『大本神諭』 明治33年旧8月11日/取違いの信仰

○明治33年旧8月11日(火の巻)

 このふでさきは、すじちがはんことかかしてくぞよ。かかした事は皆 実現でてるぞよ。綾部あやべおほもとほかの教会とはちがふから、誰にもわからん経綸しぐみがしてあるから、わがもくてきたてたとても、そこわからん経綸がいたしてるから、実地じっちの事はモチトさきにならんと申さんぞよ。いまもうすとかへりてわるき事があるから、とも出来んやうに致してあるぞよ。目的をたてては、スコタンうてぬもの、まだまだ出来できるぞよ。なにも先にかかしておくぞよ。「綾部のばけものきちがいを見て来てやらう」と、なぶごころで来るものもあるぞよ。またまこときに来るものも有るぞよ。その仕組しぐみじゃぞよ。

 うえ阿房あほうりてざれよ。おもしろい事が出来るぞよ。足立あだちが良いことれじゃが、これでも役員、見て居ざれ。さいあげを見てもらはんと、よしあしわからんぞよ。人のくちぐるまに乗ると、スコタンに転覆なるぞよ。かんなん苦労くろうして、まことつくしてりた人民は、今度はチト神徳おかげさずけるなれど、はらのドンぞこまでも見抜みぬかんと、まことことは申さんぞよ。それでこのおほもとむづしいのじゃぞよ。今の人民はちかよくなから、何程なんぼ まことの事を申しても、今ではまだまことに致さんから、実地の事は言はれず、言はんからわからんなり。まこといままをしても、まことひといからとりちがひばかりが出来るなり(※1)。困ったものなれど、モウしばらくのぎょうであるから、上田どのはしんぼうしてつとめてくだされ。神と出口でぐちなおの苦労いたした事を思うたら、らくなものじゃぞよ。
 世界がほどこんざつになってんと、綾部のおもはくはたんぞよ。今の内はるやうにておりてくだされ。たいもうみたとても、なかなか世の立替であるから、き事ばかりを待ちて居りても、余程よほどこころせんたくを致して居らんと、間違まちがひの出来る人がだいあるぞよ。わがたま次第しだひで、今度はドンナ事でも出来るなれど、とりちがひがあると、かへって気の毒な事になりて来るぞよ。神の位格そないが出来るやうに成りたら、みなけっこうにして、まことの人から、神が御礼を申すぞよ。今は判らんので、皆がいろいろと心配を致して居れど、何事もちがひは無いぞよ。
 この仕組を今もうしても、人民ではけんから、出口には筆先かかし、上田にはれいがくけさすなり。実地じっちの事はだ見せられん事もあるぞよ。はらわたまで見貫みぬかんと、実地じっちの筆先は見せんがいぞよ。これは出口と上田の心中はらで、なかなか実地はまだまだ見せられんぞよ。さきたのしみじやぞよ。遠国からうまことを申して来ても、上田は、今の内は実地の言を申すで無いぞよ。真正まこと経綸しぐみは、だ人には言はれんぞよ。この経綸しぐみ 因縁が判らんから、ひろまるほどいったんわれの目的を立てにまゐるなれど、身魂みたまに因縁が無くば、この御用ごようは出来んぞよ。いろいろかわるから、ほかの教会でもなかなかむつしいから、して綾部は三千世界のおほもとに、コンナところがなる経綸であるから、チット気苦労もあれど、この事があっれ世界へ判りて来たら、世界をひとつにまるめるもとじゃにって、はるいち〔 四方春蔵 〕どのも、今の内におこないえなされ。今の精神のもちかたではどくがあるぞよ。
 今迄の神の教会はけっこうところのやうにあるが、何を申しても、やみくもの世の中の仕組であるから、あけからすとなりて来たら、きたなうてけてられんぞよ。ぶんに致した事は、ろくな事は出来よまいがな。神の心もチットはすいりょうして下され。それについては、役員まことがか苦勞くらうなれど、誰にも今では世話がせられんから、ドウゾしばらくのところを、らうやうに致して居りて下されよ。これだけに誠の人は骨を折りて心配を致し、布教者とりつぎのどからるやうな気苦労を致して、人を助ける為に、人の頼まん事に、世界の事を思ふのも、みなむかしから身魂に深い因縁あるゆえじゃから、モウしばらくのところ忍耐こばりくだされ。神がけてせるぞよ。これも時節が参りたのじやぞよ。何程なんぼ金銀を積んでも、身魂に因縁が無くては出来できん世話であるぞよ。かわりには、このことじょうじゅいたしたら、世界は良くなりて、まんまつだいのこることじやぞよ。名の残るといふ事は、これまでのみちでも、道を開くのはちょっとやソットではじょうじゅいたさねど、うしとらこんじんは、昔から隠れてなにもにりて御蔭おかげで、出口を咽喉のどから血の出るうきはしたなれど、そのつぎ世嗣よつぎまたらくなぞよ。それでも余り楽とは思ふまいがな。因縁の身魂はみなここひきよして、たいもう御用ごようしてあるが、出口なお苦勞くらうは、また格別じゃぞよ。今度は苦労のじまい。モウだんだんさきくなるばかりであるぞよ。

 ほかの教会はやまひなおして、人を一人でもたくさんせたり、立派な教会を建ててひろめさへしたらいのであれども、うしとらの金神の大本は、ソンナ教会とは天地の相違そういであるから、百舌鳥もずすずめも一緒には寄せんぞよ。今度の二度目のあまいわびらに間に合ふ因縁の身魂みたまばかりを引寄せて、昔からの経綸を成就いたさす三千世界の大本であるから、今迄の教会の様に思ふて居りたら、さっりょうけんが違うぞよ。てんこんこうくろずみみょうれいみなこのたいもうがあるゆえに、神から先に出したのであれども、のちの取次は神の心がわからんから、みな教会に致してしまうて、神の思はくは一つも立ず、くちすぎたねに神をいたして、われが神の真似まねばかりを致して、日本の神の名をわるいたして居るが、これみな あしの守護であるぞよ。教会の布教者とりつぎよりも、ひらの信者の方にまことがあるぞよ。今の取次、「これい」と思うて居るから、まこといきがみの申す事は、チツトも耳へらんぞよ。誠の神がおもてあっあらはれると、今迄の神を松魚節かつをぶしにいたしてりた教会の取次は、ましつらくなりて来て、ジリジリまひを致さなならん事がしゅったいするから、日々ひび気をけてりても、守護神に邪魔じゃましられてききれんぞよ。




(※1)「取違い」
○出口王仁三郎著「とりちがいの信仰」(玉鏡、昭和6/11)
 しんこうまったく自由なものだ。かみみちでは、とりちがひまんしんとがいちばんおそろしい。取違いしているとかみからは間違まちがいきったことでも、自分はただしい信仰だと思ってすすんでゆき、からのちゅうげんいましめも聞かない。そしてくところまでいって、ついにたってはなってヤットく。そしてうしろかえってはじめて背後はいごこうみょうをみておどろき、せいどうかへるのである。
 かく、間違っていてもかみからはなれぬことがたいせつである。やがてはかならず自分から気が附くことがある。間違ってゐるからといって、やらたにこうげきしてもつまらない。
 じつは、みなだれでも違いのないものはない。こんにちのところ、まだほんとうにわかったものは一人ひとりもないのだ。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる