『大本神諭』 明治35年旧3月11日/三千年に一度実る桃の実/世の大峠と信仰

○明治35年旧3月11日(天の巻)

 うしとらこんじん おもてあらはれて、これからはこといたしたじんみんと、しき事いたした人民とをたてわけて見せるから、ながらくふでさきで知らした事がわかりてるぞよ。「かみみちでは、教役者とりつぎなり、公人くにんやくにんかしらいたしてるものを、こころしきものはみな とりはらい払い 〕に致すぞよ」と筆先にしてらうがな。みなて来るぞよ。世界のすみずみまであらためが致してあるから、世界へせしめがせて在れども、盲目めくらつんぼのなかであるから、何をして見せたとてひとつもわからんから、今度はあっあらはれて、てんおほかみ御命令ごめいれいいただきて、よしあしさばけると、盲目めくらき つんぼみみきこえ出して、トチめんぼう〔 麺棒 〕をってビックリ致すぞよ。世界の人民は、うたがもので在るから、実地じっちまことのしょうまつを見せてやらねば、なにを言ひ聞かしても耳へも這入はいらず、何をしてせても目にとまらず、こんぽん霊魂たましひくもりてるから、わかるのがむつしいから、何程なんぼあいそうでも、かみしんりきは、これぐらいなものでるといふことをして見せて、かいしんさせねば、モウ助けやうがいぞよ。
 人民といふものは、ばんぶつれいちょうもうして、神にもれるしょうらいの、結構けっこうたまいただいてながら、これだけにくもらせてしまふて、なにまことの神のおしえが解らんやうになりたのは、がいこくをしへ世界せかいいちきものとおもまよはされて、かんじん日本やまとだましひを外へ宿やどかへさして、全然さっぱりたましひへられて居るからであるぞよ。昔からの神が管掌かまはねば、くにみだれて世界中がつぶれてしまふから、このほうきびかみがみまをしてがんりたのであるが、おほぜいひとりとはとうていかなはいで、よろずかみからうしとら閉鎖おしこめられたのでありたぞよ。せつを待てばいりまめにもはないて(※1)、いよいようしとらこんじんが世界のおつちうへを、いっさい守護致す世になりて来たから、このやみしゅにいたすしんかい経綸しぐみ御用ごようちからになるかみがあれば、申しておいでなされよ。
 このこのままにしていたなれば、日本はがいこく略取とられてしまふて、世界はどろうみるから、まっぽうちぢめてまつに致して、日本神国のおこなひを世界の手本てほんに出して、外国人〔 がいこくじん 〕をしたがはして、まんまつだい動かぬ神の世で、三千世界の陸地おつちうへを守護致して、神、ぶつ、人民を安心させてやるぞよ。そこへるまでに、世界には、ひとたてかへおほとうげがあるから(※2)、一日もはやく改心いたして、神にすがりてまことおこないにえてらんと、今迄のやうな、われさえけらひとけやうがたおれやうが、むきもいたさん精神こころでありたら、神のいましきびしきから、とうていこのおほとうげす事は出来できんぞよ。




(※1)
○出口王仁三郎著「三千年に一度実る桃の実」 水鏡(大15/10)
 三千年に一度いちどみのももふのは、無花果いちじくの事である。ももの事ではない、どんの花咲く春といふのも同じ意味である。優曇華は印度インド語であって、無花果いちじくの事である。大本神諭のいりまめにもはなく」ふのと同じ意味であって、希有けうの出来事のひである。
〔 註:新約聖書マタイ伝24章「いちじくのから、たとえをまなべ。枝がやわらかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかる。そのようなに、これらのことのすべてをたら、あなたがたは、ひとぐちまでちかづいているとれ。」 〕


○王仁三郎著「三千年に実る桃」 玉鏡(昭5/12)
 三千年に初めてみのももと云ふのは、うしとらこんじん様の事である。しかしてそのおしえいたものは天国にはいる事をるのである。ももの味、すなわかみみちである。九千年にみのる桃、六千年にみのる桃とあるのは、第一天国、第二天国の比喩ひゆであって、三千年の桃はすなわち第三天国にそうおうするのである。


(※2)
○王仁三郎著「世の大峠と信仰」(玉鏡、昭7/6)
 神様は人間を神にせてつくり給うた。しかるにこく〔 註:国常立尊様 〕いん退たい以後の世界は、やつがしらやつ大蛇おろちきんの悪霊〔 注:金毛きゅう白面狐 〕、ろくめんはっじゃ〔 註:じゃしんじゃ神。ユダヤ悪鬼 〕のすさびにおかされて、だんだんと神様と離れて惡魔あくまに近い人間になってった。人道すたれ、め 人のめ、国のためなど考ふるものはなく、ひたすらに私利しり私欲しよくにのみふける世の中になって仕舞った。このままで進んでいったならば、世界も人類もめつぼうするよりほかは無い。これはどうしてもここにいちだいてんかんが来て、全人類がまわみぎ断乎だんことしておこなはなければならない事になるのである。
 惡魔をはなれて神様にむかはなければならない時が来る。かかるてんかんあたって、人類はかなり重大なるくるしみなやみのうえに立たせらるる事はひつぜんである。日常ひごろ、神を信じ神に従ふおほもとの信者の上にも同じなやみは落ち来るのである。大本信者のみがひとりこの苦しみをのがれて、特別の場面に置かるるやうなむしのいい考へをしてたものもおうおうにして昔はあったが、さういふわけにはかぬ。ただ、まことの信仰にあるものは、かかるさい 神様におすがりする事の出来るつよみをもって居る。そしてつねに教へられつつあった事によつて、先が如何いかになりくかの見当をつける事が出来る。この二つの信念のめ、ただ自己われをのみ信ずるしん無霊魂者より、はるか容易たやすくこのなんかんを切りぬける事が出来るのである。
 人間のちからをのみたのみて生活しつつある人々が、じんりきをもって如何いかんともすることの出来ない事実にそうぐうする時、そのなやみやめいじょうすべからざるものがあらう。人間はつくられたるものである。つくぬしたる神様の御意志にしたがって行動してさへ居れば、間違ひないのである。きたらむとするおほとうげに際し、信仰無き人々をそぞろにどくに思ふ。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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