出口王仁三郎目録(1)

素戔嗚尊の分霊(わけみたま)か、阿弥陀如来の化身か、はたまたミロク大神の顕現か。神界のベールに包まれた出口王仁三郎といふ「三千世界の大化物」の前半生…とくに出口なお開祖に逢われるまでの伝記を集めました。伝記といっても、凡て王仁三郎聖師さん御本人の筆であります。

『不幸の半生』
『僕の人生』
『生いたちの記』 (壱)(弐)(参)
『若き日の思い出』
『実説 本心-高熊山』 (壱)(弐)
『初陣』
『開教四十周年』



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ジャンル : 心と身体

不幸の半生

☆『不幸の半生』
<「神霊界」大正七年五月一日号に”大江山人”の名前で発表された。(一)となっているが続編はなし。>

 茅屋(あばらや)は破るるに任せ、擔廂(ひさし)は傾くに委(まか)し、壁は壊れて骨露れ、床は朽ちて落ちかかる悲惨の生活に甘んずるの止むを得ざるの小農あり、上田某の家庭是なり。長子奇三郎(のちの出口王仁三郎)は、明治四年(旧)七月十二日を以て呱々の声を此の伏屋に挙げたのである。土地の人情は酷薄無情にして、利己と蓄財に余念なき里人は、上田某の貧家を睹ること、恰も塵埃捨場のその如である。
 奇三郎が十歳の星を重ねたるの中秋、桐葉風に弄ばれて裸体の惨状を呈する頃、村内の大地主某に学校の帰途邂逅したのである。尊大にして傲慢不遜なる某は、何の容赦も無く、突然奇三郎を蹴上にしたのである。奇三郎は一種特別の徒(いたず)ら小僧であった。下校の途次、山吹色の汚きもの路傍に湯気を立たせつつありけるを見て、面白半分に竹片を拾い乍ら、其の先に附着せしめて、女生徒の驚き迯(に)ぐるを追い捲りつつ、乱暴をやって居た。大地主某の娘も其の中に加わつて、頻りに泣き叫びつつあった。某は之を見て立腹の念むらむらと起こつたので、某は矢庭に奇三郎を蹴り倒したのである。
 カも無ければ地位も無き貧家の奇三郎は、俄に態度を改めつつ怒りを強いておさえ乍ら、恭しく謝罪を述べたのである。高が十歳の腕白小僧、余り大人の相手にすべきもので無い筈だのに、剛腹頑陋にして常に世人を見下し、横暴跋扈到らざるなき某は、小僧に対して微塵の容赦なく、更に大喝して曰く、「汝は吉松の小伜だな。よしよし此方にも考慮がある、確固(しっかり)と聞けよ」と、左も憎らし気に頭上より怒鳴り付けたのである。小僧は地獄で鬼の金棒を見せ付けられた様に、戦慄して居るにも拘らず、某は「汝小僧小僧の分として頭が高い」と、乱暴にも拳を固めて前頭部を二、三撃、小僧は痛さ無念さを忍んで俯伏したまま熱涙に咽んで居る。
 某は更に口汚く、「貴様の父は宮角力取り斗りさらしよって、肝心の百姓はそこ退けにしてけつかるから、此方が貸与(かし)てある大切な田園が荒れる斗りだ。小作人にあるまじき挙動だ。百姓に勉強せぬから何時迄も鉄槌(かなづち)の川流れで、どたまが上がらぬのだ。貴様の処は一体毎日何を食って生活(くら)して居るのだい」と、家内の生活状態までも途上に糺問する傍若無人のその挙動、傍らを通行する里人は何れも素知らぬ顔に見捨ててぞ行く。小僧は詮方涙なくなくも、「はい、麦飯を食べて……」。「何、貴様の家では麦飯はちと分に過ぎる、贅沢だ、干菜でも混ぜて薄い粥でもすすれ、それが家に相当して居る。又貴様とこの父も宮角力なんぞ止めないと、小作の田地も悉採り上げて仕まうぞ、早く宅へ帰って己がそう言ったと、父(とと)や母(かか)に確りと告げて置けよ」と、怒鳴り立てる其の有り様はえんまの如き面構え。
 奇三郎は怖る怖る答うる様、「私に不足は言わないで、父(おや)に直接意見して下さい」と、言わせも果てず某は、「いや貴様の父は頑固一天張りの馬鹿者だ。己がいうよりも伜の貴様が言うことは却って聞くであろう。家を大事と思うなら、篤(とく)と両親に諫言せよ。また宮角力を取ることは一切相成らぬぞよ」と、言葉も荒らかに、奇三郎を尻目にかけ、睨み散らして帰って行くのであった。喜三郎は初めて強食弱肉の社会の無情を味わうて、小供心に泣かされたのであつた。此の時深く刻まれた無念の印象は、今に猶歴然と心裏に往来しつつあるのである。

 鳴呼社会は何ぞ不公平なる。貧家に生まる者何の罪科かある。富家に生まれし者果たして何の徳かある。父母は兀々(こつこつ)営々して日夜稼業に励むと雖も、一家七人の生活費に窮すれぱ、血も無く涙もなき里人の軽侮嘲笑する所となりぬ。恰も貧富の懸隔は主従の関係を来たすが如き観あり。鳴呼父の家貧困なりとて、必ずしも卑賤ならざる可し。彼等富者なりとて必ずしも尊貴ならざるべし。暴戻惨虐、姦侫邪智の輩往々にして富貴の門より出で、忠臣孝子・義僕貞婦、却って貧者の破戸より出ずるあり。
 何ぞ貧者の児たるを恥んや。

(「神霊界」大正七年五月一日号)


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僕の人生

☆『僕の人生』

鄙に生まれた小作のせがれ
朝から晩までこつこつと
山に鎌もち野に鍬いぢる
わしの人生はこんなものか

夏は野に出て田の草むしり
秋は黄金の稲を刈る
木の葉散りしく冬さり来れば
鎌と鋸手にたづさへて
野山にしばかる百姓の忰

桃や桜にこがるる春を
わしは水呑百姓の忰
山に木をこり野に畠かじき
長い春日はくれてゆく

父は醤油売り母上一人
麦の畑をたがやし給ふ
自分は野山に春草刈りて
稲田のこやしといそしめり
桜は薫る桃匂ふ
花の楽しさ吾れ知らず

霜の朝も雪降る宵も
まづしき生活(くらし)の苦しさ故に
父は荷車京都通ひ
自分は人の家に雇われて
冬の田の面に肥をやる

年に一度は妙見愛宕
三里の山坂かり歩き
汗して帰るたそがれの
家路の楽しさなつかしさ
からい鰯に麦の飯

麦と米とのたきまぜ飯も
ろくに食べない百姓の忰
足袋は目をむき衣は破れ
寒さ身にしむ片田舎
わしの人生はこんなものか

愛宕の尾嶺に白雲かかり
次第々々にひろがりて
み空は暗く雨は降る
農家のせわしき田植時
夜から夜へと働いて
聞くも楽しい時鳥(ほととぎす)

冬の夜霜ふるへてなくか
声も悲しい寒狐
こんこんこんとせきが出る
人の情けの薄衣
如何にしのがんこのうきよ

花は匂へど秋月照れど
遊ぶに由なき小作の忰
若い時から面やつれ
栄養不良の悲しさに
からだいためし秋の空
冷たいうきよの風が吹く
これでも私の人生か

僕の人生は何処にある
小作の家の忰ぞと
地主富者にさげしまれ
父の名までも呼び捨てに
されてもかへす言葉なし
待て待てしばし待てしばし
僕にも一つの魂(たま)がある

父よ恋しと墓山見れば
山は狭霧に包まれて
墓標の松も雲がくれ
晴るるひまなき袖の雨

西は半国東は愛宕
南妙見北帝釈の
山の屏風を曳き廻し
中の穴太野で牛を飼ふ

《回顧歌集二十、昭和六年二月十日於明光殿》


☆『堪忍の中毒』(「神の国」大正14年正月/「月鏡」昭和4年4月)

「堪忍のなる堪忍は誰もする、成らぬ堪忍するが堪忍」と忍の徳を賞讃したものであった。
 自分も幼時はよく、両親達から言ひ聞かされたものである。併し堪忍と云ふのは、仏教でいふ持戒忍辱(じかいにんにく)の意味をはき違へたものであらう。厭でも我慢すると云ふのでは、本当の戒を保ったものでは無い。その内心に苦と云ふものがあっては、得度は出来ぬと同時に、心的衛生には叶はない。お腹が空いても飢(ひも)じゅう無いと我慢する、妻君が姦通しても我慢する、飢死にしても我慢する、堪忍するが堪忍だといって、年中苦しい腹を抱へて、蒼い顔をして居ると、腹の中に不平の塊が出来る訳だ。陶宮(とうきゅう)の道歌に「堪忍の和合はほんの上直し、真の和合は打ち明かす腹」と云ふのがある。
 昔から堪忍といふ事を道徳修養の一つと、世間では思って居るが、是は余り感心した修養法ではない。特に古来用ゐられた堪忍なる語は、強者の弱者に対する教であって、弱者の不満不平に対し常に此筆法を以て、事勿(ことなか)れ主義をとらしめて来たものだ。強者は一向に堪忍する所無く、弱者のみ堪忍しろと教へて来たのであった。人間を卑屈に陥らしめ、無気力ならしめたのもこの堪忍の二字の中毒であった。従来のいわゆる道徳なるものには、此種のものが甚だ多いのである。
 金光教祖が、頭上から小便をひりかけられて、温かいお湿りさまが降ったと云ったと称して、その教師等は非常に教祖の堪忍力を崇敬してゐるが、是は大変な誤りで、忍耐と卑屈とを混同した、弱者の道徳である。バイブルに「人若し汝の左の頬を打たば右の頬も亦突き出して之を打たしめよ」と示して居るのも今日より見れば、否自分の目から見れば、大変なる間違ひで、無気力を凡ての人間に教へたものと思ふのである。自分は飽くまでも斯の如き、堪忍説を採らず、力のあらん限り、抵抗を続けて来た。そして祖神の任(よ)さし玉へる神業にはつはつながら奉仕しつつ来たのである。


☆『三猿主義は人道に反する』(「神の国」大正14年11月)

 見ざる、聞かざる、言はざる、と云ふモットーがある。面倒臭い浮世に処しては、この三猿主義に隠くれるのが、一番上分別のやうにも思はれるが、これは徳川氏が、人民を制御した消極政策である。有為なる人間に対する去勢政策である。この去勢政策によって三百年の平和を維持しやうと努めた陋劣な手段である。神様のお道はこれに反して、積極主義、進展主義である。人民を盲人(めくら)や、唖者(おし)や聾者(つんぼ)にしておいて、わがまま勝手の事をしようとは、随分虫のよい話ではないか。



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生いたちの記(壱)

☆『生いたちの記』
<「神霊界」大正十年二月号に“故郷及弐拾八年”(瑞月)の題名で発表された。大正九年十二月二十六日に”執筆の理由”から開始。大正十年二月の第一次大本事件で中断され、再開されなかった。>


○執筆の理由  大正九年十二月二十六日
 大神様の御神諭に、「第一に変性男子の御魂が現われて、次に変性女子の身魂が現われ、次に禁闕要の大神が現われるぞよ。男子と女子との御魂が天晴れ世界に現われん事には、三千年余りての神の経綸が成就いたさんから、早く之を新聞で世界へ知らして呉れよ」と、書き示されてある。王仁は、弥々神示を実行する時機の到来せしものと思うたから、本月の「神霊界」から、変性女子の因縁を赤裸々に表示する事に為たのである。王仁の別名を、神様から「瑞月」と附けて下さったので、有り難く御請けして、今月より「瑞月」と云う号で執筆する事に為たのである。

○序
 神理の蘊奥(うんのう)を極め、至善・至美・至真の皇道を宣揚し、天下万民をして神皇の徳沢に浴せしめんが為に、千辛万苦して、皇道大本を天下に拡充するに到った事は、決して人間の努力のみで無い。又如何に智識が万人に卓絶して居っても、如何に忍耐力が強くても、如何に勇気が有っても、今日の治教皇道大本の勢力を造る事は、到底出来るもので無いのだ。昔から聖人・君子・志士・仁人の出でて、治国安民の為に心血を搾り、心志を労し、以て人生を指導輔益したる神人は沢山に在った様だ。然れど其の人の生前に於て、皇道大本の如く天下の問題となり、天下に不可抜の大勢力を発揮し得たるは少ないのだ。是全く時の力の然らしむる所である。
 王仁(わたし)は以下順を追うて、二十八歳、初めて道を宣伝するに立ち到った一切の経路を、極めて簡単に、真面目に、一点の構造も無く、装飾も無く、誇張も無く、波瀾縦横の故郷生活を赤裸々に筆にして見たいと思うのだ。併し元来の浅学不文の悲しさは、事実の万分一をも描写することの出来ないのを遺憾とする次第である。古人日う。「書は言を尽くす能わず。言は意を尽くす能わず」と。况んや、五十年以前の記憶から曳き出すに於ておやだ。けれども、嬉しい事と悲しい事とは、一生忘れられぬもの也と云う事がある。実に至言である。王仁も其の嬉しかった事と、悲しかった事実だけは、今猶歴然として記憶に存して居る。否(いな)存す而巳(のみ)ならず、極めて悲しかりし事の在った為に、自己の神魂が発動して、総に天下の治教皇道大本を開設するの動機を造らしめられたと謂っても良いのだ。

○誕生の地
 王仁は祖先が源平で在ろうと、藤橘であろうと、将又その源を何の天皇に発して居ようと、詮議する必要は無い。只王仁は日本人であって、畏くも、天照大御神様の御血統の御本流たる天津日嗣天皇様の臣民である事だけは、動かぬ事実だ。
 そして王仁の生家は上田家である。丁髷(ちょんまげ)の爺さんの話によると、昔から上田・松本・斎藤・小嶋・丸山の五つの苗字を有って居る家柄を、「御苗(ごみょう)」と謂って、顔が良い家柄だと謂って、蛙切りの土百姓の癖に、村内の多五作や、杢平等が威張ったものだ。縁組一つするにも、御苗が何うの、帯刀御免のと八釜敷く、御苗以外の家柄を「平(ひら)」と蔑視したものだと聞いた。上田家は御苗の所謂家柄であって、貧乏して居っても、夫れだけは世間並に自慢したものであった。丹波国南桑田郡曾我部村大字穴太の宮垣内と云う所に、茅屋は破るるに任せ、檐廂は傾くに委し、壁は壊れて骨露れ、床は朽ちて落ちんとする悲惨なる生活に甘んじ、正直男と名を取った水呑み百姓の上田吉松と日うのが、王仁の父である。

○父の誕生地
 父は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである。男兄弟が九人で女の姉妹が四人、都合十三人の同胞が有った。系図を見ると、宇多天皇の後裔と云う事である。代々紺屋を営み相当の資産も有ったが、元来の好々爺であつた為、人の為に非常な損害を受け家産は次第に衰えた。併し村内では、中流階級の部に属して居たのである。外の兄弟は、各自相当の家に養子に往ったり嫁し付いて居るが、父に限って、他家へ丁稚奉公に、幼少からやられて了うた。その理由は、余り肝癪が強くて腹が立つと、親でも擲(なぐ)り付けると云う乱暴であったので、懲らしめの為に、父母が相談の上八木町の醤油屋に丁稚に出したのである。八木の「醤油角」と云う主人からは、正直もの、律義ものとして、大変に寵愛されて居た。
 十年の年期を首尾能く勤めて二十三歳の年に、初めて穴太の富豪たりし、斎藤庄兵衛氏の雇人と成って住み込み、親方児方の関係が出来た。二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で、上田家の養子と成り、「吉松」の襲名を為たのである。父の元の名は佐野梅吉と云うた。梅吉が吉松を襲名したのも面白い。神諭に「梅で開ひて松で治める」とあるが、王仁の父が丁度この御神諭の通りに成って居る。茲に序を以て一つ書き加えたい事がある。それはかの有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である。翁は十三歳にして達磨を描いたが、其の妙筆は神に迫って居る。今も佐野家に保存されてある。

○上田の家庭
 王仁(わたし)の祖父は吉松と云い祖母は宇能子(うのこ)と云い、祖父は五十九歳で帰幽し、祖母は八十八歳の高齢を保ちて帰幽した。父は梅吉、母は世根子と云う。結婚の翌明治四年(旧)七月十二日を以て一子を挙げた。是が目下綾部大本の教主輔・出口王仁三郎である。幼名は上田喜三郎と日う。王仁三郎と名乗ったのは参綾後に神界より賜わった名であつて、明治四十三年に戸籍上の出口王仁三郎と成ったのである。
 王仁には八人の弟妹があって、次を由松・三男が幸吉・四男が政一・五男を久太郎と日う。久太郎は出生後数十日にして帰幽した。長妹を絹子と云った。是も四歳にして帰幽した。次妹を雪子・末の妹を君子と日う。残った六人の兄弟は無病健全に、神務に従事して居る。只次弟の由松のみ穴太の片田舎にて、家督相続を為し、農業に従事して居るのである。

○穴太の名義
 王仁の郷里なる現今の穴太(あなお)に就いて、其の名義の起元を記して置こう。大昔は丹波国曾我部の郷と云ったのが後に穴穂(あなほ)と成り、穴生(あなふ)となり、穴尾(あなお)となり、次に現今の穴太と改められたのである。宮成長者の創立した西国二十一番の札所は、即ち穴太に遺って居って、今猶信仰者は京阪を初め全国に在る。三荘大夫(さんしょうだゆう)に虐使された槌世丸(つつよまる)・安寿姫(あんじゅひめ)の守本尊たる一寸八分の黄金仏像は当寺に祭られ、本尊は三尺三寸の丈で、雲慶の作である。菩提山穴太寺は即ちこの名刹で、院主の姓を代々穴穂と名乗って居る。
 今は故人と成った斎藤作兵衛翁の談に依りて、穴太の名義は明瞭に分明した。翁は世々里庄の家に生まれ、翁も亦里庄として村治に尽くした徳望家である。
 翁の談に由ると、上田家の遠祖は、天照大御神天の岩戸に隠れ玉いし時、岩戸の前に善言美詞の太祝詞を奏上し、大神の御心を和め奉りし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。降って、大織冠鎌足公(藤原/中臣鎌足)の末裔である。有為転変の世の常として、浮世の荒風に吹き捲られ、文明年間、大和国より一家を率いて、大神に因縁深き丹波国曾我部の郷へ落ちて来たのである。
 上田家は藤原と姓を唱えて居ったが、今より八代前の祖先・藤原政右衛門の代に成って、上田と改姓したのである。
 雄略天皇の勅命に依って、豊受姫大神(豊受大神)を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より、神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜う神幸(みゆき)の途次、曾我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿(しんよ)御駐輦(ごちゅうれん)あらせられたのである。
 祖先が天児屋根命と云う縁故を以て、特に其の邸内に御旅所を定められた。一族郎党は恐懼して、丁重なる祭典を挙行し奉る際、神霊へ供進の荒稲の種子が、太く老いたる槻(けやき)の樹の腐り穴へ散り落ちた。それが不思議にも、其の腐り穴から稲の苗が発生し、日夜に生育して、終に穂を出し、美わしき瑞穂を結んだ。里庄以て神の大御心と仰ぎ奉り、一大祈願を為し、神の許しを得て、所在の良田に蒔き付け、千本と日う名を附して、四方に植え拡め、是より終に穴穂の里と謂うたのである。
 当時の祖先は家門の光栄として、此の祥瑞を末世に伝えんが為に、私財を投げ出して、朱欄青瓦の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神・豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し、親しく奉仕したのである。
 其の聖跡は、現在上田家の屋敷なる、宮垣内である。宮垣内の名称は神明社建造の時より起こったのである。同社は文禄年間、川原条に移遷され、今猶老樹鬱蒼として昔の面影を止め玉うのである。
 王仁が今日、治教皇道大本の教主輔として、神君の為に一身を捧ぐるに臻(いたった)のも、全く祖先が尊祖敬神の余徳に因る事と、深く深く感謝する次第である。

○綾部の聖地
 比沼真奈井神社(比沼麻奈為神社/ひぬまないじんじゃ)(※1)の所在地は、太古は綾部の本宮山であった(※2)。そして天真奈井川原と云うのは、現今の和知川原の事である。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡久次村の真奈為が嶽の麓に、神社の旧蹟を移遷したと云う伝説が古来行なわれて居ったのである。そうすると、綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座の途中、曾我部の郷に、一時、御旅所として御駐輦になったのである。
 太古、同社の神職は綾部の出口家が奉仕して居ったと日う事であるが、後世に到って、山田の外宮(伊勢神宮外宮:祀神は豊受大神)に奉仕せる社家に出口姓が伝わって居る。かの有名なる神道家・出口延佳(のぶよし)は、外宮の社家中で最も電要なる家格の人であったのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明礼を創建して奉仕せし藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来たりて、出口家の相続者と成ったのも不可思議な神縁で在ると思う。
 神明社が宮垣内から川原条へ遷座されてから、後神明社(こうしんめいしゃ)と改称されたが、何時の間にやら、後神社(ごうしんしゃ)と里人が唱え出し、今では郷神社(ごうしんしゃ)と日うように成って、穴太の産土なる延喜式内・小幡神社の附属となり、無格社に列せられ玉うに到ったのである。


(※1)
○比沼麻奈為神社。京丹後市峰山町に鎮座する。伊勢神宮下宮の御祭神:豊受大神は、この神社から伊勢へ分霊されたとされ、『元伊勢』と呼ばれる。なお「元伊勢」は籠神社や皇大神宮など、丹波福知山綾部地方を中心に複数個所存在する。

(※2)
○「本宮山は平重盛の居城」 水鏡(昭2/1)
 丸山(本宮山)は平重盛の居城であった。本宮、新宮、熊野神社、那智の滝等皆紀州の地名と同じである。また舞鶴はもと“田辺”と云ふて居たのであるが、それも同じである。以仁王は重盛を頼って綾部の地に来られて、遂に薨去されたのである。本宮山の中腹にある治總神社は私が重盛の霊を祭ったものである。

○「歴史談片」 月鏡(昭4/2)
 本宮山はもと「本居山」と書きホンゴ山と称へられて居た。そして豊受大神様を御祭り申上てあったのであるが、それが後世、比沼の真奈井にお移りになったのである。


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生いたちの記(弐)

○祖父の遺言
{1871年 明治4年 1歳 12月 祖父上田吉松帰幽}

 祖父の吉松は、明治四年の冬十二月二十七日に帰幽した。王仁が誕生後六か月目である。祖父吉松は数年前より微恙(びよう)を覚え、日夜ぶらぶらとして日を暮らして居ったそうである。弥々病革まり、到底快復の見込み立たずと自覚し、王仁の両親を枕頭に招いて遺言した。
「上田家は古来七代目には必ず偉人が現われて、天下に名を顕わしたものである。彼の有名な画伯円山応挙(本名は上田主水/もんど)は、我より五代前の祖先・上田治郎左衛門が篠山藩士の女を娶って妻となし、其の間に生まれたものである。然るに今度の孫は丁度七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕わすものに成るであろう。先日も亀山の易者を招んで孫の人相を観て貰ったら、此の児は余り学問をさせると、親の屋敷に居らぬ如に成る。併し善悪に由らず、何れにしても異った児であるから、充分気を附けて育てよとの事であつた。私の命は最早終末である。然し乍ら私は死んでも、霊魂は生きて孫の生い先を守って与る。併し此の児は成長して名を顕わしても、余り我が家の力には成らぬとの易者の占いであるけれ共、天下に美い名を挙げて呉れれば、祖先の第一名誉であり、又天下の為であるから、大事に養育せよ。是が私の死後までの希望である」と、言終わると共に眠るが如く帰幽したと云う事である。王仁は生後僅かに六か月、祖父の顔も知らねば、其の時の現状も知らない。只祖母や両親の口から伝えられたのを記すのみである。

○円山応挙
 円山応挙は本名を上田主水と称したのである。京都の円山の辺に住んで妙筆を揮って居たので、画名を円山応挙と名告ったのである。然るに同じ穴太に丸山と日う姓が在るので、応挙は丸山家から出たものと世人は誤解して居るのである。現に穴太生まれの丸山某は京都の町に居をトし、いつの間にやら「丸まる」を「円まる」に変更し、円山応挙六世の孫なぞと日って居るので在る。厚顔無恥も、茲に至って極まれりと謂うべしだ。
 丸山某と云う人は、明治の初年に、伏見鳥羽の戦争に長州の武士から人夫として雇われ、敗戦の結果多数の死者が出来た。その際に某氏は死骸の中に潜り込み、死者の懐中物を一々探って、莫大なる金銀を集め、其れを資本として郷里に数町歩の田畑を購求し、傍ら三百代言をして、随分人に憎まれつつ持丸長者に成った所から、名誉慾に唆られて、終に円山応挙の末裔と偽称するに到ったのである。某は金の力で京都に出で、三百(代言)も余り面白からぬ如に成ったので、或方法に依って印紙屋を営み、数十万円の資産を造り上げ、府会議員まで鰻上りに上った容易ならぬ敏腕家である。そこで郷里の穴太に「円山応挙生誕地」と云う立派な碑を樹てて、裏面には「府会議員円山某」と刻して房る様な虚栄家である。

{1883年 明治16年 13歳}

 慥(たし)かに明治十六年(1883年)、王仁が十三歳の時であった。丸山某氏が訪ねて来て、「爰の家には上田主水さんの画の書き降しが沢山に在ると聞いたが、一度拝見したい」と申し込んで来た。そこで王仁の両親は心好く古長持の中に納めてあった数百枚の画の書き損じを出して見せた。某は非常に驚歎して帰った。四、五日を経て某は再び訪ねて来て日うには「お前さん処に斯んな反古を何時迄も大事に保存して置いた所で、何の役にも立たぬから、私は五円に買うて進げよう。五円あれば米が一石も買える。正月にも沢山な餅を搗いて小供を喜ばして与っては何うだ」と謂って、頻りに「売れ売れ」と迫るのである。肝癪持ちの父の吉松は、丸山某の言い草が気に喰わぬと大変に怒り出し、「お前さんに買って貰う位なら爰で灰にして了う」と謂って、其の中から数十枚持ち出して某の眼の前で焼き捨てて了ったので、某は詮方なく無礼を詫びて帰って往った。
 それからは種々と手を替え、人を頼んで売却の儀を申し込んで来たが、頑固一遍の父は、最初の某の言い草が気に喰わぬからと主張して、断乎として要求に応じ無かったのである。そうすると、今度は王仁を養子に貰いたい、大学へ入れて立派な人間に仕上げて与るからと、幾度と無く出て来て余り五月蠅くて堪らず、肝癩親父が到頭大喧嘩を追初めて絶交して了うた。持丸長者の某が、破れ家の水杏み百姓の小伜を養子に呉れと申し込んで来るのは普通では無い。何か、三百代言だから深い魂胆が伏在するに相違は無いと謂って、父が立腹して居たのが、歴然として王仁の記憶に今猶残って居るのである。

{1901年 明治34年 31歳 4月 穴太の上田家全焼、家族が綾部に来る}

 然るに不幸にも上田の倭屋(わいおく)は、明治三十三年(1901年)の(旧)二月七日に祝融子(しゅくゆうし:火事)の見舞うところと成り、家財家具は言うに及ばず、円山応挙に関する書類も絵画も悉皆(しっかい)烏有(うゆう)に帰したのである。さあそうすると例の丸山某は得たり賢しとして、自分が応挙の六世の孫なりと宣言し、終に応挙生誕地の石碑までも建立する様になったのである。然るに丸山某は代々西穴太に屋敷が在って、今は上田和市氏の邸宅に成って居り、生誕地と書いてある記念碑の建設地は、明治十二、三年頃に、穴太寺の桑園地で在ったのを購入して、新たに居宅を造り住んだので在るから、生誕地で無い事は明白な事実である。

○改姓の理由
{1886年 明治19年 16歳 春 久兵衛池事件}

 百姓に成ってから、藤原姓を名告(なの)って居ると、万一誤って藤蔓でも切ろうものなら家が断絶するとの巫祝(みこ)の妖言を妄信して、上田と改姓した。上田と名告った理由は、其の時の藤原家には五町歩の二毛作の上田を所有して居ったので、取り敢えず姓を上田に変更したと云う事を、祖母や古老の口から聞いた事がある。然るに五年か十年位に一度は大旱魃が巡って来て、稲穀の稔らないと云う困難を免るる為に、屋敷の西南隅に灌漑用の池を掘った。是は上田久兵衛の代に掘ったので、里人は久兵衛池と称えて居ったのである。此の久兵衛池に就いて王仁の一身上に関する経緯があるが、それは後節に述べる事にする。
 穴太には上田姓が三組在って、之を北上田・南上田・平上田と称して居る。王仁は北上田の家の出である。詳細なる系譜があったのを、曾祖父の代に極道息子が在って他家へ質に入れ、転々して吉川村の晒し屋と云う家に伝わったのを、王仁が種々として手に入れる事に成ったが、不幸にも又、前に述べた明治三十三年の火災で失くして了ったのは、返す返すも遺憾至極である。系図の示す所に由れば、文明年間には西山の山麓、高尾と云う所に大きな高い殿閣を建てて、其処に百余年間、高屋長者と呼ばれて住居して居たと云う事である。其の後、愛宕山の麓の小丘に城廓を構え大名の列に加わって居った所が、明智光秀の為に没収の厄に逢うたのである。其所は産土の小幡神社の境内に接続して居って、殿山と日う地名に成って居るが、今に城址が歴然として地形に遺って居るのである。

○祖父の性行
 祖父の吉松は至って正直で、清潔好きであった。今にも祖父の逸話は、古老の口から沢山に漏れる事である。然るに祖父には只一つの難病があつて、五十九歳で身を終わるまで止まなかったのである。その難病と云うのは賭博を好み、二六時中、賽(さい)を懐から放した事が無いのである。そして酒も呑まず莨も吸わず、百姓の隙には丁半々々と戦わして勝負を決するのが、三度の飯よりも好きであつた。それが為に祖先伝来の上田も山林も残らず売り払い、只壱百五十三坪の屋敷と破れ家と、三十三坪の買い手の無い蔭の悪田が一つ残った丈であった。斯様な家庭へ養子に来た父の吉松こそ、実に気の毒である。祖父は死ぬ時も賽を放さず、死んだら賽と一所に葬って呉れと言ったそうである。
 その時の辞世に、「打ちつ、打たれつ、一代勝負、可愛賽(妻)子に斯の世で別れ、賽の川原で賽拾う、ノンノコサイサイ、ノンノコサイサイ」。
 女房が米が無くて困って居ようが、醤油代が足るまいが、債鬼が攻め寄せて来ようが、平気の平左衛門で、朝から晩まで相手さえあれば賽を転がし、丁々半々と日の暮るるのも夜の明けるのも知らず、行燈と二人に成るまで行って行って行りさがし、臨終の際に成っても、博奕の事を云って屑った気楽な爺さんだったと、何時も一つ話に祖母が話された事がある。
 五月の田植え時と秋の収穫期を除くの外は、雨が降ろうが風が吹こうが、毎日毎夜、相手を探して賽斗り転がし、朝に田地が一反飛び、タに山林が移転して了うと云う状態であるから、柔順な祖母が恐る恐る諌言すると、祖父の言い草が振るって居る。
「お宇能よ、余り心配するな、気楽に思うて居れ、天道様は空飛ぶ鳥でさえ養うて御座る。鳥や獣類は別に翌日の貯蓄も為て居らぬが、別に餓死した奴は無い。人間も其の通り餓えて死んだものは千人の中に只の一人か二人位のものじゃ。千人の中で、九百九十九人までは食い過ぎて死ぬのじゃ。それで三日や五日食わいでも滅多に死にゃせぬ。私もお前の悔むのを聞く度に胸がひやひやする。けれども是も因縁じゃと断念て黙って見て居って呉れ。止める時節が来たら止める様に成る。私は先祖代々の深い罪障を取り払いに生まれて来たのだ。一旦上田家は家も屋敷も無く成って了わねば良い芽は吹かぬぞよと、いつも産土の神が枕頭に立って仰せられる。一日博奕を止めると、直ぐその晩に産土さまが現われて、何故神の申す事を聞かぬかと、大変な御立腹でお攻めに成る。是は私の冗談じゃない、真実真味の話だ。そう為なんだら上田家の血統は断絶する相じゃ。私も小供では無し、物の道理を知らぬ筈は無い、止むを得ず上田の財産を潰す為に生まれて来て居るのじゃ。大木は一旦幹から切らねば若い良い芽は生えぬ。その代わりに孫の代に成ったら世界の幸福ものに成るそうじゃ。是は私が無理を言うと思うて呉れるな。尊い産土様の御言葉である」と云って、産土の森の方に向かって拍手する。斯う云う次第で在るから祖母も断念して、其の後は一言も意見らしい事は為なんだと言って居られたのである。

 大本の御神諭に、「三千世界の一旦は立替であるから、先祖からの深い罪障を除去て遣りて、何一つ埃の無い様に掃除を致して、一代で除れぬ罪を神が取りて遣りて、生れ赤児に致して、神が末代名の残る結構な御用に使ふて、世界の宝と致すぞよ」と、御示しに成ってあるのを見ると、そこに深甚微妙の神理が包含されてある事を今更ながら感激して止まぬ次第である。「神の致す真の経綸は、人民では分らぬぞよ。何事も神に任すが良いぞよ」との御神示は、祖父と祖母とによって大部分実行された。その酬いで、王仁が至貴至尊なる大神の御用に召さるるように成つたのだと云う事を、忝なく思うのである。
 祖父一代の逸話は猶沢山に遺って居るが、是は王仁が奉道の経路に就いて余り関係の無い事であるから、省略しておく。

○祖父の再生
 鳥の将(まさ)に死なんとするや、其の声悲し。人の将に死なんとする、其の言や良しとかや。家内のものを貧乏に苦しめて置き乍ら、死ぬ三日前には賽の歌まで作って、博奕趣味を徹底的に死後にまで続行しようとした祖父も、最期の日に成ってから、和魂・幸魂の発動に依って、死後家内の心得や孫の身を守護する事まで遺言したのであった。其の二魂の至誠が凝結して、王仁が六歳の年まで幽体を顕わし、山へ行くも川へ行くも隣家へ遊びに行くにも、腰の曲った小さい爺さんが附随して居ったのを、王仁は七歳に成る迄、我が家には祖父さんも祖母さんもあるのだと確信して居ったのである。それが俄に見え無く成ったから、「物言わぬ祖父さんは何処へ往ったか」と祖母に問うて見ると、祖母は驚いて「それは祖父さんの幽霊だ、祖父さんは坊の一歳の冬に死なれた」と聞かされて、俄に恐く成り、臆病風に襲われて、暫時は一人で隣家へ遊びにも得行かぬ様に成った事がある。王仁が六歳の時、過って烈火の中に転げ込んだ事がある。其の時にも祖父さんが何処からとも知らず走って来て、火中から曳き出し助けて呉れた(※1)。王仁の左腕に大火傷の痕が遺って居るのは、其の時の火傷の名残りである。
 祖父は至って潔癖であって、野良へ出て畑を耕すにも、草切れ一本生やさぬ如にした人である。偶々一株の雑草が在ると、それを其の場で抜いて土中に埋めて了えば良いものを、態々(わざわざ)口に喰わえて、東から西まで一畔を耕し終わるまで放さず、畔の終点まで行った所で、之を畑の外の野路へ捨てるのが癖であった。祖父さんが死ぬ三日前に祖母に向かって云うには、「私も今死ぬのは厭わぬが、一つ残る事がある。是を遂行せなくては、産土様に死んでから申し解けが無い。」と云って泣き出す。そこで、祖母が「それは如何なる事が残るのですか。」と尋ねると、驚くべし、「未だ屋敷と倭屋と小町田が残って居る。是を全部博奕を打って無く為て了わねば、私の使命を果たす事が出来ぬ。」と日うのである。
 家内を一生貧乏に苦しめ、其の上永らくの看病をさせて置き乍ら、猶飽き足らいで、家屋敷を売る所まで負けない内に死ぬのが残念なとは、何たる無情の言ぞと呆れて、少時(しばし)は祖父の病顔を熟視し涙を流して居られると、祖父が云うには、「宇能よ、定めし無情惨酷な夫じゃと思うで在ろうが、毎時もお前に言う通り、因果ものの寄り合いじゃ。お前が私の家へ嫁に来てからと云うものは、一日片時も安心させて歓ばした事は無し。私も実にお前に対して気の毒で堪らぬけれども、何とも致し方が無い。皆先祖からの罪滅ぼしに生まれて来たのだ。上田の先祖は広大な地所を私有し、栄耀栄華に暮らして来たので衆人の恨みが此の上田家に留まり、家は断絶するより道の無い所を、日頃産土様を信心する御蔭で、神の深き御仁慈に依って大難を小難に祭り替えて助けて下さるので在るから、私が死んだ後は孫子に伝えて一層信心を固く為て呉れよ。」との涙乍らの教訓であったのである。
 次に又祖父が遺言して「孫の喜三郎は、到底上田の家を続がす事の出来ぬ因縁をもって生まれて居る。彼れが成人の暁は養子に遣って呉れ。此の上田家は再び生まれ代わって私が相続する。」と謂ったと謂う事である。祖母は態とに笑顔を造って「今一度博奕の相手を招んで来るから、冥途の土産に、心地能う博奕に負けて家屋敷を無くして、先祖からの罪障を除去て下さいな。」と日うて見ると、祖父は「否お前がそこ迄言って呉れる赤心は有り難いが、もう眼が少しも利かぬ如に成ったから、是非が無い。直ぐに又生まれ代わってお前のお世話になる」と謂って、落涙に咽んだと云うことであった。

 王仁は五歳の時脾肝の病に罹り、腹部のみが太く、手足は殆ど針金の幽霊の如に痩せ衰えて来たので、両親は非常に心配して各地の神社や仏寺に参詣して、病気平癒の祈願を為て呉れられたが病気は日夜に重る斗りで、何の効験も現われ無かったので、父母は人の勧むる儘に蟆蛙(ひきがえる)の肉を料理し、之を醤油の附け焼きにして毎日々々王仁に一、二片ずつ食わして呉れた。王仁が食おうとすると、腰の少し曲った小さい爺さんが出て来て睨みつけるので、何時も喰った様な顔をして父母に隠して棄てて居った。
 或夜の祖母の夢に祖父さんが出て来て、「孫の喜三郎には蛙の如な人間の形を為た動物を喰わしては成らぬ。喜三郎は神様の御用を勤める立派な人間に為るのじゃ。孫の病気は産土の神様の御咎であるから、一時も早く小幡神社へ連れて参れ。そして今後は敬神の道を忘れぬ如に梅吉(父)や世根(母)に訓(おし)えて与れ。」との事であった。祖母は夜中に眼を醒まして直ちに王仁の両親を揺り起こし、神夢の旨を伝えた。父母は其れを聞くより王仁を曳き起こし背に負うて小幡神社へ参詣し、今迄敬神を怠って居た事の謝罪を為たのである。其の翌日から段々と王仁の重病が快方に向かい、二か月間ほど経て全快する事と成った。「産土の神の霊験と日うものは実に偉大なものである」と、時々祖母の話であった。

 明治七年正月元旦の日の出と共に王仁の弟が生まれた。父母は死んだ祖父に赤児の顔が酷似して居ったので、(是は全く爺さんの再来であろう。又成人したら博奕打ちに成って両親や兄弟を苦しめや為ないであろうか)と心配して居った。祖父が吉松、父も吉松なので、松の字を入れて由松(よしまつ)と命名したのである。その由松が四歳に成った夏、畑へ父母が草曳きに連れて行って畑の中に遊ばして置いた。四歳の由松は畑の草を引き抜いては口に喰わえ、口に充実(いっぱい)になると畑の外へ持って出て捨てるのを見て、「あっ」と云って驚いて居ると、無心の由松の口から思わず知らず「己が判ったか」と叫んだのである。弥々間違い無き祖父吉松の再生と謂う事を確信したのであった。父母の心配した通り、由松は十三、四歳の頃からそろそろと小博奕を打ち出し、一旦は屋敷も小町田も全部棒に振って了い、倭屋は明治三十四年(1901年)旧二月七日に、祝融子(火事)に見舞われて、多からぬ財産を全部灰にして了ったのである。
 其の時は王仁は綾部へ来て出口(なお)教祖と共に、艮の金神様に仕えて居った。そうすると穴太の弟から「イヘマルヤケ ルイクワモ ケガモナシ」と云う電報が届いた。早速、教祖様に其の由を申し上げると、教祖は驚かれるかと思ったら、左も嬉しそうに、「ああ左様か、結構でした。其れは結構な御利益を戴かれました。先生も早く艮の金神様と、穴太の産土の神様へ御礼を申しなさい。妾(わたし)も一所に神様に御礼申して上げます。」との御言葉である。其の時は私も教祖の言行に就いて少しはムッとしたが、能く心を落ち付けて考えて見ると、教祖の御言葉に敬服せざるを得無かったのである。上田の家は一旦塵片一本も無い様に貧乏のドン底に落ちたが、其の後神様の御蔭で、祖先から持ち越しの罪障を払って貰い、再び出口家より元の家敷を買い戻し、小さい乍らも以前より余程立派な家を建てて貰い、祖父の再生したと云う弟の由松が、元の屋敷で上田家の相続を為て居るのは、皆昔から一定不変の神則であって、人間の智慧や考えでは如何ともする事が出来ぬと云う事の、実地の神証であると思う。

(※1)「他神の守護」玉鏡(昭7/5)
 私は常に「上帝一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物ニ賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之ヲ万有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ッテ之ヲ守ルニ非ズ。即チ天父ノ命永遠不易/上帝一霊四魂をもって心を造り、之を活物に賦す。地主三元八力を以て体を造り、之を万有に与ふ。故に其霊を守る者は其体、其体を守る者は其霊也。他神在って之を守るに非ず。即ち天父の命永遠不易」と説いてゐる。「他神在ッテ之ヲ守ルニ非ズ」といふことは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかって守護するといふ事はないといふのである。よく狐や狸が憑って守るといふけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守って下さるとか或は産土の神が守られるとかいふのは、自分の精霊が祖霊或は産土の神と相感応してさう思ふだけのことである。私の幼時、囲炉裏に落ちたときに祖父さんが現はれて私を助けて下さったといふのは、私の霊が祖父さんと見せてゐるので、私が祖父さんと感じて見てゐただけである。
 悪霊は人の空虚に入つて害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、或は断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚が出来るから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があっては正しい人といふことは出来ない。四魂即ち天賦の勇親愛智を完全に働かすことが大切である。産土の神が守るといふのは、村長が村民の世話をするやうなもので、決して人間に直接産土の神が来って守るといふことはない。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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