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祝詞の作法

 出口王仁三郎聖師の『霊界物語』には、「天津祝詞」や「大祓祝詞」の解説の他、「感謝祈願詞」や「善言美詞」などの各種祝詞が収録されています。しかし、神様を真に敬うというのなら、ただ祝詞を読んでいれば良いなどという事は決してありません。今は誰もが知る有名な神社にも、動物霊や曲津神や宇宙人といった妙な存在が正神のふりをして、すました顔をして鎮まっていることがあります。下手に願をかけて変な因縁をつくるより、自宅の神棚で静かに神様を敬うことをお勧めします。神棚がないアパートやマンションの方は、壁掛け式の神棚を求めましょう。

 なお、自宅で祝詞を奏上する時でも、手と口を清めましょう。出口王仁三郎聖師が解説されているように、神棚とその前は一家の「小高天原」(※1)、すなわち神様が見ておられる公共のスペースであります。神社や教会で神様に礼拝するのと、自宅の神棚で神様に礼拝するのと、全く一緒であります。特に祝詞を奏上する時は、神様が一時的に降りてまいります。神様に対して失礼のないよう、身だしなみを整え身を清める(例えば天皇陛下から勲章を授与されたり、大臣に任命されたりというような晴れの舞台に、当人がアロハシャツや下着姿で行くでしょうか?)。神社に入る際に手水で清めるのと、理論は全く同じであります。ただし何事も極端に走る必要はありません。裸や下着姿で礼拝してはいけない、というだけです。普段着でも、外していたボタンをすべて留める、というような心構えで良いのです。

 基本的な作法につきましては大本信徒連合会さんの「作法」が写真入りでわかりやすく解説されています。各種の動作については「初級-巫女さん入門」より引用します。

○正座の作法
 正座は行事作法の基本であると同時に、とても大切な座り方です。まず立ち位置から正座に移る際の、着座の作法から説明いたします。動作としては、腰を下ろしながら、左足、右足の順で膝をつきます。この時、手は腿の周りにつけてください。そして爪先を立てたまま、踵の上に体を置きます。これが「跪居(ききょ)」という姿勢です。そこから正座をするのです。正座そした時は、丹田という臍(へそ)の下あたりに、ぐっと力を入れます。その時、体の中心に棒を一本入れたような感じで、背筋をピシッと伸ばしてください。頭は顎を引いて、5メートルほど先を見るような感じで据え置きます。顎が出たり、首が曲がったりしないように気をつけてください。お尻は、そのまま足に載せるのではなく、腿に力を入れて、少し腰を浮かすようにしたほうが長く座っていられます。足先は親指を重ねてもかまいませんし、重ねると痛いという方は、重ねずに座っていただいても大丈夫です。
 女性は、座った時に両膝をつけます。男性の場合は、座った時に膝頭と膝頭の間を拳一つ分、空間をあけるという決りがあるのですが、女性の場合はくっつけます。
 両手は、それぞれ腿の上に置いてください。そうすると、肘が自然と少し張りますけれども、それは脇につけなくても結構です。手に力を入れる必要もありません。ただ、必ず指先は揃えて、自分から見て「ハ」の字の形に両手を置いてください。以上が、正座です。

○立ち上る時の作法
 正座から立ち上る時の作法は、座る時と逆になります。
 まず、小揖しながら「一」と数えて体を戻します。そして腰を少し浮かせて、その下に爪先立ちした踵を入れます。つまり、跪居の姿勢です。そこから右足を出し、グッと立ち上がります。すると右足と左足の位置が当然ずれますから、左足を前に出して右足に揃えます。この動作を「進む起座」といいます。反対に、右足を引いて左足に揃えるのが、「退く起座」です。
 前に進んで立つのか、後ろに下がって立つかというのは、その時の状況によって異なります。次の行動が前進なら、進む起座、後退なら、退く起座と覚えておいてください。


○座礼の二礼二拍手一礼
「二礼二拍手一礼」というのは、神道において一番重要な作法です。
 まずは座礼の二礼二拍手一礼をお教えします。二礼二拍手一礼の「礼」、すなわちお辞儀ですが、体を傾ける角度ごとに種類が違いますので、注意してください。
 上半身の角度を45度に傾けるお辞儀を「深揖(しんゆう)」といいます。
 正座して肘を伸ばした状態のまま、ゆっくりと体を前に傾けて、掌をぴったりと床につけるお辞儀です。座礼の場合、着座した段階でまず神様に敬意を表して、この深揖をいたします。それを「着座深揖」といいます。ちなみに「小揖(しょうゆう)」というお辞儀もあり、こちらは15度の浅いお辞儀のことです。
 深揖のまま「一、二」と心の中で数えてから、一度体を戻します。
 ここまでは、二礼二拍手一礼の前段階です。

 続いて、90度まで腰を折るお辞儀「拝」に移ります。
 今度は、背筋と頭をまっすぐ伸ばしたまま、グッと腰を曲げ、自分で90度だと思う位置で止めてください。背中から頭に棒が入っているような感じで背筋を伸ばし、頭を下げすぎないように気をつけて、自分の背中が床と水平になるような姿勢をとるのです。この時、手は腿の上にあると邪魔なので、膝頭の前に置くようにします。指先をくっつけて揃えたまま、「ハ」の字の形を保ちつつ、ゆっくりと手を膝頭の前に移してください。こうして拝の形になったり「一、二、三」と間合いをとって、体を起します。手はふたたび腿の上に戻してください。このお辞儀が「一拝」です。
 二礼二拍手一礼ですから、2回、この拝を行ってください。すると連続の動作になりますので、少しだけ手の動きが変わります。
 一拝ではグッと体を曲げて、それからまっすぐな姿勢のまま完全に体を起しますが、二拝に入る時は一拝のあと、完全には起しません。直立する前、15度くらい体が前に傾いた位置で、肘をまっすぐ伸ばしたまま一度止めます。手先は床につけて、離れないくらいの位置に置いてください。そして、そこからもう一度、拝を行います。この二回目が終わった時点で、体を元の位置に戻します。

 続いて「二拍手」ですが、いきなり手を叩くのではなく、まず手を自分の胸の高さに持っていきます。高くなりすぎず、低くなりすぎず、また指は揃えて、両手を合わせる形にしてください。それから右手を、左手の指の第二関節あたりまで、ゆっくりまっすぐにスライドさせます。次に肩幅ぐらいまで両手を広げて、「パン! パン!」と叩きます。ただ、無理に大きな音を立てる必要はありません。「ペシャッ」という音になってもかまいませんから、力を加減して叩いてください。いい音が出る手の位置というのは、慣れてくれば自然にわかるものです。
 叩き終えたら、ずれている右手を左手と揃える位置に戻して合せたのち、手を下ろしてください。これが「二拍手」です。最後に「一拝」をして、座礼の二礼二拍手一礼は終わりです。


立礼の二礼二拍手一礼(一般的な神社での参拝)
 座礼の時と同じく、「二礼」からはじまります。立って腰を90度まで曲げると、膝の裏が伸びるように感じるはずです。同時に、ちょっと背中を反らすくらいのつもりで背筋を伸ばしてください。手は、腰が曲がるほど下に下がりますから、膝のお皿を隠すくらいの位置まで下ろします。そうしないと腰が90度に曲がりません。初めてされる方は、どうしても角度が浅くなりがちなので、ちょっと深めにお辞儀をしてみてください。そこまで曲げて、初めて正式な「礼」になります。
 これを2回繰り返すわけですが、座礼の時は二礼の途中で指先を床につきました。しかし立って行う場合はそれができませんから、体が15度くらい傾いた位置で、腿のあたりに手がくるような感じで止めてください。ここからもう一度、拝を行います。
 続く「二拍手」でも、手が胸の高さというのは先程と一緒です。この時、あまり手を伸ばしすぎずに、自然と肘が曲がる位置で止めてください。そこから同様に、腕を肩幅に広げ、合わせた両手の右手を引いて叩きます。そのあと、もう一度お辞儀をして、「一、二、三」で体を元の姿勢に戻します。これが立礼の「二礼二拍手一礼」です。




(※1)
「大祓祝詞解説(1)-霊界物語より」
△高天原に 『タカアマハラ』と読むべし、従来『タカマガハラ』または『タカマノハラ』と読めるは誤りである。古事記巻頭の註に『訓高下天云阿麻』と明白に指示されておりながら従来いずれの学者もこれを無視してゐたのは、ほとんど不思議なほどである。一音づつの意義を調ぶれば、「タ」は対照力也(なり)、進む左也、火也、東北より鳴る声也、父也。また「カ」は輝く也、退く右也、水也、西南より鳴る声也、母也。父を『タタ』といひ、母を『カカ』と唱ふるのもこれから出るのである。また「ア」は現はれ出る言霊、「マ」は球の言霊、「ハ」は開く言霊、「ラ」は螺旋の言霊。即ち『タカアマハラ』の全意義は全大宇宙の事である。もっとも場合によりては全大宇宙の大中心地点をも高天原と云ふ。いはゆる宇宙に向つて号令する神界の中府所在地の意義で『地の高天原』と称するなどがそれである。この義を拡張して小高天原は沢山ある訳である。一家の小高天原は神床であり、一身の小高天原は、臍下丹田(せいかたんでん)であらねばならぬ。


☆「拍手の意義」
○王仁三郎曰「拍手」(玉鏡、昭7/4)
 かしわは神様をさんこうする行為である。こんにちかんこくへいしゃではしんぜんで礼拝のとき、みな二拍手することになってゐるが、おほもとは四拍手する。ふるい祝詞にも「ひらげて──」といふことがある。八平手と云ふのはすなわち四拍手である。つまり大本は古式をそのままさいようしてゐるのである。
 大本ではれいおがむ場合は二拍手する。これは大神様を拝むときよりもえんりょしてるのである。またあらみたま様を拝むときは一拍手するのが本当である。これは遠慮するとともあいとうをもふくんでゐるのである。拍手のうちかたほど慎重にせねばならぬ。ただポンポンと、あたかも主人が下僕を呼ぶ様なやり方は、神に対してれいとなるのはもちろんである。


○王仁三郎曰「拍手の意義」(水鏡、大15/2)
 左手ひだりてひょうしょう右手みぎてを表象す。はくしゅするというあはしてかみ )となりてこゑはっす、そのおんタカとなる。アーのことたまあが、マーの言霊はえんまんそくしめし、ハーのことたまほうひらくのあらはし、ラーの言霊せんあらはす、すなははくしゅによりて、かみなるこゑてんあひだひろがりゆくなり。


○王仁三郎曰「隻手の声」(玉鏡、昭7/1)
 ぜんがくでいふせきrしゅこゑといふのは、あってさぬひそこゑしめしたもので、両手あってこそおとすことがるのである。ひだりからおんみぎからおんが出る。たか産霊むすびのかみかむ産霊むすびかみである。くして両手をてばはっするのである。隻手の声はおんをもってるだけできこえぬこゑである。また無理に隻手の声を出さうと思へば、右手でも左手でもよい。ほほをピシャリとつがよい、かならず隻手の聲がする。


○王仁三郎曰「左手右手」(玉鏡、昭8/12)
 ひだりふのはことみぎぎりことなので、がんらいむのが本当である。また左手をと云ふのは、ゆみの意味でゆみをもつからである。と云ふのはこれも弓をひく時の事で、ちょうみぎしたにくる、そして右の目でまとのぞむから「ほう」すなわちと云ふのである。


○王仁三郎曰「弓と蟇目の法」(玉鏡、昭8/12)
 ゆみは「きよめる」のよりそのる。それでものはら場合ばあいゆみでもって”ひきほう”をおこなふのである。ひきふのは、がまめぐあるとほりにとりおこはるるのであつて、がまふものはいちにちに一回いえしきの周囲をじゅんかいして家をまもるものである。


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祝詞の心得

☆祝詞の心得

出口王仁三郎氏を囲む座談会(第四夜 第2回)
大崎「外国人が大本に入信しましたとき、礼拝はどうなりますでしょうか」
聖師「外国は、外国通りにやらしたらよい」
大崎「そうすると神床なんか作って神様を奉斎した時にはどうなるんでございますか」
聖師「奉斎したり、習慣によってしなかったりするけれども、別に奉斎せんでも、なんか形のあるものでも拵えて目標にしておればよい。日本人は神に仕うるべき人間として出来ている。そして外国人は祈る為に出来ている。日本は顕斎(けんさい)の国である。つまり形の上で祭るという事になっている。外国の方はただ天の神を信じたらよい。祈ったらよい。祭式なんかするのは、──日本は世界の親国やろうが(※1)、つまり村中の人は祈っておっても神主だけが氏神様のお守りをして祭っているようなものや。日本人が神様を大切にしてお祭りをすれば外国まで助かるのや、世界中の人が助かるのや、それが日本人の使命やがな。……外国人は写真ばかり祭っている」
富田「お札よりも聖師様の彫像なんかの方を喜んで祭るでしょうね」

○「惟神」 水鏡(大15/9)
 惟神(かんながら)と云ふ事は、天地の真象に倣ふと云ふ事である。
 又、大自然、或は真理のままと云ふ事である。

○「惟神霊魂幸倍坐世」 玉鏡(昭7/11)
 神様の御心のまにまに霊の善くなるやうお願ひしますといふので、神様に対する祈りの言葉である。それを祖霊の前で云ふのは、祖霊に祈って居るのではなくて、祖霊のために大神様に祖霊が幸はふやうにと祈るのである。

○「易」 月鏡(昭5/1)
 孔子の教は現世的のものであるが、晩年に至りて孔子自身も甚だ物足りなくなって、天に問ふやうになつた。周易即ちこれである。孔子が易によりて方針を定める様になった事は、即ち宗教心が出来たので、周易をこしらへた事に依って、孔子の名は残ったのであつて、之なかりせば孔子といふものは残っては居まい。
 天津金木は七十五声の運用であり、天津菅曽は七十五本を運用して天意を伺ふのである。易は五十本の中一本をぬき四十九本の運用であって二十六本だけ足らぬ訳である。但し、金木にしろ周易にしろ過渡時代の物で神代の遺物としてのみ価値あるものである。今は皆肉の宮に納まって居るから、その必要はないのである。

○「人間と現世」 月鏡(昭4/4)
『人間は幽界から現界ヘアク抜きの為めに送られて来たものだ』との説を真なりとするならば、そのアク(悪)さへ抜けたら、幽界又は神界へ引き取られる筈だから、何時までも長生して居る人間は、アク抜けが為ないために壮健なのだと思ったら、吾ながら、吾身が浅間敷くなって来るだらう。しかしながら人間は決して現界ヘアク抜きの為めに生れて来たのではない。神が天地経綸の司宰者又は使用者として、現世へ出したものである以上は、一日も長く生きて、一事にても多く神の御用を勤めねばならぬものである。朝夕の天津祝詞や、神言は其日其日の罪科、過ちを祓ひ清めて天来その儘の神の子、神の宮として神界に奉仕すると共に、現界に於ても人間生存上大々的に活動すべきものである。

○「祝詞奏上」 玉鏡(昭7/4)
 人間は往々にして無意識に祝詞を奏上することがある。さう云ふ時、祝詞が中途に止まると後がすぐ出なくなるものである。機械的に祝詞を奏げるのは全く蝉が啼いてゐるのと同じで、ただ囀るだけのやうなものである。これでは本当の祝詞奏上にはならない。また本当の信仰と云ふことは出来得ないのである。祝詞はベンベンダラリと奏上するのも宜くないが、駈足で奏上するのもいけない。

○「宇宙の声音」 玉鏡(昭6/4)
 この大宇宙には、アオウエイの五大父音が鳴りなりて鳴りやまず不断に轟いてゐる。そして此父音より発する七十五声の音響は種々様々に相交錯して、音楽の如く、鳥の声の如く、秋野にすだく虫の音の如く微妙の音声を絶えず放ってゐる。この微妙の音声は、天地進展の響きであつて、これによつて森羅万象一切が生育発達を遂げてゐるのである。言霊の幸ふ国、言霊の天照る国、言霊の助くる国等といふ言葉は日本のみの事でなく、天地森羅万象一切の進展的活動に対して称へたる言葉である。大声裡耳に入らずと云つて人間の聴覚力には限度があつて余り大なる音響も亦微細なる音響も聞きとる事が出来ないのであるが、言霊の大道に通じた人の耳には五大父音を始め森羅万象より発する七十五声の微妙の音声を聞く事が出来得るのである。
 大本開祖(出口なお)はいつも宇宙万有の微妙の声を聞いてその天造力の偉大さを讃歎されてゐた。然し老齢の為耳鳴りがしたのとは全然訳が違ふのである。人間の聴覚力は風雨雷霆の音や禽獣虫魚のなく声、人間同士の言語又は器物より発する音楽の外、宇宙の声音は聞きとる事が出来ないので、王仁が宇宙の声を常に聴くといっても容易に信ずる事は出来ないのを遺憾に思ふ次第である。

○「ヨハネ伝」 玉鏡(昭7/1)
 今日の牧師[注:キリスト教]に一番惜むべきは、ヨハネ伝福音書の第一章が真解出来ぬ所にある。「太初に道あり、道は神と偕にあり、道は即ち神なり」とあるが(※2)、言葉即ち道は充ち満つるの意味で高天原のことである。この天地は言霊の幸はふ国で言葉は即ち神である。祝詞や祈の言霊によって、よい神が現はれるのである。声の澄んだ人ほど魂はよい。

○「宇宙の声」 玉鏡(昭7/4)
 「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。

○「宇宙の声」 玉鏡(昭7/4)
 「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。

○「天津祝詞と五大父音」 玉鏡(昭8/10)
 宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。

○「天津祝詞と神言」 水鏡(昭2/2)
 天津祝詞は岩戸開きの折、天之児屋根命(あめのこやねのみこと)が岩戸の前で奏上せられたのが嚆矢(こうし)である。神言は神武天皇の時代、天之登美命(あめのとみのみこと)が作られたもので、児屋根命以来この時代迄全然無かつたのである。天津祝詞も神言も共に神世言葉で出来て居って、それを今のやうな言葉や、文字に翻訳したのは聖武天皇の時代、常盤(ときは)の大連(おほむらじ)がやつたのである。

○「無我の境」 玉鏡(昭7/1)
 真の無我の境といふのは人間としてあるものではない。「無我の様な感じ」を起すことはある。それは或る事業に没頭して、それに一生懸命になって居れば、他の仕事に対しては無我の境に入ることになる。併し夢中になって居る其仕事に対しては、決して無我ではない。精神統一といふが、これ又言ふべくして出来得べきことではない。祝詞を奏上しながらも種々なことを思ひ浮ぶるのが本当である。鎮魂といふのは「離遊の運魂を招いて身体の中府に鎮める」ことであるから、種々の雑念が集まり来るが当然である。その雑念は罪障に対する回想や希望となって現はれて来るもので、それを想ふのは、別に悪い事ではない。

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祝詞の作法 (神饌物)

☆神饌物

出口王仁三郎氏を囲む神霊座談会(3)
比村「この間、北海道の雑誌を見たら、お神酒の香(におい)を嗅いでも修業の妨げになる守護神が多いというて、神様に上げるのまで止めてると書いてありましたが、少し矛盾していると思いますが」
聖師「自分が嫌いだからというて上げんというような事はない」
比村「聖師様がお神酒を上げられたら」
聖師「ワシの肉体は嫌いだ。自分が撤饌後(てっせんご)いただいたら上げたんじゃない。教祖はん(出口なお開祖)は──『神様に上げるものといふたらお灯明丈けや。他の物は皆、こっちがいただくのや。神様がみな食べはったら誰もよう祭らへん』──と始終言われた。『今日はかしわ買ふて来い、今日は何買ふて来い』と云って、毎日五合も御酒を飲まれたら本当によう祭らんだろう。それでも召し上がっても供へる、自分が食べないでも神様に上げるという信念でなければならんのだ。主一無適(しゅいつむてき)というのは『神に仕ふること生きたる人に仕ふるが如し』という精神だ。家が無かろうが、自分が食えなかろうが、神様にお供えする、というのならば本当の信仰だけれど」


○「霊と食物」 水鏡(大15/11)
 霊の低いもの程沢山食物を食べるから、かういふ霊への供物は後が不味(まずく)ていけない。神様に御供へしたものは、ほんの少し食しあがつて後へ精気が入るから、それがお陰である。恰も美い香袋に手を触れると移り香が残るやうなものである。通りがかりの飲食店などの店に飾つてある鮓司などは、うまさうに見えるが、食べて見ると甚だ不味い、餓鬼の霊が味を吸ひ取つて行くからである。

○「線香は嫌ひ」 水鏡(昭2/11)
 信徒達が私を歓迎せんとて、香のよい線香をたいて待って居て呉れる所があるが、私は線香は嫌ひである。線香といふものは実は艮の金神様を呪って、家に入つて来られないやうにと、立てたものである。普通の香は構はない。

○「お給仕について」 月鏡(昭5/2)
 独身者などが、留守中神様のお給仕について困ると言ふのか。さうであらう。神様は心を受け玉ふのであるから、こちらの誠心さへ届けばそれでよい。だから出る前に沢山お米さんをお供へして、留守中のお給仕にあてる意味を奏上しておゆるしを願っておいたらそれでよろしい。

○「神饌物」 玉鏡(昭7/4)
 神様に蛸、大蒜(らっきょう)、薤(にんにく)などをお供へせないのは人間が忌むからである。蛸の様に骨のないものは魚ではない、字の通り虫の一種であり、虫に肖(に)たものである。また大蒜、薤などは悪い。然し黴菌を殺し、良い菌を育てる効能をもつてゐるものである。

○「八十平甕」 玉鏡(昭6/6)
 俗にカワラケ又はオヒラと云ふ八十平甕(やそひらか)は、素盞嗚尊様が信州の皆神山の土によって創製されたものである。今なほ神様に素焼を用ふるのは此流れを汲むものである。八十平甕を「素焼」と云ふのは素盞嗚尊様の素と云ふことであり、素とはモトと云ふことである。人間の素性、素直、素顔、素ツ破抜く、素町人、素裸の初めに素のつくのは、皆これに基くのである。

○「食膳に就て」 玉鏡(昭8/6)
 祝詞の中に「海川山野種々の物を平らかに安らかに聞し召して」とあるごとく、食膳の上の配置は、先づ向つて左向うに海のもの即ち海魚類を、右向うに河のものを、左手前に山のものを、右手前に野のものを、中央に種々のものを置くのが作法である。

○「神饌に就て」 玉鏡(昭9/1)
 元来 神饌物(しんせもの)は、同殿同床の制で、煮たものを差上るのが本義であるが、一々さうするの用意が出来ないので、生で差上るやうになったのである。生で上げますから、御自由に御料理をして下さいと云ふ意で、水から、お塩までお供へしてあるのである。


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祝詞の作法 (参拝)

☆参拝
『初級巫女さん入門』より 
○「手水の作法」
 神社に入った時は「手水」で手と口を清めていただきます。その時に使うのが「柄杓」です。御祭典の前に行う時には、神主や巫女が水を柄杓で汲みますので、訪れた方はそれで手を洗い、口をゆすぎ、そしてもう一回手を洗っていただきます。しかし、普段の参拝の時には自分で「手水舎(てみずや)」の水を汲んで、手水をしてください。この柄杓も、右手で持つのが基本です。
 水で清めるということには、体を清めるばかりでなく、気持ちを清めるという意味も含まれています。ですから、まず柄杓の水で左手を清め、次に柄杓を左手に持ち替えて右手を清めます。そして清めた左手に注いだ水で口の中を清め、注いだ左手をまた水で清めるのです。
 以上が手水の作法ですが、一人で行う時には柄杓の持方などはあまり気にせず、左手、右手、口、左手の順番で清めていただければ大丈夫です。また、気持ちの問題として、次の人のために柄杓を水で清めておくといいでしょう。

○「社殿に出入りする時の作法」
 まず社殿に入った時に、小揖をします。そして草履(履物)を脱いで畳に上ります。定位置についたら、左手の親指を右手で持つようにしながら、左手の指を右手の前に重ねます。これを「叉手(さしゅ)」といいます。そして背筋を伸ばし、足の爪と踵をそろえてまっすぐ立ちます。これが立った時の基本姿勢です。ここでもう一度小揖します。
 その後、着座し、正座をします。正座をした時にはもう両手を離して、腿の位置に置いていただいてかまいません。そして、深揖、二礼二拍手一礼に移ります。


出口王仁三郎聖師による心得
○「玉串」(大正十四年五月十日号 神の国誌)
 お祭の時に玉串を捧呈してゐながら何の意味やら十分知らずに居る人が往々あるやうだが、あれは神様に着物をお供へしてゐる型である。松や榊につけるのは直接に神様にお手渡しするのは御無礼だから、あゝして小枝に結びつけて置くのである。それは丁度貴人に対しては扇子に物を載せて手渡したりするのと同じ意味である。松や榊の小枝に紙片を結び付けてお供へした所で何になるかと思ふ人があるかも知れぬが、すべて霊界は想念の世界であり、現界は型の世界であるから、吾々現界人が心の底から恭しく『お召物をお供へ致します』と云ふ気になって、その型として玉串を捧呈しさへすれば、それが霊界ではチャンと立派な衣服となってゐるのである。これは一例であるが、何事でも吾々が其気になって型をすれば、霊界では真物としてお受取り下さるのである。小さい木の箱をお祀りしても本気で拝みさへすれば、想念の拡大延長によって霊界では立派な宮殿となってゐるのである。

 又いくら大きなお宮を建てた所でお祭りする人の心が間違ってゐたなら、要するに単なる木の片に過ぎないことになつてゐる。入間一切どんな行動でも内分に於て善美でなかったなら、いくら外的に立派であってもゼロである。また外的には粗暴な舉動でも、その内分に於て無邪気であるならば何等咎むべき点はないのである。この事が真に分って来れば社会はも少し穏かな深みのあるものになるにきまってゐる。但相応といふことは勿論あるのだから、内分だけの外分が現はれるのが当然である。


○「神社参拝の心得」 水鏡(昭2/10)
 正式に神社参拝をする時は、必ず神饌料(しんせんりょう)を捧呈(ほうてい)すべきものであるが、ほんの一寸したお宮へ、通りすがりに参拝するにしてもお賽銭を五銭以上お供へすべきものである。プラツトホームの入場料でも五銭取るでは無いか、御神苑内に入れて頂くのだから、それ以上さしあげるのは当然の事である。又お祭りを当て込んで境内で店を開いて居る商品は値切らないで、たとへ少しのものでも買うてやるがよい。さうすると神様がお喜びになる。古来代々の天子様が地方を御巡視遊ばさるる事を”行幸”と申して居るが、それはお出ましになる地方が沢山の頂きものをして喜び勇み、心から幸福を感ずるからの事である。山川も寄りて仕ふる聖天子が行幸遊ばさるる時は、魚も獣も皆その徳を慕ふて寄って来る為め、海には漁猟が多くて漁師が喜び、山には獲物が多くなって猟師が喜ぶのである。その如く神様も、其境内に集まる人達に福を与へておやりなさりたいのであるから、其神意を体して、買物をしてやるのである。かういふ所で使ふ金は決して無駄費ひではない、結構に御神徳を頂くのである。

○「御玉串について」 玉鏡(昭6/6)
 御玉串を差上げるに上書を連名でする事は神様に御無礼に当る。一人一人包んで丁寧にちゃんと名を書いて差上ぐべきもので、神様は非礼をうけ給はぬ。金銭の多少に関はるのではない。ただ自分の赤心(まごころ)を捧ぐればよいのである。”長者の万燈 貧者の一燈”と云ふ諺がある。人各身分相応に其ベストをつくすべきものである。一円づつ出し合して包むなど云ふ事は、その想念が既に正しくない。相談などすれば、いやでも出さねばならぬと云ふ不純な気持が混じて居るから、神様は決してお受けにならない。また実意、丁寧、誠、親切、これが神の教であるから、連名など云ふ事は、丁寧と云ふ事に於て欠けて居る。これ又神様のお気に召さぬのである。本宮山のお宮を建てた時でも、不純な想念の混じて居たお宮は取りこぼたれても、栗原さんが純な気持で一人で建てさして頂いた神饌所と燈篭とだけは残されたではないか。神様は搾取や強奪は決してなさらぬ。総て神様に捧ぐるものは純な気持でなくてはならぬ。

○「玉串」 玉鏡(昭9/1)
 玉串は「神様に衣を献る」の型である。すべて霊界に於ける事象は現界に於て型をせねばならぬので、玉串を捧げて型さへすれば、霊界では想念の延長で、立派な種々の色の絹と変じて、神様の御衣となるのである。松の梢につけて献るのであるが、その松は又想念の延長によりて立派な材木となり、神界の家屋建築に用ひらるるのである。このやうに現界で型をすれば、霊界では幾何でも延長するのであるが、型がなければどうする事も出来ない。だから祖霊様にでも常にお供へ物をすれば、祖霊様は肩身が広い。多くの人に頒って「晴れ」をせらるることは嘗て話した通りである。

「出口王仁三郎氏を囲む座談会」(第四夜 第4回)
高橋「自分で少しだけしかお供えしていないなと思っておっても口に横山の如くと言っておれば霊界ではそうなっておるんでございますね」
聖師「そうだ、心で少ないなと思っておっても霊界では言霊に出しさえすればそうなって来るのだ、何もわざわざ少ないお供えを見て多いなと思うように努力する必要はない」
富田「お玉串を十銭入れて金十円也……」
聖師「二円五十銭あげて金千匹と書いて出す。一匹は二厘五毛だから二円五十銭で千匹になる」
富田「一匹は昔使うたのですか」
聖師「そら使うた。今でも男一匹て云うだろう。それから反物なら二反ある。だから男一匹なら二人前の働きをするものじゃハハハハ。二厘五毛あったら一匹の値打ちがある。今では一文奴(いちもんやっこ)ばかりだ。チョットよいので三文文士、それから五文(顧問)官。昔は天保銭と云って笑ったが、五文々々(五分々々)くらいなものだ」
── 一同笑声 ──

○「比礼」 玉鏡(昭8/8)
 鎮魂に関する十種の神宝の中に、蜂の比礼、大蛇の比礼、品々物の比礼と云ふのがある。比礼と云ふのは、あの水兵帽の後について居るビラビラしたリボンのやうなものであつて、大蛇の比礼は大蛇を払ふもの、蜂の比礼は蜂を払ふもの、品々物の比礼は総てのものを払ふもので要するに御幣(ごへい)みたいなやうなものである。


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出口澄子著作目録

出口なお開祖五女、出口王仁三郎聖師の妻として国常立尊様と豊雲野尊様の三千世界の立替・立直しの経綸に尽力した出口すみ子(すみ/澄/澄子)大本二代教主、愛善苑二代苑主。彼女の使命は早い時期から神様により宣言されていました。

大本神諭「明治32年旧6月10日」
 直(なお)の御世継ぎは末子のお澄殿であるぞよ。因縁ありて上田喜三郎[注:出口王仁三郎聖師の本名]、大望な御用を致さすぞよ。さる代りに御大将に致さすぞよ。この御ン方を直の力に致すぞよ。この御方ありたならば、直は大丈夫であるぞよ。この事は艮の金神が経綸いたしてある事じやぞよ。この誠の御用を聞くのは、真心の気の綺麗な御取次でないと、誠の事はいたさせんぞよ。上田殿にはエライ苦労は致させんぞよ。八人は産みの御児なり、総生みの児より結構じやぞよ。

厳霊・国常立尊様がかかられた出口直開祖。瑞霊・豊雲野尊様&素戔嗚尊様の分霊たる出口王仁三郎聖師。三千世界の大気違/大化け物とされる御二人に比べると、出口澄の存在は無視されがちです。しかし彼女がいなければ王仁三郎聖師が大本に落ち着けるはずもありませんでした。厳霊と瑞霊の接着剤の役割を果たした澄子教主の著作からは、王仁三郎聖師の著作(霊界物語を含む)や回想とは違った直開祖と王仁三郎聖師の姿が見えてくるのであります。

☆出口すみ子『花明山夜話』
「(二)」 、 「(三)」 、 「(四)」 、 「(五)」 、 「(六)」 、 「(八)」 、 「(十)」 、 「(十一)」 、 「(十二)」 、 「(十三)」 、 「(十四)」 、 「(十五)」 、 「(十七)」

☆出口すみ子訓話・教示集
「心にともした灯」(昭和22年12月8日、新生記念祭)
「要のご用を -新苑主就任に際して」(昭和23年2月4日節分祭)
「世の中に鑑を出そう」(昭和23年5月)
「開祖 沓島ごもりのこと」(昭和23年8月15日、瑞生大祭)
「世界和合の機を織る」(昭和23年9月)
「見当のとれなかった方」(昭和23年10月3日、開祖大祭)
「一切はお土から」(昭和23年12月8日、新生記念祭)
「弥仙山参拝の折のお話(要旨)」(昭和25年6月13日、旧4月28日)
「心をそろえて一つの世界を」(昭和25年7月1日)
「女だから出来たご用」(昭和25年8月25日、愛善婦人連合会委員総会)
「大苦難の乗りきれ-みろく殿の建設を」(昭和25年8月25日、瑞生大祭)
「“しっかりせよ!” ―世界の檜舞台は皆の心一つ」(昭和25年10月9日、於・天恩郷西光館)
「無  題」(昭和25年10月15日)
「立直しの初期時代 ―七福神の楽遊びのこと―」(昭和25年11月11日、大本大祭)
「三位一体の御用」(昭和26年1月19日、聖師三年祭)
「真のご用は梅花運動」(昭和26年8月14日、瑞生大祭)
「聖師さんとわたし」(昭和26年8月)
「開祖さまをかがみとして」(昭和26年11月)
「開祖ご昇天当時の思い出」(昭和26年11月)
「人間のすることではない」(昭和27年1月)
「浮沈の六十年」(昭和27年2月)
「節分と甘酒の由来」(昭和27年2月)
「尽きぬ思い出 ―開祖さまのことども―」(昭和27年4月)


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出口澄「花明山夜話(二)」

○出口すみ子「花明山夜話(二)」(教示集 「木の花」昭和25年5月号)

[前略]

乕雄「先月号の花明山夜話は何べん読んでみても面白く、読みやすくて少しもあきませんでした。お母さん[注:出口乕雄、旧姓・田上虎雄 は王仁三郎夫妻次女・梅野の婿]の話が惜しいところできれていて残念でした」
澄子「おまいらわしのあんなあほなことまで書いてくれて……。しかしわしも先生(王仁三郎聖師)といっしょで、てらいごとのないのが好きやで、読んでもらって面白かった」
乕雄「お母さんのああいう話しぶりが、ここの教えを親しみやすくするのですよ、世間の人があれを読むと、いい意味でちょっと面食らうのではないかと思います。」
山本「そうです、まだまだ社会では愛善苑[旧]を古い世評の枠にいれて見ていますから、あれを読めば自分たちで考えていた宗団とか管長とかいう見方が愛善苑にあてはまらないことを感じて親しみを持つと思います。」
乕雄「あの終わり方のうた “紅いべべ着て紅じょじょはいて”は読んでいるうちに自然に肥えが出てリズムがわき、明治初期の日本の児童、自分達の母の時代を思い出しました。」
澄子「わしはああいうかわいいところもあったし、またわしは子供のころは小さかったが、ごんたでははりきっていたのや。袂に石ころをいれてな、だれでも彼でもコツンコツンとたたいてまわった。」
山本「私はいつも二代さまの幼語り(おさながたり)をきくと絵本の桃太郎を思い出すのですよ。今ごろの子供にはあのような元気な子供はおりませんな。」
澄子「昔でもわしのようなのは類がないが、しかし昔は大体乱暴なことが多く祭りの神輿をかついでも、ふだん憎まれている家は半潰しにあわしたものやで。わしの子供の自分は昼間は教祖さま[注:出口なお開祖]が留守やったので好きなことをして遊んだが、中でも芝居が一番好きやった。近所の子供を集めてきて顔を塗って上手にしました。」
乕雄「聖師さまも回顧歌集で芝居をして遊ばれたことを歌っていられます。
   人間は皆本能的に芝居に興味があるのですね。大人になってもこの芽は強く潜在しています。」
澄子「それはわしばかりじゃない、だれでも芝居は好きや。教祖さまは神懸りになられました後で、神様に『ここは仕舞を舞うようになるのやから』(※1)と教えられて、神様が指導(てびき)で仕舞を舞われたことがあります。これからはここでも芝居は盛んになるし、盛んにせないかんのや。」
乕雄「いつかお母さんから大本では幕なしの芝居がかかるようになることを神様がおっしゃっていると聞きましたが、しかしいくら神様がそういう契機を送られても、芝居は人間がやるもので、我々が手をこまねいていては実現できないものです。これらの神約はやはり人間の努力の上に現れてくると思うのですが、どうも“われ笛吹けども友ら踊らず”で、現在 木の花座(当時の芝居劇団)に対して陰で下馬評はしても、積極的な理解はないのです。」

澄子「そりゃあ、そんなことはどもならん。わしはこのごろ思うとるのやが先生の楽焼[注:耀盌のこと]なぁ、あれが本当の如意宝珠やったのや(※2)。わけのわからんことをどったらこったら聞くのは前から好かんのやが、わしは近ごろ神様の話をしているより機(はた)を織っている方がたのしいのや。」

乕雄「教祖さまも大本の理想のあり方について言ってられますように、大本は奥山のようにひっそりした静かなところにならねばいかんという――私はあの言葉が好きでして、あの言葉から今後の行き方について深い教を受けるのです。同じ筆先の言葉でも『あれでならこそ』という言葉(※3)は私にはどうも意識的なものに響いてくるのです。あの奥山のような静かなところという言葉、そういう姿を早くここに実現したいと思うのですよ。今お母さんのいわれていた静かに機織りをなさっておられたいというお気持ちと同じことで、これが実現するようにさしていただかねばならんと思うのです。」
澄子「そうやで、とにかく、足元が大事やでなぁ。足元から直さないかん。教祖さまの御苦労を思う気持ちが今は少し薄れている。今は今でよいところがあるが昔の静かな親しさがなつかしい。…金沢はどうやったなぁ。」
乕雄「宗教博覧会ですか。嵯峨(保二)さんを中心にして皆さんが実によく結束されて一生懸命でした。嵯峨さんも上着をぬいで会場につめきりで陣頭指揮というところで、他の人はにわか大工もやるし、看板塗りもして大車輪の活躍でした。」
澄子「それでほかの会場と比べてどうやった。」
乕雄「それはこちらが段違いに光っています。あちらの会員の人の今度の博覧会に打ち込んだ誠が会場に満ちみちているのですな。歩いて見て、とにかくうたれますよ。」
澄子「そうでも他の団体は古い歴史を持っているし、こちらは新世帯やで心配しとったのや。それでわしはふと思いついて大本というところは世界の型を実地にさせられるところやで、昭和十年の事件、あれも写真だけ並べたんでは人にわからんでな、それであの月宮殿の仁王さんの首(※4)とか伊都能売観音(いづのめかんのん)さんの首なぁ、あの手足をバラバラにされた首を持っていって実地を見せたら分かるやろうと思ったのや。あれくらいこっちが無茶な弾圧を受けた証拠になるものはないで。しかしこわいもんや。ほとんど日本があの通りになった[現代注:日本を象徴する戦艦「大和」の最後が象徴している]。
乕雄「そりゃ実際あれを見たらだれでもこたえますよ。あれを送っていただいたので、むこうの人は大変喜んでいました。お母さんの今度の博覧会へのそういうお気持ちが非常に力になりました。」

[後略]

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出口澄「花明山夜話(三)」

○出口すみ子「花明山夜話 (三)」(教示集 「木の花」昭和25年6月号)

[前略]

乕雄「松江の方はいかがでした。」
澄子「行くたびによくなっていて、本当にうれしいことやった。」
乕雄「お母さんはこれまでにも出雲はよく行かれましたですね。」
澄子「二十何回も行っているやろう。私が初めて出雲へ行ったのは、今から四十九年前で、開祖様、聖師様、それに役員を入れて十六人やった。私の十九の時でな、旧暦の五月やったと思うが[注:1901(明治34年)7月1日(旧5月16日)綾部出発、7月12-13日にかけて出雲大社参拝]、その時初めて夏蜜柑を食べて、おいしかったのをおぼえている。」
乕雄「そのころはまだ汽車がなかったのでしょう。」
澄子「そうや、ご開祖も、聖師様も、十六人の役員もゴザ、笠、脚絆で歩いて行ったのや。水色の地に十曜の紋の羽織を着てな、皆がそろいの姿でした。神界から『出雲ノ消エズノ火ヲ受ケ取リニユケ』という仰せで行ったのやが、わしは何のことか分からなかったが、あの時は初めての遠い旅で思い出深いな。」
乕雄「徒歩ですと、ずいぶん日数がかかりましたでしょう。」
澄子「二十日もかかってな。初めての晩は福知の下の養父(やぶ)で泊まったが、いまから思うと“ばくろ宿”やった。その時みんな風呂に入っていて、私一人部屋に座って一服していると、私の前に二十二、三くらいの美しい女がいてな。ちょっと人をひきつける美人で綺麗な女やなぁと見ていながら、もしこの女の肌に入れ墨があって、女の盗人やったら恐ろしいなぁと思うた。それから夕食後、私は厠へ行った時、その女が風呂へ入っているのが見えて上半身を見てしもうたが、見事な入れ墨をしていてな、わしはさっき感じたこととピッタリ合うたので、帰ってそのことを先生に話すと、先生も『今晩はだれも警戒せい』と言うちゃったが、次の朝、その女は役員さんから改心せいと云われていたが、「実はわたしはあなた方の懐中をねらってうけてきたが、見破られた以上、断念します」というて去っていったが。」
乕雄「時代ものの映画の一シーンですな。しかしそういう大切な御用の時につけてくるとは何かあったのでしょうな。」
澄子「その時、開祖は六十いくつで、ほかは皆若い者ばかりでしたが、開祖は『年よりのおばあさんの私が若い人の先に立って歩くことはあつかましいと思うし、私もえらいし[注:大変だし]、ゆっくり歩こうと思うが、後ろから神様が押されるので、つい早く歩くのや』と言われて、後ろから押される神様にもたれるようなお姿で大へん達者に歩かれた。
 それから松江に泊まったとき、瑪瑙の“こうがい”と“かんざし”と“根がけ”を買うてもろうてな、そのころ私は髪を丸髷に結うていたので、瑪瑙細工を買うてもらった時はうれしかった。たしか七十銭やったと思うが、そのころとしては大金やった。それが事件前まで手元に大切にしてあったが、あの事件[注:第二次大本事件]で失うてしもうた。
(二代教主、少し眼をつむられて)
 それから船に乗ったな。それから神様が教祖様の梅の杖を握ってグウッと回されて『この辺りから因縁の人が出て、神世にかえす御用をするようになる』と言われた。」
乕雄「この教えが松江で盛んになるのも、お仕組なのですね。」
澄子「綾部と松江はとくに因縁がある。大本には元伊勢のお水と出雲の火をうつしてあるやろう(※1)。前の大本事件[注:第一次大本事件]は大阪の梅田で起こり、こんどの大本事件[注:第二次大本事件]は松江で起こったのや。これもみな深いわけのあることや」
乕雄「大本事件の起こった十二月八日は釈尊が悟りを開いた日で、また太平洋戦争の発端になっていますね」
澄子「大本は世界の型になるところやから、そのことが、みんなよく分からんといかん。」
乕雄「ここは生やさしいところでないのですね。どうもありがとうございました。」

[後略]

(※1)
大本神諭「明治34年旧3月7日」
 元伊勢のうぶだらひと産釜の水晶の御水は、昔から傍へも行かれん尊い清き産水でありたなれど、今度の世の立(建)替に就いて、綾部の大本から因縁のある霊魂に、大望(たいもう)な御用をさして、世を立直すには、昔の元の水晶に変らん水を汲りに遣らしてあるぞよ。艮の金神の指図でないと、この水は滅多に汲りには行けんのであるぞよ。この神が許可を出したら、何処からも指一本触へる者もないぞよ。今度の元伊勢の御用は、世界を一つに致す経綸の御用であるぞよ。もう一度出雲へ行て下されたら、出雲の御用を出来さして、天も地も世界を平均(なら)すぞよ。この御用を済して下さらんと、今度の大望な御用は分明(わかり)かけが致さんぞよ。解りかけたらば速いぞよ。

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出口澄「花明山夜話(四)」

○出口すみ子「花明山夜話 (四)」(教示集 「木の花」昭和25年7月号)
日向…日向宗朝 直日…出口直日

[前略]

乕雄「(文五郎は)立派ですよ。しかし道徳主護者には“遊”の世界の尊さや、そこから学ぼうとする積極性がないから、どうでしょうか。」
日向「このまえ『木の花』のカットに聖師様の“遊”という書が載りましたが時、私もいまの問題を考えましたが、“遊”は報身ミロクのお働きですね。」
直日「元男(直日の夫・出口日出麿の本名 高見元男)がむかし『自分はこの世に遊ぶために生まれてきた』と言っていましたが、本当ですね。」
乕雄「ちょっと聞くと変な言葉ですが、言いかえれば遊ぶということは(大本)教旨の“神人合一”の実践であり、楽天主義の本態ですから。」
澄子「さっきから、あんたらの話じっと聞いておると、一生懸命で楽しそうやな。わしも昔先生(王仁三郎聖師)が花を植えなさると『筆先に色花はいかんと言うてあるから』と、みな引き抜いていもうたことがある。後でその色花は男女の情事であると神様から教えられて、それから花やとか美しいものを大切にするようになった。天国をつくるということは、この世を楽しく生きられることやでな。それは心持ちを変えることや。わしも大分と変わってきたや。」
乕雄「お母さん、この間、お父さん(義父:王仁三郎)の『木の花』を予言されたお歌がでてきまして、

   もののふの 八十の年ふる中秋に
     世界木の花 盛りをやみん

   ……というのです。」
澄子「ちゃんど聖師さんが書いとってくれちゃったんやな!」
乕雄「いま楽天社では社友五千六百七十名達成運動をしているのですが、全く偶然の一致です。」
直日「神秘というものです。いまの愛善苑[旧]には神秘がないという人がありますが、これを見れば本当の神秘を感じていただけるでしょう。」
日向「昨年(昭和24年)の十二月八日に新発足した、楽天社の進出はめざましいものがあります。これは一にも二にも御守護のあることです。」
乕雄「本当に不思議ですね。」
直日「(前略)『木の花』の神秘は、原色のようにギラギラしたものではありませんが、いぶし銀のようにしずかな美しい高い神秘です。」


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出口澄「花明山夜話 (五)」

○出口すみ子「花明山夜話 (五)」(教示集 「木の花」昭和25年9月号)

[前略]

日向「聖師さまは、三年前の直日さまのことで、学校の先生をしかりつけられたことがありましたそうですね。」
直日「校長先生を叱りつけに行ったのです。校長先生は長岡という方でしたが、菅原道真とアダ名のついた温厚な人柄で、ちょうど法勝寺の中曽さんを思わせる方でした。」
乕雄「お父さんはなんでどなり込まれたのですか。」
直日「それが、ある日担任の先生から『ちょっと来い』といわれて行ってみると、『お前はうそつきやのう、お前のおかげでわしは校長先生にしかられたぞ』と言われるのです。私は身に覚えがないので、いきなりうそつきと言われてその時は腹が立ったのですが、後になってわかってみると、私の三年前の担任の先生が意地悪く私をしかったり、授業中白ボク(チョーク)を投げつけたりしていじめられたので、そのことをフッと思い出して話したのを、子煩悩な父がカーッとのぼせてしまい、いきなり学校へ飛んでいって、なんにも知らない校長先生をつかまえてどなりたおしたんです。
 校長先生は面くらって担任の先生を呼びつけしかられたのですが、担任の先生は覚えがないので、私がいいかげんなことを言ったのだろうと思って、『お前はうそつきやのう』と私をしかられたわけです。」
乕雄「お姉さん(義姉:出口直日)にすれば、お父さんの子煩悩がありがた迷惑だったんですね。」
澄子「先生はエライ子煩悩やったでな、子供のことというとじきカーッとなってしもうて。」
直日「向こうもこっちも三人ともエライ迷惑でした。」
澄子「先生はよくこの子(直日)の小さい時は背におんぶしていつも手に本をひろげて、読みながら歩いておられた。人が何と言おうと頓着せず、ぶらぶらと本を読みなが街へ使いにもいってくれる方でした。」
日向「聖師さまは『神霊界』(大正6年1月刊行の大本機関誌)をお出しになるころは大変だったらしいですね。」
澄子「夜中に私が目を覚ますと、夜さり寝るともなしに半紙に原稿を書いておられることや、一人で活字をコツコツとひろってゆかれるのを見ました。小竹さんが手伝いに来るまでは何もかも一人でみんなやって『神霊界』を出されていました。二百七十円の金を借りて、手刷りの機械を買われて、それで町の役場の仕事なども受けてきて刷ってられました。そのころ幸徳秋水の事件[注:大逆事件/幸徳事件]があって、大本にも警察の人が調べにきました。」
直日「あの時にもそんなことがあったのですか。」
澄子「なんで来たのか私は聞いてないが、世の中を改めるということを言っていたので、何か関係があると思うたのですやろ。」
乕雄「幸徳秋水のパトロンになる人が丹波の出で、岩○○民とかいった地方の銀行家のように聞いています。」
日向「昔の『神霊界』を読むと、聖師さまはあのころから、信者に歌を作られて御自分の和歌といっしょに毎日載せておられますが、あれを拝見しますと神様のお道と和歌はいかに御因縁の深いものかが分かります。」

(速記の高橋君が疲れているようなので、ちょっと休憩を取る。高橋君煙草に火をつける)

澄子「乕雄さん、ちょっと硯箱と紙をおくれ。こんど綾部が市になってな、そのお祝いの歌を出すことになっていたのを、いま思いついたので、

 綾の里 すえで都になるという 母の言葉をまのあたり見る

 和知川の清き流れは本宮山に上がり 生命の清水と世に下りゆく

 これでどうやろう。金龍海ができた時に、三角や四角や棒の形の餅を供えたことがあります。
 直日さん、あんたはおぼえているやろう。」
直日「美しい月夜の晩でしたね。」
澄子「あれは大きな謎でありましたのや、『大本にあることは箸のこけたことでも、よく見ておれよ。世界に出てくることがすべて映るところである。』と、神様がおっしゃってやでな。」
日向「この世を丸にしようと四角にしようと、この方のするようになるのである、ということがありますが。」

[後略]


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出口澄「花明山夜話 (六)」

○出口すみ子「花明山夜話 (六)」(教示集 「木の花」昭和25年10月号)

乕雄「お母さま、今晩はまた月例の花明山夜話をいただきにまいりました。」
澄子「ああ、そうかい。ゆっくりしてゆきや、いま梨をむいてやるでな。」
乕雄「ありがとうございます。」
澄子「綾部に行ったらミンナ言うてたで、カメヤマヨバナシて、えらい面白いて。」
乕雄「このたびは米川さんが最高点で当選したそうでおめでとうございます(注:綾部市第一回市会議員に立候補した米川清吉氏は最高点にて当選)」
澄子「神ワザやったのや、こんどはこれが世界に表れるで。」
乕雄「米川さんの演説には、真面目さと熱があったので、それが市民の人気を呼んだと言いますね。」
木田「それに九州団体参拝者の五百六十七名デモンストレーションがきいたのどすな。」
乕雄「米川さんは、綾部の繁栄は綾部に全国の人を集めることが肝要であると演説していたそうですから、アレを見た市民に異常な感動を植え付けたらしいです。」
澄子「まえに、一に大本、二に郡是(グンゼ)という唄がはやったが、こんどはその通りになった。」
乕雄「そういう民謡が以前あったのですか。」
澄子「あれはどういうところからきたのかハッキリしたことは忘れたが、明治の時分から本宮に直平という爺がいてな、その直平がどういうものか大本に敵とうてしようがなかった。それが大正四年ごろやったが、権現さんの祭りの折に、世話役の氏子同士で問答が始まったのや。大本と郡是とどちらが偉いと言い合ってな。一方はお直さん(出口なお開祖)が偉い、一方は、それやっぱり波田野さん[注:グンゼ創業者]がえらいと、どちらもなかなか譲らんので果てしがなかったが、そのうち一人が、『そら、やっぱりお直さんじゃい。波田野さんはなんぼ金があっても世界から手を合わして拝んでもらえんが、お直さんは見てみい、遠いところででも朝夕手を合わして拝んでる人があるやないか』、と言いだしたので、それには直平もウンとつまって、氏子の問答もけりがついたことがある。それから一に大本、二に郡是ということになったということや。」
木田「いつの時代にも大本にはどこかに味方がいますね。昭和十年の弾圧後ですが、今は代議士になっているノンキ節の石田一松が、

  京都で王仁を檻に入れ
    出口わからずもてあます
      ホウ、ノンキダネ、ノンキダネ

   …と大阪の寄席で唄いまして警察からしかられたことがおました。」
乕雄「なるほど面白いものですね。私もこの間、名古屋の帰り車中で同席になった人と四方山話をしていましたが、東京のセメント会社の社用で大阪に行く途中らしく、私が京都市外の亀岡に住んでいる洋画家というので、大本の話が出ましてね、先方は教祖さん[注:出口なお開祖]はエライ方です、予言通りですよ、また学問によって教祖の筆先を説明した王仁さんも偉い方ですと、エライほめだすのですよ。京都近くになって名刺をくれというのでさし上げましたが、出口というのを見て、王仁三郎さんの何かになるのでしょうと言いながら、先方もテレていましたが、こちらも今さら名乗るわけにもゆかず。」
澄子「ホホ……」

木田「むかしから大本と郡是は張り合ったのどすか。」
澄子「そんなことはないが、郡是の波田野さんはキリスト教の信者さんやでな、その当時、綾部の大本のそばの教会の牧師さんが大本のことを一々悪く言ったので、そんなことから、世間にそう見えたのかも知らん。」
乕雄「お父さんは初めは綾部の牧師さんと仲良くされていたように聞いていますが。」
澄子「そうや、梅野[注:王仁三郎夫妻次女]がまだ生まれんころ、朝野[注:出口直日の本名]を守りしながらよく教会に遊びに行かれたものや。そのころは大本も難しい時代で、厳と瑞とのタタカイの激しくでていたころで、そのころ聖師さまは暇さえあると教会の門をくぐられてキリスト教の研究をされたものです。何しろ先生は熱心に勉強されるし、一を聞いて十を知るというずば抜けた人やったので、牧師が感心して自分の後継ぎにしようと思って、大変先生を大切にしたらしいです。」
木田「そら大した弟子が現れたと思って喜んだのでしょう。」
澄子「ちょうど、そのころ教祖さま(直)と先生(王仁三郎)との霊的なタタカイを見て知っていたので、先生に『別にお澄さんがアンタの一生を捨てるよな美人でなし、お直さんに財産があるでなし、ケンカばかりしてないで――人目には親子ゲンカとしか見えないからな――ワシのあとを継いだらどうや、上田さんアンタだけの頭があったら日本でも有名な牧師になれるのに』と言ったそうです。ところが先生はキリスト教の奥をつかんでしまうと、それからは大本も忙しくなって、毎日のようには教会へ遊びに行けなくなったので、お直さんに上田さんを取られたと言うて、それから大本の悪口を言うようになったのや。」
木田「お澄みさんが美人でなしとはどんな眼の玉しとりましたんですやろう。二代さまのお若い時は、ほんまに美人どすがな、ワタイ幻灯に映った二代さまをみながら四方春蔵やとか、みんなが聖師さまとの間を敵にして騒いだのは無理ないと思いました。」
乕雄「お父さんが機嫌のよい時にはよく、おっしゃってましたな。『わしは南桑(なんそう)一の美男子、おすみは何鹿(いかるが)一の美人やってな』と。」(笑い声)

澄子「この大本の厳と瑞との争いというものは、他の教団では合点がゆかんことらしい。」
木田「ワテラでも初めは何やケッタイな、なんで一つの道の神様がそんなに争われるなんてと思っておりましたもんです。」
乕雄「現代の宗教人の理念をもってしては理解できないものでしょう。大本の歴史ほど神秘で深い真実を蔵しているものは他にないと思います。安易な倫理宗教の尺度をもってすれば非道徳的なものに解せられてしまうでしょうが。」
木田「そういう意味で私は今度の『おさながたり』[注:出口すみ教主の自伝]の進展に非常な期待をかけているのですが、二代さまの主観に照らされて、大本史の眼目であるところの厳之御霊、瑞之御霊の二大霊流がどういうふうに語られるかということについて」
澄子「さあ梨がむけた。おたべ、まだあるでな。」
木田「二代さま、おいただきします。――『霊界物語』の初発の文章“発端”に『龍宮館には変性男子の神系と、変性女子の神系との二代系統が、歴然として区別されている』と書き記されてありますが。」
澄子「そうや、わしが時あるごとに、むかしがたりをするのも、この大本ができあがった初発の御苦労をみなによく腹に入れてもらいたいからや、ここが天地の根本やからな。大本にあったことが、新しい神代の始まりやでな。それで綾部の龍宮館を世の大本と言うのやで、これはよう心の目を開いてみてもらわんならん。」
乕雄「教祖さまのご苦労というものは、ただ単に貧苦が激しかったとか、自分の子供たちが不幸な境遇に落ちたとかいうそういうことだけでなく、それらの内側に貫いているもっと大きな問題があったということですね」
木田「そう、そうでしょう。貧苦と戦った人は他にもあり、悲惨な運命にあった人はこの世にも多くありますから。」
乕雄「でありますから、われわれは大本創生記をもう一度見直さねばなりません。なにが本当の教祖さま、聖師さまの御苦労であったかということを、はっきり把握しなければならないと思います。」
木田「そうでないと本当の力が腹からわいてきませんな。」
澄子「その腹が大事なのや、この教えはまず腹から腹へ響かせてゆかんならん。」
乕雄「現代の宗教運動の多くは、頭から頭へものを移そうとすることばかりに専念しているところがありますね。」
木田「頭から頭へ移す運動は結果において非常に弱いように思うのです。」
乕雄「現代的リアリズムの敗北ですね。」
木田「聖師さまが人と面会される場合にも、理論的な話はなさらず、いつも全人間として会ってられた場合が多かったと思うのどすが。」
乕雄「宣伝歌には、歓喜の情を湛えつつ幽玄微妙の道を説け、とありますが、私はこんなことを思うのです。厳系と瑞系の二大霊流は、宇宙の根本霊流であり、あらゆるものに普遍していると思うのです。これは心理学においてもまた色彩の世界においても、いえるのではないかと思います。そういう意味で大本の出現は今後の文化母体になる非常に意味の深いものがあると思います。」
澄子「名前はいま、まだいえんが、このあいだある筋の偉い人が来て、『霊界物語』のことを言ってたが、東西の古典、仏典や聖書まで一切のものがあの中にちゃんと含まれている。あんなものを腹の中から吐き出している大本という所はとてつもない大きい所やというて感心していました。」
木田「お筆先にも、心を大きくもってくれとありますが、われわれは神様の言葉を腹にふくませて大きな気持ちにならしていただかななりません。」
澄子「ほかのところでは霊界のことが分からんやろ。大本ほど“みたま祭り”のことがはっきりしたところはあらへん。大本の“みたま祭り”をみて『これで死んでも安心や』というていた人がある。」
木田「キリスト教には御霊祭りがなく、仏教も日本に入るまでは祖霊を祀るというようなことはなかったのですな。」
乕雄「来月号の原稿に西宮の中島省三さんが霊界通信――死後の生活と芸術について――を書いておられます。天国へ行くにも、中有界で芸術の修行を受けねばならぬそうです。」
澄子「そらそうやがな、世が変わったのやで、大本は三千世界を立替えるのやから霊界もさらつになるのや。聖師さまが昇天されてからは霊界もえらい変わり方や。」
木田「そうですか。やかましい聖師さまのことやから霊界でも歌を作れ、というてはり切ってられますやろうから、霊界も忙しいことでしょう。」
澄子「大本の宣伝使が国替えすると、あっちからもこっちからもお話を聞かしてくれエというて、他の教団の霊界からも頼みに来ていそがしいうしている。」
木田「大阪のエスミさんの霊界通信にも、聖師さまのところは毎日お客さんがいっぱいで、賄い係も道具係も忙しうて、てんてこ舞いやとありました。」
澄子「ミロクさまがお出ましになりお帰りになったので、霊界も変わりよります。霊界が変わるので現界もまだまだ変わります。楽天社が大きくなるのも霊界の写しや、わしももう金はかかるし年も寄ったし、機(はた)どもしやせんと思うていたが、いややのにせんならんようになってくる。それが仕掛けたら好きで好きで、じっとしておれん。」
乕雄「お父さんは茶碗を残されましたが、お母さんはこれから立派な織物をたくさん作っていただきたいと思います。最近、綾部で織られましたのは色合いといい模様といい、立派ですね。淡墨色というか、あのホンノリとした黒は他のものでは見られない静かな立派な色です。」
澄子「大本の中の鶴山の木で染めたのや、地の高天原の草木と龍宮海の底から湧きでる水で染めてあるのや。神様が『澄には珍しい機を織らす』(※1)と言われたから私はどうしても機を織らないかん因縁になっている。教祖さまが経(たて)、聖師さまが緯(よこ)、私がこれから世界の大機を織るのやで、みんな、しっかりやりなよ。」

(※1)
大本神諭「明治31年11月30日」
 昔の世は裃で、何に彼の事が儀式が立ちて、規律が良く付いて居りたなれど、外国の教が善いと申して、現代の大将までも洋服を着て、沓を履く如うな時節に成りてしまふて、裃は全然破れて、間に合はん事に成りて居りたなれど、矢張り日本は上下が揃はんと、口舌が絶えんから、昨年から大本には、破れた裃を解いて、全部緯糸に織りて、世のツクネ直しの証をして見せたぞよ。その機(はた)は澄子が正真の機を織る、芽を出す折の筆先で在るが、綾部の大本に在りた事は皆世界に在るぞよ。何も大本にして見せるぞよ。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

出口澄「花明山夜話(八)」

○出口すみ子「花明山夜話 (八)」(教示集 「木の花」昭和26年1月号)

山本萩江「年の初めで、何かと御多忙のところ、ご迷惑とは存じましたが、実は二代さまが明日綾部にお帰りになりさらに紀州路に御旅行になるよう承りましたので、今夕突然新春”花明山夜話”の催しを行うことになり、工房にお集まり願いました次第です。どうぞよろしくお願いします。」
乕雄「二代さまは?」
山本「ただ今、瑞祥館に参りまして申し上げましたところ、ご揮毫の最中でして、済み次第に来てくださるとのことでした。」

――その時、内海健郎ご入来――

内海「三代さまはこちらでしたが、これはうまいところへ参りました。カムナガラタマチハエマセ。」
直日「まあ内海のお爺さん、狂言を見ているようですわ。」
内海「新年早々、聖師さまのお茶碗の袋と箱ができて参りましたので、今日は銘をお願いして箱書きをしていただきたいと思いまして、どうかよろしくお願いいたします。それでは早速に捧持して上がります。」
直日「お爺さんになるとよろしおすな、人の言うことは聞こえなくとも、自分の言いたいことだけはさっさと言っといて。まあ、どうしましょう。箱書きなど、うまくできますかしら。」
乕雄「ご謙遜には及びません。あんなに喜んで帰られたからには、すぐに御持参ですよ。」(笑い声)
日向「内海さんはこの前の病気でもう危ないところまでゆかれたのですが、その時奥さんに『ほかに心残りはないが、聖師さまがあれだけ精魂込めてお造りになり しかもお手づからお授けいただいた楽茶碗が、まだお箱もさしていただけないままになっている』と言って嘆かれたということです。ところが御神徳を頂いて命拾いをされ、私がお見舞いにあがったとき、そのご相談をうけましたので、京都で名人と言われている方に一切を依頼してあげたのです。」

――内海翁角盆の上に置き並べたる数個の桐箱をささげて再び御入来、座に着くや直ちに一個を直日先生の前に――折から苑主(澄子)、梅田夫人をつれて御光来――

内海「これは、これは、二代様まで、また今日はなんて間がいいんでしょう。カ・ン・ナ・ガ・ラ・タ・マ・チ・ハ・エ・マ・セ。」
直日「内海さんの面白いこと。」
澄子「やっこらしょ。内海さんもきとってんか。」
乕雄「お母さん、どうぞお炬燵に。」
澄子「これはええ具合やな。わしも綾部にこういうところを作りたいなぁ。」
木田「それはぜひ、綾部の機場(はたば)は芸術的な工房にさしていただきたいものです。」
直日「内海さんどこでお作りになりましたの、よい箱ですこと、袋もよく合っておりますわ。」
内海「いくらかかってもいいから、充分に念を入れて作ってくれろって、そう言ってやりましたので。」

――名物裂うつしの袋より、まばゆき藤色の耀碗が現れる。

直日「まあ。」
乕雄「これはすごいものですな。他に類形がないように思います。」
日向「なるほど内海さんの秘蔵のものだけあり、まことに御立派なるものを。」
直日「藤色というのでしょうか、古代紫といいますか、このような美しい紫を私はまだ知りません――“紫野”――そうです“紫野”という銘にしましょと。平安朝のころの朝廷の薬草園の名です。そのころは普通人は足を踏み入れることさえ禁じられていましたそうで、往時の紫野は美しい極みであったことと偲ばれます。」
澄子「みればみるほど、よい“うつわ”やな。ようこんなものが作られたものどすな。」
直日「東京で久志さんという方でしたか、父の作碗を孤高の作品という言葉で賞めてくださいましたが、本当にそうですね。こういう美しいものを作っても周囲には誰も美を理解するものがなくて、どれだけ淋しいことだったでしょう。そういう寂しさの中で孤独に美を楽しんでいた父の孤高の精神が作品をみているとわかってくるようです。」
澄子「ほんまに、誰も賞めて上げるでなし。」
乕雄「父が宗教家であったと同時にこのような美を創り楽しんだ芸術家であったことは、まだほんの少ししか認められていません。しかし私たちは今からでも、父の真の姿を学ばさしていただきたいと思います。」

――つぎつぎと机の上に桐箱が運ばれ、桐箱の蓋がとられると、中から緞子(どんす)の袋に包まれたまま出され、袋の口袋が解かれて、耀盌がその名の如く人々の目の前に耀き初める。この日の耀盌は加藤義一郎先生も御覧になってないらしく、みなさまも初見にて、一つ一つ机の上におかれるごとに感嘆の声があがる。

日向「これは内海さん大したものばかり頂いておられて、いままで秘しておられるとは。」
澄子「喜んどってやったはずや。両手で脇の下にかかえるようにして見せにきてやったが。」
直日「まあ、まあ、ほんとうにどうでしょう。こんなによくては銘のつけようがありません。」

――“花影”、“春日野”、“若女”、“潤水”とそれぞれのお茶盌に銘がきまり、また嘆声がおこる――

乕雄「内海さん鼻が高いでしょう。」
内海「聖師さまはいつでも『どれでも良いと思うのをとって持ってゆけ』とおっしゃいましたので、他の人はアレコレと自分の眼で選んで、それではこれをと言っていましたが、私は『聖師さまが私にやろうと思し召すのを、どうぞお授けくださいませ』と申し上げたのでいつでも聖師さま御自身が選んでくださって、お手づから私に渡してくださいました。それですから私のところには、聖師さまのお眼鏡によるものばかり頂いております。」
澄子「よろしおしたな。――鶴山に妻は錦の機(はた)を織り――と先生が歌碑にも書いてくれやったで、私はこれからこの茶盌の着物になる錦の袋を織ってあげよう。草木染めですれば良いのができるで。」
日向「それはこの裂(きれ)の元になる裂はみな植物染めです。漢島の縞裂のようなものでも、二代さまが縞がらをお作りになれば、これはまた天下の名物です。」
澄子「きれいな着物をきせて、きれいなお家に入れて……。」
直日「まあ、どうでしょうこれも。」
澄子「その茶盌は内海さんを見ているようやで。」
内海「エッ、私し、あら恥ずかしや恥ずかしや。」
直日「内海さんはなかなかの狂言師ですね。ほんとにこのお茶盌は内海さんの感じです。」
乕雄「内海の春としたらどうでしょう。」
直日「なるほど内海の春ですね。大体に春と夏の茶盌が多く、秋と冬の感じの茶盌は少ないですね。」
澄子「それに気性が春から夏へかけての感じの人やったから。」
直日「この一碗は冬山の感じですね。“松の風”という銘にしましょう。粋なものですね。この一碗は“色香”という銘にしましょう。古今集でしたか――春の夜のやみはあやなしむめの花、色をも香をも知る人ぞ知る――という歌がありましたでしょう。あとの一碗は“青垣山”という銘にしましょう。」
乕雄「刻の深い彫刻を見ているようですな。」
澄子「先生は、その彫刻をするから道具を買え、彫刻がしたい、彫刻がしたいとおっしゃってやった。それは御昇天の前までおっしやってやった。
乕雄「そうですか。それは惜しいことでしたね。」

――箱書きが終わると内海翁は拍手をうって――

内海「これはどうもありがとうございました。これで安心して眠れます。」

――内海翁前の如く角盆の上に耀盌をおさめて退場。

木田「内海さんのように、茶盌を大切にさしていただくといいですな。」
日向「新春早々眼の覚めるような綺麗なお宝を拝ませていただき、結構な御神徳をいただきました。」
乕雄「お母さま、おいそがしいところをありがとうございました。いろいろ御心配をかけまして楽天社一同に代わりましてお礼申し上げます。」
澄子「今度の火事(昭和25年12月31日午前2時、亀岡天恩郷本部事務所焼失)は、日の出で目出度いのや[注:この火事の意義については出口すみ子「三位一体の御用」を参照されたい]。火のない楽天社から火が出たのやで、これからは、楽天社は大きくなるで。昔から焼け太りというが、今年はようなるで。ちょうど焼けた時間が暁方のさし潮やろう。それに同じ晩、舞鶴でも火事があって、鶴亀から火の手があがって日の出を向かえたのや。それが明けて卯の春やろう。宇知麿(王仁三郎夫妻三女・八重野の夫)が卯の年で、聖師様は宇知麿をつれて外国にいって働いとってや。」
木田「町の人が大本さんは、焼け太りやで見とってみいと言うでいます。」
澄子「これは神様がなさったことや。しかし皆は反省するところは反省し、本当に元気を出して、千騎一騎の御用をつとめさしてもらわんならんで。」
木田「十二月号の『木の花』の“おさながたり”をいただきましても、二代さまのお小さい時は大変な御苦労をされています。」
澄子「ううん、この婆さんはえらい目に逢うとるので、今度はどんなことが出とるのや。」

――乕雄氏 合併号の“おさながたり”を音読すれば苑主眼をつぶって静かに聞かれる。

澄子「わしはこれまでに実地の苦労を神さんからさしてもらったでなぁ。子供の時の苦労は忘れられんものや。中でも王子の苦労はわしはもう死のうと思うたくらいやでなぁ。なんであんなにいじめられたのか訳が分からん。王子は酒呑童子(しゅてんどうじ)のいた大江山のあるところやからその悪霊がわざわいしたのですな。とにかくお琴さん[注:出口なお開祖次女]は今の言葉でいう虚栄心のたかい人でした。商売の髪結いで十円儲けると派手に使うて人目には二十円くらい使うたようにみせる。つまりえらそばりたい性分でした。それで、綾部の自分の親元のことも自慢しぬいていたので、その親元から厄介者がきたと思うて世間体のみから辛くあたったのでしょう。お龍さん[注:なお開祖四女]も七つくらいの時、お琴さんのところに子守りに来てえらい眼にあわされたということです。半期ぐらいいたそうですが、お米姉さんが[注:なお開祖長女]が、王子にみにきた時やせてやせてひょろひょろになっていたのでお米姉さんがひどう泣いて『食わさんとこんなにしてしもた』というてお菓子やらいろいろ買うてお龍さんに食べ食べ言うて、お龍さんは空き腹に食い過ぎてヘド吐いたそうです。お米姉さんは『これではあんまり可愛想や』というてお龍さんを綾部に連れて帰ったそうです。そのあとでまた私が行ったので親元から代わりの妹が厄介もんに来ているとでも近所から言われるのを恐れてですやろ。私をいじめぬいたのです。

 晩げになると毎晩、肩打ちをさせられました。それも『わしらは寝るさかい、お前もねむとうなったらそこそこ肩打ちしたらねるがよい』というてくれるのならまだよいのですが、自分ら夫婦はぐうぐう高鼾で寝ていても私が昼間の疲れでうっかり姉さんのそばに倒れようものなら『コラやっかいもん、誰のおかげでメシを食うとるのじゃ』と言われてなかなか肩打ちはやめさしてくれません。それから夜中の十二時過ぎに神社の下の泉へ真っ暗な道を姉さんの飲み水を汲みにやらされたことがあんまりこわかったので覚えています。長煙管(ながきせる)で叩かれたことや、庭にけり落とされたことは何べんあったか分かりません。夜、平太という姉の子をおんぶして疲れ、家にはいりかけてはへっこみ、平太が泣くとそれを拍子に家にはいりましたが、一度はもう死のうと思うて平太を連れて行って死んだら姉さんに叱られるし、家におきに行って姉さんに逢うのがこあいし、幾度も迷いました。」

直日「そこいらがお母さんも子供だったのですな。平太を連れて行って死んだら姉さんに叱られるなんて、死んでからまでこわがるところが。」
木田「どうも二代様からじかにこういうお話をきくと胸がつまってきます。しかしようそれだけ御苦労をされてひがまれなかったものですな。」
澄子「それが“おかげ”です。そういう苦しい時代の私にも楽しい思い出もあります。今は汽車で行くが昔は街道を歩いて京都に行ったので京街道の道筋になっていた王子は道の両側の家に赤毛布を敷いた床机が置いてあって絣(かすり)や縞の着物を着た女の人が『まあお入りやす、まあお入りやす。休んでおいきやす』というて道行く人を呼んでいたものです。」
乕雄「そのころは賑やかだったのですね。」
澄子「そうや、車力も人力も商人も旅人もみな休む茶屋があって、お琴姉さんの家の前も茶店で、こんやく、くわいが一皿二文か三文で皿にのせてあった。お茶は一厘五毛で飲んだ後の湯呑みの中へチャリンと音をたてて入れて行くのや。」

乕雄「そのころですね。お父さんと初めて逢われたのは(※1)。」
澄子「わしは覚えてないけど、先生は毎日、車力をひっぱって京都へ通われたので『王子の茶店で一服している時、子供をおんぶしたかわいい女の子がいつでもわしの休んでいる前に立っていたがあれがお前やったのやなぁ』と言うてでした。」

木田「私この前、二代さまのお供をしてバスで王子を越えたことがありますが、その時、二代様が幼いころの行場として感無量のものがありましたと想像しておりましたが、『木田さん、王子にいたころなぁ、いつも面白い唄を唄うて車引きが通ったのや。“ちょんこどころか今日のこのごろは五厘の煙草も買いかねる”というてなぁ』と明治初年の俗謡をお唄いになった明るさに非常に驚かされました。」
澄子「ああ、あの唄か、悠長なものやろ。昔は言う言葉はきたなかったが、風情のあったものや、今は言葉はようてもかえって乱れている。昔の煮売り屋はそんな唄を唄うてたわいないことを言うて働人が一服していた。火鉢に土瓶がかけてあって、勝手に入って飲んで茶代を置いて行くんや。柿が一盛り二銭で売ってあったが竹の筒がおいてあって買うた人が金を入れて置くのや。また障子を開けてお婆さんがお針をしている店もあった。一枡に栗が盛ったのやら、“こうじみかん”というて小さな種のあるみかんが盛ってあってなあ。昔はよいものやって。」
直日「お母さんが大法師から教えてもろうた唄がありましたね。」
澄子「あああれか、あれは王子に来るずっと前、綾部で教祖様と二人で住んでいた時分に習うたのや。ある日、五十くらいのお婆さんが教祖様が門で飯炊きをしておられるとこへ来て話しこみ、教祖様もお茶をくんで話しておられると、晩げになってもそのお婆さんが『あんたんとこ二人暮らしなら一晩だけわしを泊めてくれんか』というので教祖様も『どうぞお泊りやす』というて泊められました。それが一晩でなくずっと、座りこんで五十日近うもいて教祖様も食べさせるのに困られたことがあった。そのお婆さんが、どえらい大法師やって。」
乕雄「大法師ってなんですね。」
澄子「今でいう山師やが綾部では大法師というていた。なんでも舞鶴に男があってその婆さんは鳥取の方から来たらしいが、毎日、土を探しに行って赤瓦を焼いて一儲けするつもりやったらしいが、お米姉さんのところへ立派な箱包みを持って行って、この中に大切な物が入っている、これを預けて行くから舞鶴で金を取ってくるまで少し借してくれいというて、お米さんから金を取って出て行ったきりになった。後でその箱を調べたら、中身は瓦やったそうな。まあ、そんなお婆さんやったが毎日わしを相手に遊んでくれ、そのころはやり唄を教えてくれた。それでわしが八木へ奉公に行っているころも、みんながわしをみると『おすみさん唄を唄うてんか』というて唄を唄わした。またオー澄みさん奥の方から雨がざあざあ降って来たでと言ってわしをからかった。八木辺りではそのころ京都の方を上方、綾部の方を奥というたのや。」
乕雄「大法師の教えてくれた唄はどんなのでしたか。」
澄子「それか、“みかんきんきん、こちやすかん、こどもにたくさんやりゃ毒ぢゃ。にはとりはだしで土つかぬ。相撲とりゃ、はだかで風引かぬ。橋のらんかん屋根ふかぬ。馬は○して○ふかぬ”というのや(笑い声) みんなが面白がってわしに唄わした。昔はべったり子守りをやとうような家は少なく忙しい時だけ二十日とか五十日とか子守りに雇われた。八木でも、魚屋、枡屋、酒屋と方々に雇われた。また隣の彦兵衛さんとこの八木の姉さんはおのちゃんという子の守りもしました。後では神様の御都合でああいう役に回らされたが親切な姉さんであった。[注:開祖三女・福島久子には一時期、金毛九尾狐が憑依し、王仁三郎聖師と激しく対立した。] 私の髪をキリッとした気のきいた男結げに結うてくれ、そのころ、指輪でもサンゴ、サンゴ珠のかんざしをくれた。珠がはやって、それを夜半に便所に行って落とし、便所から取り出しで前の小川で洗うたことがあった。八木の兄さん[注:久子の夫、福島寅之介]は私の顔を見ると『この子はようなればとことんようなる、悪うなれば手に負えん者になるやろう』といいながらまた『この子の顔、この子の眼をみてみい。ただの子ではないわい、ご飯だけはよう食べさしてやれい』というて大切にしてくれましたが、私は遠慮な気持ちがありまして、家にいるよりはどんな寒い小雪がちらつく日でもコクバかきに山で働くのを楽しみました。姉は働き者で私にセリやタンポポを摘まし時分は冬でも川へ雑魚取りに行って、きりつめたくらしをしていました。ある時、そのころ亡くなっていた福島の大祖母さんのことで義兄と姉がいさかいをし、そのことがあって私は綿入れの着物二枚と、紅もじのいまきを作ってもらって王子へ行きました。王子ではそれもとられてしもうたがよ。」
直日「まあ脱衣婆さんのようでわ。腹が立ちますね。」
澄子「王子にいたころ、やっぱり一番楽しかったのは亀岡に糸引きに来ておられた教祖様に逢いに行くことでした。不思議にそのころ、道に煎り豆が落ちていてそれを拾うて食べるのも楽しかった。ご飯というては仏さんに供える小さいお茶碗、あれに一ぜんより食べられんものやと思うておったからなぁ。」
日向「その教祖様が糸引きに来られた家というのは今、小山内匠さんが住んでられる家の隣なそうです。小山さんの住まいは元は亀岡一の八百屋だったとかで金助というたそうですから。」
澄子「王子で上下の豊助さんに逢うた時、『小父さん、すまんけど三銭借してんか』というたのを覚えてるが、よほど腹が空っていたらしいので教祖さまに逢うて豆など買うてもらうのは楽しかった。教祖様はわしが行くと仕事が手につかんらしく糸引きをやめて、食べ物を買ってきては私にくださいました。まあ、昔のことはこのくらいにしておこう。わしも今年は七十歳になった。はっきりしたことはいえんが行かんならんようになったら四月にはローマへも行く[注:ローマ行きは取次ぎ役員の反対で頓挫した]。子供の時、ブイコ(ブランコ)に乗って遊んだ気になって飛行機に乗って飛んで行くつもりや。信神一つで力はなんぼでも湧いてくるところやから、みんなもしっかりやりなよ。」

――木の花座 田武謙三氏、夫人母堂を案内して苑主に面会あり、苑主面談のあと瑞祥館にお帰りになる。

乕雄「お母さんの一人話になりましたがいつもながらお母さんの御記憶のよいのには驚きます。」
直日「どういう頭なのでしょう。お母さんは今度の火事を綾部で聞かれた時、最初からめでたいめでたいといっていられたそうですが、自分の家が焼けても喜んでいる人が世の中におるものでしょうか。今朝も信者さんに話されているのを側で聞いていると漫才を聞いているようでした。」

[後略]

(※1)
伊都能売神諭「大正7年12月2日」
 艮の金神が出口直の娘を王子(わうじ)と八木へ遣りてありたのは、神の経綸であると申して、男子の手と口とで知らして在りたが、王子の梨木峠(なしのきとうげ)で、昔からの因縁に由りて本田親徳(ほんだちかあつ)と変性女子との面会をさして、女子に霊学を授けるやうに致したのも、王子の産土(うぶすな)暗(くらが)りの宮を仲立に致しての事でありたぞよ。澄子も王子へ暫く遣りて、幼い年から色々と人の能ふせん辛い目をさして在りたが、其時から変性女子に面会さして綱が掛けてありたので在るから、肉体は二代と夫婦に致して、坤の金神の奧役を為してあるぞよ。是も人民には一寸見当の取れん仕組であるぞよ。八木へ久子を遣りてあるのも、深い経綸であると申したが、明治三十一年の紅葉の色の真盛りに、八木からの頼みで変性女子が参りたのであるぞよ。


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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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