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大本教開祖御傳記(目録)

☆大本教開祖御傳記/大本教の活歴史

〔出口王仁三郎聖師が百済博士のペンネームで著述。大正二年十月十五日、大日本修斎会本部パンフレットで発行された。“大本教開祖御伝記 第壱巻”の標記あり。うち、壱・弐と“道歌並に教憲論”が合わせて一冊となっている。〕

○現在の大本教や出口和明が伝える出口なお開祖の伝記と、大正時代・第一次大本事件前(皇道大本時代)に発行された出口なお開祖伝には差異があります。このたびは出口王仁三郎著 『大本教開祖御傳記』 を公開しました。特に開祖と大槻鹿造のやりとりからは、後年の伝記では中々感じとれない生々しさを感じます。句読点と一部表記を現代風に変更しています。原文をお読みになりたい方は、上記・国立国会図書館デジタルコレクションを参照してください。

(壱)「開祖の前半生」
(弐)「開祖の霊夢」
(参)「長沢雄楯と本田親徳」
(四)「神懸りの実験」
(五)「八木の出会い」
(六)「大本教の活歴史」
(七)「開祖の寄行」
(八)「座敷牢」
(九)「大槻鹿造」
(十)「附録 道歌(1)」



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大本教開祖御傳記(1)

☆大本教の活歴史 百済くだら博士はかせ(出口王仁三郎)稿

 大日本修斎会しゅうさいかいが宣教する皇道だいほんきょうは、大正維新の聖代に最も適當てきとうしたる真の宗教である。同教の開祖はぐち なほって当年とって七十八歳の高齢であるが、なお生々しゃくしゃくとして壮年者も及ばない程の元気で、じつげつごとき教理を日夜淳々じゅんじゅんとしてまず屈せず、国家社会の為に唱導しょうどうして居らるるのである。開祖は元来の無学で眼に一丁字ていじも無かったのであるが、去る明治二十五年に突然と神人感合の妙境みょうきょうに入り給うて以来、わずかに平仮名をかいさるる事と成った。そして社会の出来事は何時も前日、いな数年前に維神いしんの筆をふるって予言し、百発百中ごうあやまられた事は無いのである。
 開祖は慈悲の権化ごんげともふべき御方であって、又如何いかなる艱苦かんくにも忍耐し得る特性を備えて居らるるのである。いずれも一つの宗教をおこす位な人は、異常の精神を持って居るものである。創開そうかい以来日なお浅きにもかかわらず、今日こんにち既に数百の教弟おしへごと数万の信徒をかぞふるに至ったのは、まったく開祖の壮厳なる人格の力と言わねばならぬ。開祖の無限の大慈悲心は、今日の国家社会に必要欠くべからざる真の宗教を造るに至った事を思えば、至誠しせいの力は実に不可思議な程伸張しんちょう発揮はっきするものと、感歎かんたんせざるを得ないのである。開祖の慈愛と一定不変・公明正大こうめいせいだいの行為と神力とは、かる大宗教を創立すべき充分の価値がある。宗教は理屈や学文では無いのだから、宗教の事柄に詳しい学者が必ずしも宗教家では無い。表面のみの宗教家やウソツキの神道家しんとうかは、今日は余り沢山たくさんに有り過ぎて困るのである。

 そもそも宗教の本領ほんりょうは洋の東西を問わず人種の異同いどうを論ぜず、地球上在りと所在あらゆる国土の人類は、貴賤きせん貧富ひんぷ男女なんにょ老幼ろうようを問わず、如何な悲惨な状態におちゐってる者でも之を救い上げて、安心せしめ立命せしめて、如何なる者にいても総ての方面に力をあたえ、社会の幸福 ける人民総ての幸福を進め、国家の実力を進めて種々天地に代わるの功用をあらはさねばならぬ。の功用をあらわすべき神変不測しんぺんふそくの惟神の道は、天地宇宙到る所に充満みちみちてあるのである。
 道とは「天地てんちち」と云う意義で、吾人ごじんの力すなわ真心まごころが天地に充ちて天地の神と一致すれば、絶對ぜったい広遠こうえんな働きが出来て大活動者だいかつどうしゃとなるのである。すなわち生きながら神とれるのである。西洋の誰やらが言ったように、何事も自己の脈搏みゃくはくの上にこころみられたもので無くては、千百の知解ちかいといえども屁一つの役にも立たぬ。大本教はどうだの、開祖はどうだのと一回の研究もないものが、到底大本教の真諦しんていあきらむる事は出来ぬのである。

 開祖は頭髪純白じゅんはくにして容顔ようがん麗美れいび あたかも玉のごとく、口をづれば威儀いぎ高く英姿えいしおのずから備わり、口をひらけば温柔おんじゅう相貌すぼう愛らしく、美言びげん美辞びじ一言いちけん一句いっく粗野のおもむく、其の眼元・口元よりあふるゝばかりの愛嬌あいきょうただもって、不知しらず不知しらずの間に世人せじんを引き付ける技倆ぎりょうが備わって居る。何人でも一度、面談したものは、終身しゅうしんその温容おんようを忘るる事が出来ぬのである。まったく開祖の大慈だいじ大悲だいひの真心が、人を心底より感動せしむるわけである。

 開祖は天保てんぽ七年(旧)十二月十六日を以て、丹波国たんばのくに福知山ふくちやま町一宮神社(※1)氏子うじことして降誕こうたんされたのである。同地の士族 桐村きりむら五郎ごろ三郎ざぶろうの長女で、家兄を清兵衛せいべえと云い、桐村家を相続せられた。開祖は二十歳の花も恥じらうと云う妙齢みょうれいの春は弥生やよいの十五日、綾部あやべあざ本宮ほんぐうつぼうちなる出口政五郎まさごろうと云う大匠だいくし、一家きわめてむつまじく三男五女をげられた。長男竹造たけぞう、二男を清吉せいきち、三男を伝吉でんきちと云い、亦長女をヨネ、二女をコト、三女をヒサ、四女をリョウ、五女をスミと云う。新斎主しんさいしゅ末子ばっしのスミ子が継承けいしょうして居るのである。

 政五郎は建築術に達した人で、何時ものみのこぎり丁能てのうとを手拭てぬぐいにくくり付けて作事場へ行くので、そのほかには道具一切いっさい所持せなかったと云う気楽な大工であった。元来、滑稽こっけい洒脱しゃだつにして家事には少しも頓着とんちゃく無く、金銭は得るに従って酒食に費消ひしょうするのみならず、祖先伝来の田畑も全部売り払って飲んでまった。或時あるとき破屋あばらやの改築してこれに住む事となった。一切紅柄染べにがらぬりかわらぶきであった。政五郎落成らくせい祝いにたわむれていわく、

稲荷いなりの様な家建てて すずは無けれどうちはガラガラ」

 貧困一家を襲うも少しも意に介さず、常に奇声を放っては大笑たいしょうし、怪姿かいしもてあそんでは顛倒てんとうし、人のあごを解き、諧謔かいぎゃく剽軽ひょうきん限り無く、酒の為には遂には紅柄の新宅までまたたく間にんで仕まった。政五郎またたわむこわきものは無し、家打ち込めど穴は塞がず」、或時また「隣家には餅搗もちつく音のきこゆれど我は青息つくばかりなり」。大酒はその身にたたりして明治十八年の二月八日、六十一歳を一期いちごとして冥土めいど黄泉こうせんの旅におもむいた。 開祖は時に五十二歳、八人の男女を教養すべき大責任は、婦人の一身にかかって来たのである。

 政五郎氏は酒毒しゅどくの為につい中風症ちゅうふうしょうに悩まされ、身体手足の自由を失い横臥おうかすること三年、開祖はごう倦怠けんたいの色無く、忠実に懇切こんせつに看護いたらざる無く郷里の模範もはんしょうされて居られた。政五郎氏は開祖の小商売こあきないいでらるる後姿を寝床より見送り、常に涙を流し合掌がっしょうして、現在の女房つまを神のごとうるわしき貞操みさをを感謝された。
 帰幽きゆうの当日、開祖及び八人の児を枕頭まくらべに呼び集め、永年間えいねんかん開祖のあつき看護と親切と貞操とを呉々くれぐれも感謝し、且又かつまた我が死せる後の開祖の心労の一層加わるきを思いては涙に声を曇らせ、また八人の愛児に対しては、「勤勉正直をもって其の身を立て、家を起こし、独立独歩必ず人の救助を受くることなかれ。父は誤って、一生を酔生すゐしょう夢死むしうちに過ごしたりといえども、汝等なんじらは必ず父の素行そこうを見習うこと無き様呉々くれぐれも頼みおく。我が亡き後は母も嘸々さぞさぞ心細く世を送るならん。汝等父の今のことばを肝に銘じて母に孝養こうようを尽くし、家名を汚さぬ様にせよ」とをしふる声も次第しだい々々に細り行きて、眠るが如く上天しょうてんせり。

 開祖は八人の児の教養を、婦人の身にことに貧困なる家庭の如何いかんともする事が出来なかったのである。されど男々をヽしき気性の開祖は、親族や村内の厄介になっては、将来八人の児の頭が上がらぬというて、健気にも金龍きんりゅう餅屋もちやを片手に小商こあきないをいとなみ、星をいただいて家を出て月を踏んで家に帰り、一刻の安楽ということが無かったのである。開祖の勤勉にってわずかに其の日の煙を細々ながら立てていられた。災厄はまでも開祖の家を呪うて、遂に最愛の長女ヨネ子は、大槻おほつき 鹿造しかぞうという西町にしまち白浪男しらなみおとこに奪取されてしまった。力と頼む娘はの通りにっても、親族や近隣も之を引き戻す挨拶をするものが無い。いづれも大槻の怒りに触れて後難こうなんを招く事を怖れたからである。大槻は強力ごうりき無法むほう博徒ばくと無頼漢ぶらいかんで手の附け様の無い人間、一方開祖は弱き婦人の身の如何ともする事は出来ぬ。かてて加えて生活の困難は日に夜に襲うて来るのみである。むを得ず涙をんで大槻の為すがままに任された。大槻は更に開祖に迫って三男の傳吉(伝吉)氏を、自分に児なきを口実とし、養子とさんことをしきりに強請ごうせいして止まない。開祖はこれも彼の言うがままに任されたのである。

 其の頃長男の竹造たけぞう氏は大工の修業の為に、沖村の吉之助という棟梁とうりょうの家に弟子として住み込んで居たが、我が家の貧困を苦にして、不覚にも髪剃かみそりを持って咽喉部のどべを突き切り、自殺をはかった。折りくも傷は急所をはづれてようやく九死の中に一生を採り留める事を得た。また一つは大工職が嫌いで在った。慈愛深き開祖は竹造氏の小心なるを憂い、任意の行動を取るべくを許された。竹造氏は法被はっぴ姿に頬冠ほほかむ草履履わらじばきのまま恋しき我が家を後にして、何処どこを当てとも無く出て行かれたきり、十七年の間一回の音信も無く、生死の程さえ不分明であった。弟妹の心配は一方ならず、折々おりおり竹造氏の身の上を思い浮かべては涙に日を送るのみであった。されど雄々しき開祖は、一回の愚痴ぐちも漏らされたことはなかった。開祖は斯道しどうに熱心の為に、平素最愛の我が児の上を忘却していられたからである。開祖は余り社会公共の為に心を注がれ、一点の私情も持たれなかった、到底凡俗の企及ききゅうし得ざる宗教界の英傑である。
 竹造氏は明治三十六年の五月五日の早朝飄然ひょうぜんとして元のごとく法被姿で帰って来た。社会の激風怒濤げきふうどとうに悩まされたる面影を残していた。開祖を始め家族一同は無事の帰国を非常に喜び、祝宴を開いて大神に感謝したのであった。

 開祖は次男の清吉せいきち氏と細々ながら製紙業を営み、わづかかに其の日の煙を立てて居られた。間もなく清吉氏は適齢に達し、えらまれて近衛隊このえたいに入営した。開祖はあたかも盲人の杖を落とした思いでむなくまた元の金龍餅を売る事とせられた。次男の琴子ことこは亀岡へ奉公へ出で、次で王子おうじの栗山家に嫁し、三女の久子ひさこも同じく八木やぎへ奉公に出て、同地の福島氏の室と成った。跡には四女の龍子りゅうこと末子の純子すみこと三人暮らしでる。開祖は小商いに出らるる朝毎に両女に向って、「機嫌く留守をせよ、必ず人の物に目を掛けてくれれるな。欲しい物あらば何なりと、母が金を儲けて買って上げるから」と、日々にちにち勤務の如くに訓戒された。家庭教育には充分の注意を払われたのである。時に姉は十歳、妹は七歳。



(※1)いっくう神社
○一宮神社(いっくうじんじゃ)京都府福知山市大字堀に鎮座。府社。おほなむちのみことを祀る。天田郡の一宮と称せられる。この地は天正年間あけひゅうのかみ〔 明智みつひで 〕の領地となりふくやまと称せられてより、累代の城主本社をもって鎮守とし、社殿その他の修補改築をなし、就中慶安年間入封した松平氏のすうけい深く、社殿を再建し、社領十五石を寄進し、次いで朽木氏の世となってもかわるところがなかった。社地は福知山城の南方に位し、土地高燥にして、樹木鬱葱うっそうと茂り、眺望またく、風致に富む。例祭日、十月二十一日。


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大本教開祖御傳記(2)

 明治二十四年の春、福島家に嫁した久子ひさこは精神病を発し、つい全狂乱まるきちがいとなったのみならず、大槻おおつき家へ行った米子よねこも又発狂はっきょうして乱暴をすると、大槻鹿造しかぞうは「気狂きちがいはらぬ、受け取ってくれよ」とせまり来る。開祖の身は千百の禍津見まがつみに包囲攻撃さるる事となった。大抵たいていの婦人ならばあるいは天をうらみ地に怒り、「嗚呼ああ天道てんどうか、神や仏は無きもの」と、失望落胆ついに自暴自棄するにいたるのであるが、変性男子の霊能を有する開祖は、泰然たいぜん自若じじゃく屈するの色無く、「き事の此上このうえつもれかし かぎりある身の力試ちからだめしに」の態度をもって貧困をも苦にせず、天神てんじん地祇ちぎに祈願をめられたが、其の熱心と其の至誠の天地に通じけん、たちまち久子は全癒する事と成った。
 開祖はここに益々神祇しんぎの大恩洪徳こうおんを感じ、自分一家の為のみならず、かる尊き神の洪恩をあまねく社会の病苦に悩める人にも告げさとし、もって寄る無き人々を救うく決心された。破家あばらやかむどこ形計かたちばかりの祭壇を設けて、一心不乱に信仰をはげまれた。毎朝未明に起き出でて、大江山ろしの寒風を犯して水行をし、正午に一回夕刻に一回と毎日三回づつの水行は、寒暑にかかわらず、満二十年の間一回も欠かされた事は無かったが、昨明治四十五年の(旧)三月八日伊勢国加良洲からす神社〔注、香良洲神社。祀神、わかぎみのみこと〕へ参詣を期とし、神意のまにまにに水行を廃されるに至ったのである。

 開祖神人感合の妙境に入る

 明治二十五年の(旧)正月元日の夜、開祖は夢に神境しんきょうに入りしに、宮殿廊廓ろうかく重々として幾層いくそうとも知れず、大小の間取り連々れんれん相連あいつらなもっ縦横じゅうおう陣布じんぷの形あり。其の荘厳そうごん美麗びれいなることたとうるに物なきをる。開祖はずその表門より入りてうかがわれしに、の中央に神あり、御容貌うるはしく、御身おんみは大きく肥満し給い、御髭は多く長く八束やつかにましませり。開祖は恐る恐るも、宮殿の余りに荘厳そうごんにして美麗なるに心魂を奪われ、らずらずを進めたりしを、其の大神御座おざを立ちたまひ開祖をかへりみて其の手を取り、他の奥の御殿に進みて開祖を階下に待たせ、大神は昇段ありて何事か奏上そうじょうし玉うごとく、しばらくありて御退出御帰座ごきざの際、開祖は急ぎ御門外に出て東北方うしとらおぼしきかたまわれば、又一つの大門おほもんあり。
 其の門を入りて拝観すれば、其の美麗なる事これ最前さいぜん拝観せしところに比較すれば、幾倍か雄大ゆうだい荘厳なるを知らざるの観あり。其の中もっとも壮麗なる御殿にいては金銀珠玉しゅぎょくを以て造り成し、光々こうこう相映じ明々めいめい相照らし目も当てられぬ程なるに、其の中に大神あり、御衣すべて宝玉を以て飾り成し、玉輝ぎょくさ金色◎々◎々れいれいろうろうとして御面相ごめんそうの高貴優美ゆうびまししますこと、只かしこばかりなりしが、時に大神は優然ゆうぜん玉座を離れさせ玉い、開祖の間近まぢかく進み玉いて開祖を熟視し御顔容微笑びしょうを含み玉い御言葉は発し給わず、其のまま御復席ありしは、今尚いまなお開祖の眼前に髣髴ほうふつとして身の毛も慄然たるばかりなしりと聞く。
 ここに開祖はかるかしこき御場所おんばしょに進入せし事のあるい御譴責ごけんせきあらん事を恐れ、急ぎ御門を出でんと欲すれば、御門はすでに閉鎖されあり。ここに恐怖の心弥々いよいよ切迫し最早もはや前後をかえりみるにいとまあらず、急突門関もんかんを解き、門外に出でて遁走とんそうする事およそ四、五丁もあらんと思しき所に足を止め、息を継ぎ居たりしに、不図ふと見れば其所そこにもまた麗しき殿舎でんしゃあり。おそる恐る其の内をうかがえば豈計あにはからん、先年帰幽きゆせられし夫の政五郎欣然きんぜんとして其の中に在るを見る。すなわ相逢あいあひ相喜び、手の舞い足の踏む所を知らざるの思いあり。互いに既住きをうを語り将来を談じ時の移るを知らず。猶又なおまた神国の神民たるものの死後の安住所あんじゅうしょは、まさしく斯かる尊き楽しき聖所に定まりあることを愛児等にも告げ知らさん者と思いて、其の場を去ると見しはまったく一夜の霊夢にてありける。

 爾来じらい数回の霊夢を得、一回は一回より敬神の心を増し、ついには仮令たとえ老女の身たりとも精神一到いちどう何事か成らざらんむなしく家政かせいの一小事に拘泥こうでんせんよりは、むしろ信教自由の教権に依り皇道しんとうの正面に向い進取しんしゅせんものと、雄々しくも決意したるは、婦人の身として天下無比なるし。必竟ひっきょう諸々もろもろの災禍不運に逢遇ほうぐうして人世じんせいた望みも頼みも無きより、一心不乱にたゆまず屈せず敬神のまことを発したるものなれば、政五郎氏の死も貧困家庭の災厄も偶然にあらず、慈愛甚深じしんなる大神の大御心に出でし事判然はんぜんとして実に有難ありがたきことなりけり。
 しかるに一日あるひ俄然がぜん惣身そうしん震動して神気しんき来格らいかくの徴あり。の時開祖みずかいけらく、「れ神の御心ならんか、あるいは人の霊ならんか、そもそも又ものならんか、明らかに其の名を語りたまえ」と云えば、「ただ此の者はうしとらこんじん、元の国常立くにとこたちみことなんじの身体を守るぞよ」と宣玉のりたまえり。なほ再三 再四その御名を問えば、「名は申すに及ばず」とり給えり。って想うにかしこけれども、これあるいあまてらすおほかみの御心ならんかと思推しゐし、其の次回霊神れいじん来格に際しこころみにうかがまつれば、果たして尊き大御神にて座ゝましましとは、畏しとも有り難しとも言語の名状すき無く、ただ感泣のほかなし。
 れ開祖帰神かんがかりの最初にして年齢まさに五十七歳なり。

 爾来それより毎度の神懸りありて、ようやく種々の御訓示づるにいたれり。しかして其の御示おんしめしに依れば曩日さきのひ夢裡むり幽境ゆうきょうちゅう拝観し奉りし大神は、かしこくも天照大御神、若日婁女神わかひるめのかみ大国主大神おほくにぬしのおほかみ玉依姫之神たまよりひめのかみ須勢理姫すせりひめ神等かみたちましまし、其の場所は地質学上世界の大中心地なる綾部あやべ本宮ほんぐうの神境にてありしと云う。王仁三郎わにさぶろうは先年来その霊異れいゐを聞き、事実如何いかなるものなるかを霊学上より深査たんさを試みんと欲しみづか審神者さにわ平素ひごろかたわら近くしたりしに、奇異百端おどろおそる可くうたがはべく信ずべく容易にその真相を断定しあたはず。半信半疑の間に彷徨ほうこうせし事前後十五年なりき。
 しかるに開祖の為人ひととなりたるや生得しょうとく正直謹厳きんごんにして、みづ虚偽きょぎし得る人にあらず。つ其の必要を視ざれば、虚偽にあらざるは信じて疑うべき無く、又仮令たとえ虚偽ひとあざむかんと欲する共元来がんらい無学無識の人にして、吟詠ぎんえいなり教訓なり社会の予言なり、物にしたがい時に応じ自由自在なる事かれが如きものは、自ら企及ききゅうするもあたわざるやべんまたたずして明らかなり。いわんやその意味趣向しゅこうの深遠微妙なるに至りては、人間のおよぶ所にあらず。
 於是ここにおいて王仁わにごとき頑固者も、おのづから信従せざらんと欲するもあたわざるのみならず、真偽はかれに在り研究は我に在りしかして我が心は狐狸こりにあらず、ただ神明しんめいの御名と其の真理とに在るものなれば、「はたたしていつわりならば偽り出ずべし、果たしてまことなれば真あらわるべし。いたづらに擯斥ひんせきしてかえりみざるは、幽理を知得ちとくせんと欲する者の本意にあらざるなり」、と断然決意し、翻然ほんぜんとしてあらため、ここに開祖の真教理しんきょうりに心服し、国家社会の為に宣教の労を取る事と成りぬ。嗚呼ああ世の神道の深奥しんおう玄機げんきを知らんと欲する者は、今においいて之を研究すべし。時や得難えかたし人や求めがたし。つつしんで開祖霊威の荘厳なる由来を略記し、もっ斯道しどう研究の小補しょうほたらしめんとす。

<< 参照 >>
○出口すみ『おさながたり』「ご開祖の帰神」「霊夢」


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大本教開祖御傳記(3)

 物質的文明の壮年そうねん時代たる大正の今日において、維神いしん大道だいどう 幽界の真理を説く皇道の大本霊学を以て、世人ややもすれば世にありふれたる催眠術・幻術・妖術・稲荷ろしの類のものと誤認してかえりみず、神聖不可犯の神術をもっかえって淫祠ゐんし邪教とののしるに至る。れ幽顕二界確立の真理を解する者無き所以ゆえんなればなり。二十世紀は文明極致の世なりと思推するもの多しといえども、今の所謂いわゆる文明なるものは片輪かたわの文明なり。今の哲学は偏狭へんきょうの哲学なり。何ぞ無限絶対無始無終の宇宙の大真理をかいするを得ん王仁わに元来浅学菲才びさい至愚至痴何等なんら学術の造詣ぞうけい無しといえども斯道の為に黙視するに忍びず、帰神に関する略解りゃっかい並びに本教創立の徑路けいろを筆にし、以て開祖の帰神の神聖無比一点の迷妄めいぼう無く、宇宙の真理大本たいほんに合致せしものたるを、あまねく教信徒及び社会達識の士に知悉ちかいせしめんとする所以なり。

 霊学の先覚者・研究者として有名なる、本田親徳ちかあつ翁あり、伯爵副島そえじま種臣たねをみ翁あり、長沢雄楯かつたて翁あり。王仁三郎は以上三翁の懇篤こんどくなる直接間接の教授を得また親しく開祖の教えを永年実地に目撃し修練し、つい審神者さにわ得業とくぎょうを許さるるに到れり。そもそも帰神かんがかり往古禁廷おうこきんていの神伝秘法として、国政の大事を神界へ奏伺ほうししたるものにして、其の実例は往々にして古事記こじき、日本書紀其の他の古史に散見するを得べし。「あま窟戸いわとの段」に於ける天之宇受賣之命あめのうずめのみこと神懸かむがかりしたるが如き、仲哀ちゅうあい天皇の朝に於ける三韓征伐さんかんせいばつに際し、神功じんぐう皇后を神主とし武内たけうち宿禰すくね沙廷さにはて神勅を請い奉りしが如き、文徳もんとく天皇の斉衡さいこう三年、常陸国大洗磯崎おほあらひいそざきに於ける塩焚しおたきをうに神懸りありしが如き、和気わちの清麿きよまろが宇佐八幡の神宣しんせんを奏したるが如きはいちじるしき例証なり。王仁が先師せんし長沢雄楯翁は、霊学の研究家として世に知らるるの人なり。翁が霊学の研究に腐心せるもの実に二十有余年、その抱負や遠大当に国家社会の為に多謝すべきなり。ここに長沢翁のひとりを略叙せんとす。

 往年徳川氏の駿河するがに移るや、当時聖堂に在りし碩学せきがく鴻儒こうじゅ随へて此の地に来集せしをもって、静岡藩にては私学校をおこもっぱら育英の事に従えり。翁は十二歳にして始めて藩立学校に入り、漢籍を研究し五ヶ年にして広く経史けいしに通ずるに至る。後明治五年、教部省を置かれ、神官僧侶を以て教導職に補任せらるる事となり、神仏聯合にて静岡市浅間神社内に中教院ちゅうきょういんを設けられしより、翁は同院に入り専ら国学を渉猟しょうりょうし、あまねく本邦の典籍てんせき研鑽けんさんし、続いて明治七年皇学漢学の教授となれり。当時翁は本居もとい・平田の書を渉猟し、傍ら理学・科学・地学等を研究せしより、本居・平田の説の十中七、八は泰西たいさいの学理と矛盾せることを発見し、今日に在りてはあまねく泰西の学術を究め、以て本居・平田の説の当に訂正すべきものあることを確信し、その後このの思想は絶えず翁の胸中に往来せり。

○長沢翁の奮起  翁は神道の萎微いび不振を慨歎かいたんし、明治十年八月、一の論文を起稿し、東京開智かいち新聞に投書せり。同新聞はこれを歓迎してそのの社説に掲げたるより、天下の志士其の説を賛成せしもの多く、千葉県の沢田総平そうへい・岐阜県の鍵谷かぎや龍雄たつを等を始めとして奮然一躍起するも四方よもに現われ、翌明治十一年三月、皇道振興しんこうの為全国有志大会を東京に開く事となり、会場は神道事務局を以て之にて、翁は会幹かいかんとして専ら枢務すうむ鞅掌おうしょうせり。

○撰抜生渡欧の議  翁は其の蓄積ちくせきせる平素の抱負を発表し、宿志しゅくしの貫徹するは此の機会を逸して他に求むべからずとなし、常に皇道に志厚き学術に素養あるの士を選びて欧州に留学せしめ、専ら泰西の学術を研鑽せんことを熱心に主張せしかば、幸いに同会の議長たりし平山省斎しょうさい氏の深くるる所となり、議員の賛同を得てたちまち評議一決し、続いて神道事務局の裁許さいきょする所となり、当時英国に公使たりし森有礼ゆうれい氏は幸いに中教正おおとり雪爪せっす氏知友なるの縁故を以て、氏の尽力により、神道事務局より一名の留学生を渡英せしめ、留学中は駐英公使館に於てまかない方を引き受くる事を快諾されたるを以て、神道事務局にては、当時同局の生徒寮に在りし黒山くろやま久雄ひさをなるものを留学生に撰定し、留学資金三千円を供給し出発せしめしが、黒山は如何なる訳か横浜に於て行衛不明となり、折角の美挙も中止の止むを得ざるに至れり。
 当時の「開智新聞」紙上には、長沢翁と鍵谷龍雄氏の二名を以て更に留学生となすの急務なることを熱心に主張せしが、学資供給の道なきより、遺憾ながら実行する事あたわずして事止ことやみとなりたり。

○長沢翁の霊学研究の動機  翁は如何にもして其宿志しゅくしを貫徹せんとし、職務の余暇を以て英学をおさめ、又深く宇宙の原理を研究せんと欲せしより哲学史を読みて哲学の一班いっぺんを知り、ここ希臘ギリシャのアイラニック派のテールスより今日に到る上下二千年の間、有神説と無神説との総論ありていずれとも決定するあたわざるは、学術隆昌の現世紀に於いて遺憾のきわみなれば、いづれの方法を以てこのの決定を与えんことに苦心せしもの多年、かくて翁の研究は六箇年を経過せり。あたかも明治十八年旧薩藩の士 奈良原繁げんしげる氏静岡県に知事となり、同藩の硯学せきがく 本田九郎親徳ちかあつ翁を招聘しょうへいして、青年及び有志を薫養くんようせられたり。其時そのとき翁は両三回親徳翁に面会の後、一昼夜にわたりて『古事記』『日本書記』等の難題疑問を攻究こうきゅう激論し、ついに親徳翁に抵抗するあたわず、深く其の卓見博識に畏敬いけして、其の門下生と成るに至れり。

○故本田おうの人とり  翁は鹿児島に生まれ、幼時漢字と撃剣げっけんとを学び、十九歳にして藩を脱し水戸にいたり、会沢えさわ正志まさし翁の門に入り学ぶこと三年、その後もっぱ漢皇かんこうの学を研鑽けんさんし、其の他翁の学術としては百科にわたれり。翁は『古事記』『日本書紀』及び経書けいしょ等にいては多く古人の説を採らず、講説の七、八分は自説なりしが、其の説の卓抜たくばつにして識見の崇高なる天下並ぶ者なし。かつて故副島種臣たねをみ伯の深く志を皇道に抱きしものは、全く本田翁の説に服従せしに因る。伯は常に翁を偉人として尊仰し厚く敬意を払いつつあり。翁と伯との『真道問対』なるものありて、幽玄なる真理を推究すいきょう断案だんあんしたる卓論たくろん高説こうせつなり。しかれども翁の在世中之を公にするに至らざりしを以て、此書を知るものすくなきなり。

○本田翁が霊学研究の動機  翁は学術深遠にして玄妙けんみょうきわめし力より、必ず宇宙は霊的の作用にるものならんと推測せしに、あたかも翁が齢二十二歳にして京都に在るの時、市中説をなす者あり、十三歳の少女にきつね憑依ひょういく和歌をえいずと。おう思えらく、くのごとき事あるべし道理なし、しかれ共百聞ひゃくぶんは一見にかずと、いってその少女を視る折りしも、晩秋のこう時雨しぐれの降る頃なりき。翁は少女に向かい聞く、「汝には狐が憑依して和歌を詠ずと、はたたして然るか」と。少女はたちま相貌そうぼう変わりいわく、「如何いかなる題にても出せ」と。翁は「此庭前ていぜん紅葉の散り居る模様を詠ぜよ」と云いたるに、少女は立ちどころに筆を執りて、

 庭も世に 散るさへ惜しき もみぢ葉を
   打ちも果てよと 降る時雨しぐれかな

…と手跡てあとも見事に一片の短冊たんざくに書き終わりしかば、少女の相貌はただちに元のごとくなれり。の実験に翁は深く感嘆し、れいの人に憑依すること有るものなることを知れり。翁はその後之等これら霊的作用の研究に従事せしもの実に二十五年間にして、始めて神人感合しんじんかんごう即ち神懸かんがかりの術を研究し得たり。其の間翁の苦心焦慮しょうろは実に名状すべからず。或は深山に入り或は名祠に参籠さんろうする等千辛せんしん万苦ばんくついに神懸の術を知得せり。

○帰神・鎮魂の二法  神懸かんがかりには正神せいしん邪神じゃしんとありて、其の階級数百段なることを発見し、更に之を区別すべき審神者さにはの法を発明し、深く其の原理を究極きゅうきょくせり。また自己の霊魂を運転活動自在ならしむべき鎮魂ちんこんの法を発明せり。翁の学術の深遠しんえん洪博こうはくなるはうも更なるが、神懸・鎮魂の二法は千有余年間廃絶せしを再興さいこうせしものにて、実に当時学者として天下並ぶべき人物なかりしなり。おしかな、翁は深く期する所あり、秘して此の二術を伝えざるうち故人となりたるを以て、天下之を知る者かつてなく、王仁をには幸いに其端緒たんちょを修得するに至れり。



テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

大本教開祖御傳記(4)

王仁三郎をにさぶろうは本田翁死後の門弟もんていとなり、また長沢翁の門に入りしより主として幽玄ゆうげんなる学理の研精けんせいに努め、かたわ神懸かんがかり・鎮魂の術を学び了得りょうとくする所ありたるをもって、積年の大志たりし哲学の疑問に解決を与うるは此の二法ならざるべからざるを知り、の理学・科学の実物を以て学理を解釈するが如く、此の神懸り・鎮魂の二術を以て古今哲学の疑問を解釈し得る者なることを発見し爾後そのごもっぱら二術の研鑽けんさんに努むる者ここに十有余年、今や其説そのせつも成りたるを以て、学説として之を著述し、天下に公にせんことを欲し目下着手中なるも、如何いかせん引用の学術百科にわたることなれば、容易に成功しがたきものあり。あるいは王仁が終生の大事業ならんか。

○神懸の実験(一)  長沢翁が神懸りの作用の偉大なることを知りしは、明治二十一年の夏静岡市浅間の山宮麗山れいざん神社の拝殿に於いて、翁の審神者さにはとなり、故本田翁の教養せし其女そのじょ本田馨子かほるこなるわずかに十一歳の少女をして、神懸りを執行せしにかからせ給う神霊は木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことなり。翁は是屈竟くっきょうの材料なりと思推しかねてより研究中なりし『古事記』『日本書紀』の難題より、英国のスペンサーの原理総論中の疑問等併せて三十六題を質疑せしに、其の解釈の速やかなること立て板に水を流すが如く、其の論理の整然明瞭なること、到底世上博学者と称するものの企及ききゅうする所にあらず。翁ただ唖然たるのみにして、一の論難ろんなんを加うるの余地なかりき。茲に翁は初めて、神懸りは学術の難題疑問を解釈するは屈竟の材料なることを知得せり。

○神懸の実験(二)  長沢翁が自ら養成せし門弟中に宮城嶋みやぎじま金作きんさくなるものあり。年齢僅に十五歳にして学は尋常じんじょう学校卒業の程度なりしが、神懸せし時揮毫きごうするに於いては『王義之』の書体あり、『橘逸成』の書体あり、『空海』の書体あり、其の他揮毫の達筆たっぴつ優秀なること、実に人智を以て端倪たんげいすべからざるなり。

○神懸の実験(三)  高田順作なる者あり。詩作家を以て聞ゆ環南かんなんと称す。宮城嶋が神懸の時詩をして互いに次韻じいんをなす。高田が一詩を作る間に神懸せり宮城嶋は十詩を作る。しかうしてその詩作の優雅なること専門の大家にごうゆずらざるもの多し。其の他和歌に於けるも亦くの如し。看る者聞く者一驚いっきょうきっせざるはなかりき。

○神懸りの実験(四)  明治二十六年の事なりき。清水港に軍艦寄港の時、海軍の将校十数名県社御穂みほ神社に参詣し社務所に休息す。将校中に薩州人あり。依って長沢翁は故本田翁の神懸りの事を語る。あたかも宮城嶋座中に在り。たちまち神懸して来明治二十七年日清開戦の避くべからざること、陸戦海戦の情態等を詳説せんせつす。将校等一同恐懼きょうくれ全く神意ならんと拝謝せり。果たして翌年日清の開戦あり、戦闘の状況はおおむね当時の予言に符号せり。

○帰神の実験(五)  京都府南桑田みなみくわた西別院にしべついんあざ犬甘野いぬかんのに石田小末こずゑという婦人あり。彼は二十二歳にして眼疾がんしつかか盲目めくらとなりしが、或時王仁三郎をにさぶろうの鎮魂を受けたちま片眼へんがん明を得たりしより、神恩の深きを感激し、ついに王仁の門に入り霊学を修行し帰神となれり。明治三十一年の夏の事なりしが、石田に男山をとこやま八幡宮の眷属けんぞく 小松林こまつばやしなる霊神かみ かかりて曰く、「近年のうち北清に大事変あり、世界各国出兵する事あるし。此の時我が日本帝国の軍隊の世界無比なる強兵たる事を世界へ発表さるし。また日露の開戦も到底避くべからず。或は三十五年中ならんか、もし同年中に開戦に到らざる時は明治三十六年よりたんを開き、三十七年には必ず開戦すべし。其の結果我が軍は連戦連捷なれども軍艦七、八隻は沈没すべし。此の戦争の結果として、朝鮮・支那の海岸地に於いて我が所領に帰す可べし」との神託しんたくありしが、教信徒等も石田の無学なるを見て、其時そのときは容易に信ぜざりしが、果たして其の如くなりし。

○帰神の実験(六)  明治三十二年十月、王仁三郎をにさぶろう静岡県下清水の長沢翁のもとに霊学研究のため参館したるに、偶々たまたま一世の怪傑ほしとおる氏、翁としきりに時事問題にき意見を闘わすあり。王仁かたわらにありて静かに其の談を聞き居たるに、互いに談論風だんろうふう発果てしも無きに見えしが、翁は不図ふと王仁を指し星氏に向っていわく、「此の人は京都府下に住する神道家にして、余の一の門弟なり。霊学の研究に熱心にして、社会の出来事はく予言し、つ帰神には上達せり、試みに聞き給わずや」と。ここに星亨は奇怪なる面持おももちにて王仁にず一礼し、やがて世界今後の成行なりゆき如何いかんを問う。
 王仁はただ開祖の予言せられしままを告げて曰く、「来年は北清に騒乱あり。数年の後には必ず日露の開戦あり。将来に於て清韓二国は我が国に併合さるべし。次で地球上の国土は、万世一系の我が天皇陛下の統治さるるにいたる可し。また経済界に大変動あり云々しかじか」と、天下の大勢上より聞き及びし事ども大略たいりゃく述べたるに、元来剛腹ごうふくの聞こえある星氏は半信半疑・五里霧中に彷徨ほうこうせる思いにて、ついに出口開祖は所謂いわゆる誇大妄想狂ならんとあざけり、神諭もごうも念頭に置かざるのみならず、「無学無識の婦人の妖言なり」と一言いちごんの下に葬り去らんとせり。神明しんめい嚇怒かくどし給いしか、たちまち王仁に神懸りありて、星亨氏に幽界の玄理は人心小智の窮知きちすべきところにあらざるむねさとし、且又かつまた世界将来の成り行き、我が帝国の善と、光栄ある国力等を、歴史的方面より地理的方面より経済的方面より諄々じゅんじゅんとして説明し給いしに、星氏も初め両三回は反抗質問の態度に出でしが、論理整然たる神諭しんゆには抗争し得ず、終に霊学の幽玄微妙にして学理の高遠こうえんなるに感服し、「余も今後数年間皇道こうどう霊学を研究の上、斯道しどうの為国家の為つくさんと欲す」と誓いたるに、大神は「なんじ最早もはや研究の暇無し、来年は汝の身に大事あり」とて引き取り玉いしが、果たして其の翌々年 伊庭いは想太郎そうたろう凶刃きょうじんに非業の最後を遂げたり。惜しむ可し。

○神懸りの実験(七)  明治二十七年の春なりき。静岡県庵原郡いほばらごおり江尻えじり紺屋こんや町のなにがしが、同県富士郡へまゆの買い出しに赴き十円の紙幣しへいを渡せしに、本紙幣は某は知らざりしも意外にも贋札にせさつにして、転々として山梨県へわたり、其の出所を探りて某の手より出でたる事を知り、山梨県警察署の令状により某は拘引こういんせられ、甲府の監獄に投ぜられたり。其の妻之を憂慮し神懸りに其の結果の神託をう。その神託に曰く「最早予審よしんは終結し公判に移されたり。其の所以わけは予審調書の何枚目に不利益の陳述二ヶ所あり。公判廷に於て弁護士が充分このの項を弁論すれば、必ず無罪となるべし」と。
 依ってただちに甲府の某弁護士に依頼して、其の神託を告ぐ。弁護士は予審調書を調査せしに、果たして神託に示す所の不利益なる陳述あり。弁護士は公判廷に於て、此の点を熱心に弁論して、被告の罪無き事を主張す。さいわいに法官のるる所となり、某は無罪の宣告を与えられたり。当時弁護士も大いに神懸りの霊妙に感服せり。

○神懸についての雑感  神懸かんがかりの実験に就いては枚挙にひまあらず。以上はただに其の一例を示せるのみ。他にも世界の大勢・日本の国運等に就いて、神懸にて知るを得たるものは数多あまたあるも、いたづらにげんを誇大にし一の浮言ふげん怪説と見做みなさるるのうれいいあれば、或る時機じきまでは暫く是等は緘黙かんもくを守るべし。

 本田翁は神懸・鎮魂の二法は学術中の物として、これを霊学と名づけたり。回顧すれば明治二十年の頃、元老院議官故海江田えだ信義のぶよし、丸山作楽さくらの二氏、憲法編製にき取調べの要務あり。欧州に特派せられスタイン氏のもとに在ること二閲年。二氏帰朝後いに感ずる所ありて曰く、「物理学・科学等形而下けいじかの学術は既に究極に達す。欧州の碩学せきがくと呼ばるるの士は孜々ししとして、形而上学けいじじょうがくの研究につとめられつつあり。我が邦人が霊学の研究を冷視するに於いては、形而上の学説は又々欧洲人に先鞭せんべんを打たれ、一世紀の後はまさに形而上学隆興りゅうこうの気運を見るに至るべし。我邦わがくにには古書・典例等欧洲人の知るあたわざる材料に富む。しかるに率先研究の士に乏しきは遺憾なり」と。けだし『古事記』『日本書紀』其の他国史の中には、到底哲学もしくは理科学の力のみにては解釈するも能わざるもの多し。
 例之たとえば、『延喜式えんぎしき』八のまきの「出雲国いずものくに造神壽つこかんほぎことば」の中に「和魂にぎみたま大物おほもの主神ぬしのかみ太玉串ふとたまぐしに取付て云々しかじか」の如き、又『日本書紀』に「是時このときおほ己貴なむちのみこと問わし給はく。しからばすなわいましたれぞや。こたへてり給はく。あれこれいまし幸魂さちみたま 奇魂くしみたまなり。大己貴おほなむちのみこと曰はく、果たして然らば則ちいましは是われの幸魂・奇魂なり、今何処いずこに住まんと欲し給うや云々」の如きは、霊学に依りて推究すいきゅうせざれば容易に解する能わざるなり。
 吾人は霊学の如きは、我が国運の発達と共にまさに攻究せざるべからざる枢要すようの学術たるを信ず故に、我が邦最高の学府たる帝国大学の研究問題として、常に霊学部なる一つの講座を設くるに至らん事を希望するものなり。



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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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