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『大本神諭』 明治25年旧5月5日/魂の入替/惟神の心/改神慢神/個性/出生率と救い/人間は種々の前世をもつ/誕生の種々/御魂磨き

○明治25年旧5月5日(天の巻)

弥勒殿01


 すいしょうだまいて、たま調あらためいたすぞよ。ぜったいぜつめいりたぞよ。世界のものよ、改心〔 かいしん 〕いたされよ(※1)。世がかはるぞよ。ビックリいたすことが出来できるぞよ。改心次第しだいで助けるぞよ。疑念うたがひつよきものは、きびしきいましめいたすぞよ。神のうことちがはぬぞよ。皮相かは今日けふでもかはるぞよ。
 霊魂みたまなかなか変らぬぞよ(※2)心魂たまみがいて改心致されよ(※3)あしもとから鳥〔 〕がつぞよ。もとれてすえつづくとはおもふなよ。みきありてのえだもあればすえもあるぞよ。もとれてはすえれるぞよ。あまたいもうとりつぎさしてるから、まことなおどくであるぞよ。世界せかいの事であるから、分明わかるおそきゆえ、なおくやしさ、ざんねんさ、むねやきがねあたるごとく、たれ一人ひとりいまではわかるものし、ちからになりてやりてれるものもけれども、これでも、世界に仕組しくみいたしてあるから、おいおいわかりて来るぞよ。間違まちがひは無いぞよ。




(※1)
○出口王仁三郎著「魂の入れ替え」(玉鏡、昭和7/1)
にんげんたれでも毎日、たましいえてもらっている。そのためにぜんあくげんしんこうとなってあらわれる。かいしん まんしん はたましひの入れ替わっている証拠しょうこである。


○王仁三郎著「改神慢神」(玉鏡、昭和9/4)
神諭に「かいしん」「まんしん」という文字もじがところどころにあるが、かいしんまんしん とくのではなく、かいしんまんしん、とくのがほんとうである。こころあらためるという意味ではなく、いままで ほとけなどと信じていたのを、かみみち〔 私註:惟神かむながらの道 〕に改めるとふのである。まんしんというのは「かみみだす」とふので、それがわるいとおおせられるのである。〔 私註:神諭中にしんじんとあるが、これもしんじんと言い替えられます。 〕


○王仁三郎著「惟神の心」(月鏡、昭和4/5)
すべにんげんは、つねこころへいせいにもち、あいぜんまことをもってひとこううんいのり、悲しかったことくちしかった事はぜんぜんわすれてしまい、たのしかりし事のみを思い出し、世界人類にたいして、誠〔 こと 〕をさえつくしておればそれいのである。
 これがかむながらの心である、じんせいつとめである。
〔 私註:仏教にあいぜんみょうおうという神様があります。ふし稲荷いなりたいしゃ(御祀神、稲荷大神/とようけおおかみ)には、はいぶつ毀釈きしゃく以前、『あいぜん』というじんぐうがありました。寺名でわかるように、愛染明王を信仰する寺です。あいぜんみょうおう信仰は現世御利益を強調しますが、本当はあいぜんみょうおう=愛譱妙王だったのではないかと、おも次第しだいです。 〕


(※2)
○王仁三郎著「個性」 玉鏡
その人〔 〕の全体をなすところ個性こせいは、しんこうによる智慧ちえによってのみきょうせいせらるるものである。信仰による智慧でなければけっして個性はものではない。個性はれいかいにも残って行くもので、個性をせんれんようせいするのが人間の肉体生活である。仏教ぶっきょうは個性を無視むしした霊魂不滅論である。たとへばたばこくゆらせばけむりとなりはいとなって、その莨は何処どこかに残ってるといふのが仏教の不滅論である。これは個性を無視したものであるから真理しんりではない。


(※3)
○王仁三郎著「出産率と救ひ」(玉鏡、昭和8/8)
近年世界せかい人口のげきぞうする所以ゆえんのものは、いま二度目のあま岩戸いわとびらちょくめんせむとして、ちゅうかい以下のしょれいは、神のかぎりなき大慈大悲によってげんかいへ再修業のされてるからである。かかるがゆえに、いまこのときにあたってせいを現代にけたるものは、しんおんこうだい無辺むへんなるをかんしゃし、ひたすらに身魂みたまみがきぼっとうしょうじんして、みすくひのすがりててんごくはいらむことをこいねがはねばならぬのである。


○王仁三郎著「人間は種々の前世をもつ」(水鏡、大正15/11)
人が死んでからふたたび人間にうまかはって来るのは、つみがあるからである。生れ代るといふても、人間から生れ代ってるのもあり、いぬねこから生れ代って居るのもあり、りゅうから生れ代ってるものもある。


○王仁三郎著「誕生の種々」(月鏡、昭和4/2)
おほかみ様が地上にたいをもってあらはれたまう場合ばあいこうたんまをしあげる。てんにんれいくだってまるる場合をせいたんといい、ちゅうかいよりふたたびにんげんに生まるるもの、すなわち、おなおしをさいせいといい、どうぶつより輪廻りんねして人間に、あるいは人間から動物に再生するものをてんせいというのである。


○王仁三郎著「進化論」(玉鏡、昭和7/5)
〔 註:ダーウィン以降の 〕しんろんふがごとき、にんげんけっしてさるから進化したものではない。はじめから神は、ひとは人〔 〕、さるは猿〔 さる 〕としてつくられたものである。どうぶつが進化して人間になるということ、すなわち輪廻りんねてんしょうによって、動物が人間になるというのは、れいかいにおいて進化して、人間の性〔 せいかく 〕をもってまるるのである。霊界物語のなかにはいっこくの有力者を動物化してしめしたところもある。


出口王仁三郎氏を囲む神霊座談会(3)
比村「それからりゅうじょというのはよく聞きますが、龍男というのもあるのでしょうか」
聖師「りゅうは女性的なものだからみなおんなである。坊主ぼうずなんかでもりゅうになるように修業しゅぎょうする人があるが、龍でもちくしょうだから、そんな事するのは畜生以下になっているのだ。きつねおがんだりしているのでも、狐以下になっている。昔交通が不便ふべんだから狐がいねたねをくわえて方々へいたのだ、と云って稲荷いなりさんの使いにしている。また御饌みけの神というのとキツネとを間違えて、そんなふうになったのだ」


○王仁三郎著「身魂磨き」(玉鏡、昭和7/8)
おほもと修行しゅぎょうしてると、としるにしたがって、だんだんなにわからなくなるし、そしてわれも他人ものみにくさが目について、現界に活動していた時よりもはるかきたなく、わるくなったやうな気持がするとふものがあるが、それはそのはずである。何故なぜなれば神様がいっしょうけんめいめいめい身魂みたまみがいてくださって居るからである。
 研師とぎしつるぎさまを見よ、砥石といしにかけて練磨れんまするとドロドロの汚物おぶつが出て来る。剣そのものまた汚物にけがれてまったひかりうしなうてる。だがみがあがって研師がサッとみずけると、三尺のしゅうすいめいこうこうとしててつをもつべき名剣となるのである。そのごとく、みな身魂みたまみがきがおわって、サッと神様から水をかけていただくと、自分ではおもひもかけぬはたらきが出来できるやうになって来る。水をかけていただかねば何も出来はせぬ。せいぜい磨いていただほどけっこうである。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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