『大本神諭』 明治32年旧7月1日

○明治32年旧7月1日(天の巻)

 りゅうもんたからうしとらこんじんあずかもうすぞよ。龍門には宝は何程なんぼでもたくわへてあるぞよ。たてかへみてたてなほしのだんになりたら、間に合ふ宝であるぞよ。むかしからこのみだれた世が来るから、かくしてりたのじゃぞよ。神代かみよちかよりたから、無限〔 げん 〕の金〔 かね 〕をほりして(※1)、世界を助けるぞよ。御安心なされ、うしとらこんじんおほくに常立とこたちのみことが、じんこうごう殿とまゐ時節じせつちかよりたぞよ(※2)このこと天晴あっぱおもてあらはれると、世界一度に動くぞよ。モウみづもらさぬ経綸が致してるぞよ。いたくちふさがらぬ、うしぐそ天下てんかを取るぞよ。めずらしい事が出来できるぞよ。「アンナものがコンナものにりた」と世界の人民に改心致させる仕組であるから、チト大事業たいもうれども、じょうじゅいたさして、天地の大神御目おんめけるから、うしとらこんじんてんじくまでもはねが届くぞよ。この仕組しぐみながらく世に落ちて居りての、うしとらの金神の経綸しぐみであるから、かみがみにも御存知ごぞんじない事があるから、人民は実地じっちが出て来るまではヨウ承知しょうちを致さんぞよ。これでもけてせてやるぞよ。

 今度の二度目の世のたてかへたてなほしは、いんねんたまでないと、ようには使つかはんぞよ。神の御役おやくたてるのはすいしょうだまよりぬきばかり、神がつなけて御用を致さすのであるから、いままで世に出て居れた守護神しゅごじんは、思ひがだい違ふぞよ。これ時節じせつであるぞよ。時節には何もかなはんぞよ。うへしたへるぞよ。

 うしとらこんじん、大国常立尊の三千年の経綸は、こっぽんの世の立替立直しでるから、日本へあがりてあしの、あく霊魂みたまおうじょうさせて、万古末代ぜん一つの世に致すのであるから、日の本にただいちりんいたまことうめはなの仕組で、このはなさくひめ〔 木花咲耶姫 〕の霊魂みたま御加護おてつだいで、ひこみこととが、守護をあそばす時節がまゐりたから、モウ大丈夫であるぞよ。
 うめひらいてまつおさめる、たけは外国の守護しゅごであるぞよ(※3)
 この経綸をちがはしたら、モウさきはどうしても、世はちてはかんから、神が執念くどう気を付けてくぞよ。明治二十八年から、さんたいおほがみが地にりて御守護遊ばすと、世界は一度にけるから、三人の霊魂みたまを神が使ふて、三人もとと致して、めづらしき事を致さすぞよ。四十八文字〔 で、世をさらつにいたすぞよ。この中に居るかんじんの人に、神の経綸がわかて、改心が出来たら、世界にくばりてある身魂みたまを、この大本へひきせて、神の御用を致さすから、左程さほど骨を折らいでも経綸はじょうじゅいたすから、何事も神のもうようにして居りてくだされよ。
 今度の事は智慧ちえがくではとうていいかんから、神のもうす事を素直すなほに聞いてくださるたまでないと、しんかいの御用には使はんぞよ。この大本はほかきょうかいのやうに、人をおほぜいせて、それで結構ともうやうところでないから、人を引張ひっぱりにいっくださるなよ。いんねんある身魂みたまを神がひきして、それぞれに御用をまをけるのであるぞよ。

 大本の経綸しぐみ病氣やまひなおしで無いぞよ。神からいただいた結構なたまを、がいこくあくたまけがされてしまふて、肉体まで病魔やまいいれものになりて、もとの大神に大変な不孝ふこうけてゐる人民が、やまいがみかかれてるのであるから、もと日本魂やまとだましいなほして、チットでもたまひかしたら、病神はこわがりて逃げてしまふぞよ。この大本は医者や按摩あんま真似まねはさせんぞよ。とりつぎなかには、この結構な三千世界の経綸しぐみを、とりちがひ致して、病治しに無茶むちゃ苦茶くちゃに骨を折りて、肝腎の神のおしえを忘れて居る取次が多数たっぴつるが、いままでは神はふりを致して来たが、モウてんから何彼なにか時節じせつが参りて来たから、今迄の様な事はさしてはかんから、各自めんめこころくだされよ。これほどことけてまをす神の言葉ことば反古ほうぐに致したら、むをず気の毒でも、天の規則きそくてらしていましめを致すぞよ。今の神の取次は、まことと云ふ事がチットも無いから、われの目的ばかり致して、神を松魚節かつぶしに致して、かえって神の名をけがして居る、天のとがにんに成りて居るぞよ。大本の取次をする人民は、その覚悟かくごで居らんと、世界から出て来だすから、はづかしくなりて、大本へはさっそくに寄せて貰えん事がしゅったいいたすから、ながらく神が出口でぐちに気を付けさしたぞよ。モウ改心の間が無いぞよ。神はチットもこまらねど、とりつぎが可哀想なから。

 うしとらの金神がおもてになると、一番にげいしゃ しょうたいらげるぞよ(※4)賭博ばくちたさんぞよ。家の戸締とじまりをいでもよきやうに致して、人民をおだやかに致さして、喧嘩けんかも無き結構な神世に致して、天地のかみがみ様へ御目に掛けて、まつだい続かすまつと致すぞよ。




(※1)
○出口王仁三郎著「無間の鐘」 玉鏡(昭7/12)
 無間の鐘を叩くと云ふことは、間断なく鐘を叩き続けることで、早鐘を叩くよりも数十倍の速さで叩かなくては、無間の鐘を叩くと云ふことにならぬ。又この意味には霊的の意義がある。王仁が綾部へ初めて行った時にお筆先に「無間の鐘(無間の金/かね)を掘りだして云々」とあるので、何処に左様な鐘が有るかと聞いたら、教祖は即座に「無間の鐘はあんたの事ぢゃ」と云はれた。二代はこれを聞いて「道理で先生はいつも矢釜やかましう呶鳴どなりつづけられるのぢゃ」と云って笑って居たが、今日の王仁の仕事を見、又王仁の使命を悟ったら判るやうに、霊的にも体的にも、間断なく鳴りなり渡ると云ふ有様ぢゃ。まことに文字通りに無間の鐘である。


「明治31年旧5月5日」
 無間の鐘を打鳴らして、昔の神が世界の人民に知らせども、盲目と聾者の暗黒の世で有るから、神の誠の教は耳へ這入らず、外国の獣の真似を致して、牛馬の肉を喰たり、洋服を着て神の前をはばからず彷徨(うろつ)いたり、一も金銀(かね)、二も金銀と申して、金銀で無けら世がおさまらん、人民は生命が保てん様に取違いたしたり、人の国で有ろうが、人の物で有ろうが、隙間さへありたら略取(とる)ことを考へたり、学さへ有りたら、世界は自由自在に成る様に思ふて、畜生の国の学に深はまり致したり、女と見れば何人でも手に懸け、妾や足懸を沢山に抱えて、開けた人民のやり方と考へたり、恥も畏れも知らぬばかりか、ひとはどんな難儀[難義]をいたして居りても、見て見ん振りをいたして、我身さへ都合が善ければよいと申して、日本魂(やまとだましい)の種を外国へ引抜かれてしまふて、徴兵をの免れやうとして、神や仏事に願をかける人民、多数(たっぴつ)に出来て、国の事共一つも思はず、外国に国を奪られても、別に何とも思はず、心配も致さぬ腰抜人民や、蛆虫ばかりで、この先はどふして世が立ちて行くと思ふて居るか、判らんと申しても余りであるぞよ。


(※2)
○王仁三郎著「神功皇后様と現はれる」 月鏡(昭5/4)
 お筆先にうしとらこんじん 大国常立尊がじんぐうこうごう様と出て参る時節が近よりたぞよ。このこと天晴あっぱおもてあらはれると世界一度に動くぞよ、もう水も漏らさぬ経綸しぐみが致してあるぞよ」とある事は、うしとらこんじん くにとこたちのみことの世界的進出の経綸を申されたものである。すなわち神功皇后様がさんかんせいばつあそばされたごとくと云ふ意味、また神功皇后様あらはれてるぞと云ふ意である。また「神功皇后様は昔は大将でありたが、今度はおともであるぞ」といふ意味の筆先があるが、あれは事のだいしょうを比較してしめされたもので、の神功皇后の三韓征伐にくらべては事件のひろがりが非常に大きいと云ふ意味である。


○王仁三郎著「狛犬の事」 水鏡(昭2/10)
 こまいぬは、神功皇后ちょうせんを征伐せられた時、高麗こま王が、こうふくしるしにとて持って来たもので、将来は、いぬになって日本につかへますと云ふ意味を表はしたものである。それでいぬと云ふのであるが、口をつまへて居るのがからの王で、あけて居るのが向ふの王妃にかたどったもので、夫婦ウンの息をあはして神国に仕へると云ふ意思の表徴である。


(※3)
○王仁三郎著「梅で開いて松でをさめる」
 「梅で開いて松で治める。竹は外国の守護」といふ意味は、梅は教、松は政治、竹は武を意味するもので、「武は国を害する」と云ふので害国といふ事になる。それを穿き違ひして竹を嫌ふと云ふのは可笑な事である。竹は古来四君子の中の一として崇められて居て、坦懐にしてしかも節があってしっかりして居る。悪い事は少しもない。皆が取り違ひして竹を嫌ふので三代(出口直日、聖師長女)がわざとに竹を植ゑて其中に掬水荘を建てて住んでゐるのである。


○王仁三郎著「軍備撤廃問題」 月鏡(昭4/10)
 軍備縮小はよいが、軍備撤廃は断じて不可である。ミロクの世といえども軍備はあるので、これは一日も弛にすべからざるものである。もし之を撤廃すれば又ぐに悪のはびこる世になるので、いつの世になっても弥陀みだの利剣は必要である。剣は三種の神宝の中の随一である、たまも鏡も後に剣なくては完全に其使命を遂行することが出来ない。鏡は教であって之を梅に配し、璽は政治であつて、まつりごとと云ふ意味よりして之を松に配す。剣は武力であって之を竹に配す。この三つのものはどの一つを欠いでもならない。松、竹、梅と世に目出度きものの表象とするのはこの理由によるのである。天照大神様の御霊は璽と鏡、素盞嗚の大神様の御霊は剣であらせらるる。


○王仁三郎著「門松」 玉鏡(昭7/1)
 松と竹は此の世で最も古いものである。松と云ふ字は木偏に公と書いてある。松は最高位の木で、公は君に通じ、万世一系の皇位に通ずる。竹は細矛千足国を表徴し、竹は武の意味である。昔は弓でも矢でも竹で造り、又獣を獲るのも竹槍を用ひた。竹は殺伐であり、覇道を意味する。王道が行はれる所には武器は要らない。然し今日は覇道も必要とする時代である。そもそも武器の徹底的撤廃はなかなか出来るものではない。次に梅は人間生活の教を意味する。以上のやうな種々な意味で正月に門松を立てたもので、昔は一本丈立てたものである。


○王仁三郎著「生松」 玉鏡(昭7/1)
 大本で門松を立てないのは、すでに幾らも植ゑてあるからである。神様にお供へするのも鉢植の生松の方がよい。松の鉢植を余分に用意して置いて時々取替へたらよいのである。


○王仁三郎著「竹籔と悪魔」 玉鏡(昭8/6)
 孟宗竹の外、竹を屋敷内に植ゑるのはよくない。竹籔は悪魔の棲処である。孟宗竹は畑に作るのであって、籔ではないから差支へないのである。


○王仁三郎著「梅で開いて」 玉鏡(昭9/4)
 梅で開いて松で治める、竹は外国の守護である、と云ふ神諭の一つの意味は、梅は教、松は政治である。竹は武を意味する。武器はもと竹で造った。弓がそれであり、竹槍がそれである。武器を用ひなくてはならぬやうでは悪い、と云ふ意味である。


(※4)
出口王仁三郎聖師と出口壽賀麿師を囲む座談会/第4回
林 「お筆先に『芸者娼妓は平らげる』云々と書いてありますが……」
聖師「それは平らげる。つまり無くなる代わりに自由に許すようになる。好きな者同志にやれば良い。好きな者同志でやるのやから離れんに決まっとる。好きな同志が結婚するのは本当や。嫌いな同志をくっつけたって合わせものは離れてしまう……」
井上「中途で男でも女でも嫌いになって他のが好きになったらどないします」
聖師「中途で嫌いになるような者は本当に好きな同志ではない。未だそれは仇花や。──ワシらの若い時は若い娘は男の三人や五人持っていないのは恥だ、くらいだったがなア」


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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