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惟神の道

平成27年も残りすくない昨今ですが、いまや三次元物質世界七度目の世も終わりに近づき、この世を創造した主なる神(92常立とこたちみこと)の三千世界の立替え立直し、最後の大審判、大峠がせまってきています。しかし人々の心に、最後の審判に向けた覚悟や、何かしらの緊迫感があるかといえば、それは皆無です。ニュース番組を御覧になれば、芸能人の結婚、東京オリンピック、マイナンバー云々、未来のことばかり取り上げています。かくいう私も、ともすれば世の流れに溺れてしまうこともあります。そこで、日本が生んだ史上最大の預言者……大本教の教祖 出口でぐち 王仁おに三郎さぶろう聖師の著作「惟神かんながらの道」を、見やすい形で公開することにしました。

原文は国会国立図書館デジタルライブラリー「惟神の道」で閲覧することができます。発行年月日は1935年(昭和10年)12月1日で、大本教が第二次大本事件で壊滅し、出口王仁三郎聖師が逮捕されるのは1935年(昭和10年)12月8日。わずか1週間です。第二次大本事件とともに、大本教関連の書籍(大本神諭、霊界物語、王仁三郎聖師歌集・論文等)はすべて発禁処分となりました。つまり、「惟神の道」は出口王仁三郎聖師の絶筆(出版されたという意味で)であり、ある種の遺言であり、預言書であるといえます。本著を紐解くと、王仁三郎聖師の危機感がヒシヒシと伝わってきます。三千世界の立替・立直し(最後の審判)を控えた末法の世に必要なのは、この危機感であると考えます。是非、一緒に読んでいきましょう。

 なお、旧漢字につきまして、読みにくいものは新漢字に変更しました。また王仁三郎聖師があえて意図をあいまいにしたり、誤解をまねきやすい部分について、捕捉となる漢字を添えました。したがって原文と全く同じでありません。原典(オリジナル)を読まれたい方は、上記の「国立国会図書館デジタルライブラリー」で閲覧してください。



 満州事変の勃發以来、覚醒した我同胞の間に皇道宣揚のこえようやく高まって来たのは、まことに喜ぶべきことである。
 私が神典研鑽けんさん曙光しょこうを見出し惟神かんながらの道をきわめむと思ひ立ったのは、明治二十七、八年の頃であった。この時分には、古典の研鑽者といへば、一部の古い意味の学者が多少命脈をいではゐたが、一般世人は一人としてかやうな古い、利益に遠い、世間にうとい学問に耳を傾ける者は無かった。しかるに私の研究が進めば進む程、世の中は益々ますます神典の研究を必要ならしめ、ひに世界を惟神の道に復帰せしめむとする熱情が勃然ぼつぜんとして私の心におこって来た。その後、大本開祖出口でぐち 直子なをこ刀自と協力して、惟神の道宣揚のために三十有八年活動をつづけて今日に及んだ。そして一時は世の嘲笑、非難、誤解、迫害の中に立ったこともあったが、愈々いよいよ天の時節は到来した。今や皇国は断然物質萬能ばんのう主義、欧米追随主義の迷夢よりめて惟神の道にかへり、皇国本来の大使命に邁進しなければならぬのである。
 本書はかつて人類愛善新聞紙上に發表された私の論説を収録したものであるが、現下の非常時に際し本書があらゆる方面にまれることを希望するものである。

 昭和十年十一月 出口王仁三郎




「九の数理盤(お米+梅干うめぼし=日の丸〔弁当〕) 常立とこたちのみこと

31 76 13 36 81 18 29 74 11
22 40 58 27 45 63 20 38 56
67 04 49 72 09 54 65 02 47
30 75 12 32 77 14 34 79 16
21 39 57 23 41 59 25 43 61
66 03 48 68 05 50 70 07 52
35 80 17 28 73 10 33 78 15
26 44 62 19 37 55 24 42 60
71 08 53 64 01 46 69 06 51

綾部から咲く九つ花九×九の数理盤」は、中心の「41」を経由すれば「」の形を秘める三六九弥勒の経綸。
米の教えは『他(田)救(鋤)すくいて世根よねとなれ』。

51+42+33+50+41+32+49+40+31=369
21+39+57+23+41+59+25+43+61=369
11+38+35+14+41+68+17+44+71=369
01+37+73+05+41+77+09+45+81=369


31 76 13 36 81 18 29 74 11
22 40 58 27 45 63 20 38 56
67 04 49 72 09 54 65 02 47
30 75 12 32 77 14 34 79 16
21 39 57 23 41 59 25 43 61
66 03 48 68 05 50 70 07 52
35 80 17 28 73 10 33 78 15
26 44 62 19 37 55 24 42 60
71 08 53 64 01 46 69 06 51


日本語あいうえ…41番目の言霊は「」。ラ(ら)は奈良ならでわかるように、を大きく示す。四方八方(光圀みつくに)にきらめく「火のすめら」にして、火の塊は太陽です。ただし、夜になれば地平線に没してしまう太陽とは違い、一人一人の魂の中核に秘められる「人に内在する良心神」ゆえに、真性天照あまてらすすめ大神おほかみの善光は、いかなる惡人も悪事も見逃さない、地獄の閻魔大王。大本神諭、丑寅の金神 9×9常立尊はこの世の閻魔とあらわれるぞよ。人の良心(かえりみる心、じる、じる、じる、じる、じる、じる)働きは、創造神(天地開闢の大神)92くに常立尊(92常立尊、くに常立御言みこと)の欠片の働きで、アダムとイブを誘惑した蛇のささやきを退治します。

92くに=九×二=十八18
弥勒みろくみろく666(6が三つ)=++十八18
みがいてたっする」達磨だるまは七ころび八き。日本語は、七度目の世を終わらせて、無限に続く「嬉し嬉しの弥勒369の世」の到来を告げます。皇国日本に常に立つ御言は、日本語。国常立尊様とは、日本語(言霊)そのものでもあるのです。瑞霊・出口王仁三郎聖師の「霊界物語」も、国常立尊(日本語)によって書かれているのです。


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テーマ : 気付き・・・そして学び
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壬申所感

○壬申所感

 大本は明治廿五年のきゅう正月元旦、開祖出口でぐち 直子なほこ刀自とじ国祖こくそ大神の神懸かむかかりがあって開教されたのであるが、今年をもって四十周年の記念祭を挙行した次第である。
 開祖の手を神様がつかはれて、神諭しんゆを書かれたが、その神諭には三十年で世の替り目が来ると示されて、それが十年延びると書かれていた。本年は十年延びて四十周年の日が来たので、世界のの字は「さんじゅう」と書いてあるが、人間も三十にしてつとひ、又それに三十年を加へた六十で本家がへりとふ様に、三十年、三十年で一段落となる。人間界のことはすべて三十年を以て一期とし、また神界のことは三千年を以て神の一世といふのである。

 みづのえさるの年は「さる」とふので、世人が縁起をかついで結婚を見合すといふが、これは間違ってゐる。みづのえさるは、すべてのわざはひみづ洗禮せんれいに依って洗いるの意で、本年は其の年まはりになってゐる。佛教ぶっきょう所謂いはゆる「法」の字は"さんずゐ(水)"に去ると書く。これも水の洗礼の義になるのである。法はまたダルマ(達磨)で、ダルマの巨眼は日月じつげつの姿に表現される。これは日月揃うた弥勒みろくの意でもある。この弥勒出現して水の洗礼に依って世を清めるのである。

 今年はいよいよ吾々われわれの頭上に火の粉が落ちかかって来た。この火の粉はうあっても打拂うちはらはねばならぬ。此事あるは、ずっと前に神様から聞いてゐた。大正元年から蒙古もうこを日本に引きつけて置く必要を神から聞かされて、自分は入蒙にゅうもうの準備として乗馬の稽古けいこをしたりして、愈々いよいよ蒙古入りの決行を考へてゐた時、大本の所謂いはゆる十年事件が起り、延期して大正十三年に入蒙が実現出来たのであった。當時とうじ私の入蒙は、バインタラでちょう作霖さくりんのために、邪魔ははいって失敗した様に世間では見てゐたらしいが、私自身は決して失敗ではなく、おほいに成功であったと信じてゐた。
 蒙古のアルホラ大庫倫クークーロン成吉思汗ジンギスカンの挙兵以後六百六十六年にして、ナランオロスからイホエミトボロハナ(大活神)が出て来るというふ豫言よげんがあったが、ナランロスミとは、づる国といふ意味であり、また其活神は五十四歳の人だと豫言されてゐて、丁度私がその時五十四歳であったので、いよいよ日出づる国から五十四歳のイホエミトホロバナ(大活神)が来たといふわけで、蒙古から大歓迎を受けたのであった。
 当時人類愛善あいぜんの精神を以ての地に人民愛撫の基礎を作って置いたのが、今回の満蒙問題の勃発に當って、世界こう卍字まんじ会との共同的活動を実現し得た結果となったのである。人類愛善主義の拡充を以て世界大和合だいわごふの働きをせねばならぬのが、づ満州とう四省統一の基礎を造る為に日出麿ひでまろ(人類愛善会副総裁)を満州に出張せしめた次第である。


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昭和維新の途上

○昭和維新の途上

 今、日本は昭和しょうわ維新いしんの途上にある。明治維新でも二十三年の憲法発布の時まで基礎工事が手間取った位で、こんどの維新は時代が違ひ、世界的になってゐるから、なかなか簡単には運ばない。少しは気を長く落ち着いて考慮して進まねばならぬ。
 日本国民の代表者が、心境の変化を公言してゐるが、これはまことに現代日本人の代表的言辞げんじと見られる。時節の変化に応じて仕事をし、機に応じて千変万化の働きをすることは必要であるが、大切な至誠しせいの心は一貫して変化があってはならない。
 蒙古人の言ってゐることに、世界中をてつ黒蛇くろへびが取巻く時が来る、その時が来たら蒙古は草木まで物を言ふとある(※1)。草木のくさは昔から言ふ『民草たみくさ』の草であって、此日まで物も言はれない程萎靡いび衰頽すいたい沮喪そそうしてゐた人心がきかへった様に物を言ひ喜びにぎはふといふ意味であり、また山河さんか草木そうもくの末に至るまで救はれて元気づくといふ意味である。此の黒蛇と云ふのは、黒鐡くろがねを以て世界を取巻いて来た鉄道のことで、全世界に鉄道が一周する様な時代に、地上にこうせいしゅが現はれて人類の苦難を救ふとの豫言よげんである。
 先年日露講和の直後であったか、某国の鉄道王ハリマンと云ふ人が日本にやって来て、甘言かんげんを以て日本の元老を動かし、満蒙まんもうの鉄道の共同経営を約束し、それを米国から帰った小村全権が知って驚いて約束取消しの電報を打ったやうな騒ぎがあったが、これらも黒蛇が世界を取巻くさわぎの一つであった。
 斯ういふ風に、黒蛇が極東まで取巻いて世界を一周したのだから、もう豫言の日が来てゐるkとは確かであると思ふ。
 前にも述べた蒙古の六百六十六年後と曰ひ、またキリスト教でも六百六十六匹のけものといふのがあるが、あれにはいろいろ深い謎がこもってゐる(※2)。其一つは六六六といふ字に謎があるので、六は其字の形から見ても棟木むなぎはりと柱にあたる。それが中央と両端にあれば家が建つのである。つまり人の住む家なり、人類の住む家としての宇宙なりが、完成するの意味である。佛教でいふみろく弥勒(三六)の世が来るといふのに相当するのである。

(※1)
○「ミロクの世と物質文明」(昭和5年8月、月鏡)
 ミロクの世になれば、寝ながらにして地の中を通ることができ、空をも、また水中をも通ることができると言うてあるが、寝ながら通る地中というのは地下鉄道のことで、寝ながら通る空というのは飛行機、飛行船のこと、水の中を通るというのは潜水艦のことであって、いまがその豫言の出てきた時代なのである。
 また蒙古には、黒蛇くろへびが世界中を取り巻き、牛や馬が物言うときに、成吉斯汗ジンギスカンが再誕してわが国土を救う、という豫言があるが、それも現代のことである。
 すなわち黒蛇とは鉄道のことであり、牛馬ぎゅうばがもの言うというのは、人間がひどく堕落して狐狸こり牛馬などの容器になってくることをいうたものである。

(※2)
○「六百六十六の獣」(昭和2年4月、水鏡)
 バイブルに六百六十六のけだものという言葉があるが、それは三六みろく様に抵抗するということである。〔大本事件関係者〕の如きがそれである。もしその通りになったならば、宗教は滅びる。宗教が滅ぶれば、反乱が起こる。という字は、神と人とが開く、という字なので、すなわち"ヽ"はカミ、一はヒト、八は開くということである。


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神の経綸/活きた宗教の建設

○神の経綸

 『三千世界 一度に開く 梅の花』 この言葉は、今より四十年前の正月元旦に大本開祖が天の啓示けいじけ、宇宙の人群じんぐん萬類ばんるゐに向かって警告され、つ神の経綸しくみを発表されたところの金言玉辭ぎょくじであります。神様の御経綸は、この短い一句につくされて居る。梅の花はく小さいものであるが、梅のを結ぶ元である、すなわち梅のである。といふのは皇国すめらみくにの「ス」であり、世界をべる「ス」でありあるじの「ス」であります。
 世界は五大州となって居り、あたかも梅の五弁にあたり、また人のおこなふ道も五輪五常といひ、人間の体も五体といふのである。それに比べて獣類はになってゐる。尻尾がついてゐるから六になるのである。人間らしくない人間のことを"けだもの"といふのは、人間五常の道以外の道を行く者をすので、過ぎたるは及ばざるにかずといふ譯になる。
 それで梅の花といふのは、一切いっさい萬事に対して言われた言葉である。三千世界といふのは過去、現在、未来、或はまた天国、地獄、中界の意であり、また現界、幽界ゆうかい、神界を指すので、つまり佛教で所謂いはゆる三千大世界といふことを略した言葉であります。
 開祖の獅子吼ししくされてから四十年になりますが、その第八年目に私は聖地へ引寄せられ〔1898年(明治31年)10月8日、開祖と初対面。1899年(明治32年)7月3日、開祖と再会。1900年(明治33年)1月31日(旧正月元旦)出口澄子と結婚〕、それから今年で三十三年になります。このの八の数字にも、またこの三十三の数にも深い意味があります。其間に世の誤解の中に立って色々な激流を渡り荊棘いばらの道を越え、猛獣に追はれ三十三相の働きをせねばならぬ種々な艱難かんなんを経て来ましたが、いよいよ神様の道が開ける時が参りました。
 大本の根本霊場たる本宮山ほんぐうやま(一名桶伏山おけぶせやま)に神聲碑しんせいひが建つ時にいよいよ神様が表にあらはれるのであると私に神様から始終あふせになって居ったのでありますが、その神聲碑うぶごえが神命にって建てられたのが昨年(昭和六年)の九月八日でありました。



○神聲碑(うぶごえ)
 三せんせかい いちどにひら九
 うめのはな もとのかみよに
 たてかえ たてなおすぞよ
 すみせんざんにこしをかけ
 うしとらのこんじんまもるぞよ
   めいじ二十五ねんしようが
   ついつか    で九ちなお

○教碑
 神者万物普遍の霊にして
 人は天地経綸の大司宰也
 神人合一して茲に無限の
 権力を発揮◉   王仁誌

○歌碑
 盛なりしやゐのあとのつる山に
 やまほとゝきす昼よるを啼く
 よしやみは蒙古のあらのに朽るとも
 やまと男の子の品は落さじ
     昭和六年七月十二日
              出口王仁三郎



 満州事変は一方から見れば国難こくなんでありますが、他の一方から見れば国難といふよりはむし国福こくふくでありまして、これから東亞とうあの光りが世界に光被こうひして、日本神国の光が八紘はっかうに輝き渡る、其ひらめの状態に遭遇したのでありますから、此国難に対しては一切の原動をつつしみ、思想国難、外交国難、経済国難に対し、国民は小さいことを棄て大同だいどうに向かってこれを打破して進まねばなりませぬ。しかしてすべてが打破され、すべてがあらたまる……改まれば国難は一転して大なる国福となるのであります。即ち国歩こくほ艱難の時に於て初めて国の光を輝かすところの端緒たんちょを開くのである。あたかも大本のをしへ法難ほうなんに依って初めて信者の誤れる思想や観察が内省されて、却ってまことの道が開けて来たのと同様であります。
 私は大本の法難を決して法難とは思わずかへって法福ほうふくであると信じて感謝して愉快に迎へて来たのであります。あれが本当に不敬罪であったならば、神様がお許しあるはずもなく、これは日本国民として陛下に申譯もうしわけがない。愉快どころではない、政府の刑罰をまつ迄もなくみづから切腹して死んでしまふのでありますが、吾々われわれは国家のために、皇室の御爲に一生懸命やったことでありますから、さういふ気の弱いことではならない。どこまでも"あかり"を立て、一方神様の道のあきらかなことを示さねばならぬといふ考へを以て勇往ゆうわう邁進まいしんして来たのであります。
 そこで、人類愛善あいぜんといふのは、佛教では一切衆生を愛すといふので、人類愛善は意義が狭いなどといふものもありますが、大本の神諭にも『この神は〔改心してい改めたならば〕虫ケラまでも助ける神』とある如く、人類といふことは『人群萬類』といふことを略したものでありまして、森羅万象一切を愛するといふことになる。人類とは人群萬類の省略である。人群萬類愛善会ではあまりに長過ぎるから略したまでである。会員方やこれを宣傳せんでんする者は特に此點このてんを承知して貰いいものであります。而して此国難は〔愛善良心神〕の道に依って打開して行けば国福に轉ずるのでありますから、会員並びに全日本国民は勿論もちろん、世界の全人類と共にこの大光明を望んで〔愛善良心神〕の道に大同和合せねばならぬと信ずるのであります。




○活きた宗教の建設

 宗教本来の価値は、内容は既に死滅して大殿堂のみが残ってゐる。今日こんにちの宗教は弔祭佛事、檀家だんかと寺との関係はあっても人間とほとけとの霊的関係は絶縁の状態に置かれて在る。最早今日の宗教は外部的の改善位では駄目だ、所謂いわゆる復活の見込みが立たぬ。既成きせいの教義や信條を肯定したままの改善は、表面から如何に立派でも遂に破綻はまぬがれない。要するに既成宗教の根本に致命的な缺點けってんがあるからだ。大改革の時機は到来したのだ。
 学者等の宗教改革論は在っても既成宗教そのものを新しく解釈した迄だから、きた新宗教の基礎とはならない。幻想的な迷信くさい所に引張り込んで求道者を誤魔化ごまくわすと言ふだけである。
 既成宗の何物にもとらはれず、思ひ切って不合理のてんを大胆に改善して現代人の要求に足るべき活宗教の建設をはかってゐる、いな実行宣布せんぷしてゐるのが〔大本米の教え〕であって、天下唯一の真宗教であるのだ。宗教信仰の徹底は言ふ迄もなく、神に対する確乎かくこたる信念にあるが、その神が又闇雲やみくもの存在であってはならぬ。この意味に於て神の正體しょうたいを明示する必要がある。

新・ノアの箱船
神言会 ― 大本教神諭解説

 英国のホップス博士いはく『宗教は丸薬がんやくごとし、噛砕くべからず、丸薬を鵜呑うのみにすれば効あり、分析して内容を知る時は効力なし、蛍火ほたるびも暗夜には光を放ち、太陽に照らされ光を失ふ、人生の燈臺とうだいたる宗教は今や生命なし、現代の既成宗教には知識階級なし、れは矛盾と不合理にたされて科学的に権力が零だからである』と。
 現代の宗教を生かし、改良せむとするは死者に醫藥いやくあたへむとするに同じ、檀家や周圍の手前おつとめにやって居るが、心底しんていより真に禮拝らいはいする宗教家はく少ないのが事実である。自宗の教義学説に対しても疑義を抱いて居ながら、公然発表すれば異端視されるおそれがあり、教團より排斥はいせきされるから沈黙を守って居る無気力者が多いのだ。お目出度めでたい連中か〔     〕のみの既成宗教。

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愛善の道/青年の意氣を持て

○愛善の道

 今日こんにちの天下の形成は、じつに五十年前に私が神界から聞かされて其時そのとき筆記して置いたことと寸分の相違もない状態であります。今迄に言ってあることが間違ひないとすれば、これから先きも間違ひはないのであります。それはあたかも刀剣の鑑定人が鯉口こひぐち一寸程あけて見て切先きっさきまでを判定するのと同じ様なものであるが、今迄に既に五六すんもあけて見たのだから三じゃく先までも鑑定がつき、前途はあきらかに計算が出来るのであります。
 神示に依れば、世界は一旦いったんはもうかなはぬと言ふところまで行くとありますから、此上は神助しんじょを以て切り抜けて行くよりほかに方法はないと信じます。今迄に随分智者ちしゃ、学者が色々説を立てて見ても世界の此行詰ゆきづまりを前知ぜんちすることが出来なかったことを思へば、今日の智者、学者は一人も頼むに足らぬといふことを證明しょうめいしてゐるのであります。人間は同じまちに生れても一生言葉をかはさぬ人もあります。其様ななかに山河幾千里を越えても同じ愛善会員となり、また紙上に共鳴者となって共に国事をおもひ人類の生活を思ふのは決して偶然ではなく、非常に深い因縁があるのであります。
 昔からつまづく石もえんはしということばがありますが、一生に自分の躓く石といふものは幾らもありませぬ。同じ〔愛善人に内在する良心神〕の道でもわからぬ人には何程いても耳に入らず、また解るだけの能力もまこともない。親兄弟でも解らぬ者には解らず、前に述べた様に、現に今日の形勢すら察知さっちすることの出来なかった学問などを今に信じてゐる人が多いのであります。
 人類愛善の道は既成宗教や学説から真実に卓越たくえつした神様から直接示された天地の大道だいどうでありますから、この道を幾分でも耳に入れることの出来る人は現代にける聡明そうめいの人と云ふべきであると信じます。これは学問で仕上げたのではなく生まれながってゐる大智だいちの人と云ふべきであると思ひます。
 いてはこの満州のことでありますが、これは日本にとって離すことの出来ない所謂いはゆる生命線でありますから、私は先年入蒙以来夢寐むびにも忘れず万全の策をこうじて時期を待って居るのであります。若い時なら急ぎますが、これは急いだり騒いだりしても天の時におうじて人の和を講ずる必要があるのでありますから、人類愛善会の満蒙まんもうにおける仕事は手ぬるい様でありますが、實はこれの方が真実の近道なることを私は信じて居ります。
 私は先年蒙古もうこのバインタラで既に死線に立って辞世までんで置きましたから、所謂背水はいすいの陣は其時からいてあるのであります。おほいに世界人群萬類のためにつくす考へでありますから、会員をはじめ読者の方も大日本神国のために御盡力ごじんりょくこひねがふ次第であります。




○青年の意氣を持て

 人間と云ふものはすべ天津神あまつかみの精霊を受けて此の世に生まれでたのでありまして、神は幾萬ごうの昔から幾萬年ののちの世へかけて不老不死にましますごとく、人間の精霊も不滅であります。
 私は本年(昭和七年)六十二歳でありますが、六十二年前に私の精霊が天地の間に出来あがったのではない、その時には肉体が誕生したばかりです。従って私の肉体に老いのきざしは見えめても、精霊は老いを知らない。世間には肉体と一緒に早く老いてしまふ人間があるが、はなはだ残念なことであってさう云ふ考へ方では人間としてだけの役目をもこの世に於てはたしきれない、まして神の思召おぼしめしによってこの世界に生れ出でた意義にふことは困難であります。
 大体だいたい日本人のくせとして、もう六十になった、七十になったと自分の年齢を勘定してみづから心を弱くするやうであるが、これは非常によくないと思ひます。私が蒙古におもむいた時、あちらの人に年齢をたづねたところ、蒙古人には過ぎ去った自分のとしを数へるやうな馬鹿はありませぬと答へられ、これでなくては本当の仕事はやって行けないと感心しました。人間にとって明日は必要であるが、昨日は過ぎ去ったものでしかない。明日には希望と光明があるけれども、昨日はすでに清算済みのものばかりである。神様にこの世に生んでいただいて、それにこたへるだけの仕事をして行くには、明日を生きた、有意義な明日にしてゆくだけでよい。さう考えて、私自身、六十二歳にしてなほ青年の感情と青年の意義を失ってないのであります。
 そこで青年であるが、云って見れば若いうちは肉体が全盛期にある。この事は、家なら建てて間のないうちで、柱も傾かねば壁も落ちてはゐない。さう云う時に、出来るだけの仕事をして置くといふのは当然の任務であります。が、肉体が老いたからと云って、精霊までがおとろへたを思ふのは間違ひで大隈おほくま侯などは百二十五歳説をし、四十五十は少年であるとなしたが、私も人間七十八十を働き盛りだと考え、愈々いよいよの仕事はこれからだと思ってゐます。
 精霊は滅びないものである。人間は不老不死のものであると云ふことを證據しょうこ立てる例としれ、臨終の際までたましいがしっかりして居ることを云はねばならない。手も足も動かぬやうにあり、耳も聞えなくなっても、気力は確かで、頭脳はえて来る。これは人の精霊が何處どこまでも生き通して居る証拠で現代の唯物ゆいぶつ論者が云ふ様な健全な肉体に健全な精神が宿るのではなくて、健全な精神の所有者こそは健全な肉体を所有し得るものであります。
 これで、肉体といふものが魂を入れるうつはであり、神の生宮いきみやであると云ふことがハッキリして来るのであります。で、總ての人は、自分は断じて死にはしない、老いゆきもしないと云ふ信念を持ち、世界のために、いつもまをす人群萬類のために、常に青年の意気を持って働き、私の提唱する御神業ごしんぎょうに参加して欲しいと思ふのであります。特に今や東西の形成はすこぶる急なるものがあります時にあたって、日本人は格別な使命をもってゐるのであります。其文字もんじに注意して貰へばわかりますが、せうの字は"日"に"召さる"と書いてあります。すなわちの大神のおしに応じてやはす所の大任たいにんってゐるのでありますから、此点このてんをよくさとって、昭和の天命てんめいこたふるだけの信念がなければならぬと信ずるのであります。


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 世界よ何處へ行く

○世界よ何處へ行く

 世界よ何處どこく。
 まったく世界は何處へ行くのであるか。
 仏典将又はたまたあらゆる神示においしめされたる末世まつせすでに来てゐるのであって、百鬼は白昼はくちゅう横行し、仁義道徳は地をはらひ、暗黒無道の世態せたいまさ常世とこよやみと謂はねばならぬ。
 人心のすさび、これは実に恐ろしいことで、父子兄弟の争ひ、親戚の離反、盟友間の信義の暴虐、主僕しゅぼく疎遠そえん、上下の反目はんもく、労資の対峙等々、世道の頽廃たいはいは実に言語に絶して居る。人道は今や潰滅かいめつしてしまったと云はねばならない。
 国家社会は刻々に危機に陥り、あらゆる曲神まがかみは時をがほの横行振りを発揮して居る。富豪家とめるものの堕落は社会を極度にけがし、淫酒にふけってあえて為す所なく、社会の心臓たるべき都会人は安逸快楽に馴れ切って奢侈しゃしの限りをつくせば、従って純朴じゅんぼくの気は田舎からも去ってしまふ。国家の中堅で、社会の第一線に立つべき青壮年はこの悪風に眼を眩惑げんわくされて、争って悪魔のとりことなり、国内に異邦的精神の発生をみるまでに至り、未来の賢妻けんさい良母りょうぼたるべき女子はべに白粉おしろいを塗り立てて胡蝶こちょうごとき生活に日を送る。全く淫靡いんぴの世風は吹きすさんで、聖者の遺訓はあっても鼻紙程の重きをなさず、法令はそんしてもこのの人心を如何いかんともすることが出来ない。人心の堕落はすべてに反映して経済的の危機もまさに来てゐるのであって、農業の不振は商工業に大なる影響を来すこと言ふまでもなく、世界的の不景気風はフーヴァ風〔風邪〕かぜ犬養風の対抗ぐらゐではむことを知らぬ。
 国家の富が増進したとて喜んだ時もあったが、しかし、実際は人々の頭上に飢餓は迫って来てゐる。経済的不備は生産過剰を招いて物価の凋落ちょうらくは一層世間を不景気におとし、輸入超過につぐ超過で、経済界は赤字又赤字で、窮乏その極に達したの観がある。かくて国庫は正に窮乏して兌換だかん借款しゃっかんとそのくところを知らず……。

 この人心の悪化、経済界の危殆きたいは人々の生命財産をおびやかすことまさに甚大であって、法警の完備した現代に益々殺傷の行はれる事は寒心かんしんへない。人心の悪化は政界の不完全を物語るとみてもよく、暴戻ぼうれい横行おうこうに誠の人士は進むの道を奪はれて仕舞ひ、奸佞かんねい邪智じゃちの者の天下となって挽回ばんかいするよすがもない娑婆しゃば世界になってしまった。国家の元老は名のみこひねがおのれの勢力と配下を持つことにのみ余念なく、政客せいかくに正義なく、ただ政権をもてあそぶかの如く見え、吾党わがとう擁護ようごが彼らの仕事となったかの観がある。国家の選良せんりょうは国議を軽視し、国帑こくど〔国家予算〕を浪費して民の負担を日におもからしめ、かくて国家破産のしょを開き、あまつさへの神聖無垢であるべき我等の議事堂に、あたか雲助くもすけ輩の行動を演出することは慷慨かうがいにたへぬ事である。

 医学の完備した世に悪疫の益々蔓延まんえんして行く現代であり、交通機関は完備してもしか有無うむ相通あひつうずる道もない今日こんにちである。学説でて益々偏狭へんきょう陋劣ろうれつさを現はし、怪論かいろん迷説は世を闇雲やみくもに導くのみの現代である。国防成って国辱こくじょくしきりに起るの時、武人は士道はなやかなりし頃の気概きがいなく、むしろ物質に愛着を感じてゐる現代を思ふ時、益々ますます世界よ何処へ行くの感は深い。

 人心を天国浄土に導くべき宗教はどうしたのかと叫ばずには居られない。宣教師または僧侶は、エホバ、仏陀ブッダの教義を曲解し誤説ごせつして、彼等は極力宗祖しゅうそ教旨きょうしを滅ぼしてゆく。道をく彼等の品行の堕落は正視出来ぬものがあり、かえって精神世界を攪乱かくらんしつつある古今ここん未曾有みぞうのこの世相には、天神てんしん地祇ちぎまさに怒りをはっしたかの観がある。台風、時ならぬ雷鳴、頻りにいたる水難、旱魃かんばつ、地震、大火等、軍神つひにいきどほって天賊てんぞく地妖ちようくまなく鏖殺おうさつ清め給ふ御心をさとらねばならぬ。

 しかし、神は愛であり慈悲である。神は恵みの主であらせらる。神は『みろく369』下生を、あるいはキリストの再臨を誓約した。すなわち神の恵みは天来てんらい未知みちの大偉人の力にって最後のとうげを越さしめ、選民せんみんを永久に救って下さるのであって、ここに初めて天国浄土は地上に顕現けんげんするのである。徹底的に邪神〔蛇心〕じゃしんらし善神を救ふ神の大経綸、これこそ大和やまと民族にたまわった神の御遺訓であり、聖約なのである。
 かくて真人しんじん生れ来たり、惟神かむながらの大道を世界に敷衍ふえんする時、五逆十悪の濁世じょくせは消滅して、天地自ら清浄に、主神の意志の完全に地上におこなはるる新しき国土は開かるるのである。


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愛善道の根本義/救世主義

○愛善道の根本義

 今日こんにちまでの既成宗教は霊界にへんし、現代の学説は現実界に偏し、特に哲学者は瞑想的な推理推論に走り、いづれも中庸ちゅうようを得たものがない。そこで、宗教は科学を馬鹿にし、科学は宗教を軽蔑しておる。しかも今日既成宗教のすべては、みづから唯心論的宗教の根本義を幾分軽視して科学に迎合げいごうするやふになって来た。
 例へば基督キリスト教の如き、中には奇蹟なんかをなるべく口にせぬ教派もある。さうして此種このしゅの教派の方が所謂いわゆる知識、大衆にうけれられる傾向があるので、益々このの風潮が高まって行くのである。奇蹟を語れば、今日の文明の世に馬鹿にされるから、これを避けるようになってしまった。基督教のみならず、佛教の坊さん達も同様になってきた。
 しかしながら、既成宗教において、今迄の奇蹟を抜いたならば残るところはなんにもない。教理の方面はみんなのちの人々が勝手な理屈をつけてならべ立てたのであって、宗教といふものは無い。即ち既成宗教はゼロになってしまふのである。このてんが今日の既成宗教が通俗化して遂に低級なる倫理道徳の方便ほうべん教となってしまった主因である。
 ういふ世の中すなわち科学万能にして宗教が新生命を失った世の中に、宗教も生かし科学も生かしすべての哲学に生命をあたふるところの偉大なる大原則が樹立されねば、今日の思想の混乱を整理し指導する方法がないのである。
 私のとなへる愛善の道は、既成宗教の重きを置いた霊と、近代科学の重きを置くたいとの間に奇蹟的な力があって、神秘的な結合作用をすもので、此の「ちから」こそ實に神〔火水〕かみから流れ来るもので、これを神力と謂ひ法力と称ふるのであって、この霊、力、體の三元説の大原則を樹立し、此の原則に出發した霊體れいたいの和合がおこなはれば力ある真理は成り立たないと信ずるものである。この霊、力、體の大原則は、私が神明しんめいのお導きにって霊山高熊山たかくまやまに修業を命ぜられた時に、素戔嗚尊すさのをのみこと様のめいに依って、小松林命こまつばやしのみこと様から神示しんじを得、そこに断案だんあんを発見したからであるから、今日までの如何なる学者もとなへたことのない天啓てんけいの大原則であって、これに依ってはじめて一切の既成宗教の説と現代科学の説とが両立し、而も此の二者共に真生命をあたへらるることをさとったのである。
 これを更にわかり易く言へば、男と女とは、おのづから霊とからだとを具有しておるが、今一つ神秘なる力が加はる時に子供が出来るのだ。アインスタインの相対性原理説ではらないものが一つある。その一つは実に宗教と科学とを結合し完成するところの天啓の教理であるのである。此の霊、力、體の三元説を見出みいださなければ、地上に思想的争闘のゆることなく、思想的闘争が絶えねば、従ってたい的、即ち物質的闘争の絶ゆる筈はない。
 今日所謂いわゆる末世の相が日一日と濃厚にの悩みを深めて、精神的及び物質的行詰まりの極に達して来たので、この機会に愛善道の根本義を説いて、大方の考慮をわずらはす次第であります。



○救世主義

 愛善主義は真の救世主義であります。惡人を惡人として罰し、善人を善人として賞するのは、現実界即ち自然界の人為的法則で、愛善そのものとは非常に遠いものであって、かうしたやりかたでは到底世を救ふことは出来ないのであります。現世相せそうは日一日と惡化して、国と国、民族と民族間の軋轢あつれきいまはしい闘争が益々露骨ろこつに演ぜられ、産業、経済、思想、政治、一切の世相に一大変動はまぬがれぬ状態にまでさしせまって来たのであります。この際この時、国民はしっかりと腹帯はらおびを締めて此の難局に善処しなければならぬ。それにはづ救世主義であるところの愛善主義すなわ伊都能賣いづのめ主義に依らねばなりませぬ。伊都能売神人に内在する良心神の救世の主義は、第一に慈眼じかん我が身を反省して罪悪のふちに自身を沈没せしめぬこと、つぎには慈眼我が一家をかへりみて、以て常に平和と幸福を増進せしむること。次には慈眼が一国を愛して国利民福の大精神を発揮すること、次には慈眼宇宙人類を愛善して内外東洋西洋の別なく福利せしめむとするの大精神を発揮すること、次には慈眼一切の蒼生そおうせい萬類ばんるゐを見て現世の汚濁おだくを脱却せしめ、永遠無窮むきゅうに大光明にらしむること、次には天神てんじんの愛善と信真とを理解せしめて不老不死なる天国また霊国れいごくに安住し復活せむと焦慮せうりょすることであって、れ即ち慈眼衆生を"みそなはす"所以ゆゑんのものであり、この心を體得たいとく得念とくねんした上は、人生は実に実に福壽ふくじゅ無量むりょうにして歓喜悦楽の妙境めうきょうに安住しるのであります。
 愛善主義なるものは、要するに、人生すなわち現実の世界を中心として教ふる所の神教しんきょうであって、この現世に即して永遠無窮の天国生活の真諦しんたいあじわはしむるもので、幽現ゆうげん微妙不可言ふかげんなる真理にじゅうする秘奥ひおうを現生命にそくして永遠の真生命を実得せしむる聖教せいきょうであります。くまでも現世をして妙楽の光明世界と爲すの大楽天主義であって、厭世えんせい隠遁いんとん的趣味は愛善主義すなわ伊都能賣いづのめ主義には断じてないのであります。
 観音経の『光明あまねく世界を照らし慈眼衆生をみそなはして化益けやく一機いちきを漏らすことなし』とあるは是れ即ち愛善主義にして、この信仰は非常なる楽天主義で、地獄的思想は微塵みじんもない。またこの教義には恐ろしいとか、いとふべきこととか、いまはしきものは寸毫すんごう包含ほうがんしてゐないのであります。
 既成宗教には、実にいとふべき一種の脅喝きょうかつがあり、方便があり、虚構があり、誘惑的言句げんくが現はれておりまして、すべて人間を恐怖せしめ、至粋しすい至醇しじゅんなる天成てんせい大和魂やまとだましいを軟化し、立派なる男子の睾丸こうがん抜取ばっしゅし、女子を罪穢ざいゑ権化ごんげごとく軽蔑し、人間の勇猛心を挫折せしめ、弱国弱兵の原動力となったものばかりであります。
 しかるに伊都能賣信仰人に内在する良心神に於ては、現幽げんゆう共に大光明境に住し、化益一機を漏らすことなく、るる所くところ、見るところ、聞くところ、一切ことごとく皆愛善の法悦と救ひのあみの中にり収めてしまふと云ふ真の信仰であるがゆゑに、楽天であり、大安心であり、憂苦する所なく、恐怖する所なく、愛善の徳と信真の光に依って固められたる難攻不落の堅城鉄壁であり、人生一切の後楯うしろだてであり、現界にながらにして一大光明世界に化住する真の救世教であります。


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現代と岩戸隠れ

○現代と岩戸隠れ

 わが日本神国しんこくは、古来磯輪しわがき秀妻ほつまの国ととなへて来ました。シはみづであり、ワは国土またはしほであります。すなわち海水をもって国土の四周をかこふと云う言霊ことたまであります。次に秀妻ほつまの国のホは天地萬有の始めであって、れいであり、ツはつづつらなるなり、マはまはりなり、まなこなり、まどかなりの言霊であります。要するに世界太初に神の造られし神国であって、天津あまつ日嗣ひつぎの万世一世、天壌てんじょう無窮むきゅうに連続するてふ国名であります。しかして海のしほは七五三になみが打つのであります。ゆゑに七五三を〔日本〕国語こくごシメと云ひます。七五三しめを天地開闢かいびゃくはじめより惟神かむながらまはした国は、わが日本国の地形であります。

 今迄は、日本は七五三しめの内に平和の夢をむさぼりつつあったのでありますが、米国の使節ペルリの来航と共に三千年間の七五三しめは撤去されてしまったのであります。七五三しめが撤去されると共に、日本人は何時いつまでもまつうちうに安楽な考へを持ってはおられないうになって来たのであります。いては今日の日本には、七五三しめが精神的に取外とりはづされて居るから、外国の危険なる思想がドシドシと遠慮会釈えしゃくもなく侵入してしまって、目下のところでは到底政治や教育や法則や宗教の権力ちからでは如何いかんともすることが出来ない様に成って来ておるのであります。すなわち現代は神典の所謂いわゆる常夜とこよあらぶる神のおとなひは、五月蠅さはへなすみなき、萬妖ばんようことごとおこり、山川さんせん草木そうもくみな動揺どよむの現状であります。
 かる乱世あま岩戸いはと隠れに際しては、どうしても八心やごころ思兼おもひかねの神の出現して(※1)、天の岩戸開きの大神楽だいかぐらを奏上せねば、到底このただよへる不祥ふしょうの現状を救ひ、五六七みろくの神政を永遠に樹立すると云ふことは不可能であります。今日こんにちとなっては、如何いかなる智者、学者、政治家が現はれて、盤根ばんこん錯節さくせつを料理せむとしても、すでに手遅れであります。瀕死の病人にカンフル注射をて見ても、一時の生命を保持するだけのもので、到底何の役にもつものでない。ただこのの上は神にまかせて、天然力の神の大修祓だいしゅうばつを願ふよりほかに方法は絶無ぜつむであります。今日の世界に、どんな立派な有力な人があらはれたところで、時勢じせいの惡潮流ちょうりゅうを根本的に清むることはどうしても出来ませぬ。吾々われわれ唯一の頼みの27とするは、大国常立尊おほくにとこたちのみこと萬代ばんだい不易ふえき周到しゅうとうなる御経綸を待つばかりであります。

 ああ孤立の日本神国、混乱のきはみに達せる地上の各国、二十億の蒼生さうせいを救ふの道は 天津日嗣天皇てんのう御稜威みいづ国祖国常立尊御神威ごしんいの発動と、吾々国民の思神ししん思君しくん思国しこく思道しどう日本魂やまとだましい発揚はつようほかにないのであります。


(※1)
『伊都能売神諭』 大正8年2月20日
若姫君之尊は三男五女神の八柱やつはしら神を養育して立派に神代の政治を遊ばして居れたとこへ元の素盞嗚之命すさのをのみこと様がた地の世界へ降りて非常に御立腹遊ばして若姫君わかひめぎみみことの生命を取り、天も地も一度に震動させ再び常夜とこよやみとなり、よろづ妖神わるがみが荒れ出しどうにもうにも始末が付かぬ如うに成りたので 天に坐ます天照大御神様はつい地球あま洞穴いわと御隠おかくれ遊ばし、天も地も真のみと成ってしもふたので、八百万やほよろずの神々が地の高天原たかあまはらの竜宮館に神集かみつどひして、うしとらの金神は思兼神おもひやりのかみとなりて色々と苦心の末に天之岩戸あまのいわとを開き 天地は再び照明あきらかに成ったので在るぞよ。



○世界に範を示せ

 日本の為政者いせいしゃたるものは、光華こうか明彩めいさい六合りくごう照徹せうてつする神智しんち神徳しんとくを保有し、もって全世界の暗黒無道の惨状さんじょうを救ふべき天職てんしょくあることを忘れてはならぬ。しかしながら、今日こんにちの為政者にこんな註文ちゅうもんをするのはいささか無理である。日本だけの修理しうり固成こさいまで持て余して、窮々きゅうきゅう謂って目をまはしてゐるやうな次第柄だから。

 天地の公道こうどうもとづき、政治の根本を確立せば、天かは至治しち泰平たいへいの神国を招来しょうらいするをるのである。世界の大勢たいせいに順應するはよいが、公論こうろん衆論しゅうろんを誤解して、衆愚しゅうぐ多数政治と云ふやうな事になったらそれこそ天下国家の滅亡をきたすやも知れぬ。公平無私なる皇祖の御遺訓にって、政治の本領を真解しんかいさしい。
 国務大臣は第一に天祖てんそ国祖こくそ鄭重ていちょう祭祀さいしし、朝夕おこたらず至誠をもって拝禮はいれいし、天祖所示しょじの施政方針を尊守じゅんしゅし、大神おほかみの御心を心として仁慈の徳を備へて、国民にのぞむべきである。国務大臣にして、この信念と至誠なき時は、国民の議論百出ひゃくしゅつし、つひにはいまはしき危険思想を醸成じょうせいし、以て祖宗そそう建国の大精神を破潰はかいせしむるのおそれなきやを憂ふ。敬神の念薄き大臣は、日本神国の為政者たるの資格は絶対に無いものである。

 又今日こんにちの教育家は、真の大道だいどうきはめて居らぬ。真の学理を知らぬ。人の師範しはんたる教育家でありながら、肝腎の教育勅語の大精神を了得りょうとくせず、日々有害無益ををしへき、愚人のあらはした愚説のみを教壇にたって受売うけうりする蓄音機ちくおんきの様なものである。
 天地の大道たる敬神尊皇そんのう愛国の本義を体得しつ之を実行し得ざる教育家にいてまなぶは、実に危険である。国民性を傷害し、日本魂やまとだましいを滅却せしむるもの、実に多大である。第一に天祖、国祖をまつり、次に祖先に仕へ、以て忠孝の大義を実践躬行きゅうかうし、報本ほうほん反始はんしの実をぐるを以て、教育の根本となすべきものである。教育家にして、真に我国体を利かいし、四海同胞、神人しんじん一系いっけい神機しんきさとらば、大、高、中、小学、幼稚園内に至聖場をもうけて、天祖、国祖を奉斎ほうさいし、忠孝一本の本義を教師自ら実行し、以て被教育者に模範を示して貰いい。

 日本は神国しんこくであるといふ。神国なれば神国らしおこなひを守り、世界にはんを示さねばならぬ。神国天来の使命が了解さへ出来たら、国民一般が神心かみごころになり、至治しち泰平、みろく567の神世が出現するから、現在の人心不安も、混乱も、経済界の沈衰ちんすゐも、奇怪なる思想も、朝日の前の露の如く、たちまち消滅してしまふのである。今日の為政者も教育家も、君国くんこくを憂ふる一片の至誠あらば、一刻も早く改心、改造に奮進ふんしんせねばならぬのである。


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世界の大神業

○世界の大神業

 現代は古事記こじきにある『岩戸いはと開き』に相当するのであります。
 『ここによろずの神のおこなひは、狭蠅さばへなすみなよろずわざはひことごとくおこりき』
 すなわち政治は勿論もちろん教育も経済も内治ないちも外交も滅茶苦茶である。一切いっさい萬事が真黒まっくらがりの世になってゐる、どこにどうしようも見当がつかない。かうなって来ると、各階級の風俗は紊乱ぶんらんし、不良人民がえ、窃盗せっとう強盗が横行し、あらゆる不祥事が起こって来るのであります。そこで神々様が『あまやす河原かはらかむつどひに集ひて』御相談なされた結果、岩屋戸いはやどを開くについては祭典をおこなって天神てんしん地祇ちぎを祭らなくてはならぬとふこととなり、今日こんにちで云ふお神楽かぐらをなされたのであります。
 伊勢大神宮では、昔から十二組の大神楽だいかぐらと云ふのがありますが、これは岩屋戸開きのことをお示しになってゐるのであります。
 前にもまをしましたやうに、現代の世態せたいを見ますと、所謂いはゆる世界の大神楽をそうしなくてはならぬ時であります。あのお神楽の時に出て参りますおきな獅子じしは、獅子の面をかぶって、刀を口にくはへ、手を振りみだし、眼も、鼻の穴も、歯も、きんで塗り、本当に恐ろしい様であるけれども、真中まんなかには人が入ってあやつって居るばかりか、頭の方こそ立派だが、うしろの方には尾も何もない、だんだらのすじのやうなものが入ってゐる布に過ぎない。そこにも人がかくれてゐて前の者と調子を合はせて操ってゐる、これが獅子舞ししまいの真相であります。
 ところで、今日こんにちの世界の外交術は皆この獅子舞であります。表面は非常に大きな、所謂いはゆる獅子口をあけて、今にも噛みつきさうんしておそろしい様であるが、中に入って見ると、人が獅子口をあけて舞うて居るに過ぎないのである。それから大神楽のときに、芸人がまりげたりおろしたりする、これはうへのものは下敷となり、したのものは上になって行く、即ち立替たてかへをすると云ふことを示してあるのであります。また盆の上や傘の背におかねを転がして一生懸命キリキリまはしてゐるが、これは今日の世の中は金融が逼迫ひっぱくして一銭のかねにも一生懸命に走り廻ってゐる 千円〔百万円〕の財産でもって一萬〔一億〕円も二萬〔二億〕円もの仕事をしてゐる。だから一朝いっちょう経済界の変調が起ると、ポッツリ運転が止まってしまふと云うことをあらはしたものである。次に頭を地につけてり身になったりしてつるぎの舞ひをやってゐる。これは戦争をしている意味であります。それから"おやまの道中"といって獅子舞姿で、おやまの道中の真似をする。丁度今日こんにちの世の中の様に男の頭の上に女があがってゐるやうな工合ぐあひになってゐる。又の獅子舞は達磨だるま大師の真似をして見せ、後持あともちだいの字になったり、逆様になったり、上のも大の字、中のも大の字、後のも大の字逆様ぢゃと云って、一生懸命やっておる。一方では大神楽の親父おやぢといふのがあって、片方で芸人の真似をして邪魔をしたり、いらぬ口をたたいたりして、頭をポンとたたかれたり突かれたりして客を笑はせる。笑はせるだけならよいが、おし聾耳つんぼの真似をしておほいに邪魔をする。今日の世の中にもういふ親父がいる。××が何とか云って、若い屈強盛りの者が一生懸命に芸当をやってゐるところへ、口嘴くちばしを入れたり、邪魔をしたりする。そしてをはりにはアババと云って帰ってしまふ。のアババは、言霊ことたまから申しますと、総てのをはり、大船が沈没した時や開いた口がふさがらぬ様な困った時、どうにもかうにも出来ぬ様な苦境におちいってしまったといふ時の表示であります。
 かく、今日の世の中は大神楽をまはしておる時であります。神代かみよ岩戸いはと開きの神楽と、今日の世の中の神楽とは余程かわっておりますけれど、其の精神は同一であります。また神楽の時に囃子はやし太鼓たいこを打つのは大砲や爆裂弾のひびき渡る形容であり、笛を吹くのはラッパを吹き立てる形容であり、胴鉢を左右の手に持ってヂャンヂャン鳴らし立てるのは、世界が両方にわかれてたがひに打合ふと云ふことの暗示であります。


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天災と人震

○天災と人震

 日本の国民は、古来抱擁性ほうようせいみ、世界の文化をことごとく吸収して同化し精錬せいれんしてさらにより以上うるはしきものとして之を世界に頒與はんよする所に日本人の生命があり、使命があり、権威があるのである。しかしてよこに世界文化を吸収してこれを精錬すればする程、たてに民族性が深めらるべきはずだのに、現代の日本は外来文化の暴風に吹きつけられるほど固有の民族性の特長をうしなひつつある状態は、あたかも根の枯れたる樹木にひとしいものである。日本人は日本人として決していずれのものによってもをかされない天賦てんぶ固有の文化的精神を持ってるのである。それが外来文化の浸蝕によってうしなはれむとする事は、祖国の山河さんかが黙視するにしのびざる所で無くてはならぬ。
かくごとき時に際して、天災地変が忽焉こつえんとして起り、国民にだいなる警告と反省をうながした事は今代きんだいに始まった事で無く、実に建国二千五百年の災変史が黙示もくじする所の真理である。近くは元和げんな寛永かんえい慶安けいあん元禄げんろく寶永ほうえい天明てんめい安政あんせい大正たいしょうに起った大地震と当時の世態せたい人情との関係を回顧するも、けだし思ひなかばに過ぐるものがあるではないか。
 て我国の記録に存するもののみにても、大小一千有余の震災を数へる事が出来る。其中でももっとも大地震と称されて居るものが、回、鎌倉時代の如きは平均五年目毎に大震災があったのである。覇府はふ時代には大小三十六回の震災があった。しかも我国の発展が、何時いつも是等の地震にふ所が多いのも不思議な現象であるのだ。奈良が滅び、京都がおとろへ、そして江戸が発展した歴史の過程を辿たどって見れば、その間の消息がようかがはれるのである。
 全体ぜんたい我国の文化その物はまったく地震から咲き出した花の様にも思はれる。天祖、国祖神の我国を見捨てたまはぬ限り、国民の生活が固定し、腐敗堕落のきょくに達した度毎たびごとに地震の浄化が忽焉こつえんと見舞って来て一切いっさい汚穢をゑ洗滌せんできするのは、神国の神国たる所以ゆえんである。
 古語に『小人しょうじんをして天下を治めしむれば天禄てんろくながえむ、国家混乱すれば、天災地妖いたる』とあるのは、自然と人生の一體いったいたる事を語ったものである。人間が堕落だらくして奢侈しゃし淫逸いんいつに流れた時は、自然なる母は、その覚醒かくせいうながす為に、諸種の災害をくだたまふのであった。しかも地震はその極罰きょくばつである。
 我国に地震の多いのも、神の寵児ちょうじなるがゆゑである。自然いな天神てんしん地祇ちぎ恩寵おんちょうこうむることの多いだけ、それだけにその恩寵にそむいた時の懲罰は、一層はげしい道理である。し地震が起らなければ、人震じんしんおこりて忿怒ふんどらすに至る。近くは天草あまくさ四郎や由井ゆら民部之介みんぶのすけ、大塩平八郎乃至ないし西郷隆盛の如き、皆この人震に属するものである。


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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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