『大本神諭』 明治32年旧7月29日

○明治32年旧7月29日(天の巻)

 うへだに結構けっこうであるぞよ。修行場ぎょうばはチトはげしくなるぞよ(※1)ちて御出おいでますかみさまの、世に御上おあがり成さるのでるから、チトは様子ようすちがうぞよ。神の経綸しぐみいたしてる事、チットもちがひは無き事なれども、わからんから心配を致すのじゃぞよ。かみはぬかみあるから、べつでうは無いぞよ。神のふやうに致してやりてくだされよ。何程なんぼかみでも、おちびととなれば神の神格そなへも無くなりて、今では粗末そまつに思へども、うしとらこんじん此世このよいっさいかなへる神であるから、塵埃つつぼにはいたさぬ神であるから、なにかみさがりてたとても、このこんじんとどいたして、出口なおに願へばゆるしてもらへる事を知りて、みなおちがみが出て来るから、綾部あやべうへだに行場ぎょうばは、大変さわがしいなるのじやぞよ。「ちいさい心ではかん」とまをすのは、何にらずものごとこれまでに無き事ばかりじやぞよ。
 綾部あやべきんめいかい〔 金明海 〕のれいがくかいと申して(※2)、世界にたれも知らん事が出来できるぞよ。むかしから無き事ばかり出来るから、きもちいさいものはこはがるぞよ。結構な事じゃぞよ。わからん事は出口でぐちなおふてくだされよ。みな筆先にしてるぞよ。なにかみ様のうつりでも、うしとらこんじんなおが願へば、神、仏事ぶつじじんみんちょうるいちくるい餓鬼がきむしけらまでもたすける神であるから(※3)、何が出てうやら判らぬぞよ。どうえんと、きもちいさうてはかんぞよ(※4)。今がはじまり、しょこくちぶれものが、出口に「ねがふてくだされ」と申して、たくさんるから。




(※1)
○「憑依霊と聖地」 玉鏡(昭9/1)
 安生館に来て、どうもせぬのにブルブル慄うて発動をするものが時々あるが、あれは長く体内に潜んで禍をして居た憑依霊が、聖地に来て赫灼かくしゃくたる神霊に照らされて居耐らなくなって発動して来るのである。さういふ霊に対しては、大神様にお願ひして、「許してやるから早くこの肉体から出よ」と叱ってやったらよい。天恩郷へ来る者は誰でも本当はさうなるのだが、王仁おにがじっと押へて居るのだ。それで王仁は気張りつめて居なくてはならないから身体が苦しいのだ。もしそれを放って置いたら、誰も彼もが発動して忽ち大本の名を汚すやうな事になる。実際は自分の体内に居るものが発動するのであるけれど、さうとは思はないで、訳の分らぬ人達は大本へ来ると発狂するなどと云ひ出すからなあ。往年(綾部の)上谷の修行場では種々の霊が出て来て大騒ぎをしたが、今でも放って置けば同じ現象が起るのである。


(※2)
出口王仁三郎氏を囲む神霊座談会(3)
芦田「誠心と信仰というものがあったら、いわゆる霊覚というようなものがなくてもいいように思いますが」
聖師「霊覚と霊感とある。霊感というやつはまだええ事はない。霊覚というのは、いわゆる神は愛善だから、神の心を覚ったのが霊覚だ。”ほとけ”は覚者(かくしゃ)ということで、愛と善とが徹底したのが霊覚なのだ。神様を見たとか何とかいうのは霊感だ。それから霊はいわゆる霊ばかりでなしに、霊妙不思議なという意味もある。霊鷹(れいよう)がとまったとか、霊鳥がとまったとか云うだろう。ワシが作った霊学会というのは、霊魂学ばかりでなしに、この上もない尊い学王学だから之を霊学と名付けたのだ。霊魂学と霊学とは違う。あの始めに拵へたのは、その意味からだった」


(※3)
○井上留五郎 出口瑞月聖師校閲『暁の烏』より 天声社、大正15年 
 次に出口直開祖様について、三代様〔 註:王仁三郎・澄子夫妻長女の出口浅野あさのさん。後日、直日なほひさん 〕から結構な御話がありましたからおとりつぎ致します。
 開祖様が三代様を水晶すいしょう身魂みたまとして如何いかに愛されてゐられたかは、今更いまさら申すまでもありませぬが、三代様もまた開祖様を生神様として絶対信頼して居られたのであります。それは左の御言葉でも想像されるのであります。(開祖様に対して三代様は何時も「大神様」と称へて居られる)
「大神様は自分のためには慈愛なさけ深き肉親のお祖母ばあ様である。またこのうへなき御師匠様であり、そして此上なきお友達である。其上に大神様である云々」
 ふかき御関係であったのでありますが、あるとき開祖様が三代様に向って、
「自分は何故か○○と○○の二人の役員はいやいやでならぬ。その人が来ると水をかけられた様にゾッとする程いやである。むしきらふと云ふ事があるが、さうかも知れぬ。セメテこの二人が○○の様になってくだされば好きになるであらふ」
 とおおせになったのであります。三代様はこれを聞かれて、後方へ倒れたかと思う程驚いたとの事であります。それは『至仁至愛にましましてむしけらまでも愛してくださるはずの大神様に、好き嫌いがあるのか』と云う点について驚かれたのであります。それ以来自然と注意して視て居られたのでありますが、さて何ヶ月たっても毫も其役員に対して嫌忌の御様子を見出すことが出来ぬのみならず、反対に御褒めになった役員に対する時よりも、より以上懇切丁寧に御あしらひになるので、ついに第二の疑問として『神様にもうらおもてがあるのでありますか?』と御聴きになりましたら、それに対する開祖様の御諭おさとしは実に左の如くでありました。
「好き嫌いがあるのは致方がない。誰にせようつくしきものを見れば美しく感じ、また汚穢きたなき物を見れば汚穢きたなく思うのは当然である。しかし好き嫌いがあってもそれは腹の中に鎮めて置いて、みだりに顔や容子ようすあらはしてはならぬ。嫌忌と云う事を先方むこうに悟られると、そのために之を改心させる事が非常に遅れるものである。大本のおしえよろこばせて改心させる教であるから、よく気をけねばならぬ。神心になると、嫌う心よりも可愛想に思う方がはるかに強いから、自然と表面うわべへは現はれぬものである」
 今一つは開祖様のけんじょうの御生涯に就てであります。大神人としての身魂でありながら、終始一貫如何に謙譲の美徳を発揮し給ひしかは、只一度面接した人々でさへ終生忘るる能はざる所であって、『神の国』に連載されてある教祖伝によっても窺い知らるるのであります。之を思うとマダマダ自分の高い鼻に邪魔をされて居る事に、気付くのであります。


(※4)
○王仁三郎著「毒と薬」 水鏡(大15/8)
 毒にならぬものは薬にもならぬ。毒も旨く使へば大した働きをするものである。毒にならぬものは、唯自分だけの事が出来る位のものだ。「聖師様の傍には悪魔ばかりがついて居る」と罵るものがあるさうだが、よし悪魔であっても差支ないでは無いか。毒になるものは薬になる。かのいわゆる善人なるものは、唯自分の自身を救ふ事が出来れば関の山だが、悪魔が一朝大悟徹底改心すれば、多くの人を救ふ働きをするものである。鬼も大蛇も救はにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛嫌ひばかりして居て、他人を悪魔扱ひにする人達が、信仰団体の中にも沢山あるのは歎かはしい事である。また悪魔を料理し得る人才が、如何にもすくない事も、歎かはしい事の一つである。お人の好いばかりが能でもない、私は本当に骨が折れる。誰か私に代って鬼も大蛇も料理すると云ふ偉才が早く現はれないものかなあ。このワニ口[現代注:聖師は王仁三郎を”ワニ三郎”と読ませたこともある]は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の堅い、腕節の強い獣物でも、噛みこなすだけの強い歯を持って居る積りだ。御心配御無用。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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