日本人は何を考えてきたか-出口直と出口王仁三郎

明日(平成25年/西暦2013年1月13日、日曜日)、午前1時05分〜2時35分にかけて、NHK教育テレビ(Eテレ)にて、出口なお・王仁三郎の特集番組が再放送されます。

特集「日本人は何を考えてきたのか」 シリーズ《第9回》
☆大本教 民衆は何を求めたのか ~出口なお・王仁三郎~☆
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0106.html

△番組紹介:幕末から明治維新後、各地でうまれた民衆宗教。なかでも大本教の開祖・出口なおは、近代化のなかで疎外された民衆の声を「お筆先」で表し、「立て替え」「立て直し」と呼ばれる独自の終末観を唱えた。これを引き継いだ出口王仁三郎は皇道主義のもと、大正維新、昭和維新を掲げ、秋山真之ら海軍上層部にも信者を獲得、飛躍的に教団を拡大していった。しかし、特高警察によって2回にわたる弾圧を受ける。大本教は、明治維新後の近代化をどのようにとらえていたのか。なぜ国家から危険視されたのかー。番組では北海道大学准教授の中島岳志さんが亀岡、綾部など大本教ゆかりの地を訪ね、近代日本の民衆思想に分け入り、弾圧事件の真相に迫る。

【出演】中島岳志(北海道大学准教授)、安丸良夫(一橋大学名誉教授)、島薗進(東京大学教授)、三宅民夫アナウンサー

 公共放送という性格上、NHKが特定の宗教の立場にたって番組づくりをするという事は難しい。ゆえに、「大本教 民衆は何を求めたのか ~出口なお・王仁三郎~」においても、極力宗教色を薄めております。直開祖に懸った艮ノ金神(うしとらのこんじん)国常立尊様も、ただ「神」とのみ表現しました。また天照大御神が懸った直と素戔嗚尊が懸った王仁三郎との神々の大喧嘩…火水の戦いも言及しておりません。しかしながら、冒頭にあるとおり、これはNHKの性格上やむを得ない妥協であります。神様の事をさしおいても、実に見応えのある番組であります。
 アナウンサーや教授達の議論は、あまり見る価値がありません。大本教や開祖さん聖師さんの事をかじったことのある方々ならば、「ああ、なるほど、学術的にはそうだよね」程度であります。では、何が見所かといえば、それは何と云っても、『お筆先』の原文でありましょう。少し詳しく説明しますと、出口なお開祖に懸られた国常立尊様は、文盲の直開祖の手を使い、半紙に文字を書かれました。直さんは神様に云われるがままに腕を動かしたのでありますが、その感想は「しょうもないなあ…」であったそうです。(以下原文引用)

出口澄子「尽きぬ思い出 ――開祖さまのことども――」
『(出口なお開祖が)お筆先を書かれるようになったのは、「余り大きな声で、あなた[注:国常立尊様]が叫ばれるので、人から狂気[注:キチガイ]扱いをされて困ります」と、(なお開祖が)神さんに抗議をされたところ、「そんなら書いてくれ」と、神さんがおっしゃるので、紙と筆とを買うて来て、(ワシは字は知らんが、神さんが書くのやから……)と思って、筆を持っていると、ミミズのような字が書けたというのです。(しようがないな、こんなものでは)と思ったそうですが、これが筆先のはじまりでした。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰をかけ、艮の金神守るぞよ」というお筆先やったのです。』

 出口王仁三郎さんは、半紙につづられた「御筆先」の金釘文字を読み尽くし、重複部分や雑多な部分をそぎおとして体系化しました。すなわち『大本神諭』であります。大本神諭がある以上(ついでに、それを解かれた方がある以上)「お筆先」の内容そのものの価値はありません。しかし資料としては実に貴重であります。百年前、直開祖が実際に触れられていた半紙なのであります。大抵の資料や学術書でも、「お筆先」は白黒写真であります。それがカラー映像として見られる。凄い事であります。また2011年に発見された出口なお開祖愛用の糸車・紡ぎ車も衝撃的でした。本邦初公開でありましょう。

 1921年(大正十年)2月12日の第一次大本事件で、終末論を武器に急成長していた大本教は大打撃を受けました。この事件をきっかけに、以前から徐々に王仁三郎と対立するようになっていた浅野和三郎、谷口雅春、友清歓真が王仁三郎の元を離れます。当時の唯一の全国メディアだった新聞は「邪教大本・怪人王仁三郎」と大宣伝しました。のちに王仁三郎聖師は事件を回顧して「あのときは色々あったが、あれも神様の御仕組だったんやなあ。えらい叩かれたが、しかし新聞が大本の名前を全国に宣伝してくれたんやから。ともかくも『大本』と神様の名前だけは全国に行き渡った。お筆先に『新聞を使って宣伝せい』とあったが、はからずもその通りになった」と回想しておられます。2013年(平成二十五年)1月、出口なお開祖・王仁三郎聖師・艮の金神=国常立尊様の名前が再び日本列島全国に行き渡りました。いや、グローバル化の現在、NHKは全世界に配信されております。世界のあらゆる人が、見ようと(身魂が)思えば、開祖・聖師・神様の教えに触れる事が出来たのであります。

△マタイによる福音書第二十四章
 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。そこでイエスは彼らにむかって言われた。
「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう。」
 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った。
「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか?」
 そこでイエスは答えて言われた。
「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」

△ヨハネの黙示録第九章20-21節
 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。

○ヨハネの黙示録第十章-十一章
 わたしは、もうひとりの強い御使(みつかい)が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。彼は、開かれた小さな巻物を手に持っていた。そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろして、獅子がほえるように大声で叫んだ。彼が叫ぶと、七つの雷がおのおのその声を発した。七つの雷が声を発した時、わたしはそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、「七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな」と言うのを聞いた。
 それから、海と地の上に立っているのをわたしが見たあの御使は、天にむけて右手を上げ、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造り、世々限りなく生きておられるかたをさして誓った。「もう時がない。第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕(しもべ)、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。
 すると、前に天から聞えてきた声が、またわたしに語って言った、「さあ行って、海と地との上に立っている御使の手に開かれている巻物を、受け取りなさい」。そこで、わたしはその御使のもとに行って、「その小さな巻物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には密(みつ)のように甘い」。わたしは御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、わたしの口には密のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。その時、「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」と言う声がした。

 それから、わたしは杖のような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。
 彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台(しょくだい)である。
 もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に換え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。
 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。

○上野公園さんの『新・ノアの箱船』「弥勒(666=六が三つのミロク)の神の御紋章」
 もしくは「人に内在する良心神」より薩張りで改める。〇に十字は世を救う神。」を参照

(引用開始)
大本教では、最初に九つ花として九曜紋が掲げられました。
しかし、九曜紋からたった一輪の言霊の経綸を導くなどは出来ません。
次に大本教では神旗を九曜紋から十曜紋に変えました。
そこには、それなりの意味が秘められています。

大本神諭「明治32年旧6月3日」
『艮の金神の筆先で在るぞよ。明治32年の旧6月3日に書いたのであるぞよ。艮の金神が御礼申すぞよ。永らくの経綸いたした事の初発(はじまりであるぞよ。上田喜三郎(出口王仁三郎の本名)殿、大望な御世話がよう出来たぞよ。御礼には御都合の事じやぞよ。九曜の紋を一つ殖やしたのは、神界に都合の在る事じやぞよ。今は言はれぬ。此事成就いたしたら、御礼に結構にいたすぞよ。綾部世の本、金神の大本と致すのじやぞよ。艮の金神はチト経綸が大きなから、この方で世話に成らねば開けんのじやぞよ。』

出口すみ子「要のご用を -新苑主就任に際して」
『開祖さまの御在世中で、聖師様がお出でになってからのことであるが、ある信者さんが神様へ幕と提灯をあげてくれたので早速幕屋と提灯屋へ注文したのであるが、出来上がって来たのを見ると両方とも十曜の紋になっている。九曜の紋に頼んだのが十曜になっている。これは大変だと思って早速使いに行った者を読んで聞いて見ると、確かに両方の店屋へ九曜の紋にと注文したというので、店屋で聞いて見ると「確かに十曜の紋にということなのでこちらとしては九曜なら作りやすいが十曜はなかなか難しいので苦労して作った」ということであった。そこで開祖様は神様にお伺いしたら「わしが作らしたのだ」と仰ったそうで、聖師様がお出でになったその時から十曜の紋になったのである。』

そこで、十曜紋を作図してみましょう。
作図するには、まず正九角形を描かなければなりません。
一角が40度になります。

十曜紋解説


ここで、不思議なことに気付きます。
それは、正九角形の総和は「1260」度です。
一つの三角形の総和は180度ですから、残る二角は140度です。
それが九つありますので、140×9=1260です。

この「1260」の数字で思い出すはずです。

それは聖書のヨハネの黙示録 11:3
そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、
千二百六十日のあいだ預言することを許そう。
聖書ではやたらに「1260」が出て来ます。
でも、意味が解りませんでした。

大本教からは大本教神諭を出した出口なお開祖さんと、
霊界物語を出した出口王仁三郎聖師さんの二人の預言者が出ました。
大本教はイロハ四十七と「ン」で48音
ヨハネ(四八音)の露払い

大本教神諭に九曜紋から十曜紋に変更するにあたっては、
神界の都合としか明示されておりません。
十曜紋も、またその意味が理解されず来ているのです。

大本教の十曜紋は1260度
誰も、ヨハネ(四八音)と1260の演技がされたとは気づかなかったのです。
(引用おわり)

ああ惟神、惟神。御霊幸倍坐世よ


テーマ : 歴史番組
ジャンル : テレビ・ラジオ

伝記 出口なお目録(1)

出口なお開祖。近代日本に突如として出現したシャーマンにして、節分の日に「鬼は外、福は内」と煎り豆をぶつけられた鬼門の金神・国常立尊様を世界に知らしめた稀代の預言者であります。清冽実直、厳格にして慈愛の権化。神様云々をさしおいても、霊止(ヒト)の鑑とすべき女性でありました。出口なお開祖自身は神様の御言葉以外に自分の事を全く語りませんでしたが、末娘の出口すみ、娘婿の出口王仁三郎、孫の出口直日など、多くの者が開祖を慕って追憶の文を残しております。その中から、出口なお開祖の人柄をしのばせるものを幾分なりとも紹介したいと思います。

『現代天田郡人物史 出口直子刀自』
『大本教の活歴史』(壱)(弐)(参)(四)(五)(六)(七)(八)(九)
服部静夫『出口直子伝』(明誠館、大正九年)
出口直日『なずな』
出口直日『思い出の祖母』

現代天田郡人物史 出口直子刀自

「現代天田郡人物史」 (福知山三丹新報社, 1914)
 近代デジタルライブラリーより引用。句読点は当方の独自判断にて追加した。

☆皇道大本 出口直子刀自 天田郡福知山出身

 何鹿郡綾部町字本宮に皇道大本教と称する神道の布教所あり。現在数百の牧師と数万の信徒を有し、非公認ながらも公認教を凌ぐの慨あらしめ名声赫々たる其開祖が、我天田郡福知山町出身の出口直子刀自となす。刀自は天保七年十二月十六日福知山上紺屋町医師中川淳一郎邸が未だ同氏の有に帰せざる以前は、同藩士桐村五郎三郎氏住居し其長女として誕生されしが、年二十歳の時綾部本宮なる出口政五郎大工に嫁し一家睦敷三男五女を挙げたるが、政五郎氏は建築術の達人なれども却々の大酒家にして自分の給料は勿論祖先伝来の田畑まで全部売却して飲み盡し、果ては赤貧洗ふが如き困難の中に病の床に就きたれど刀自の苦心は一方ならず、子供の世話から夫の看病三ヶ年の長月日を一日の如く一手に引受け、毎日小餅売を業として僅かの利益で一家を支へたる貞操は地方婦人の模範なりと謳歌せられたり。政五郎は刀自の手厚き介抱に感涙にむせびつつ、五十二歳と一期として逝去せられたれば、愈一家の大責任は刀自の双肩に掛りたり。されば何事も天命と諦めて健気にも金龍餅を製造し、傍ら小商を営みて星を戴て家を出で月を踏んで家に帰へり、一刻の間も安楽と云ふ事もなくして八人の子供を養育せられたるが、其亦子供に縁薄くして人となるや上へから上へから家出をする、行方不明となる、三女四女二名は相續いで発狂する、其れは其れは實に踏んだり蹴たりにて二十余年間と云ふものは如何に艱難辛苦を積まれたるが聞も涙、語るも涙の種ならざるはなく、到底筆紙の及ぶ處にあらず。
 然るに刀自は泰然自若として此上は何事も神に祈るの外なしと熱心に天神地祇に祈願されしかば、三女久子の発狂は忽ち全快されたるより天恩の有難に感じ、益々信心の念堅固となりて、明治二十五年正月元旦の夜神夢を感合して遂に教を開くに到りたるものにして、年既に七十九歳の高齢なるにも拘わらず意気尚壮昔を凌ぎ、日に夜倦怠の色もなく同教の為に、否国家社会の為めに同教の真味を傳導せられあるが、同教の斎神は刀自霊夢の中に発見したる艮の金神 国常立の尊を始め天神地祇八百萬神にして、刀自は一番末子の澄子(出口すみ)嬢を以て世子と為し、奇縁によりて帰神鎮魂の二法に奥義を極める上田王仁三郎(出口王仁三郎)氏を養子に迎え、母子心を一にして大本教と命名し、且つ修斎會と称して盛に布教せらるるに到りたる為め、遂には刀自を目して発狂者なり気狂なりと云ふ者さへあるに至り。為に刀自は其筋へ拘引せられたるのみか後ちには自宅内に牢屋を造りて之に打込み自由を束縛せられたるなど、實に其當時刀自の心を偲ぶれば慨嘆悲憤の極にして普通の婦人なれば自暴自棄の擧に出ずべき筈なるに、元来男勝りの気性有する其上へに天地自然の神意を解せることとて

 憂き事は 猶ほ此上に積れかし
   徳を積りし元と思へば

との古歌を了得せば莞爾として毫も意に介せず自然に任せられたるに頓て疑も晴れて自由の身となられたり。之れ即ち天が刀自を試めし給ひし関門して、其晴天の身となるや不思議にも遠国より其徳を慕ひ参詣して教を請ふもの引も切らず、恰も旭日の勢ひにして向上し、却て足下の綾部町民よりか京坂地方に於いて好評を博し、僅か数年にて分院支所等百数十ヶ所の多きに達し、各所とも参詣者頗る多く、現に本廱の如き本殿に続くに石宮、金龍殿等の新築を見、目下丹波雄島雌島の擬嶋工事中にして数町歩に渉る大池沼を開拓し、其池中幾ヶ所となく浮島を造り宮殿を建築する者にて、尚開祖殿、清霊殿等を其周囲に新築するものなるが、工費十万圓を越へ實に綾部町の奇観として将来を重視さる同教。今日の勢を以て発展せんか、数年を出でずして綾部町の体面を一新し、一大福音を興ふべし。吾人は同教必ず十ヶ年以内に於て一大宗教を形造り、参詣者の便を図る為には鉄道院亦本宮駅を特設するに至るを期待す。尚同教は中學校、風俗劇場等をも新築すべく目下設計中なるが、一婦人直子刀自の力にて僅か二十年内外の布教に於いて今日の隆盛をみる。其神徳の然らしむる處とは云へ實に恐入りたる次第にて本郡出身者中第一位の成功者たり。終に臨み、吾人は刀自が幾久しく健在にて益々其基礎を拡大せられんことを希ふものなり。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

出口王仁三郎目録(1)

素戔嗚尊の分霊(わけみたま)か、阿弥陀如来の化身か、はたまたミロク大神の顕現か。神界のベールに包まれた出口王仁三郎といふ「三千世界の大化物」の前半生…とくに出口なお開祖に逢われるまでの伝記を集めました。伝記といっても、凡て王仁三郎聖師さん御本人の筆であります。

『不幸の半生』
『僕の人生』
『生いたちの記』 (壱)(弐)(参)
『若き日の思い出』
『実説 本心-高熊山』 (壱)(弐)
『初陣』
『開教四十周年』



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不幸の半生

☆『不幸の半生』
<「神霊界」大正七年五月一日号に”大江山人”の名前で発表された。(一)となっているが続編はなし。>

 茅屋(あばらや)は破るるに任せ、擔廂(ひさし)は傾くに委(まか)し、壁は壊れて骨露れ、床は朽ちて落ちかかる悲惨の生活に甘んずるの止むを得ざるの小農あり、上田某の家庭是なり。長子奇三郎(のちの出口王仁三郎)は、明治四年(旧)七月十二日を以て呱々の声を此の伏屋に挙げたのである。土地の人情は酷薄無情にして、利己と蓄財に余念なき里人は、上田某の貧家を睹ること、恰も塵埃捨場のその如である。
 奇三郎が十歳の星を重ねたるの中秋、桐葉風に弄ばれて裸体の惨状を呈する頃、村内の大地主某に学校の帰途邂逅したのである。尊大にして傲慢不遜なる某は、何の容赦も無く、突然奇三郎を蹴上にしたのである。奇三郎は一種特別の徒(いたず)ら小僧であった。下校の途次、山吹色の汚きもの路傍に湯気を立たせつつありけるを見て、面白半分に竹片を拾い乍ら、其の先に附着せしめて、女生徒の驚き迯(に)ぐるを追い捲りつつ、乱暴をやって居た。大地主某の娘も其の中に加わつて、頻りに泣き叫びつつあった。某は之を見て立腹の念むらむらと起こつたので、某は矢庭に奇三郎を蹴り倒したのである。
 カも無ければ地位も無き貧家の奇三郎は、俄に態度を改めつつ怒りを強いておさえ乍ら、恭しく謝罪を述べたのである。高が十歳の腕白小僧、余り大人の相手にすべきもので無い筈だのに、剛腹頑陋にして常に世人を見下し、横暴跋扈到らざるなき某は、小僧に対して微塵の容赦なく、更に大喝して曰く、「汝は吉松の小伜だな。よしよし此方にも考慮がある、確固(しっかり)と聞けよ」と、左も憎らし気に頭上より怒鳴り付けたのである。小僧は地獄で鬼の金棒を見せ付けられた様に、戦慄して居るにも拘らず、某は「汝小僧小僧の分として頭が高い」と、乱暴にも拳を固めて前頭部を二、三撃、小僧は痛さ無念さを忍んで俯伏したまま熱涙に咽んで居る。
 某は更に口汚く、「貴様の父は宮角力取り斗りさらしよって、肝心の百姓はそこ退けにしてけつかるから、此方が貸与(かし)てある大切な田園が荒れる斗りだ。小作人にあるまじき挙動だ。百姓に勉強せぬから何時迄も鉄槌(かなづち)の川流れで、どたまが上がらぬのだ。貴様の処は一体毎日何を食って生活(くら)して居るのだい」と、家内の生活状態までも途上に糺問する傍若無人のその挙動、傍らを通行する里人は何れも素知らぬ顔に見捨ててぞ行く。小僧は詮方涙なくなくも、「はい、麦飯を食べて……」。「何、貴様の家では麦飯はちと分に過ぎる、贅沢だ、干菜でも混ぜて薄い粥でもすすれ、それが家に相当して居る。又貴様とこの父も宮角力なんぞ止めないと、小作の田地も悉採り上げて仕まうぞ、早く宅へ帰って己がそう言ったと、父(とと)や母(かか)に確りと告げて置けよ」と、怒鳴り立てる其の有り様はえんまの如き面構え。
 奇三郎は怖る怖る答うる様、「私に不足は言わないで、父(おや)に直接意見して下さい」と、言わせも果てず某は、「いや貴様の父は頑固一天張りの馬鹿者だ。己がいうよりも伜の貴様が言うことは却って聞くであろう。家を大事と思うなら、篤(とく)と両親に諫言せよ。また宮角力を取ることは一切相成らぬぞよ」と、言葉も荒らかに、奇三郎を尻目にかけ、睨み散らして帰って行くのであった。喜三郎は初めて強食弱肉の社会の無情を味わうて、小供心に泣かされたのであつた。此の時深く刻まれた無念の印象は、今に猶歴然と心裏に往来しつつあるのである。

 鳴呼社会は何ぞ不公平なる。貧家に生まる者何の罪科かある。富家に生まれし者果たして何の徳かある。父母は兀々(こつこつ)営々して日夜稼業に励むと雖も、一家七人の生活費に窮すれぱ、血も無く涙もなき里人の軽侮嘲笑する所となりぬ。恰も貧富の懸隔は主従の関係を来たすが如き観あり。鳴呼父の家貧困なりとて、必ずしも卑賤ならざる可し。彼等富者なりとて必ずしも尊貴ならざるべし。暴戻惨虐、姦侫邪智の輩往々にして富貴の門より出で、忠臣孝子・義僕貞婦、却って貧者の破戸より出ずるあり。
 何ぞ貧者の児たるを恥んや。

(「神霊界」大正七年五月一日号)


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僕の人生

☆『僕の人生』

鄙に生まれた小作のせがれ
朝から晩までこつこつと
山に鎌もち野に鍬いぢる
わしの人生はこんなものか

夏は野に出て田の草むしり
秋は黄金の稲を刈る
木の葉散りしく冬さり来れば
鎌と鋸手にたづさへて
野山にしばかる百姓の忰

桃や桜にこがるる春を
わしは水呑百姓の忰
山に木をこり野に畠かじき
長い春日はくれてゆく

父は醤油売り母上一人
麦の畑をたがやし給ふ
自分は野山に春草刈りて
稲田のこやしといそしめり
桜は薫る桃匂ふ
花の楽しさ吾れ知らず

霜の朝も雪降る宵も
まづしき生活(くらし)の苦しさ故に
父は荷車京都通ひ
自分は人の家に雇われて
冬の田の面に肥をやる

年に一度は妙見愛宕
三里の山坂かり歩き
汗して帰るたそがれの
家路の楽しさなつかしさ
からい鰯に麦の飯

麦と米とのたきまぜ飯も
ろくに食べない百姓の忰
足袋は目をむき衣は破れ
寒さ身にしむ片田舎
わしの人生はこんなものか

愛宕の尾嶺に白雲かかり
次第々々にひろがりて
み空は暗く雨は降る
農家のせわしき田植時
夜から夜へと働いて
聞くも楽しい時鳥(ほととぎす)

冬の夜霜ふるへてなくか
声も悲しい寒狐
こんこんこんとせきが出る
人の情けの薄衣
如何にしのがんこのうきよ

花は匂へど秋月照れど
遊ぶに由なき小作の忰
若い時から面やつれ
栄養不良の悲しさに
からだいためし秋の空
冷たいうきよの風が吹く
これでも私の人生か

僕の人生は何処にある
小作の家の忰ぞと
地主富者にさげしまれ
父の名までも呼び捨てに
されてもかへす言葉なし
待て待てしばし待てしばし
僕にも一つの魂(たま)がある

父よ恋しと墓山見れば
山は狭霧に包まれて
墓標の松も雲がくれ
晴るるひまなき袖の雨

西は半国東は愛宕
南妙見北帝釈の
山の屏風を曳き廻し
中の穴太野で牛を飼ふ

《回顧歌集二十、昭和六年二月十日於明光殿》


☆『堪忍の中毒』(「神の国」大正14年正月/「月鏡」昭和4年4月)

「堪忍のなる堪忍は誰もする、成らぬ堪忍するが堪忍」と忍の徳を賞讃したものであった。
 自分も幼時はよく、両親達から言ひ聞かされたものである。併し堪忍と云ふのは、仏教でいふ持戒忍辱(じかいにんにく)の意味をはき違へたものであらう。厭でも我慢すると云ふのでは、本当の戒を保ったものでは無い。その内心に苦と云ふものがあっては、得度は出来ぬと同時に、心的衛生には叶はない。お腹が空いても飢(ひも)じゅう無いと我慢する、妻君が姦通しても我慢する、飢死にしても我慢する、堪忍するが堪忍だといって、年中苦しい腹を抱へて、蒼い顔をして居ると、腹の中に不平の塊が出来る訳だ。陶宮(とうきゅう)の道歌に「堪忍の和合はほんの上直し、真の和合は打ち明かす腹」と云ふのがある。
 昔から堪忍といふ事を道徳修養の一つと、世間では思って居るが、是は余り感心した修養法ではない。特に古来用ゐられた堪忍なる語は、強者の弱者に対する教であって、弱者の不満不平に対し常に此筆法を以て、事勿(ことなか)れ主義をとらしめて来たものだ。強者は一向に堪忍する所無く、弱者のみ堪忍しろと教へて来たのであった。人間を卑屈に陥らしめ、無気力ならしめたのもこの堪忍の二字の中毒であった。従来のいわゆる道徳なるものには、此種のものが甚だ多いのである。
 金光教祖が、頭上から小便をひりかけられて、温かいお湿りさまが降ったと云ったと称して、その教師等は非常に教祖の堪忍力を崇敬してゐるが、是は大変な誤りで、忍耐と卑屈とを混同した、弱者の道徳である。バイブルに「人若し汝の左の頬を打たば右の頬も亦突き出して之を打たしめよ」と示して居るのも今日より見れば、否自分の目から見れば、大変なる間違ひで、無気力を凡ての人間に教へたものと思ふのである。自分は飽くまでも斯の如き、堪忍説を採らず、力のあらん限り、抵抗を続けて来た。そして祖神の任(よ)さし玉へる神業にはつはつながら奉仕しつつ来たのである。


☆『三猿主義は人道に反する』(「神の国」大正14年11月)

 見ざる、聞かざる、言はざる、と云ふモットーがある。面倒臭い浮世に処しては、この三猿主義に隠くれるのが、一番上分別のやうにも思はれるが、これは徳川氏が、人民を制御した消極政策である。有為なる人間に対する去勢政策である。この去勢政策によって三百年の平和を維持しやうと努めた陋劣な手段である。神様のお道はこれに反して、積極主義、進展主義である。人民を盲人(めくら)や、唖者(おし)や聾者(つんぼ)にしておいて、わがまま勝手の事をしようとは、随分虫のよい話ではないか。



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生いたちの記(壱)

☆『生いたちの記』
<「神霊界」大正十年二月号に“故郷及弐拾八年”(瑞月)の題名で発表された。大正九年十二月二十六日に”執筆の理由”から開始。大正十年二月の第一次大本事件で中断され、再開されなかった。>


○執筆の理由  大正九年十二月二十六日
 大神様の御神諭に、「第一に変性男子の御魂が現われて、次に変性女子の身魂が現われ、次に禁闕要の大神が現われるぞよ。男子と女子との御魂が天晴れ世界に現われん事には、三千年余りての神の経綸が成就いたさんから、早く之を新聞で世界へ知らして呉れよ」と、書き示されてある。王仁は、弥々神示を実行する時機の到来せしものと思うたから、本月の「神霊界」から、変性女子の因縁を赤裸々に表示する事に為たのである。王仁の別名を、神様から「瑞月」と附けて下さったので、有り難く御請けして、今月より「瑞月」と云う号で執筆する事に為たのである。

○序
 神理の蘊奥(うんのう)を極め、至善・至美・至真の皇道を宣揚し、天下万民をして神皇の徳沢に浴せしめんが為に、千辛万苦して、皇道大本を天下に拡充するに到った事は、決して人間の努力のみで無い。又如何に智識が万人に卓絶して居っても、如何に忍耐力が強くても、如何に勇気が有っても、今日の治教皇道大本の勢力を造る事は、到底出来るもので無いのだ。昔から聖人・君子・志士・仁人の出でて、治国安民の為に心血を搾り、心志を労し、以て人生を指導輔益したる神人は沢山に在った様だ。然れど其の人の生前に於て、皇道大本の如く天下の問題となり、天下に不可抜の大勢力を発揮し得たるは少ないのだ。是全く時の力の然らしむる所である。
 王仁(わたし)は以下順を追うて、二十八歳、初めて道を宣伝するに立ち到った一切の経路を、極めて簡単に、真面目に、一点の構造も無く、装飾も無く、誇張も無く、波瀾縦横の故郷生活を赤裸々に筆にして見たいと思うのだ。併し元来の浅学不文の悲しさは、事実の万分一をも描写することの出来ないのを遺憾とする次第である。古人日う。「書は言を尽くす能わず。言は意を尽くす能わず」と。况んや、五十年以前の記憶から曳き出すに於ておやだ。けれども、嬉しい事と悲しい事とは、一生忘れられぬもの也と云う事がある。実に至言である。王仁も其の嬉しかった事と、悲しかった事実だけは、今猶歴然として記憶に存して居る。否(いな)存す而巳(のみ)ならず、極めて悲しかりし事の在った為に、自己の神魂が発動して、総に天下の治教皇道大本を開設するの動機を造らしめられたと謂っても良いのだ。

○誕生の地
 王仁は祖先が源平で在ろうと、藤橘であろうと、将又その源を何の天皇に発して居ようと、詮議する必要は無い。只王仁は日本人であって、畏くも、天照大御神様の御血統の御本流たる天津日嗣天皇様の臣民である事だけは、動かぬ事実だ。
 そして王仁の生家は上田家である。丁髷(ちょんまげ)の爺さんの話によると、昔から上田・松本・斎藤・小嶋・丸山の五つの苗字を有って居る家柄を、「御苗(ごみょう)」と謂って、顔が良い家柄だと謂って、蛙切りの土百姓の癖に、村内の多五作や、杢平等が威張ったものだ。縁組一つするにも、御苗が何うの、帯刀御免のと八釜敷く、御苗以外の家柄を「平(ひら)」と蔑視したものだと聞いた。上田家は御苗の所謂家柄であって、貧乏して居っても、夫れだけは世間並に自慢したものであった。丹波国南桑田郡曾我部村大字穴太の宮垣内と云う所に、茅屋は破るるに任せ、檐廂は傾くに委し、壁は壊れて骨露れ、床は朽ちて落ちんとする悲惨なる生活に甘んじ、正直男と名を取った水呑み百姓の上田吉松と日うのが、王仁の父である。

○父の誕生地
 父は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである。男兄弟が九人で女の姉妹が四人、都合十三人の同胞が有った。系図を見ると、宇多天皇の後裔と云う事である。代々紺屋を営み相当の資産も有ったが、元来の好々爺であつた為、人の為に非常な損害を受け家産は次第に衰えた。併し村内では、中流階級の部に属して居たのである。外の兄弟は、各自相当の家に養子に往ったり嫁し付いて居るが、父に限って、他家へ丁稚奉公に、幼少からやられて了うた。その理由は、余り肝癪が強くて腹が立つと、親でも擲(なぐ)り付けると云う乱暴であったので、懲らしめの為に、父母が相談の上八木町の醤油屋に丁稚に出したのである。八木の「醤油角」と云う主人からは、正直もの、律義ものとして、大変に寵愛されて居た。
 十年の年期を首尾能く勤めて二十三歳の年に、初めて穴太の富豪たりし、斎藤庄兵衛氏の雇人と成って住み込み、親方児方の関係が出来た。二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で、上田家の養子と成り、「吉松」の襲名を為たのである。父の元の名は佐野梅吉と云うた。梅吉が吉松を襲名したのも面白い。神諭に「梅で開ひて松で治める」とあるが、王仁の父が丁度この御神諭の通りに成って居る。茲に序を以て一つ書き加えたい事がある。それはかの有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である。翁は十三歳にして達磨を描いたが、其の妙筆は神に迫って居る。今も佐野家に保存されてある。

○上田の家庭
 王仁(わたし)の祖父は吉松と云い祖母は宇能子(うのこ)と云い、祖父は五十九歳で帰幽し、祖母は八十八歳の高齢を保ちて帰幽した。父は梅吉、母は世根子と云う。結婚の翌明治四年(旧)七月十二日を以て一子を挙げた。是が目下綾部大本の教主輔・出口王仁三郎である。幼名は上田喜三郎と日う。王仁三郎と名乗ったのは参綾後に神界より賜わった名であつて、明治四十三年に戸籍上の出口王仁三郎と成ったのである。
 王仁には八人の弟妹があって、次を由松・三男が幸吉・四男が政一・五男を久太郎と日う。久太郎は出生後数十日にして帰幽した。長妹を絹子と云った。是も四歳にして帰幽した。次妹を雪子・末の妹を君子と日う。残った六人の兄弟は無病健全に、神務に従事して居る。只次弟の由松のみ穴太の片田舎にて、家督相続を為し、農業に従事して居るのである。

○穴太の名義
 王仁の郷里なる現今の穴太(あなお)に就いて、其の名義の起元を記して置こう。大昔は丹波国曾我部の郷と云ったのが後に穴穂(あなほ)と成り、穴生(あなふ)となり、穴尾(あなお)となり、次に現今の穴太と改められたのである。宮成長者の創立した西国二十一番の札所は、即ち穴太に遺って居って、今猶信仰者は京阪を初め全国に在る。三荘大夫(さんしょうだゆう)に虐使された槌世丸(つつよまる)・安寿姫(あんじゅひめ)の守本尊たる一寸八分の黄金仏像は当寺に祭られ、本尊は三尺三寸の丈で、雲慶の作である。菩提山穴太寺は即ちこの名刹で、院主の姓を代々穴穂と名乗って居る。
 今は故人と成った斎藤作兵衛翁の談に依りて、穴太の名義は明瞭に分明した。翁は世々里庄の家に生まれ、翁も亦里庄として村治に尽くした徳望家である。
 翁の談に由ると、上田家の遠祖は、天照大御神天の岩戸に隠れ玉いし時、岩戸の前に善言美詞の太祝詞を奏上し、大神の御心を和め奉りし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。降って、大織冠鎌足公(藤原/中臣鎌足)の末裔である。有為転変の世の常として、浮世の荒風に吹き捲られ、文明年間、大和国より一家を率いて、大神に因縁深き丹波国曾我部の郷へ落ちて来たのである。
 上田家は藤原と姓を唱えて居ったが、今より八代前の祖先・藤原政右衛門の代に成って、上田と改姓したのである。
 雄略天皇の勅命に依って、豊受姫大神(豊受大神)を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より、神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜う神幸(みゆき)の途次、曾我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿(しんよ)御駐輦(ごちゅうれん)あらせられたのである。
 祖先が天児屋根命と云う縁故を以て、特に其の邸内に御旅所を定められた。一族郎党は恐懼して、丁重なる祭典を挙行し奉る際、神霊へ供進の荒稲の種子が、太く老いたる槻(けやき)の樹の腐り穴へ散り落ちた。それが不思議にも、其の腐り穴から稲の苗が発生し、日夜に生育して、終に穂を出し、美わしき瑞穂を結んだ。里庄以て神の大御心と仰ぎ奉り、一大祈願を為し、神の許しを得て、所在の良田に蒔き付け、千本と日う名を附して、四方に植え拡め、是より終に穴穂の里と謂うたのである。
 当時の祖先は家門の光栄として、此の祥瑞を末世に伝えんが為に、私財を投げ出して、朱欄青瓦の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神・豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し、親しく奉仕したのである。
 其の聖跡は、現在上田家の屋敷なる、宮垣内である。宮垣内の名称は神明社建造の時より起こったのである。同社は文禄年間、川原条に移遷され、今猶老樹鬱蒼として昔の面影を止め玉うのである。
 王仁が今日、治教皇道大本の教主輔として、神君の為に一身を捧ぐるに臻(いたった)のも、全く祖先が尊祖敬神の余徳に因る事と、深く深く感謝する次第である。

○綾部の聖地
 比沼真奈井神社(比沼麻奈為神社/ひぬまないじんじゃ)(※1)の所在地は、太古は綾部の本宮山であった(※2)。そして天真奈井川原と云うのは、現今の和知川原の事である。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡久次村の真奈為が嶽の麓に、神社の旧蹟を移遷したと云う伝説が古来行なわれて居ったのである。そうすると、綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座の途中、曾我部の郷に、一時、御旅所として御駐輦になったのである。
 太古、同社の神職は綾部の出口家が奉仕して居ったと日う事であるが、後世に到って、山田の外宮(伊勢神宮外宮:祀神は豊受大神)に奉仕せる社家に出口姓が伝わって居る。かの有名なる神道家・出口延佳(のぶよし)は、外宮の社家中で最も電要なる家格の人であったのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明礼を創建して奉仕せし藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来たりて、出口家の相続者と成ったのも不可思議な神縁で在ると思う。
 神明社が宮垣内から川原条へ遷座されてから、後神明社(こうしんめいしゃ)と改称されたが、何時の間にやら、後神社(ごうしんしゃ)と里人が唱え出し、今では郷神社(ごうしんしゃ)と日うように成って、穴太の産土なる延喜式内・小幡神社の附属となり、無格社に列せられ玉うに到ったのである。


(※1)
○比沼麻奈為神社。京丹後市峰山町に鎮座する。伊勢神宮下宮の御祭神:豊受大神は、この神社から伊勢へ分霊されたとされ、『元伊勢』と呼ばれる。なお「元伊勢」は籠神社や皇大神宮など、丹波福知山綾部地方を中心に複数個所存在する。

(※2)
○「本宮山は平重盛の居城」 水鏡(昭2/1)
 丸山(本宮山)は平重盛の居城であった。本宮、新宮、熊野神社、那智の滝等皆紀州の地名と同じである。また舞鶴はもと“田辺”と云ふて居たのであるが、それも同じである。以仁王は重盛を頼って綾部の地に来られて、遂に薨去されたのである。本宮山の中腹にある治總神社は私が重盛の霊を祭ったものである。

○「歴史談片」 月鏡(昭4/2)
 本宮山はもと「本居山」と書きホンゴ山と称へられて居た。そして豊受大神様を御祭り申上てあったのであるが、それが後世、比沼の真奈井にお移りになったのである。


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生いたちの記(弐)

○祖父の遺言
{1871年 明治4年 1歳 12月 祖父上田吉松帰幽}

 祖父の吉松は、明治四年の冬十二月二十七日に帰幽した。王仁が誕生後六か月目である。祖父吉松は数年前より微恙(びよう)を覚え、日夜ぶらぶらとして日を暮らして居ったそうである。弥々病革まり、到底快復の見込み立たずと自覚し、王仁の両親を枕頭に招いて遺言した。
「上田家は古来七代目には必ず偉人が現われて、天下に名を顕わしたものである。彼の有名な画伯円山応挙(本名は上田主水/もんど)は、我より五代前の祖先・上田治郎左衛門が篠山藩士の女を娶って妻となし、其の間に生まれたものである。然るに今度の孫は丁度七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕わすものに成るであろう。先日も亀山の易者を招んで孫の人相を観て貰ったら、此の児は余り学問をさせると、親の屋敷に居らぬ如に成る。併し善悪に由らず、何れにしても異った児であるから、充分気を附けて育てよとの事であつた。私の命は最早終末である。然し乍ら私は死んでも、霊魂は生きて孫の生い先を守って与る。併し此の児は成長して名を顕わしても、余り我が家の力には成らぬとの易者の占いであるけれ共、天下に美い名を挙げて呉れれば、祖先の第一名誉であり、又天下の為であるから、大事に養育せよ。是が私の死後までの希望である」と、言終わると共に眠るが如く帰幽したと云う事である。王仁は生後僅かに六か月、祖父の顔も知らねば、其の時の現状も知らない。只祖母や両親の口から伝えられたのを記すのみである。

○円山応挙
 円山応挙は本名を上田主水と称したのである。京都の円山の辺に住んで妙筆を揮って居たので、画名を円山応挙と名告ったのである。然るに同じ穴太に丸山と日う姓が在るので、応挙は丸山家から出たものと世人は誤解して居るのである。現に穴太生まれの丸山某は京都の町に居をトし、いつの間にやら「丸まる」を「円まる」に変更し、円山応挙六世の孫なぞと日って居るので在る。厚顔無恥も、茲に至って極まれりと謂うべしだ。
 丸山某と云う人は、明治の初年に、伏見鳥羽の戦争に長州の武士から人夫として雇われ、敗戦の結果多数の死者が出来た。その際に某氏は死骸の中に潜り込み、死者の懐中物を一々探って、莫大なる金銀を集め、其れを資本として郷里に数町歩の田畑を購求し、傍ら三百代言をして、随分人に憎まれつつ持丸長者に成った所から、名誉慾に唆られて、終に円山応挙の末裔と偽称するに到ったのである。某は金の力で京都に出で、三百(代言)も余り面白からぬ如に成ったので、或方法に依って印紙屋を営み、数十万円の資産を造り上げ、府会議員まで鰻上りに上った容易ならぬ敏腕家である。そこで郷里の穴太に「円山応挙生誕地」と云う立派な碑を樹てて、裏面には「府会議員円山某」と刻して房る様な虚栄家である。

{1883年 明治16年 13歳}

 慥(たし)かに明治十六年(1883年)、王仁が十三歳の時であった。丸山某氏が訪ねて来て、「爰の家には上田主水さんの画の書き降しが沢山に在ると聞いたが、一度拝見したい」と申し込んで来た。そこで王仁の両親は心好く古長持の中に納めてあった数百枚の画の書き損じを出して見せた。某は非常に驚歎して帰った。四、五日を経て某は再び訪ねて来て日うには「お前さん処に斯んな反古を何時迄も大事に保存して置いた所で、何の役にも立たぬから、私は五円に買うて進げよう。五円あれば米が一石も買える。正月にも沢山な餅を搗いて小供を喜ばして与っては何うだ」と謂って、頻りに「売れ売れ」と迫るのである。肝癪持ちの父の吉松は、丸山某の言い草が気に喰わぬと大変に怒り出し、「お前さんに買って貰う位なら爰で灰にして了う」と謂って、其の中から数十枚持ち出して某の眼の前で焼き捨てて了ったので、某は詮方なく無礼を詫びて帰って往った。
 それからは種々と手を替え、人を頼んで売却の儀を申し込んで来たが、頑固一遍の父は、最初の某の言い草が気に喰わぬからと主張して、断乎として要求に応じ無かったのである。そうすると、今度は王仁を養子に貰いたい、大学へ入れて立派な人間に仕上げて与るからと、幾度と無く出て来て余り五月蠅くて堪らず、肝癩親父が到頭大喧嘩を追初めて絶交して了うた。持丸長者の某が、破れ家の水杏み百姓の小伜を養子に呉れと申し込んで来るのは普通では無い。何か、三百代言だから深い魂胆が伏在するに相違は無いと謂って、父が立腹して居たのが、歴然として王仁の記憶に今猶残って居るのである。

{1901年 明治34年 31歳 4月 穴太の上田家全焼、家族が綾部に来る}

 然るに不幸にも上田の倭屋(わいおく)は、明治三十三年(1901年)の(旧)二月七日に祝融子(しゅくゆうし:火事)の見舞うところと成り、家財家具は言うに及ばず、円山応挙に関する書類も絵画も悉皆(しっかい)烏有(うゆう)に帰したのである。さあそうすると例の丸山某は得たり賢しとして、自分が応挙の六世の孫なりと宣言し、終に応挙生誕地の石碑までも建立する様になったのである。然るに丸山某は代々西穴太に屋敷が在って、今は上田和市氏の邸宅に成って居り、生誕地と書いてある記念碑の建設地は、明治十二、三年頃に、穴太寺の桑園地で在ったのを購入して、新たに居宅を造り住んだので在るから、生誕地で無い事は明白な事実である。

○改姓の理由
{1886年 明治19年 16歳 春 久兵衛池事件}

 百姓に成ってから、藤原姓を名告(なの)って居ると、万一誤って藤蔓でも切ろうものなら家が断絶するとの巫祝(みこ)の妖言を妄信して、上田と改姓した。上田と名告った理由は、其の時の藤原家には五町歩の二毛作の上田を所有して居ったので、取り敢えず姓を上田に変更したと云う事を、祖母や古老の口から聞いた事がある。然るに五年か十年位に一度は大旱魃が巡って来て、稲穀の稔らないと云う困難を免るる為に、屋敷の西南隅に灌漑用の池を掘った。是は上田久兵衛の代に掘ったので、里人は久兵衛池と称えて居ったのである。此の久兵衛池に就いて王仁の一身上に関する経緯があるが、それは後節に述べる事にする。
 穴太には上田姓が三組在って、之を北上田・南上田・平上田と称して居る。王仁は北上田の家の出である。詳細なる系譜があったのを、曾祖父の代に極道息子が在って他家へ質に入れ、転々して吉川村の晒し屋と云う家に伝わったのを、王仁が種々として手に入れる事に成ったが、不幸にも又、前に述べた明治三十三年の火災で失くして了ったのは、返す返すも遺憾至極である。系図の示す所に由れば、文明年間には西山の山麓、高尾と云う所に大きな高い殿閣を建てて、其処に百余年間、高屋長者と呼ばれて住居して居たと云う事である。其の後、愛宕山の麓の小丘に城廓を構え大名の列に加わって居った所が、明智光秀の為に没収の厄に逢うたのである。其所は産土の小幡神社の境内に接続して居って、殿山と日う地名に成って居るが、今に城址が歴然として地形に遺って居るのである。

○祖父の性行
 祖父の吉松は至って正直で、清潔好きであった。今にも祖父の逸話は、古老の口から沢山に漏れる事である。然るに祖父には只一つの難病があつて、五十九歳で身を終わるまで止まなかったのである。その難病と云うのは賭博を好み、二六時中、賽(さい)を懐から放した事が無いのである。そして酒も呑まず莨も吸わず、百姓の隙には丁半々々と戦わして勝負を決するのが、三度の飯よりも好きであつた。それが為に祖先伝来の上田も山林も残らず売り払い、只壱百五十三坪の屋敷と破れ家と、三十三坪の買い手の無い蔭の悪田が一つ残った丈であった。斯様な家庭へ養子に来た父の吉松こそ、実に気の毒である。祖父は死ぬ時も賽を放さず、死んだら賽と一所に葬って呉れと言ったそうである。
 その時の辞世に、「打ちつ、打たれつ、一代勝負、可愛賽(妻)子に斯の世で別れ、賽の川原で賽拾う、ノンノコサイサイ、ノンノコサイサイ」。
 女房が米が無くて困って居ようが、醤油代が足るまいが、債鬼が攻め寄せて来ようが、平気の平左衛門で、朝から晩まで相手さえあれば賽を転がし、丁々半々と日の暮るるのも夜の明けるのも知らず、行燈と二人に成るまで行って行って行りさがし、臨終の際に成っても、博奕の事を云って屑った気楽な爺さんだったと、何時も一つ話に祖母が話された事がある。
 五月の田植え時と秋の収穫期を除くの外は、雨が降ろうが風が吹こうが、毎日毎夜、相手を探して賽斗り転がし、朝に田地が一反飛び、タに山林が移転して了うと云う状態であるから、柔順な祖母が恐る恐る諌言すると、祖父の言い草が振るって居る。
「お宇能よ、余り心配するな、気楽に思うて居れ、天道様は空飛ぶ鳥でさえ養うて御座る。鳥や獣類は別に翌日の貯蓄も為て居らぬが、別に餓死した奴は無い。人間も其の通り餓えて死んだものは千人の中に只の一人か二人位のものじゃ。千人の中で、九百九十九人までは食い過ぎて死ぬのじゃ。それで三日や五日食わいでも滅多に死にゃせぬ。私もお前の悔むのを聞く度に胸がひやひやする。けれども是も因縁じゃと断念て黙って見て居って呉れ。止める時節が来たら止める様に成る。私は先祖代々の深い罪障を取り払いに生まれて来たのだ。一旦上田家は家も屋敷も無く成って了わねば良い芽は吹かぬぞよと、いつも産土の神が枕頭に立って仰せられる。一日博奕を止めると、直ぐその晩に産土さまが現われて、何故神の申す事を聞かぬかと、大変な御立腹でお攻めに成る。是は私の冗談じゃない、真実真味の話だ。そう為なんだら上田家の血統は断絶する相じゃ。私も小供では無し、物の道理を知らぬ筈は無い、止むを得ず上田の財産を潰す為に生まれて来て居るのじゃ。大木は一旦幹から切らねば若い良い芽は生えぬ。その代わりに孫の代に成ったら世界の幸福ものに成るそうじゃ。是は私が無理を言うと思うて呉れるな。尊い産土様の御言葉である」と云って、産土の森の方に向かって拍手する。斯う云う次第で在るから祖母も断念して、其の後は一言も意見らしい事は為なんだと言って居られたのである。

 大本の御神諭に、「三千世界の一旦は立替であるから、先祖からの深い罪障を除去て遣りて、何一つ埃の無い様に掃除を致して、一代で除れぬ罪を神が取りて遣りて、生れ赤児に致して、神が末代名の残る結構な御用に使ふて、世界の宝と致すぞよ」と、御示しに成ってあるのを見ると、そこに深甚微妙の神理が包含されてある事を今更ながら感激して止まぬ次第である。「神の致す真の経綸は、人民では分らぬぞよ。何事も神に任すが良いぞよ」との御神示は、祖父と祖母とによって大部分実行された。その酬いで、王仁が至貴至尊なる大神の御用に召さるるように成つたのだと云う事を、忝なく思うのである。
 祖父一代の逸話は猶沢山に遺って居るが、是は王仁が奉道の経路に就いて余り関係の無い事であるから、省略しておく。

○祖父の再生
 鳥の将(まさ)に死なんとするや、其の声悲し。人の将に死なんとする、其の言や良しとかや。家内のものを貧乏に苦しめて置き乍ら、死ぬ三日前には賽の歌まで作って、博奕趣味を徹底的に死後にまで続行しようとした祖父も、最期の日に成ってから、和魂・幸魂の発動に依って、死後家内の心得や孫の身を守護する事まで遺言したのであった。其の二魂の至誠が凝結して、王仁が六歳の年まで幽体を顕わし、山へ行くも川へ行くも隣家へ遊びに行くにも、腰の曲った小さい爺さんが附随して居ったのを、王仁は七歳に成る迄、我が家には祖父さんも祖母さんもあるのだと確信して居ったのである。それが俄に見え無く成ったから、「物言わぬ祖父さんは何処へ往ったか」と祖母に問うて見ると、祖母は驚いて「それは祖父さんの幽霊だ、祖父さんは坊の一歳の冬に死なれた」と聞かされて、俄に恐く成り、臆病風に襲われて、暫時は一人で隣家へ遊びにも得行かぬ様に成った事がある。王仁が六歳の時、過って烈火の中に転げ込んだ事がある。其の時にも祖父さんが何処からとも知らず走って来て、火中から曳き出し助けて呉れた(※1)。王仁の左腕に大火傷の痕が遺って居るのは、其の時の火傷の名残りである。
 祖父は至って潔癖であって、野良へ出て畑を耕すにも、草切れ一本生やさぬ如にした人である。偶々一株の雑草が在ると、それを其の場で抜いて土中に埋めて了えば良いものを、態々(わざわざ)口に喰わえて、東から西まで一畔を耕し終わるまで放さず、畔の終点まで行った所で、之を畑の外の野路へ捨てるのが癖であった。祖父さんが死ぬ三日前に祖母に向かって云うには、「私も今死ぬのは厭わぬが、一つ残る事がある。是を遂行せなくては、産土様に死んでから申し解けが無い。」と云って泣き出す。そこで、祖母が「それは如何なる事が残るのですか。」と尋ねると、驚くべし、「未だ屋敷と倭屋と小町田が残って居る。是を全部博奕を打って無く為て了わねば、私の使命を果たす事が出来ぬ。」と日うのである。
 家内を一生貧乏に苦しめ、其の上永らくの看病をさせて置き乍ら、猶飽き足らいで、家屋敷を売る所まで負けない内に死ぬのが残念なとは、何たる無情の言ぞと呆れて、少時(しばし)は祖父の病顔を熟視し涙を流して居られると、祖父が云うには、「宇能よ、定めし無情惨酷な夫じゃと思うで在ろうが、毎時もお前に言う通り、因果ものの寄り合いじゃ。お前が私の家へ嫁に来てからと云うものは、一日片時も安心させて歓ばした事は無し。私も実にお前に対して気の毒で堪らぬけれども、何とも致し方が無い。皆先祖からの罪滅ぼしに生まれて来たのだ。上田の先祖は広大な地所を私有し、栄耀栄華に暮らして来たので衆人の恨みが此の上田家に留まり、家は断絶するより道の無い所を、日頃産土様を信心する御蔭で、神の深き御仁慈に依って大難を小難に祭り替えて助けて下さるので在るから、私が死んだ後は孫子に伝えて一層信心を固く為て呉れよ。」との涙乍らの教訓であったのである。
 次に又祖父が遺言して「孫の喜三郎は、到底上田の家を続がす事の出来ぬ因縁をもって生まれて居る。彼れが成人の暁は養子に遣って呉れ。此の上田家は再び生まれ代わって私が相続する。」と謂ったと謂う事である。祖母は態とに笑顔を造って「今一度博奕の相手を招んで来るから、冥途の土産に、心地能う博奕に負けて家屋敷を無くして、先祖からの罪障を除去て下さいな。」と日うて見ると、祖父は「否お前がそこ迄言って呉れる赤心は有り難いが、もう眼が少しも利かぬ如に成ったから、是非が無い。直ぐに又生まれ代わってお前のお世話になる」と謂って、落涙に咽んだと云うことであった。

 王仁は五歳の時脾肝の病に罹り、腹部のみが太く、手足は殆ど針金の幽霊の如に痩せ衰えて来たので、両親は非常に心配して各地の神社や仏寺に参詣して、病気平癒の祈願を為て呉れられたが病気は日夜に重る斗りで、何の効験も現われ無かったので、父母は人の勧むる儘に蟆蛙(ひきがえる)の肉を料理し、之を醤油の附け焼きにして毎日々々王仁に一、二片ずつ食わして呉れた。王仁が食おうとすると、腰の少し曲った小さい爺さんが出て来て睨みつけるので、何時も喰った様な顔をして父母に隠して棄てて居った。
 或夜の祖母の夢に祖父さんが出て来て、「孫の喜三郎には蛙の如な人間の形を為た動物を喰わしては成らぬ。喜三郎は神様の御用を勤める立派な人間に為るのじゃ。孫の病気は産土の神様の御咎であるから、一時も早く小幡神社へ連れて参れ。そして今後は敬神の道を忘れぬ如に梅吉(父)や世根(母)に訓(おし)えて与れ。」との事であった。祖母は夜中に眼を醒まして直ちに王仁の両親を揺り起こし、神夢の旨を伝えた。父母は其れを聞くより王仁を曳き起こし背に負うて小幡神社へ参詣し、今迄敬神を怠って居た事の謝罪を為たのである。其の翌日から段々と王仁の重病が快方に向かい、二か月間ほど経て全快する事と成った。「産土の神の霊験と日うものは実に偉大なものである」と、時々祖母の話であった。

 明治七年正月元旦の日の出と共に王仁の弟が生まれた。父母は死んだ祖父に赤児の顔が酷似して居ったので、(是は全く爺さんの再来であろう。又成人したら博奕打ちに成って両親や兄弟を苦しめや為ないであろうか)と心配して居った。祖父が吉松、父も吉松なので、松の字を入れて由松(よしまつ)と命名したのである。その由松が四歳に成った夏、畑へ父母が草曳きに連れて行って畑の中に遊ばして置いた。四歳の由松は畑の草を引き抜いては口に喰わえ、口に充実(いっぱい)になると畑の外へ持って出て捨てるのを見て、「あっ」と云って驚いて居ると、無心の由松の口から思わず知らず「己が判ったか」と叫んだのである。弥々間違い無き祖父吉松の再生と謂う事を確信したのであった。父母の心配した通り、由松は十三、四歳の頃からそろそろと小博奕を打ち出し、一旦は屋敷も小町田も全部棒に振って了い、倭屋は明治三十四年(1901年)旧二月七日に、祝融子(火事)に見舞われて、多からぬ財産を全部灰にして了ったのである。
 其の時は王仁は綾部へ来て出口(なお)教祖と共に、艮の金神様に仕えて居った。そうすると穴太の弟から「イヘマルヤケ ルイクワモ ケガモナシ」と云う電報が届いた。早速、教祖様に其の由を申し上げると、教祖は驚かれるかと思ったら、左も嬉しそうに、「ああ左様か、結構でした。其れは結構な御利益を戴かれました。先生も早く艮の金神様と、穴太の産土の神様へ御礼を申しなさい。妾(わたし)も一所に神様に御礼申して上げます。」との御言葉である。其の時は私も教祖の言行に就いて少しはムッとしたが、能く心を落ち付けて考えて見ると、教祖の御言葉に敬服せざるを得無かったのである。上田の家は一旦塵片一本も無い様に貧乏のドン底に落ちたが、其の後神様の御蔭で、祖先から持ち越しの罪障を払って貰い、再び出口家より元の家敷を買い戻し、小さい乍らも以前より余程立派な家を建てて貰い、祖父の再生したと云う弟の由松が、元の屋敷で上田家の相続を為て居るのは、皆昔から一定不変の神則であって、人間の智慧や考えでは如何ともする事が出来ぬと云う事の、実地の神証であると思う。

(※1)「他神の守護」玉鏡(昭7/5)
 私は常に「上帝一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物ニ賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之ヲ万有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ッテ之ヲ守ルニ非ズ。即チ天父ノ命永遠不易/上帝一霊四魂をもって心を造り、之を活物に賦す。地主三元八力を以て体を造り、之を万有に与ふ。故に其霊を守る者は其体、其体を守る者は其霊也。他神在って之を守るに非ず。即ち天父の命永遠不易」と説いてゐる。「他神在ッテ之ヲ守ルニ非ズ」といふことは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかって守護するといふ事はないといふのである。よく狐や狸が憑って守るといふけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守って下さるとか或は産土の神が守られるとかいふのは、自分の精霊が祖霊或は産土の神と相感応してさう思ふだけのことである。私の幼時、囲炉裏に落ちたときに祖父さんが現はれて私を助けて下さったといふのは、私の霊が祖父さんと見せてゐるので、私が祖父さんと感じて見てゐただけである。
 悪霊は人の空虚に入つて害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、或は断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚が出来るから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があっては正しい人といふことは出来ない。四魂即ち天賦の勇親愛智を完全に働かすことが大切である。産土の神が守るといふのは、村長が村民の世話をするやうなもので、決して人間に直接産土の神が来って守るといふことはない。


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生いたちの記(参)

○漆差しの失敗
 西南戦争で天下の人心騒擾たりし明治十年(1877年)の秋、王仁が七歳の時であった。父の吉松(梅吉)は船岡の産土の祭礼に参詣すべく、王仁を伴い生家へ帰って往った。其の序を以て、船井郡雀部(ささべ)の漆差しの家に立ち寄り、無病息災の為と謂って、王仁の腹部へ十数点の漆を差して貰ったのである。さあそうすると、王仁の身体一面に漆が伝播し、痒くて堪らぬので掻くと又それが伝播して、手足も胴も頭も顔も一面に瘡になつたので堪らない。終には手も足も動かぬ様に成って身体一面漆負けの瘡だらけに成って了った。その時の痕跡は今に判然と王仁の腹部にその記念を止めて居るのである。それが為に学齢が来ても小学校へ行く事が出来ない。それを祖母の宇能子が大変に心配して、平仮名から五十音、単語篇に百人一首、小学読本と漸次に教えて呉れられたので、十歳の春初めて入学した時は大変に読書力が附いて居って、何時も一時に三、四級宛は飛び越して、十三歳の四月に上等四級で退学する事となった。
 祖母は又彼の有名なる言霊学者・中村孝道(なかむらたかみち)の家に生まれたので、言霊学の造詣は深かった。王仁は十歳位の時から折々祖母の口から言霊の妙用を説明されたので、何時とは無く言霊の研究に趣味を持つ如に成り、山野に往って傍らに人の居らぬのを考えて、力一杯の声を出して「アオウエイ」と高唱して居ったのである。時々人に見附けられて笑われたり、発狂人と誤られた事もあったのである。王仁が今日言霊の神法を活用して天地に感応する様に成ったのも、全く幼時より修練の結果で、又神明の御加護と祖母の熱烈なる教育の賜である。

○小学校時代
 穴太寺の念仏堂を造作して四間に仕切り、之を小学校に宛てたのが偕行小学校と日うのであった。王仁は十歳に成った年の四月に初めて入学したのである、校長は亀山の旧藩士で出口直道(でぐちなおみち)と云い月給五円を給されて居た。次に吉田有年(よしだゆうねん)と云う同じ亀山の藩士で月給三円の教師であつた。月給は安くても其の時分は物価が今日と異って非常に安い。一石の米価が三円七、八十銭位で、石油一斗が二十銭以下であるから、却って、今日の五十円の月給取りよりも生活は安楽であった。王仁も十三歳から、二円の月給で同校の助教師として足掛け三年間奉職、下級の生徒に対して教鞭を振るった事がある。
 それはさておき、不思議なのは、私には「直」と云う字の附いた名前の人に関係の多い事である。小学校の先生が出口直道氏であり、塾の先生が上田正直氏であり、獣医学の先生が井上直吉氏であり、少年時代の指導者が斎藤直次郎氏であり、王仁の父子を隠れて助けて呉れたのは斎藤庄兵衛氏の室なる直子婦人であり、書生奉公に行った斎藤源治氏の内室で非常に大切に教導して呉れたのは全く直子婦人であり、最後に大本教祖・出口直子刀自の養子と成り、相倶に神業に奉仕する身と成ったのである。実に言霊と身魂の因縁関係位不思議なものはないと思う。

 或時、教師の吉田有年と云う先生が『小学修身書』を生徒に読み教える時、大岡越前守忠相と云う字句に至って「タダアイ」と読んだ。王仁は余り可笑しくて聞くに忍びず、直ちに椅子を立って「吉田先生、爰はタダアイじゃ在りません、タダスケです。」と注意した。無学にして且つ頑固なる吉田先生は王仁の言を忽ち打ち消して、満場の生徒に向かい「喜三郎は、彼は馬鹿だから彼様な事を言うのである。聞いては成らぬ。」と云った。何にも知らぬ生徒等は、吉田先生の説に服して「タダアイ」と大声に読む。王仁は、ああ斯様な間違った事を教える先生に就いて教えられる生徒は不幸だ、堂しても先生に取り消しを為て貰わねば成らぬと、一歩も譲らず「タダスケ」を主張したのである。
 吉田先生は大変に立腹の様子で、真赤な顔をして、「貴様は生徒の分際として教師に反抗するとは不都合な奴だ。懲戒する。一寸来い。」と謂って王仁の細い手首を抜けん斗りに曳っ張って行こうとする。王仁は一生懸命になって出口先生を呼んだ。隣室に教鞭を執って居った直道先生は驚いて走り来られた。王仁は、吉田先生の読み方に就いてその正否の問答を為し居たるに、乱暴にも手首が抜ける程引き立てられ苦痛に堪えぬので、思わず出口先生の名を呼んだ事を詳細に答弁した。逐一事情を聞いた上、出口先生は吉田有年先生に向かい、「爰は生徒の読んだタダスケが本当だ。君もも少し査べて置き玉え。」と、校長から生徒の眼の前で警告された。王仁の小さき心は治まったが、唯治まらぬのは古田先生の胸の中である。其の以後は吉田先生の態度は一変し、王仁に対する憎悪心は日を逐うて峻烈を極め、一字でも一句でも読み誤ろう者なら、忽ち打擲するのみか、麻縄の太いので後ろ手に縛り上げ、大きな珠算の上に一時間余りも座らすと云う如な虐待をされたのである。実に其の頃の教育者と日うものは乱暴極まるものであつた。
 或暖かい春の日に、吉田先生は全級の生徒を校庭に集めて、体操を教えて居った。王仁も其の中に加わつて稽古を受けた。偶々隣村の雪駄直しが、学校の前を「直し直し」と呼びつつ通過した。吉田教員は忽ち之を指さして、生徒に向かつて、「お前等能く見よ。今、学者生徒の喜三郎さまの御父上が御通りだ」と大声揚げて、王仁が父の家は貧窮下賤なりとの意を諷刺した。無心無邪気な生徒は吉田と共に手を拍って笑うのであった。王仁は悔しさ残念さを堪えて黙して居た。吉田先生は猶虫が治まらぬと見え、学校の雪隠を指さし示して、「ああ其処に見よ、喜三郎さまの立派なお家が建ってある。」と、我が家の倭小にして不潔なる事を諷刺し、又手を拍って笑う。生徒も亦一所に成って器械的に笑うのであつた。其れからと日うものは生徒も吉田先生の真似をし、面白半分に、乞食や非人なぞに途中で逢う時は忽ち之を指さして、「喜三郎さまのお父さんが通る。お母さんが何所かへ御出でに成る。」と、大きな生徒までが面白がって侮辱し、倒けかけた雪隠があると、「喜三郎さまの立派な御宅だ。」と嘲り笑うのであった。
 王仁は小供乍らも憤怒の極に達し、発言者たる吉田先生の下校を途中に待ち受け、青杉垣の中から吉田先生目掛けて、竹の尖に糞を附けたまま腰の辺を突き差し、其の儘自分の宅へ迯げ帰った。吉田先生は非常に立腹して王仁に退校を命じた。王仁も承知が出来ず、直ちに出口校長に向かって始終の次第を申告した。校長は直ちに学務委員の斎藤弥兵衛氏と協議の上、吉田有年を免職し、王仁には一旦退校を命じて其の場を無事に済ませ、数日の後王仁を吉田の代用教師として月給二円を給される事と成りたのである。この斎藤弥兵衛と日う人は余程異った人で、時々斯う云う皮肉な所置を採る人であつた。今日は学校教育の方針も改良され、夢にも斯くの如き乱暴な教育家は居らぬが、王仁の幼時の教育者の態度は、実に無茶な事をしたものである。
 王仁は斯く無情なる人々と交わり、世情の冷酷なる惨状と仁愛なる人の温情とを表裏より味わう事が出来たのも、全く今日に成って考えて見れば、神様の御仁慈を以て王仁の心魂を幼時より鍛煉させ玉うたのであると、熟々感謝する次第で在る。又吉田先生の王仁に対する虐待的行為も、王仁の為には大恩師で在った事を感謝せずには居られないのである。
(故郷乃弐拾八年、「神霊界」大正十年二月号)



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若き日の思い出

☆『若き日の思い出』
<昭和2年3月15日執筆、昭和2年3月31日刊行「月光」第七号に掲載。>

 去る明治二十七年、日清戦争が起こった頃、自分は草深い穴太の片田舎を後にし、獣医学研究の志望を起こし、従兄に当たる某獣医(従兄弟:井上直吉)の家に書生となり、傍ら牧畜業に従事し、牛乳等を搾取して附近の町村に朝夕販売して居た。
 自分の居た牧場の隣に、○○寺(南陽寺)という禅宗の巨刹があって、其処には和尚がペスと云う洋犬を飼って居た。ペスは時々前足を引きずり苦しげに喘ぎ乍ら牧場へやって来た。丁度其処へ従兄の某獣医が来合わせて居たので、自分は従兄に向かい、「此の犬の病気は何病と考えますか」と問うたら、従兄は聴診器や、検温器等を取り出し、叮嚀に三十分間計りもかかって聴診・望診・打診・接診等あらゆる診察の法を尽くした結果、関節炎リウマチスと診断した。
 そこで未だ獣医学の研究中であり診察等は到底真面目に出来なかったけれ共、『家畜医範』の文面を照り合わした結果、露出粘膜の乾燥して居る事や、呼吸の逼迫の度合いや、脈搏の頻数なる点、及び足の運び工合い等から考えて、胸部に病のある事を覚り、「これは心臓糸状虫だ」と云った所、従兄は一言の下に自分の説を嘲罵し、「未だ書生の分際としてそんな断定的な言をいうものじゃない。自分は駒場農学校の獣医科卒業生だ。自分の診断は千に一つも間違いはない、若し此のぺスがお前の云う通り心臓糸状虫であったら、自分は獣医を廃業する」と迄啖呵を切った。けれども自分としては何うも心臓糸状虫にかかって居る、と云う確信が胸裡を離れなかった。数日間の後にぺスは寺の床下で吐血して死んで終った。愛犬家の和尚は非常に嘆き悲しみ、本堂の横手の山腹の墓地へ叮嚀に埋葬し、墓標を立てて置いた。
 自分はペスの死骸を解剖して、リウマチスであるか、心臓糸状虫であるかを確かめたい気がむらむらと起こり、夜半の頃、真白な解剖服をそっと身に纒い、青赤紫等の硝子を囲った龕燈(がんどう)を燈してペスの墓所に到り、死骸を掘り出し解剖刀を揮って、いの一番に心臓を切開した所、自分の考え通り糸状虫にかかって居た事が分かった。自分の診断は師匠の獣医よりも偉かったというような会心の笑を漏らして、にっこりと笑った。その顔に龕燈の青い硝子が映って、顔も白衣も青白く、他から見ればまるきり幽霊の様に見えたらしかった。寺の縁側に「キャー」、ドスン、と云うけたたましい音が聞こえたので、驚いて駈けつけて見ると、和尚が便所に行こうとして、墓に火のついて居るのを見た刹那、蒼白い怪物が解剖刀を手にして、にたりと笑った其の顔が目につき、吃驚の余り縁側に倒れて腰を抜かして居たのであった。自分は和尚の立腹を恐れて声も立てず、其の場を逃げ出し、以前の所へ引きかえし、手早く犬の心臓を切り取り、あとの死骸を以前の墓穴へ埋め込み、以前の如く墓標まで立てて、そっと牧場に帰り、夜明けを待って何喰わぬ顔で寺へ遊びに行って見ると、寺では大変な評判である。世の中に幽霊や化物はないと聞いて居ったのに、「昨夜墓から異様な怪物が現われ、和尚は吃驚して腰を抜かし、臥床中だ」と小僧共が囁いて居たには、自分も苦笑を感ぜずには居られなかった。

病犬の診断につき師と弟子が犬と猿との仲となりけり
飼犬は心臓糸状虫病みて寺の床下に終に失せたり
大切な犬の死骸に抱き付いて坊主は丸い涙落しぬ
果敢(はか)なやと墓を造って蛸坊主いと叮嚀に犬を葬むる
リウマチスか糸状虫かを調べんと夜陰密かに犬を掘り出しぬ
蒼白い顔して墓場に会心の笑浮べたり解剖刀持ち
蒼白き墓場に立てる影を見て驚き和尚は腰を抜かしぬ

昭和二年三月十五日(徒然草、「月光」昭和二年三月第七号)


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実説 本心-高熊山(壱)

☆『実説 本心-高熊山』
<機関誌「このみち」第三号(大正五年六月十日刊)に、当時王仁三郎が最も信頼していた幹部・梅田信之(常治郎)の名前で発表。のち「神霊界」大正十年一月号に、続いて「霊界物語」第三十七巻第一編“安閑坊喜楽”第二章から第六章に収録された。「霊界物語」版は加筆修正されている。『本教創世記』第三章との対比も面白い。>

 かくすれば かくなるものとしりながら ひくにひかれぬやまとだましひ

 天明らけく地治まれる聖明(ひじり)の御代の三十余りの一つの年、頃は如月の九日、半円の月は皓々(こうこう)として天空に輝き渡り、地にはふく郁たる梅の花の薫り床しく、人の心も花やかに、素人天狗の浄瑠璃会に、老若男女の群集は、蟻の甘きに集う様なり。吾妻太夫の三筋の糸に曳き出されて、先登一の登壇者はかみしも姿厳(いか)めしき長楽太夫、田舎娘の肝煎らせつつ語るは熊谷(くまがい)一の谷敦盛卿おの組み打ち場、壇特山の憂き別れ迄首尾よく演り付くれば、やれ「露払い万歳」と拍手の肥は雨霰、降って湧いたる大人気なり。
 続いて三調・駒太夫・四明・勇山次々に素人天狗の銅鑼声や根深節も、物珍しき田舎人の耳には天女の音楽とも聞こえ、大当たり大持てにて、恰も鰯網もてくじらの『太功記(太閤記)』は十段目、「夕顔棚の此方よりも露われ出たる武智光秀、必定久吉此の家に忍び入る社屈一竟(こそくくっきょういち)、唯一討と気は張弓、心は矢竹……」と糸の調子に打ち乗りて、一生懸命語り行く。
 折りしも軒の藪垣押し破り、顕われ出でし四、五の暴漢、物をも云わず突然座敷へ乱入し、驚く聴衆に眼もかけず、四辺蹴散らし踏み散らし、檀上の太夫を引き摺り落とし、猫が鼠を握みし如く、凱歌を奏して戸外へ掲げて行く。一座は興醒め周章狼狽、互いに眼引き袖引きつつ、後難を恐れて誰一人仲裁の労を取らんとするものなし。ああ今捕らえられて行った若者は誰であろう。ああ彼が運命や如何に。今の今まで照り輝きし無心の月は、忽ち暗雲に閉じられて西山の頂に影をかくすのであった。

 茲は精乳館の牧畜場内、舘長室の戸は堅く閉ざされて、一団の不可思議が潜んで居る様子。牛乳配達夫は未明より舘長の量り渡しを待って居る。旭日は遠慮会釈も無く天に冲する。舘主は何時まで待っても起きて来そうに無い。余りのじれったさに、配夫は本宅の方へ走った。暫くすると、母は配夫の後から面色を変えて行って来て、突然、雨戸を押し開け忽ち王仁の寝室に。
 顔を見られては大事と手早く夜具を被らんとした。此の時遅く彼の時早く、母に額の負傷を認識されてしまった。ああ是非もない、母はわっと其の場に泣き倒れた儘前後不覚。ああ何とせん方涙なくなくも、庭の真奈井の清水を口に含ませ介抱すれば、正気付きぬ。母は涙をぬぐいも敢えず語るよう。「去年までは是の父親が生存して居られた為に、何人にも攻められ苦しえられた事は一度も無かったに。後家の子だと思い侮って、此様な惨酷(みじめ)な目に合わすのであろう。ああ悲しい。夫の逝かれた後は、此の王仁一人を杖とも柱とも頼んで憂き年月を送って居るのに、去年の冬からこれで、ちょうど九回目、打つやら蹴るやら乱暴狼藉、九死一生の苦しみを加うるとは、ああ何たる世間は無情ぞや。弟の周章者(あわてもの)は夜前復讐とかに往って、反対に大負傷を受けて帰って伏して居る。思えば思えば残念至極、誰か強い人が来て兄弟二人の敵(かたき)を打ってくれる人は在るまいか、神も仏もなき世か」と、子故の暗に迷う親心。
 愚痴の繰り言聞き入る王仁の心は千万無量。

 母気絶の急報に、八十五歳の祖母は気丈の性質とて杖にすがりて入り来たり。此の場の様子を早くも呑み込み王仁に向い、「汝は最早二十八歳、物の分別も解らなならぬ年比(としごろ)では無いか。如何に義侠だとか人助けだとか謂って人を助けても、我が身の亡ぶ様な人助けはちと考えねば成るまい。相手も在ろうに、兇悪無頼の博徒輩と喧嘩の達引とは如何に物好きにも程度が在るではないか。汝は平素強気を挫き弱気を扶くるが日本魂(やまとだましい)じゃと謂って居るが、八面八臂の魔神ならば知らぬこと、そんな怯弱な身体で居ながら無謀の挙動(ふるまい)は何事ぞ。八十に余る生い先短き老母や、良人に逝かれて間もなき一人の母や、まだ東西も弁え知らぬ頑是なき可憐の妹の在るのを汝は忘れたるか。妖怪学だの哲学だの無神論だのと空理屈(からりくつ)ばかり言うて勿体ない。神々を無視して居た報いが来たのであろう。宜しく冷静に反省して見よ。
 今回の事は、全く天地神明の御神慮に依って慈愛の鉄槌を汝の面上に降し玉いて、平素の小高き鼻柱を折らせ玉うたのであろう。必ず必ず兇漢を恨むことはならぬ。一生の大恩人だと思うが良い。韓信の股を潜ったのも時世時節じゃ。踏みにじられた蒲公英(たんぽぽ)には殊更厚い花が咲く例(ためし)もあるからなぁ。それに付いても亡き汝の父上は、幽冥から其の行状の直る迄は高天原へも得行かずに、中空に迷うて居るであろう程に、全然心を入れ替えて真正の人間に成ってくれ。それが祖母への死土産だ」と、涙を片手に慈愛の釘打たれて、王仁は唯無言。
 森厳なる神庁に引き出されて神の審判を受くる心地。負傷の痛苦も打ち忘れ涙に呉るる折しも、近所の人々見舞いの為に入り来たる。表には小学生が声を揃えて節面白く、

  父よ恋しと 墓山見れば 山は狭霧に 津々まれて
  墓標の松も くもかくれ 晴るる暇なき そでのあめ

 屋根には鳥が唯一羽、「可愛(かあい)々々」と鳴き立つる。牧牛は空腹を訴える如に大声に吠ゆ。

  皇神は めぐみのむちをあたへつつ 心のねむりさまし玉へり
  よきことに まがこといつきまがことに よきこといつくよのなかのみち(宣長)
  ことわりの ままにもあらずてよこさまの よきもあしきも神のこころぞ(宣長)

 夜は浸々と更け渡る、水も眠れる丑満時刻。森羅万象寂(せき)として声無きに、王仁の胸裏の騒がしさ。昨朝の祖母の教訓や母の悲歎は未だ耳に在る。胸には警鐘轟く雷、得も言われぬ煩悩苦悩、今という瞬間は有力なる神なると共にまた悪魔なり。善悪正邪の分水嶺上、忽然として一点の旭光に接したのである。一点の旭光、そも如何、直霊の魂(みたま)の反省、これ。

  久かたの あまつ月日のかげはみじ からの心のくもしはれずば(宣長)

 父ばかりが大事の親では無い、母もまた大切なる親である。祖母はまた親の親である。斯かる見易き判り切った道理を、今迄漢心洋意の狭霧に包まれて、勿体ない。父ばかりを尊み、母を軽視して居たのは大間違いだ。父が亡くなった以上は、もう何事を為しても心痛する親は無きものと思い、任侠気取りで数々危険の場所へ出入りし、大恩ある母の思いを今迄気付かなんだのは、ああ何たる迂愚ぞ、そも何たる不孝ぞ。ああ諺にも「いらわぬ蜂はささぬ」ということがある。生じいに無頼の悪人輩と戦い且つこれを挫かんとしたのは、余り立派な行為でも無い。蛇が折角千幸万苦して漸くに蛙を捕らえ、今呑もうとする際に人あり、其の蛇を打ちたたき弱い方の蛙を助けてやったなら、其の蛙は大いに喜ぶであろうが、肝心の餌を取り逃がされた蛇の心は如何であろうか。

  世のなかは よごとまがごとゆきかはる なかよぞちぢの事は成(なり)つる(宣長)

 母は愛に溺れて我が子の失は少しも顧みず、唯父が亡くなったから、人々が侮って忰を虐待するものだとのみ思いひがみて居らるる様だ。父の亡くなったのは、王仁ばかりではない。広い世の中には幾千万人あるとも知れぬ程だ。されど父が亡くなった為に世間の同情を得たものこそあれ、王仁の様に、たとえ一部の社会にもせよ憎まれたものは少ない。鐘も撞く者が無ければ決して響くものではない。之を思えば祖母の教訓は真の神の直論である。一々万々確固不易の真理だ。心一つの持ち様で、親や兄弟妹や他人にまで迷惑をと思えば、立って居ても居られぬ。改過の念は一時に。
 心機忽ち一転再転、終には感覚の蕩尽、意志の断滅。

 翌朝になって王仁の姿が見えぬ、家族は大心配。不図(ふと)床の壁を見ると筆太に、

 『大 本 大 神』

 しかも王仁の筆跡。机の引き出しには羽化登仙の遺書一通。

  あやしきを あらじといふは世のなかの あやしきしらぬしれごゝろかも(宣長)

 そもそも遺書の文意は如何。天下国家の一大事、然も三大秘密。王仁の生母は忽ち火中に投げ入れた。後日の難を慮ったのであろう。
 渾円球上二つなき、三国一の四方面、富士の神仙本田芙蓉仙人の神使 松岡大天狗は、王仁を学者の所謂夢中遊行に導き、其の霊魂は遠く高く天空に逍遥したのである。芙蓉仙人は茲に六神通の秘奥を授けた。仙人の目的は社会の改善・宇内哲学の一変・皇道の発揮・宗教倫理の改革、王仁果たして此の大任に堪えるであろうか。外に一冊の教示、書名は『天啓』。
 有明の月は西山の頂に薄れゆく。ふと顧みれば王仁の巳は高熊山の巌窟に静座して居る。ああ不可思議の極み、眼下の渓路を薪刈りの若者二、三、野卑な唄を高く謳って通る。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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