまりて仕組しぐみた事をふでさきで知らして、この世のとどめして、てんおほかみ様に御目にかけけるやくであるなり。ひつじさるこんじんは、実地の経綸しぐみを致す御役なり。大地のこんじんきんかつかねかみ〔 金勝要之神 〕は、かねの守護を致すなり。りゅう<ぐう/rt>おとひめ殿は、かみひきふて、外国でのはたらきをあそばすなり。こんそろうて、三千世界のたてかへたてなほしを致すたいもうな御役であるから、この大本へ立寄る人はそのこころりてくださらんと、ものごと九分九厘で成就いたさんぞよ。

 今迄の世は外国のたまる世で、かねつらる世でありたなれど、二度目の世の立替をいたす綾部あやべおほもとは、金では面は張らさんぞよ。さっぱり今迄とは物事をへて、天地てんちうへしたに致すのであるから、あがりてがいこく身魂みたまになりてりた人民は、こころそこからかいしんいたさんと、日本のうちはん事に成りて、気の毒なものであるぞよ。この神おもてに成りかけたら、「われも、わしも」と申して、金銀持ちて、「世話さしてれ」と申して、つめかけて来るなれど、今度は身魂にいんねんの無き人民のかねは、もちいられんぞよ。今はわざとにこの大本のうちは、さびしく致して見せてあれど、先に成りたら金銀は雨の降るごとく、ことわりこまる様に成りて来る(註)、世界の大本であるぞよ。神の道はチットもよくは致されんから、金が欲しい様な精神では、今度のたいもうは成就いたさんぞよ。

 これまでの世は大将が無い同様の世に成りて、つよいものちの世でありたから、自分われさへよけりや、他人ひと如何様どないらうともかまはん世に成りて居りたから、二度目のあまいわびらを致して、さらつの世に致して、神世一代の事、この一切いっさいの事をあらためいたして、この世をもちあららした守護神のあらためにかかりて、天狗てんぐぎつねたぬき、この世のふうらいものをそれぞれ処分らちを付けて、あくの守護神に使はれて居りた肉体は、がいこくくにそこくにきといたすから、その覚悟を致されよ。出口なおの日々のねがひが耳へる守護神なら、この大本からかまうてやれば、万古末代の結構な事であるなり。根の国、底の国に落とされたら、モウこれからは、日本の土地おつちましてもらふ事は出来ん事に成るから、気をけたのであるぞよ。

 のうのみことたま體主靈從かえりて、天地のいわめたゆえ、天も地も妖気起くさりきりてしまうて、草木の色まで天然の光沢ひかりも出んやうになりて、いねにも、豆にも、野菜物にも、花にも、くだものにもわるむしくやうになりて、じゅうぶんとりいれも出来んやうになりて居るから(※3)、今度は一番にこのたまからかいしんをして貰はねば、天地のいわ何時いつまでかかりても開けんから、へんじょうにょの改心が一番であるぞよ。今度 天地の岩戸が開けたら、草木も、人民も、山も、海もひかかがいて、まことにそこらじゅうがキラキラ致して、たのもしい世のおだやかな世になるぞよ。これが真の神世であるぞよ。雨もしいぶんに降り、風も欲しい時に吹いて、人民のたまきよらかになりて、天下たいへい、天地の身魂がいさむ世になるぞよ。月も日もモットひかりが強くなりて、水晶のやうに物がとほりて見え出すから、あくの身魂のかくれる場所が無きやうになるぞよ。時節じせつが来たぞよ。用意をなされ。

 今度の御用は、めいめいおなじ御用はさしてないぞよ。昔からのたまいんねんだけのことをさすぞよ。出口なおには、ふでさきで知らさすなり。すみには、筆先のかはりにくちで言はさすなり。うえさぶろうは、ぐちさぶろうと名をえさして(※4)、神界の経綸しぐみように使ふなり。役員は役員で、各自にちがうた御用を致さすから、同じ御用は一人も無いぞよ。みな霊魂に因縁ありての御用を神が致さすのであるから、素直すなおに聞いて下さらんと、を出したらしくじりが出来るぞよ。神は何事もまへまへつに気をけるぞよ。

 この大本は、筆先どほりにいたさねば、人民のでやらうと思うたら、何一つ物事じょうじゅいたさんぞよ。ドエライざましに会うて、世界の人に顔もはされず、大きな息もうせずに、家のすみくまに隠れて居らんならん事がしゅったいいたすから、「筆先をじゅうぶんつめて、おこなひをいたしてくだされ」と、クドウもうすのであるぞよ。この神の申す事を軽くとりて、「何時いつも同じからすいとる」ぐらいに思うて、何時までもシブトウ聞かんと、何時ふねかへるやら知れんから、この大本へ来て御用をいたさうと思うたら、余程しっかり致さんと、かんじんの時に御用には使はんぞよ。神の申すうちに聞かんと、モウ神はかんにんぶくろれるから、この堪忍袋が切れたら、とうていかなはんぞよ。




(※1)
大本神諭「明治31年11月30日」
 の一番大将が悪いので無い、いちの番頭の政事が悪き故であるぞよ。安逸らくな方は行り好いから、其の行り方は桜の花じゃ。是迄の世は花の世で、紫陽花あじさいの世で、実りの致さん世の持方であるから、国は永うは栄えん、悪の世で在りたぞよ。余程の苦労を致さねば、みのりはいたさんぞよ。


○出口栄二(解説)『出口王仁三郎著作集 第三巻』
 昭和20年(1945年)9月8日、第二次大本事件の最終判決がくだり、十月には大赦令により王仁三郎は青天白日の身となった。12月8日には、再発足と事件解決の祭典が、大本発祥の地綾部でとり行なわれることになった。王仁三郎は、秋の日ざしをあびながら毎日嬉々として、荒らされた神苑の清掃にいそしむ在綾の信徒を激励していた。
 ある日のこと、官権に埋め立てられた金竜海跡の広場(現在みろく殿のある広場)に来て、その周囲に植えられた桜の木を見て「これからは神苑一帯を”梅松苑”と命名するが、梅と松を植えるように」と指示した。そのときのことを今も印象深く思い出す。「花は桜木 人は武士」で、軍国主義を象徴した「サクラ」の時代は終わったのだということを、王仁三郎は身をもって示したわけである。


(※2)
○出口王仁三郎著「梅で開いて松でをさめる」(月鏡)
(神諭の)『うめひらいてまつおさめる。たけがいこく〔 害国 〕の守護しゅご』といふ意味は、梅はおしえ、松は政治、竹はを意味するもので、は国をがいすると云ふのでがいこくといふ事になる〔 註:大日本帝国陸軍・帝国海軍の暴走の結果が大東亜戦争と大敗北。 〕。それを穿ちがひして竹を嫌ふと云ふのは可笑おかしなな事である。竹は古来こらい四君子の中の一としてあがめられて居て、たんかいにしてしかもふしがあってしっかりして居る、悪い事はすこしもない。みなが取り違ひして竹を嫌ふので三代〔 註:出口直日 〕がわざとにたけゑてそのなかきくすいそうててんでゐるのである。


○王仁三郎著「梅で開いて」(玉鏡、昭和9/4)
うめひらいてまつをさめる、たけがいこく 害国 〕の守護である』・・・というしんひとつの意味は、梅はおしえ、松はせいである。竹はを意味する。武器はもと竹でつくった、ゆみがそれであり、たけやりがそれである。武器をもちいなくてはならぬようではわるい、という意味である。


○王仁三郎著「細矛千足の国」(月鏡、昭和4/8)
 精鋭なる武器のととのっている国が、くわしほこたるの国である。我が国に世界無比のけんかん だのながだのという軍艦を持っていることは、人意を強うするにる。どうをいったんいてのち、おうどうかねばならぬほど世はみだれきっている。戦争でもって、いったんはしんしゅういずくにを世界にしめさねばならぬことがくるかもれない。〔 註:大東亜戦争最前線の日本軍兵士たちは、潜水艦や駆逐艦、航空機、地上孤島の兵卒に至るまで、日本兵あなどりがたし、神風おそるべしの武威を示しました。一方で、指導者層を中心にあらゆる天津罪・国津罪を犯し、自国民のみならず、アジア太平洋の諸国民衆に大きな罪を犯したのです。 〕
 しかしてのち、あいぜんまことを世界にいたさば、真の平和と幸福とをしょうらいすることが、けだしさほどの難事なんじでもあるまい。
上野公園さん『人に内在する良心神ブログ』より「もう一つの地球、戦艦陸奥と戦艦長門は同型艦」(2012年3月1日)


○王仁三郎著「軍備撤廃問題」(月鏡、昭和4/10)
 軍備縮小はよいが、軍備てっぱいだんじて不可ふかである。ミロクの世といえども軍備はあるので、これは一日もゆるがせにすべからざるものである。もしこれを撤廃すればまたぐに惡のはびこる世になるので、いつの世になってもけんは必要である。つるぎくさなぎのつるぎあめのむらくものつるぎ 〕はさんしゅしんぽう〔 三種の神器 〕の中の随一である、たまかがみも、うしろつるぎなくては完全にその使命しめいすいこうすることが出来ない。かがみおしえであってこれうめはいたまは政治であって、と云ふ意味よりしてこれまつに配すつるぎは武力であってこれたけに配す。このみっつのものはどのひとつをいでもならない。松、竹、梅ときもののひょうしょうとするのはこの理由によるのである。あまてらすおほかみ様のたまたまかがみすさのおおのおほかみ様の御霊はつるぎであらせらるる。


(※3)
○『ジャータカ物語』より『国王への訓戒前生物語』
 これは、師(しゃぶつ)がジェータ林(おんしょうじゃ)に滞在しておられたとき、国王について与えた訓戒について語られたものである。師は「大王さま、むかしの王たちも賢者の話を聞いて、正しく国を治め、天界への道を上って行きました」と言って、われるままに過去のことを話された。むかし、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていたとき、ボーディサッタ(菩薩ぼさつ。ここでは悟る前のお釈迦さま)はバラモンの家に生まれでて、成年に達してあらゆる学芸を修め、仙人の出家道に入り、神通力と瞑想を得て、快適なヒマラヤ地方で森の木の根と実を食べて暮らしていた。
 そのころ王は〔 自分の 〕不徳をかえりみようと思い、「だれか私の不徳と言うものはあるか」と言って探しまわった。身内にも外にも、都のなかにも外にも、自分を悪く言うものを見出すことはできず、「田舎ではどうであろうか」と、姿をかえて田舎をまわってみた。そこでも悪く言う者を見つけることはなく、王の徳を語ることばを聴くばかりであった。「ヒマラヤ地方ではどうであろうか」と、王は森に入り歩きまわったすえ菩薩の修業所にたどりついた。菩薩に敬礼し挨拶をもうしあげてから、そのそばに座った。
 ちょうどそのとき菩薩は、森から熟れたニグローダの実を取って来て食べていた。その実は甘く、滋養に富み、サトウキビの粉にも等しい味であった。菩薩は王に話かけた。「大きな福徳のあるかたよ、ニグローダのれた実を食べ、水をお飲みなさい」と言うと、王はそのとおりにしてから、菩薩に尋ねた。
「尊師よ、どうしてこのニグローダの熟れた実はこれほど甘いのでしょうか」
「大きな福徳のあるかたよ、そもそも王様が正しく公平に国を治めておられます。だからそれは甘いのです」
「尊師よ、王様が正しくないときには甘くないのですか」
「そのとおりです、大きな福徳のあるかたよ。王様が正しくないと、油・蜜・糖なども森の木の根やさまざまな果実も甘くなく、滋養もなくなります。それだけでなく、王国全体も活気がなくなり、いやな感じになってきます。逆に王様が正しいと、それらは甘く、滋養分があるものとなり、王国全体も活気に満ちてくるのです」
 王は自分の本当の身分を明かさず、礼を言って菩薩の元を去り、王都に戻った。そして「行者の言葉をためしてみるとしよう」と、不法な政治をおこなった。「これでわかるであろう」と少し時を過ごしてから、またふたたびヒマラヤの菩薩のところに行って、敬礼して一方に座った。菩薩は王に前と同じように言って、ニグローダの熟れた身をわたした。それはにがい味であった。王は「まずい」とつばと共に吐き出して、「苦いです、尊師よ」と言った。菩薩は
「大きな福徳のあるかたよ、王様が正しくないからなのでしょう。王様が正しくないときには、森のさまざまな果実をはじめとするすべてのものが、まずく滋養がなくなってしまうのです」と言って、以下の詩をとなえた。
『水を渡りゆくうし〔 丑 〕のなか ぎゅうおうまががりて行かば、牛〔 うし 〕はみな曲がりて進む。みちびく者が曲がりて行くなれば。これと同じく人中に おさとあおがるる かれ不当に振るまわば、世の人々は言うにおよばず、国はなべて苦におちいる。王が法にかなわざればなり。
 水を渡り行く牛のなか、牛王なおく行くならば、牛はみな直く進む。導く者が直く行くなれば。これと同じく人中に 長とあおがるる かれ正しく振るまわば、世の人々は言うに及ばず 国はなべて楽を受く。王が法にかないてあればなり。』
 王は菩薩の教えを聞いて、自分が王であることを告げて、「尊師よ、前にはニグローダの熟れた実を自分で甘くして、それから苦くしました。いままた甘くいたしましょう。」と、菩薩に挨拶をして王都に帰り、正しく国を治めて、すべてを秩序正しくした。師(釈迦牟尼仏)はこの法話をされて、過去前生を現在にあてはめられた。「そのときの国王はアーナンダであり、行者は実にわたくしであった。」と。


(※4)○「本教創世記 第九章」
(上田喜三郎が神界修行に際し家族者へあてた)遺書の末尾に「鬼三郎」と署名したのである。「喜三郎のキと鬼神のキと音が通うから、りキサブロウと読むのであろう」とは思うてたのであったが、のちに綾部の大本〔 大元 〕へ来てから「鬼三郎」は「おにさぶろう」と読むのであって、もんかみ仕組しぐみであったという事が判明して来たのである。神界の仕組は幽遠であるから、とても人心小智の探知しあたわざる所である。




テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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