鬼は内! 福は内!

2017年(平成二九年)2月3日(旧暦1月7日)、せつぶんの豆まきを。

おにうち
ふくは内!


一般に世間は「おにそと! 」と、牛のつのをはやしとらのパンツをはいたうしとらの鬼にまめをぶつけ、追い払っています。「季節の変り目にしょうじたじゃじゃ)を追い祓う」というのが、鬼に豆をぶつける大義名分(大本営発表)です。

あれだけだまされたのに、まだ大本営発表を信じていて良いのですか?

神野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』を基礎として、節分の日に豆をぶつけられる『 おに 』の正体を考えてみます。牛のつのをはやし、虎のパンツをはいた牛虎の鬼は、うしとら(牛虎)の方角たる北東(東北)のもんからやってきます。文字通り、「鬼」が「出撃する門」だからです。日本列島の鬼門=ほくとうに位置する東北地方(丑寅地方)では、ナマハゲのお祭りがあります。赤鬼と青鬼が街中をり歩き「悪い子はいねぇがーーー」と改心をうながす行事です。考えてみてください。ナマハゲという鬼は「良い子になります」と誓った子はみのがします。ですが「私は改心しません、反省しません、悪人でいます!ヤクザでいます!」と宣言した者に対しては、どんな処置をするのでしょうか?

鬼の正体は、閻魔大王の部下です。『平家物語』いわく、奈良の東大寺と大仏様を焼いてしまった平家一門のだいとうりょう(大統領)・たいらのきよもりを閻魔庁から迎えにきたのは、牛頭と馬頭の鬼さん達でした。



○平家物語、淨海死去より
入道相国(註、平清盛)の北の方、二位殿(註、平時子)の夢に見給ひける事こそ恐しけれ。たとえば、猛火のおびただしもえたる車を門の内へやりいれたり。前後に立たる者の或は馬の面の様なる者もあり、或は牛の面の様なる者も有りけり。車の前には、と云う文字ばかり見えたるくろがねふだをぞ立たりける。二位殿夢の心に、「あれはいずくよりぞ。」と御尋あれば、「えんちょうより平家の太政の入道殿(註、平清盛)の御迎に参て候。」と申す。「さて、の礼は何と云礼ぞ。」と問せ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の舎那しゃなぶつ(東大寺大仏様)やきほろぼし給へる罪に依て、げん(地獄)の底におち給ふべき由、閻魔の廰に御定候が、無をば書き被て、げんのばだ書れぬなり。」とぞ申ける。二位殿打驚き、汗水に成、是を人に語給へば、聞く人皆よだちけり。



ナマハゲは「俺は改心しないぞ、やくだぞ! 惡人として悪事を続け、善人をいたぶってやる!」と宣言するあくの者を、どのように扱うのか? おそらく地獄に連行するそつとしてふるまうのでしょう(邏卒とは、明治時代の警察官の別称)。現代の日本において、犯罪者がいきなり世間(娑婆しゃば)から刑務所(地獄)に放り込まれることなどありません。警察官(邏卒という鬼)は逮捕した者を警察署(留置場)に拘留し、つづいて検察が拘置場に身柄を拘束します。検察・弁護士双方の言い分を聞き、善悪正邪をたてわける裁判(審判)を経て、犯罪者は無罪放免だったり、罰金刑や執行猶予だったり、実刑判決で刑務所に入れられたり、死刑を執行されます。霊能者は、現実世界(この世)は霊界(あの世)のうつし世と云いますが、同じことです。

じゃに豆を投げるつもりが、悪人・悪魔を連行する鬼(警察官役)と、善悪正邪をあやまることなく審判する閻魔大王(正義の味方)に、正面から喧嘩を売っている『鬼(鬼王)はそと』。「悪い子はいねぇがーー」と改心をうながす鬼(人間のたましいとは、"鬼がう"と書いて、云鬼たましいと読む)に、「鬼は帰れ帰れ!」と豆をぶつけて、ナマハゲ祭りを台無しにするような行為です。自分の魂(云+鬼)を自ら傷つけるような行いです。「さわらぬ神にたたりなし」とは云うものの、閻魔大王に豆を投げつける無礼をして「触らぬ神」といきますか? 「触らぬ神に祟りなし」できたいなら、節分の豆まきをしないことですが、だからといって、死後の閻魔大王の裁判を逃れることは出来ないのです。

そうとう宗の「しゅうしょう」より 『つらつら観ずる所に往事の再びうべからざる多し、無常たちまちに到るときは国王大臣しんじつ従僕妻子珍寶ちんぽうたすくる無し、唯ひとり黄泉におもむくのみなり、おのれしたがい行くは只れ善悪業等のみなり。今の世に因果を知らずごうほうを明らめず、三世さんぜいを知らず、善悪をわきまえざる邪見の黨侶ともがらには群すべからず、大凡おおよそ因果の道理歴然としてわたくしなし、造悪の者はち、しゅうぜんの者はのぼる、亳釐ごうじもたがわざるなり、し因果亡じて虚しからんがごときは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西せいらいあるべからず。』

造惡の者を地獄に落とし、善行を積んだ者に報いるのは、地獄閻魔庁のえん大王です。この閻魔大王(裏の顔はぞう菩薩)を神仏習合で解くと、地獄の閻魔大王=地に蔵(かくされた)菩薩(神)たる、うしとらこんじんくにとこたちみこと

大本神諭「明治26年・・・月・・・日」
うしとらの金神は此世の閻魔えんまと現はれるぞよ。世界に大きな事やかわりた事が出て来るのは、皆この金神の渡る橋であるから、世界の出来事を考へたら、神の仕組しくみが判りて来て、誠のかいしんが出来るぞよ。

国常立尊様は、日本書紀では天地根源の神とされます。こんげん=根元=おおもとおおもと
大本教の開祖・ぐちなおによれば、国常立尊様は神律( モーセの十戒のようなもの )を厳守する法治政治をおこなったため、八百万やほよろず神々に忌み嫌われうとまれました。八百万の神々は、全会一致で国常立尊様をとうほく地方に追放、東北=ほくとうですから、北東方角を意味するうしとらを意味するうしとらの金神と名付け、「鬼門きもんより出てくるな」と煎り豆を投げて呪ったとされます。しかし大本教(出口直開祖、出口王仁三郎聖師)は、「煎り豆に花が咲くとき、艮の金神〔 うしとらの金神 〕は天地の創造神の立場(天之御中主)として復活する」と宣伝しました。

ここで、東北=北東(鬼門)を意味するうしとらの「うし」に注目して、節分の豆まきに「(牛頭の)鬼は外」が如何どんなに無謀なことをしているかを、見てゆきましょう。
まず牛を神使にする神様といえば、たたり神として名高い「てんじん様」です。牛の頭の天皇といえば、やはり祟り神( 牛頭天王を迎え入れた民は生残り報われるみんしょうらい )として名高い、てんおう。インドの白牛は、破壊のシヴァ神の乗り物。牛に縁のあるシヴァ神(マハー偉大なるカーラ)は、日本にやってきてしちふくじんのだいこく様となり、大黒様はいず大社のおおくにぬしのみこと様と同一視されます。だいこく柱=だいこく柱。牛のシヴァ神(大黒天=大国主命)と鬼は関係するのでしょうか?

東京新宿区の『 稲荷いなりおう神社 』では、稲荷大神として御魂みたまみこと鬼王権現として『つくみこと』、『おおものぬしみこと』、『あめじからみこと』を祀り、当然、『鬼は内』です。「(牛頭の)鬼はうち」で、稲荷大神と鬼王権現を崇敬することになります。なぜ稲荷大神が「鬼」と密接なのでしょうか?



稲荷いなりおほかみもん
それ かみゆいいつにして。かたなし。きょに して。霊あり
あめつち開闢ひらけこのかたくにとこたちみことはいまつれば。
あめつくたまつちつくたま。人にやどるたま
とようけの神のながれを。たまみことと。なりいでたまふ。
ながく。神納しんのう成就じょうじゅなさしめ給へば。
天に次玉。地に次玉。人に次玉。
御末みすえうけ。信ずれば。
てんこお こお くうこお しゃくこお びゃくこお
稲荷のはちれいこおしんの。ひかりの玉なれば。たれも信ずべし。しんがんを。もって。くうかいれんらいくうの玉。こうしん鏡位きょういあらため。かむたからもって。しちようきゅうせい。二十八宿しゅくぼしあるほどの星。わたくししたしむ。家を守護しゅごし。ねんげつじつわざわひ無く。まもり。の守り。おおいなるかなけんなるかななりもん つつしまおす。

伊勢いせとつみやしんぜん祝詞のりと
かむかぜ伊勢いせくに渡會わたらひやまはら
そこいはおおみやばしらふとしきたて
たかあまはら千木ちぎたかしりしづままします
とつみやとようけすめ大神おおがみ
また御号みな
保食うけもち大神おおかみとも稲荷いなり大神おおかみとももうたてまつり
蒼生あおひとくさくひいくべきいつくさのたなつものを始め
諸々もろもろ食物をしもの衣物きものいたまでなしさきはたま
ひろあつめぐみむくたてまつると
稱辭ただへごと竟奉をへまつりおろがまつさま
たひらけくやすらけくきこしめせかしこかしこみもまを



稲荷大神秘文で、国常立尊(丑寅の金神、鬼門の金神)の流れがとようけ大神様(伊勢神宮外宮)であり、御魂みたまみこと(稲荷大神)に通じ、伊勢外宮神前祝詞で「豊受大神=稲荷大神」であることが判明します。また稲荷大神(豊受大神)様の御神徳は 「衣食住の大祖にして万民豊楽の神なり」 「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」 と説かれています。つまり「(牛頭の)鬼は内」で、伊勢神宮(内宮の天照大御神、外宮の豊受大神)と稲荷大神(伏見稲荷等)を崇敬することになります。

つぎに、大物主様を考察します。よく知られているように、大物主命(山大神)は大国主命様のにぎみたまとされます。牛のシヴァ神=大黒天(七福神)=大国主命(出雲大社)=大物主命(三輪神社)=鬼王権現(月黄泉命、大物主命、天手力雄命)。「(牛頭の)鬼はうち」で、出雲大社・三輪神社を崇敬することになります。

さて大本教の教祖・出口王仁おにさぶろう。本名は上田三郎さぶろうでしたが、艮之金神の命令により「  」を「鬼王神社」の「 」と読み替えて、三郎さぶろう。さらに「 」を「 おに 」と読み替えて、出口直さんの婿養子となれば、出口おに三郎さぶろうになりました。
この鬼三郎の〔 おに 〕を〔 〕と読み直すと、あら不思議、出口王仁おに三郎。王仁三郎の〔 〕をひっくかえせばおうになって、神仏の元にすがってくる善人たちを守護する、頼もしい神になります。おにがわらもしかり。その王仁三郎さんは、「ワシは素戔嗚すさのをじゃ」と周囲に宣伝していました。京都八坂神社において、牛頭天王は素戔嗚尊として祀られています。日本書紀のエピソードから、「素戔嗚尊は月読尊ではないか」との説もあり、これに從うならば「牛頭天王=素戔嗚尊=月読命=鬼王権現」となります。「(牛頭の)鬼は内」で、八坂神社(牛頭天王系)を崇敬することになります。

稲荷鬼王神社の「鬼王権現」様は、もともと熊野大社が勧請元とされます。鬼門の総大将=うしとらの金神・国常立尊より始まった大本教(出口なお、出口王仁おに三郎)が開教した土地は、京都たんあや。出口直さんが住んでいたのは綾部町のしんぐう町。なぜ「あたらしいみや」なのでしょうか? それは綾部が平しげもり(閻魔大王のもとより牛頭と馬頭の鬼さんが迎えにきた平きよもりの長男)の領地であり、綾部の地形がしゅうの熊野本宮にソックリだったことから「ここを新たな熊野にみたてよう」としたことに由来するのです。大本教の聖地・本宮山の裾野に「正暦寺」というお寺があり、その由緒には

くだって平氏の盛んな時代、まつ内大臣平重盛公、当山御本尊に深く帰依し、あまたの荘園を寄進し、かつ当地の地形が紀州熊野の環境に酷似しているとして、熊野三山を当地に移し、山号をざん(旧須知山)と称した。これ当山山号の由来であり、当市内に熊野神社もあり、本宮、新宮等の名称の地区が今でも残っている。』

水軍で名高いかみ氏は熊野と縁が深く、現在の熊野本宮大社宮司は、九鬼氏の血を引く九鬼家隆氏がつとめております。



 『伊都能売神諭』 大正8年7月12日
みな神界の仕組しくみたま相応の御用がして在るので在るぞよ。誰も皆一生懸命に成りて我が仕組しくみでしておる様に思ふておれども、皆神界から使はれて居るのであるから、まことに御苦労な御役であるぞよ。いよいよ神界の経綸の九分九厘になりて来たから、伊都いづ御魂みたまの御用になりて来たぞよ。皆いさんで御用が出来るやうに成りて来たぞよ。四十八文字の生魂いくみたまが揃ふたなれど、今の今まで名は現はさぬから、ちょう折角せっかく付いた身魂は一人いちにんも帳はづれに成らぬうに心得て下され。守護神にまで気をつけて置くぞよ。
ことたまさちはひ助くわうごんかくが出来上りたら、弥々いよいよ神界の経綸の完成であるから、現界の大本の御用も思ふたよりは速く成就いたすぞよ。神がふでさきに出した事は、毛筋も間違いは致さぬぞよ。ほんぐうやま御宮おみやが建ちをはりたら、おほずみかみの深い因縁が判りて来て、うしとらの金神の経綸が判りて来るから、そう成りたら、夜があけて日の出の守護と相成りて、五六七みろく神代かみよ天晴あっぱれ成就いたすぞよ。



九〔 鬼 〕の熊野(素戔嗚尊)から来た鬼王権現(月読尊、大物主命、手力雄命)と、綾部本宮山のうしとら(北東のもん)の金神(国常立尊)および出口〔おに〕(王仁)三郎(素戔嗚尊≒月読尊)がつながりました。
また一説によれば、鬼王権現(鬼王神社)はたいらのまさかど公の幼名『 おうまる 』に由来するとします。将門公は京都平安京(藤原氏)から見て東北(丑寅)の関東で挙兵し、しんのうを名乗りました。討死した後も、かん明神や兜神社で祀られています。神田明神は、おおなむみこと様・すくなひこ命・たいらのまさかど命の3柱を祀り、今もなお多くの人々に崇敬されています。大己貴命=大国主命≒大物主命は、既に上で言及したとおりです。
さらに、みょうな符号があります。牛頭天王〔 八坂神社で素戔嗚尊と同一視 〕の神話に由来する『みんしょうらい 』の行事では、かやに〔 しょうもん 〕の御札を添えます。本来〔 しょうもん 〕だったものを、平将門の乱発生後、都の近くで「謀反むほんにんの名前の文字を使うのは・・・」という理由で〔 笑門 〕に変更したという伝説があります。しかし、本来の〔 将門 〕であれば、将門=鬼王丸から〔 鬼王門 〕と読み替えることもできます。

これは偶然の一致でしょうか? それとも、すべてを計画した「根元おおもとの神」がおられるのでしょうか?
出口王仁おに三郎聖師いわく、弥勒みろくの世は29じんしちじん )の樂遊び。9×9×9の立方体陣、答えは729。

鬼は内、七福神も内!!
神野公園著『神言会-大本教神諭解説』

テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

小松林の命とは?

おおもときょうの教祖、ぐちさぶろうさん(大本教ではせいの肩書き。以下敬称略)。昇天から七十余年が過ぎましたが、いまだ多くのなぞつつまれています。そんな王仁三郎さんを取り巻くなぞきりひとつに、「まつばやしみこと」というしんれいがおられます。


○大本神諭明治33年旧正月15日(天の巻)
『 これから上田( 改名前の出口王仁三郎 )には、小松林を御用に使ふて、何彼なにか委細ゐさいを解決さすぞよ。 』


出口王仁三郎さんの予言歌・確言歌として名高い『みず神歌しんか ― いろは歌(2)』でも「小松林命作」としるされています。つまり出口王仁三郎≒小松林命とみてよいでしょう。では、小松林命という神様とは、どんな神様なのでしょうか? どこの神社にまつられているのでしょうか?

出口王仁三郎著『本教創世記』には「付記す。小松林ははちまんぐうの高等なるけんぞく神にして、生前は武士なり。じんぐう皇后の軍に従いて、さんかんせいたまいしえいゆうなりしなり。」とかれています。ここで言及された「八幡宮」とは、はちまん大神=はたおほかみのことです。一般的に、八幡宮の主祀神(八幡大神)は、神功皇后の御子で人皇第十五代のおうじんてんのうほむわけのみこと)とされます。余談ですが、おうじん天皇の〔 応(おう) 〕を〔 王(おう) 〕、〔 神(じん) 〕をじんの〔 仁(じん) 〕と漢字変換すると、おうじん天皇となり、天皇とも読めますね。

『霊界物語』で、大本教は三五あなない教の名前で描写されます。三×五=十五(おうじん天皇は人皇十五代)。霊界物語を(直接)著述したのは、おうじんならぬ三郎聖師。

さて、小松林命が八幡大神と関連する神であることは、三郎・・・ではなく三郎さんの師匠であったながさわかつたて翁が追認しています。
『明治34年頃は最も出口でぐち(王仁三郎)のかみがかりの腕の出来た頃です。三十四年に例のおなおさんの近く日露の戦争があり、〔 天子てんし 〕は綾部へ豪塵せられると云ふ筆先を持って来た時に、出口を神主として、私がうかがって見ると出口に、岩清水八幡宮の眷属で外交通たるまつばやしのみことかかかって来られて、露国の戦争は早くて今年の三十四年八月、遅ければ三十七年二月から開戦、日本は連戦連勝で局を結ぶと出ました。それから色々とこまかいところまで示されましたが皆的中しました。当時の出口でぐちにはぐらいの腕がありましたが、最近十年となっては大本教はんじょうさくに没頭して修業をおこたったためか、以前から見れば腕の落ちたのは残念です。それに当時は私も腕は今よりじゅくでしたが、あれぐらいにはあががらしたのですが……』と追認しています。つまり小松林命は、人間が神上がりした存在で、石清水八幡宮の八幡大神のけいと推定できます。
 ちなみに八幡大神(≒応神天皇)の母親たる神功皇后は『 御安心なされ、うしとらこんじん、大国常立尊が、じんぐうこうごう殿どのまゐ時節じせつが近よりたぞよ。(大本神諭、明治32年旧7月1日)』・・・とあるように、国常立尊様と極めて縁深い女神と、わかっています。国常立尊~八幡大神のラインがうかがえます。
ところが、出口王仁三郎発言集『新月の光(上巻)』を読むと、王仁三郎さんは「後小松天皇は小松林の霊ですみよし神社じんじゃけんぞくである」と発言しています。八幡神社は応神天皇と神功皇后を祀りますから、八幡と住吉はえんぶかく、小松林命が住吉神社にいても不自然ではありません。



出口王仁三郎著「いろは歌(下)より
さとひたるははり残し、くにつくますの、こころそらつきやみくら斯世このよてらさむと、おもひをくだきつつ、とせあまりてかんながら、神の御教みのりつたへつつ、おさまるまつやまやまほととぎすれて、よぶこゑさえもやみの、ひとこころくらやまやまたけおほかみの、古巣ふるすくぐへびむかで、はちむろいくたびか、れられてなほまたはりむしろすはりつつ、そでなみだみつがはわたりあぐみしまるばし生命いのちけてわたらゑの、みやましますすめかみの、いづひらけしおほもとは、斯世このよなかおほはしと、とほちかきのわかく、まですすみしは、きよ和泉いづみすみの、かみつかえしいきがみの、まつばやしいさなり。



そこで、住吉神社について、おお雑把ざっぱに紹介してみます。住吉神社の主祀神は『 住吉三神 』と云われ、そこつつおのみことなかつつおのみことうわつつおのみこととされます。住吉三神は神功皇后にかみがかりした神霊であり、住吉大社には神功皇后(別稱おきながたらしみこと)そのかたも祀られています。大阪住吉大社の公式ホームページとグーグルマップより、住吉神社本殿の配置図をいんようさせていただきます。

住吉大社01

住吉大社02

第一本宮は底筒男命、第二本宮は中筒男命、第三本宮は表筒男命、第四本宮は神功皇后=息長足媛命をお祀りします。上三つ(第一本宮、第二本宮、第三本宮)と、みなみにずれて配置された第四本宮。不思議な並び方です。じつは、星座のオリオンのほしの形になぞらえているという説があります。オリオン座の実際の写真を見ると、なるほど、ぼし・第四本宮・若宮八幡宮の配置と合致します。オリオンだいせいうんにあたるのが住吉大社神館ですね。
 さらに、出口王仁三郎聖師自身が、オリオン座を非常に重要視しています。王仁三郎聖師にとってオリオン星座はなつかしいものというより、むしろごくしゃ・刑務所の象徴でした。それは和歌にしめされています。オリオン星座の形はしかく(左上にベテルギウス、右上にベラトリックス、右下はリゲル、左下サイフ)となり、三ツ星とオリオン大星雲の「イ」がたの位置関係を「ひと」とせば、「しゅう」となります。しゅうじんです。



○出口王仁三郎曰『水鏡』より「地上に移寫するオリオン星座」(水鏡、大正15/11)
 「あきらかオリオン星座にもあり」というかんが出ていたので抜いておいた。オリオン星座を地にうつすのがげっきゅう殿でん丹波たんばかめおかじょうに王仁三郎聖師がきずいた大本教の神殿 〕であって、敷地もおなじ形にできているのである。つきだいは、ミロク様のおられるところである。


○出口王仁三郎曰『三鏡』より「月は母体」(玉鏡、昭和6/6)
 いまの学者たちはなにも知っていないが、そのなかでもてんもん学者が一番ものを知らぬ。あのつきおもに見ゆるおうとつめんについて、学者は噴火口のあとだなどと種々の説を主張しておるが、何もわかっていない。あのくろく見えておるのは、星をみだしたあなの跡である。星も、人間とおなじく生まれたときはちいさくっても、だんだんと成長するのである。月より大きな星があっても何も不思議はない。親よりも大きな子がいくらでもあるじゃないか、それと同じどうである。
 星のうちでは、オリオンのぼしが一番に生まれたので、これは月のそうりょうである。
 ほしははつきであって、ちちたいようである。を合はせて、つぎつぎに星をんでいったので、それでほしすなわちと呼ばるるのである。太陽系に属する星は、みなつきからうまれたのである。ゆえにおつきさまをははがみといい、またミロク様ともいうのである。
 月は西にしから出てひがしまわり〔 註:にちれん上人のかんぎょうはちまんに既出。かいにっしょくの時、太陽を固定位置とみなすと、月は西から東へ動くように見える。変じて、月氏国=インドから出たしゃ様&仏教が、西のインドから中国をて、いづづまの国、あづまの日本に伝来したことを意味する。 〕、右から左へとまわる。太陽は左より右にまわるのである。
 廻るというても、太陽と地球は傾斜運動をするだけで、お月様だけが運行しているのである。月のみに軌道きどうがあるわけである。月は三十日で地球をいっしゅうし、太陽は一日で一周する。一周といえども、傾斜運動の程度によって一周するごとくゆるのである。


○『新月の光』下巻、284ページ「○三ツ星と三角星と北斗星」
 ぼしひとをしているだろう。オリオンせいとらわれをしている。三角星はあれとあれとふたつだ。ほくせいと三角星と三ツ星は二百七十五日で一周するのである。(解説略)(昭和20年4月13日、旧3月2日)〔 私註:冬の大三角系は、おおいぬシリウス、こいぬ座プロキオン、オリオン座ベテルギウス。 〕


おほかみふるにしばしとどめられオリオン星座にりしわれかな
しこやかたの十一番のオリオンの星座に安く一夜を眠る
だいしゅうこしえたるここしてわれはオリオン星座に楽しむ
ひさしきになれし吾身はオリオンの星座もわがと思ふたのしさ
○帝都が安全なように「きみにさかえませといしもてつくりしげっきゅう殿でんかな」と祈って月宮殿〔 丹波亀岡城の神殿 〕をいしつくった。その時に、これをこわすのは大変だと言っておいた。〔 私註:月宮殿は、第二次大本事件で大日本帝国政府により爆破。太平洋戦争で大日本帝国も米国のつちにより爆撃され崩壊。伊勢神宮はかろうじて大炎上せず存続したが、伊勢の神前街ははら。 〕
(出口王仁三郎著、大本事件)



○ときさとくみろくしん まつばやしせいれいに(霊界物語 第52巻27章「胎蔵」より)

上記の発言によれば、王仁三郎≒小松林命=まつ天皇と解釈できます。王仁三郎聖師は「後小松天皇のことをよく調べるように」と勧めています。たとえ王仁三郎聖師の言動といえども、盲信は禁物(裏の神諭一、上を参照)。審神さにわが必要です。では、後小松天皇を調べてみましょう。ほとんどの日本人は、「後小松天皇」と聞かれても「だれだっけ」になると思います。私もです。ですが、いっきゅうさんの実の親と言われれば「あの一休さんの!」となり、俄然がぜん、親しみがわいてきます。童話やアニメで知られる一休さんは、後小松天皇のらくいん(隠し子)とする説が有力なのです。



後小松(ごこまつ)天皇は、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日)。室町時代北朝最後の第6代。歴代人皇代第百代の天皇(在位:弘和2年4月11日〔1382年5月24日〕 - 応永19年8月29日〔1412年10月5日〕)。諱はもとひと。父親は、えんゆう天皇(北朝五代)。母親は、三条きんただの娘いつ(通陽門院)。ただし、後小松天皇の本当の父親は足利よしみつ(足利幕府第三代将軍、のち太政大臣。金閣寺を建てた人)だった可能性もある。この場合、一休さんは足利義満の孫、後小松天皇の落胤という血統になる)。

後小松は、弘和2年(1382年)12月28日、後円融天皇から譲位されて6歳で即位。もちろん後小松天皇に実権はなく、彼は室町幕府三代将軍足利義満(もしかしたら、後小松天皇の実父)の傀儡かいらいである。みん国との交渉や貿易でも、日本国王と名乗った(認識されていた)のは、足利義満であった。しかも、後小松天皇の妻・日野みつの姉妹・なりは足利義満の正妻だった。

明徳3年/元中9(1392)年、北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)は和議を結ぶ。この時点で北朝は軍事的にも経済的にも南朝を圧倒していたが、唯一、正統性がなかった。三種の神器じんぎを南朝(かめやま天皇)が所持していたからである。後小松天皇は、まだにせものの天皇だった。同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇(人皇第九十九代)は三種の神器(八咫やたのかがみ八尺瓊やさかにの勾玉まがたまくさなぎのつるぎ/あめのむらくものつるぎ)を後小松天皇に譲り、ここに南北朝時代は終わる。この日、後小松天皇は、晴れて第百代天皇となった。

応永19年(1412年)8月29日、後小松天皇は第一皇子のひと親王(当時12歳)に譲位し、後小松上皇となる。実仁親王は人皇第101代天皇、しょうこう天皇となった。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に違反していたので、だいかく統(亀山天皇系統)の大規模蜂起を招いた。

応永32年2月16日(1425年3月6日)、後小松の第二皇子(小川宮)が22歳で急死(息子なし)。 正長元年7月20日(1428年8月30日)、称光天皇が28歳で崩御(息子なし)。後小松の息子二人は、いずれも病弱や奇行があり、親子の仲も悪かった。男子直系血族がなくなったことで、後小松は伏見宮さだふさ親王(こういん)の第一皇子ひこひと王を猶子とする。彦仁応は、即位して後花園天皇(人皇第102代)となった(正長元年7月28日/1428年9月7日) 。
永享5年(1433年)10月20日(1433年12月1日)、後小松は57歳で崩御した。ふかくさのきたのみさぎ(京都府伏見区深草坊町)に葬られた。


○出口王仁三郎著『関の地蔵様と一休和尚』(水鏡、昭和2/2)
せきぞう様におしょうねんを入れてくれといっきゅうしょうに頼んだものがあった。そうすると一休は、自分のしていたふんどしはずして地蔵様の首にかけた。それが後世、地蔵様のよだれけのらんしょうである。ふんどし をかけたので霊が入ったのだから、地蔵様は一休のぶんれいなのである。石にでも木にでもれい はあるがせいれいはない、神様の神霊が宿やどって、神格化したものがお性念である。さんじゅうさんけんどうやなぎのおりゅうは、人々が「大きな柳だなあ、大きな柳だな」とっては見上げるので、その精霊がこもって人格化したものである。



後小松天皇の生涯と事績を簡単にまとめてみました。如何いかがだったでしょうか? 男子の息子二人が死んだ・・・という点では、王仁三郎聖師の長男六合大くにひろさん、次男相生すけなりさんに通じるところがあります。ですが、隠し子(一休さん)の存在や、なにより足利義満のあやつり人形でしかなかった後小松天皇と、スサノオ台風ごとき大活躍で三千世界の立替・立直しの基礎を完成させた「丑寅之金神国常立尊の切り札、出口王仁三郎」とは、あまりにも違う印象を受けます。むしろ一休さんの方が、王仁三郎聖師にた印象があります。

ところが、後小松天皇の名前に、意外なヒントが隠されていました。「 あとの 」小松天皇(後小松院)と名乗るからには、「先代の」小松天皇がいるはずです。「小松天皇」とは誰か? 平安時代の人皇第五十八代・こうこう天皇のことでした。葬られたみさぎの名・小松山陵から、小松こまつのみかどの別称がありました。後小松天皇は「小松こまついんと名乗りたかったけど、おもみがないから後小松院にした」そうです。それでは、光孝天皇について紹介します。



光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - にん3年8月26日(887年9月17日)は、第五十八代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。いみなときやす。仁明天皇の第三皇子。在位中の年号を以て仁和にんなのみかど、また山陵の名を以てまつみかどとも呼ばれた。小倉百人一首を謳う(歌番号十五=三×五)。

きみがため
春の野に出でてわかつむ
わがころもに 雪はふりつつ

第五十六のようぜい天皇が乱行を理由に17歳で廃位。そのため五十五歳で即位する。甥のさだやす親王に帝位を譲る時にそなえ、自身の息子息女を臣籍降下させてげんを名乗らせた。だが実力者・藤原もとつねの意向により貞保親王は選ばれず、孝光天皇の実子で源氏に臣籍降下していた源さだが皇族に復帰、孝光天皇崩御(仁和3年8月26日/887年9月17日)により天皇(人皇第五十九代)となる。宇多天皇時代に名を馳せたのが、藤原時平や、のちにてんまんぐうに祀られ天神様と崇められたすがわらみちざねである。



ついに、源氏が出てきました。源氏が信仰した神様といえば、石清水八幡宮や鶴ヶ岡八幡宮に代表される、八幡大神(八幡大菩薩)。小松林命が所属するのは、石清水八幡宮でした。後小松天皇=小松林命の証明はできませんでしたが、「小松林命は八幡大神と縁がある」について、こうとうけいの発言ではなかったのです。

出口王仁三郎氏いわく「みな言い切ってしまったらいかん。いんをもたすところにいい所がある、チョット思わせるくらいでやめとくのもいいな──それからワシの言う事はたらのようだけれど、みんなどっかにこんきょがある。そのつもりでおってくれよ」(出口王仁三郎氏を囲む座談会、第四夜・第4回



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太元顕津男・感謝祈願祝詞

○『新月の光、下巻』「昭和十七年の越年(大晦日の神事)」より
出口さぶろう『霊界物語』「天祥地瑞」寅之巻(第七十五巻)第七章「みずことたま」(一九〇一)

 ここおほもとあきの神はおほまへ跪座きざして、国土くに御子みこみの神業みわざりたれば、よろづしんじんためいくことたまふと祝詞のりとそうじょうし、てんかいえいえんの無事を祈らせたまひぬ。
 
つつしみ かしこみ ゐやまひもまおさく、たかあまはら紫微かみのみやおほします あまみねかみたかほこの神、かむほこの神をはじまつり、あまかみ くにかみ 八百万やほよろづかみたちまへまおさく。
かく産霊むすびれる神々は、その身体ましもとなるおほうへ産霊むすびりて産霊のきはきはつくし、産霊のかぎかぎつくして かく霊妙くすしく かく霊端ひづらに産霊れるにしあれば、そが地水火風空あめつちまろそなはり、あきかりかりそめにも競争あらそふ事なく、些少いささ群竹むらいささか一方ひとへ片寄かたよる事の無ければ、やまかづらかかとどまる事く、おどみにおどみとどこほることなくして、身魂みたま永久とこしへしらたまなす伊澄いすわたり、あかたまなすらひらひて、このひとつおほうちふたふさがみちて、おほきはわからざるところしなければ、こといたる事なく、たかあまはらかぎわがらざるところなく、さらこのらざるところなし。さらこのわがかぎおもし。このゆゑひさかたあめ吾身体わがみうちわたり、あらがねつち吾身体わがみうちかたやはあらはしてうごく事なくゆるぐ事なく、あめこころうちよりよもやま貫通とほり、世のなからしあきらめてつるくまなく、おほ潮水しほわがうちそこふかめてうしほよもやまめぐらし、風のむたしらなみおこしてしまさきざきせきめぐる。ばたきもこころおこせば、そのこころやがて神とあらはれ、僅少すこしにても活用はたらけば、たちどころ森羅万象ちよろづのもの妙体かたちあらはし、八百やほよろづよろづもろもろの神、ひとつも心のうちあらはれずとふ事なし。これのゆゑに一つの心に思ふところただやほよろづ無量ちよろづの神の心となりて、無量かずの無辺かぎり御子みこためとなり、無量かずの無辺かぎりの神の心はまたたちかへりてわがためとなる。一つのうごところやほよろづの神のおこなひとなりてそのさちはひをやほよろづひとおこなわがかえりてまたそのさちはひをく、微塵ちりほどわがために心をうつす事なく、しばらくも身のためおこなす事なし。これのゆゑあまかみ くにかみ 八百やほよろづ よろづの神、おほちひさきかみてふ神のことごとかしただひとはしらもひみづるる神なし。空飛ぶちり半分なから天津あまつみづかげのこる神なく、うつそみあらはしあらみたま にぎみたまさちはへ、つねきたりてふぢかづらの木をまとふがごとく、目蓋まぶたの目をまもるがごとく、あかねhるまmたまの夜のまもりと、いやまもりにまもいやさちはひにさちはひ、が神の御名みなのまにまに、そが神のみちまけまけひさかたそらあま皐羽り、あらがねつちり、わだなかかづかずいでて、うつくしみたまひ、あわれたまひ、たすけ玉ひ、さちはひ玉ひ、めぐみ玉ひ、さちはひ玉へば、ごころに思ふ所、たちどころり、まさおこなへばただちに成る。これゆゑももよろづの願ひ、やほよろづいのごと ひとつも成らずとふ事なく、やほよろずわざ 微塵ちりほどげずと言ふ事なし、形体かたちあらはせるものは、神をはじひと獣類けもの禽鳥とりうろくづはふむしぐさうじむしかやくさ片葉かきはいたまでそのうつそみの世に産霊むすびて、形体かたちなせるものてふものひとつだもおつる物なく、飛ぶちりちり半分なからくるものなく、つかひるつかへにたりつかへ、あした活用はたらき yふべ活用はたらきたり活用はたらけば、しばらくも身にとぼしきことなく、身に残るもわづらふ事なし。これのゆゑが名をおのづかとなむふなる。
をりをりももわづらいたづきかなしみのごとわざはひは、とり けもの はふむし うろくづみちうちそなはれることまさにして、たふとくしみちにはさらさらにそのかげだにもる事なきものを、紫微天界たかあまはらもだくるしみ悩む事あるは、とり けもの はふむし うろくづひとしきみちきての道をうしなへるより、もも災難わざはひ五月蠅さばへみなおこるになむある。そもそここみづくさつればはふむしき、しげればおのづかとりあつまたる。如此かくきたなき道をあゆみぬれば、つひけもの とり はふむし うろくづとしもなりてて、ながけもの とり はふむし うろくづらむ。
かしこきかもよ、比類たぐひなきたふとしき産霊むすびながら、おどみのみづのおどみかへりて、いやしき身魂みたまらむことわりを、だます深く知りあきらかさときはめぬれば、これをしもかしこかしこふかく思ひて、ふる恐懼をののまでかしこかしこあやまちて、今日けふまでおこしつるけものとりこころむし さかなおこなひはあさつゆしもつくごとく、あしたきり ゆふべきりかぜふきはらきよむるがごとく、きよつくはらきよめて、わたりますひとすすみにみちに進み入り、そら飛ぶちりの塵の半分なからわたくしおもひをおこす事なく、わがためおこなふ事なく、のまにまにおこなまし、けもの とり はふむし うろくづこころたず、おこなひをさず、まよふ事なく欲りする事なくしてみちに入りぬれば、紫微かみのみや⦿おおかみふたはしらかみも、そが神名みなのまにまに神の道のまにまに、まもまもりにさちはたまひて、ことみち おのづかおもねがふがまにまに、天界かみよもとよりそなはれるおのづからなるおほみち とこしへつたはりて、天津あまつ日蔭ひかげあまねらし、あまぐもあまねうるほひてすみ⦿おほかみかむながらおほ御座みくらは、あめついともとこしへ八十やそつづきたまひて、しばらくもうしなははせたまはず、ももかみたちおのもおのもみの子の八十やそつづきいやぎて、おのくらゐのまにまに いやとほなが麻柱あななつかへまつり、神人ひとたち各自おのも々々おのもさしの神業みわざまもつかへて、⦿おほかみつかまつたのしみつ、神人ひとの道にそむく事なく、おくやま深山みやまの奥、うみくさしほあさちいさき神も飢餓うゑくるしむ事なく、あつさむさのなやみを知らず、かみ なか しも各位くら神人ひとは、ともひとつの歓楽よろこびを受け、まことおほ⦿御国みくにたまへとまつる事のよしを、たかあまはら紫微かみみやみつはしらの神、ももよろずかみたちともきこしたまへと、かしこかしこみもをろがまをす。


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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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