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伝記 出口なお目録(1)

出口なお開祖。近代日本に突如として出現したシャーマンにして、節分の日に「鬼は外、福は内」と煎り豆をぶつけられた鬼門の金神・国常立尊様を世界に知らしめた稀代の預言者であります。清冽実直、厳格にして慈愛の権化。神様云々をさしおいても、霊止(ヒト)の鑑とすべき女性でありました。出口なお開祖自身は神様の御言葉以外に自分の事を全く語りませんでしたが、末娘の出口すみ、娘婿の出口王仁三郎、孫の出口直日など、多くの者が開祖を慕って追憶の文を残しております。その中から、出口なお開祖の人柄をしのばせるものを幾分なりとも紹介したいと思います。

『現代天田郡人物史 出口直子刀自』
『大本教の活歴史』(壱)(弐)(参)(四)(五)(六)(七)(八)(九)
服部静夫『出口直子伝』(明誠館、大正九年)
出口直日『なずな』
出口直日『思い出の祖母』

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現代天田郡人物史 出口直子刀自

「現代天田郡人物史」 (福知山三丹新報社, 1914)
 近代デジタルライブラリーより引用。句読点は当方の独自判断にて追加した。

☆皇道大本 出口直子刀自 天田郡福知山出身

 何鹿郡綾部町字本宮に皇道大本教と称する神道の布教所あり。現在数百の牧師と数万の信徒を有し、非公認ながらも公認教を凌ぐの慨あらしめ名声赫々たる其開祖が、我天田郡福知山町出身の出口直子刀自となす。刀自は天保七年十二月十六日福知山上紺屋町医師中川淳一郎邸が未だ同氏の有に帰せざる以前は、同藩士桐村五郎三郎氏住居し其長女として誕生されしが、年二十歳の時綾部本宮なる出口政五郎大工に嫁し一家睦敷三男五女を挙げたるが、政五郎氏は建築術の達人なれども却々の大酒家にして自分の給料は勿論祖先伝来の田畑まで全部売却して飲み盡し、果ては赤貧洗ふが如き困難の中に病の床に就きたれど刀自の苦心は一方ならず、子供の世話から夫の看病三ヶ年の長月日を一日の如く一手に引受け、毎日小餅売を業として僅かの利益で一家を支へたる貞操は地方婦人の模範なりと謳歌せられたり。政五郎は刀自の手厚き介抱に感涙にむせびつつ、五十二歳と一期として逝去せられたれば、愈一家の大責任は刀自の双肩に掛りたり。されば何事も天命と諦めて健気にも金龍餅を製造し、傍ら小商を営みて星を戴て家を出で月を踏んで家に帰へり、一刻の間も安楽と云ふ事もなくして八人の子供を養育せられたるが、其亦子供に縁薄くして人となるや上へから上へから家出をする、行方不明となる、三女四女二名は相續いで発狂する、其れは其れは實に踏んだり蹴たりにて二十余年間と云ふものは如何に艱難辛苦を積まれたるが聞も涙、語るも涙の種ならざるはなく、到底筆紙の及ぶ處にあらず。
 然るに刀自は泰然自若として此上は何事も神に祈るの外なしと熱心に天神地祇に祈願されしかば、三女久子の発狂は忽ち全快されたるより天恩の有難に感じ、益々信心の念堅固となりて、明治二十五年正月元旦の夜神夢を感合して遂に教を開くに到りたるものにして、年既に七十九歳の高齢なるにも拘わらず意気尚壮昔を凌ぎ、日に夜倦怠の色もなく同教の為に、否国家社会の為めに同教の真味を傳導せられあるが、同教の斎神は刀自霊夢の中に発見したる艮の金神 国常立の尊を始め天神地祇八百萬神にして、刀自は一番末子の澄子(出口すみ)嬢を以て世子と為し、奇縁によりて帰神鎮魂の二法に奥義を極める上田王仁三郎(出口王仁三郎)氏を養子に迎え、母子心を一にして大本教と命名し、且つ修斎會と称して盛に布教せらるるに到りたる為め、遂には刀自を目して発狂者なり気狂なりと云ふ者さへあるに至り。為に刀自は其筋へ拘引せられたるのみか後ちには自宅内に牢屋を造りて之に打込み自由を束縛せられたるなど、實に其當時刀自の心を偲ぶれば慨嘆悲憤の極にして普通の婦人なれば自暴自棄の擧に出ずべき筈なるに、元来男勝りの気性有する其上へに天地自然の神意を解せることとて

 憂き事は 猶ほ此上に積れかし
   徳を積りし元と思へば

との古歌を了得せば莞爾として毫も意に介せず自然に任せられたるに頓て疑も晴れて自由の身となられたり。之れ即ち天が刀自を試めし給ひし関門して、其晴天の身となるや不思議にも遠国より其徳を慕ひ参詣して教を請ふもの引も切らず、恰も旭日の勢ひにして向上し、却て足下の綾部町民よりか京坂地方に於いて好評を博し、僅か数年にて分院支所等百数十ヶ所の多きに達し、各所とも参詣者頗る多く、現に本廱の如き本殿に続くに石宮、金龍殿等の新築を見、目下丹波雄島雌島の擬嶋工事中にして数町歩に渉る大池沼を開拓し、其池中幾ヶ所となく浮島を造り宮殿を建築する者にて、尚開祖殿、清霊殿等を其周囲に新築するものなるが、工費十万圓を越へ實に綾部町の奇観として将来を重視さる同教。今日の勢を以て発展せんか、数年を出でずして綾部町の体面を一新し、一大福音を興ふべし。吾人は同教必ず十ヶ年以内に於て一大宗教を形造り、参詣者の便を図る為には鉄道院亦本宮駅を特設するに至るを期待す。尚同教は中學校、風俗劇場等をも新築すべく目下設計中なるが、一婦人直子刀自の力にて僅か二十年内外の布教に於いて今日の隆盛をみる。其神徳の然らしむる處とは云へ實に恐入りたる次第にて本郡出身者中第一位の成功者たり。終に臨み、吾人は刀自が幾久しく健在にて益々其基礎を拡大せられんことを希ふものなり。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

出口直日『なずな』

○出口直日(出口なお孫)『なずな』(心の帖より)

 切り紙細工のような形をした、なずなは、春の七草の一つです。
 ”なずな”という言葉のひびきに、なんともいえぬ優しさ、なつかしさを感じるのは、私をこの上もなく愛してくれた祖母(出口なお)が、行燈の光りも仄暗い部屋で、添い寝をしながら、”七草なずな唐土の鳥が渡らぬさきに、やれやれ帰った”と少しふるえを帯びた透きとおるような声で、唄ってきかせてくれた思い出があるからなのかもしれません。

 三番目の女児が生まれたとき、なずなという名前をつけたいと思ったのですが、ある人が”むじな”とまちがえそうだといい、”なずな”の成長したのがペンペン草といって、家の空地などに生える、びんぼう草だといったので、やめてしまったことを、今でも惜しいことに思っています。



テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

出口直日『思い出の祖母』

☆出口直日 『思い出の祖母』(心の帖より)

 祖母(出口なお)は、幼いころから、父(出口王仁三郎)よりも、母(出口すみ)よりも、私のいちばん好きな人でした。
 いつも、ものしずかな人で、私はいつも祖母の部屋にいっていました。
 母が祖母の身辺を気づかい「よいもんあげるで、こっちおいで」などといって呼び出しても、もらうものだけもらうと、祖母の部屋にゆくのでした。
 祖母は、夜な夜なむかしばなしをしてくれました。それで、夜がくるのを待ちかねて、祖母の部屋へ泊まりにゆきました。夜の灯影がもの静けさを深め、私にはピッタリとした、みちたりた時を過ごすことができました。
 丹波縞の夜着の中で、両方からせりあって、祖母によりそい、毎夜、同じ話を聞かされているにもかかわらず、なにかせつない、真実につつまれる思いであったのでしょう。
 今にしておもうと、祖母の話しぶりは、甘い感傷が漂うて、祖母にも、うら若い乙女の日があったことを、ほほえましくしのばせるのでした。
 祖母は、いつまでも清純な乙女のような、みずみずしいものを、もちつづけていました。
 貧困の町家に生まれ、小さいうちから奉公に出なければならなかった祖母は、家庭をもってからも、ひとかたならぬ苦労をしたのに、そのような境遇の人にありがちな陰影がなく、私の少女のころ、もと武家の奥さんの中に気品の高い老婦人をみましたが、祖母は武家育ちのような気品のなかにやさしさがあって、やさしいわりにシャンとした感じをもっていました。
 祖母は、手織木綿の着物を、いつもさっぱりと着ていました。
 ときおり、「女はいつも薄化粧ぐらいはしているほうがよろしい」といっていましたが、自分は色が白くて、キメが細かく肌がきれいなので、ちょっとでも化粧すると目立って気はずかしかったので、素顔でいたそうです。

 祖母の性格は、体質にあらわれ、食事にもつながっていたようです。
 行燈の灯影で、祖母はしずかに膳にむかっていました。そして朱塗りの大きな椀に二口三口ほどのご飯をもり、それにいつも白湯をかけて、ゆっくりといただいていました。そうして、一度かえるくらいでした。いたって食の細いほうで、これは老境のせいばかりでなく、祖母は、地の上にたいへんな日がくることを知らされていて、世の終わりの迫ってくることをおもって、多くの人々が――大難を小難にて過ごさしていただきたい――という祈りの一念で、食慾が枯れてゆくような日がつづきました。「世の中の難渋している人のことが思われて、食べものが喉をとおりませぬわいナ」ともらされていたこともしばしばです。わずかのご飯にも、お茶でなく白湯をかけていた心がわかるようです。
 おかずは、菜食で、野菜はなんでもたべました。それに乾物の干ずいき、高野豆腐、椎茸、生湯葉はことのほかに好きでした。年に一度か二度、体を養うため鯉こくをたべました。それに鮎の塩焼は好きでしたが、これも年一度か二度のていどでした。そのように祖母は食事は清貧に徹していました。
 そうした祖母のそばで育ったせいか、私の食べものの好みも祖母に似て、膳が出ると祖母のことを想いだします。
 祖母が、ご飯のとき、焼きものの茶碗をつかわなかったことにも、祖母らしさがひそんでいます、明治もなかばをすぎると、文明開化の風にさらわれ、庶民が使う焼きものの美しさまでくずれてゆきますが、それでも綾部のような山陰の町では、まだ、幕末に見るしずかな呉須の染付や温かい土灰釉で心をなごめてくれる日用雑器がのこっていたと思います。それをさけたというのは、焼きもののもつ触覚と接触音からではないかとおもわれ、より温かい、よりしずかなものを愛した気持ちが、祖母の掌に木の椀をとらしめたのでしょう。
 わずかにひびく音感にも、ものやわらかさを愛したように、祖母はこころの奥行のふかい、やさしい人でした。
 無地の朱塗りの、形は奥州の秀衡椀のように豊かな椀をつかっていた好みにも、祖母の日々の気持ちが映っていました。朱塗りのいろには、苦労のかたまりといわれる人生体験が、つやをおびているようでした。

 あのような人がらを、もうふたたび私の身近にみることはできないでしょう。

 それにつけても、したわしく思いおこされるのは、明け方近く工場の汽笛が鳴りひびくとき、祖母が示した美しい陰影のある表情です。
 喉ながくひびく笛で、睡りを醒ましている私に、すでに起きていた祖母は近よって「いま“製糸”の女工さんがおこされていますのじゃ」といたわりのこもった声で、ささやきました。
 祖母は、当時、新しく興ってきた工場で働いたことはなくとも、少女のころから、生糸の賃びきに出た経験があって、雇われ人の苦労を、充分に味わってきたところから、女工の生活を思いやって、いつも涙ぐんでいました。
 しっとりとした、山陰の朝々を甍(いらか)の波を越えてわたってくる汽笛の音にも、女工のあわれをしのび、胸がいたんだのでしょう。幼い孫の私に、その胸の痛みをうちあけるように、女工のみじめな一日が始まろうとしていることを告げました。
 祖母はまた、私に、「兵隊さんは可哀そうや」と、これも、祖母が女工に示したと同じかなしみをこめて、いくたびも、いい聞かせてくれました。
 祖母は――次男(出口清吉)と日清戦争で別れ、戦争と人民の悲惨を、まのあたりにしたことから格別の気持ちをもっていました。
 祖母の書いた筆先(文章)には――戦争ほどこの世につまらぬものはない(※1)――と人の生命の尊さを、強く訴えた言葉が、いくところにもでています。その気力のはげしさは、あたかも胸の中に、金鉄の筋がねを打ちこまれる思いがしますが、祖母の世を思うやさしい心根が明るくにじんでいます。

 祖母は蔬菜づくりが好きで、畑に出て世話をするのを楽しみにしていました。ことに南瓜つくりはじょうずでしたが、後年に踏み違いで少し足をいためてからは、好きな畑にも出ませんでした。それから、前よりも筆先がたえまなく出るようになりました。
 祖母は、梅の杖をついて、コツンコツンと、ゆったりと間をひびかせながら、廊下からお庭のほうへまわっていました。あるとき、「きょうは悪霊が来ておったから叱ってきてやりました」といって、杖の音を夜の闇にひびかせながら寝床に臥ている私のところへかえってきたことがありました。

 ある夜のこと、祖母が煙管(きせる)でタバコを喫っていて、これまでついぞないことと、思わず「おばあさん、タバコが喫めるのですか」と声をかけてしまいました。祖母は、私の声に驚いたようで、「おすみ(出口すみ)がおいていったので、ちょっといただいてみましたのじゃ」と恥ずかしそうでした。
 そういうときの、祖母のういういしい美しさも、今に忘れえぬものとなっています。
 祖母の生家の隣りに、葉タバコを刻んで商っている店があって、幼いとき、むずかったりすると、祖母の母なる人がその煙草屋の縁先に祖母をつれていって坐らせておくと、何時間でもおとなしくしていたそうです。
「私はほんとうはタバコが好きやけれど、いただかんだけや」といっていました。すきなもの、それを欲するままに求めず、一生たしまなかったところに、祖母が、そうした面ででも、努力家であったことを思います。
 克己心の強い性格は、小さいころからのものでしょうが、祖母は「お母さんがよく気をつけて育ててくだされたから」といっていました。

 私が琴を弾き初めたころのことです。祖母から――直日さん、久しぶりで琴の音を聴くことができました――と、それは乙女がものの美しさに酔ったような表情で声をかけました。祖母のものの好みは、気品のあるもの、やさしいものに趣味をもっていたようです。
 生まれつきの性格なのでしょうが、祖母の生まれた福知山というところが、金剛流の能が盛んで、少女の頃、子守りのかたわら能の笛や、鼓を、求めて耳にしていたようです。祖母の気質にお能の雰囲気が合ったのでしょう。祖母がいま生きていたら、きっとお仕舞をみずから舞ったことと、私はひとり想像しています。

 祖母の日常は、朝は暁まえに床を離れて水ごりをとり、ご神前に坐って礼拝をしていました。そのときの祝詞の声のさわやかさは、私にとっていちばんつよく印象づけられているものです。すがすがしい声で若々しく、おだやかな調子のうちから、凜とした力がひびいていました。
 ご神前での祖母は、かすかに首の辺りをふるわせながら、ながながとだれかとお話をするように、口の中でなにか言っているようでした。
 祖母が、神様とお話をしたり、筆先を書いたりしたほかの時間は、禅宗の雲水の生活に似通う、立居などのしずかさでありました。
 もちろん、祖母は、禅堂に坐ったことも、茶の湯の点前を習ったこともなく、それでいてどこかに、相似たものが感じられ、いうにいわれぬ雰囲気となっているのでした。
 それが、祖母の周辺の人々にも影響したように、私も、自由奔放にありたい子どものころでありながら、祖母のもつ雰囲気に魅きつけられ、きびしい規則正しい生活に一種のあこがれをいただき、祖母と日常をともにすることに、生きる楽しみのようなものを感じたものです。
 祖母の日常は、質実で剛健というか、そういう気風があって、とくに、お土のご御、火のご恩、水のご恩、人のありがたさがやかましくいわれ、きびしいまでに大切にされていました。
 祖母は、そうぞうしいことは嫌いで、それも時・所・位でやかましく、いつどこででも鼻唄気分でいることはきらいました。
 行跡の定まらぬこと、偉そうなことをいうこともきらいで、ひそかに目立たないところに注意してゆくという気風でした。
 祖母は、いつも身ぎれいにしていました。お水で体じゅうを拭い、またお湯にはいっても糠袋などで、ていねいによく洗いました。それでいつも肌につやつやとした輝きがありました。お湯に入るときにも、必ず、お湯を手ですくい、額に三度あてて礼拝して入り、お風呂から上がるときには、湯殿のあとしまつをして、あとの人のためにぬるくなった湯をたくようにいいつけました。
 もののすみずみにまで心を入れ、家事でもいっさいのものを生かしてゆくというのでした。
 大根の切れはしや、赤葉も、大切にして、味わいよくいただくことを工夫しました。
 起居は、端正で、ものしずかな暮らしの中で、たくさんの筆先をしるしました。
 祖母は、筆先がしっかりとお腹に治まりさえすれば、人の姿は、しぜんと奥山のようにしずかなものになってくる、といっています。
 夕方になると、縁先にうずくまって、空の星に見入って、時の経つのも忘れたようにしていました。
 いつも、苔の上に打ち水をしたような、侘びた、ゆかしい暮らしでした。


 祖母は、敏感な感受性をひめて、いつも、澄んだ、やさしい世界に生きていたので、祖母の手記した世の立て替え立て直しの筆先は、その根底に澄んだ温かいものがあります。
 このことは、祖母の人格や人生経験を素地として、神の啓示が現われ、それらの啓示にたいして、祖母が、やさしい、あたたかい全人格をささげて厳しく受けとめていったからで、祖母の筆先を読むうえに、まことに大切なことであるとおもいます。

『大本神諭』 明治31年旧9月13日
”世界には運否運(うんぷ)がなき事に致さぬと、今までは余り運否運が在りたから、世界を洗濯いたし、人民に改心を致さして、世界を桝掛曳くのじやぞよ。改心一つで能くなるぞよ。悪るき事をいたすやうに思ふて、何時迄も敵対(てきた)へば、物事が遅くなるから、余り敵対へば日本の国に何が在りても構はぬぞよ。日本の国は助けたいと思ふて、神々様は大変な御骨折じやぞよ。何にも知らぬ人民には相手には成らね共、余り敵対へば神も堪忍袋がきれたれば、何事在りても神は知らんぞよ。判らんといふても、あんまりであるぞよ。”

 この筆先が出た当時から今日までの歴史の流れを、じっと、ながめてみますと、たしかに運、不運の差が一歩一歩とちぢめられつつあることを感じます。
 日本においても、祖母の眼に映っていたそのころの女工や兵隊のそのままを、今日の社会で見いだすことは困難でしょう。
 それほどに、わずかな歴史の流れのうちに、祖母の書きとめた筆先は事実となって動き出しています。
 こうした見方を、あまいと考える方もあるでしょうが、神の啓示として、近代史を貫いている新しい潮流となり、厳然として生きていると思うのです。
 歴史の、とくに近代の変革には、そのときどきの人間の叡智や情熱が、歯車となっているでしょうが、その歯車だけで、歴史は動いているのではなく、もう一つの偉大な波動がこれに働きかけていると感じられます。
 第二次大戦直後まで、日本の社会で、多くの問題をはらんでした小作制度が、今日の農業経営に切り換わった経路にも、また、日本が世界に魁けて平和憲法をもつようになったことにも、日本人の叡智と情熱のみによって、かちとったとはいいきれない、もう一つ何かが加わっていると考えられないでしょうか。それは、あるときは、もののはずみのような形で、突如として、歴史の上に現われることさえあると思います。
 そこに、私は不思議な摂理を感じます。
 歴史学は、あくまで現実的に、科学的な立脚点に立とうとしているので、この不思議な力を度外視してかかるのも当然でしょうが。


(※1)
大本神諭「明治…年…月…日」
 至仁至愛(みろく)の神の御出ましに御成(おなり)なさる時節が参りて、大国常立尊が出口の手で書き知らして置いた世が迫りて来たから、世界中の人民が改心を致さねば、この世では最う一寸も先へは行けず、後へ戻ることも出来んぞよ。
 此世の来ることを、明治25年から今につづいて知らしておるのに、チツトモ聞入れが無いが、国同士の人の殺し合ひといふやうな、こんなつま)らん事はないぞよ。
 一人の人民でも神からは大切であるのに、屈強ざかりの人民が皆無くなりて、老人や小児ばかり残して、前後(あとさき)を構はずのやりかたであるぞよ。こんな大きな天地の罪を犯して、まだ人の国まで取らうと致しておるのは、向先(むこさき)の見えぬ悪魔の所作であるから、どの国が仲裁に出ても、天地の大神の御許しのなき事には、いつまでも埒は明かぬぞよ。出かけた船であるから、どちらの船も後へ引く事もならず、進む事も出来ず、まことの仲裁もはいらず、つまらん事が出来るから、外国の守護神[人]に長らくの間、気が付けてありたぞよ。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

出口浅野(直日)『立教の精神を高めん』

☆出口浅野(直日)『立教の精神を高めん』

 ただいまは、大本開祖大祭を、ご参拝の皆さま方とごいっしょに、おごそかに、とりこなわさせていただくことができまして、まことにありがとうございました。このみまつりは、大神さまの厳のみ光を畏み、開祖のご生涯を辱(かたじけ)なく仰ぎまつるとともに、大本の立教の精神を高めんとするものでございます。この意義ある日に当りまして、開祖のご日常をしのびますとき、まず浮かんでまいりますのは、まことに、しずかなご日常でございます。大神さまの、あのはげしい立替え立直しのみ言葉を、内に燃えるように受けられながらも開祖のご日常は、しずかで、清らかで、しんとしたものでございました。
 このことは、非常に、大事なところとおもう次第であります。それで、開祖のおそばに伺いますと、誰でも、奥山にいて鳥の声を聴いている時のような、しずかなこころになることができ、神さまの方へ真っ直ぐにむかわせていただいたものでございます。また、開祖のおそばにありますと、目にふれるもの一切がありがたく、みろくの世とは、かくやと思われる、やさしさと、きびしさを帯びて、映ってまいったものでございます。
 これらのすべては、開祖が、大神さまにたいし、きわめて純真であらせられ、一切を大神さまにお任せになって、唯之命のまにまに御用されて来たことによるものと拝します。開祖が、このような境涯にあらせられましたことは、もとより、私の申すもおそれ多いことでございます。開祖は、そのような御日常にあって、世界の人類が渡らなければならない橋のこと、越えなければならない大峠のことをおもわれまして、朝に夕に、大難を小難に、小難を無難にと祈りつづけられました。開祖の、このやさしい、深い愛に満ちた御日常のこころを、この道の友は、今日(こんにち)こそ、きびしく汲ませていただき、およずれのまがごとに惑うことなく、大道を直行してまいりたいものでございます。
 いま一つ、開祖のご日常は、とりわけて行儀のよいお方でございました。それで、この道の人の、思い上りや取り違いはもちろんのこと、悪意がないといっても、うわずった不作法にも、「ここを何処とおもうていられますか」ときびしいお諭しがございました。そこで、わたくしたちは、なにはともあれ、世間いっぱんの礼儀は、もとより身につけていなければなりません。人として世にある以上、教養にかかわりなく、お互いの立場での挨拶は、例えば、聖地では「ようお参りになりました」「どうぞ気をつけてお帰りください」くらいのことは自然に親情をもって交わせなければなりません。これは、しごく当たり前のことで、その当たり前をふまえて、この道の人は、開祖の諭されました「ここを何処とおもうていられますか」という御言葉をよくよく玩味していただきたいものでございます。
 ことわけ、ちかごろの思い上がりや、取り違いについては、大いに反省していただきたいと存じます。また悪意はなくても、うっかりしていることにも気をつけてもらいたいと存じます。ましてや、聖地にお勤めされている人は言動をつつしんでもらいたいと存じます。そうして<ここは、なんという佳いところであろう。もう一度、参らせてもらいたい>という願望心が、ここにみえる方に、自然に湧いてくるように、十分にこころしてお勤めさせていただかねば、せっかくお仕えさせてもらっている甲斐がございません。ここに大本の教風の初心にかえり、真剣に工夫し、懸命に努力させていただきたいと存じます。
 開祖のご時代にも、開祖のご日常に、時に、影を差すように、お悩みごとが、まつわりつくことが、往々にしてございました。それは、開祖が、身内の邪(よこしま)な言動(ふるまい)のため、ご苦労なされていたお姿でございました。悠々自適のご晩年にも、そんなご苦労のつきまとっていたことを、今にして、しみじみとお偲び申し上げる次第であります。大本は、大神さまが、これまでの世界を立替え立直して、弥勒の世となすお仕組(※1)のもとに、開祖・聖師をとおして啓示されましたみ教えにより、御用に奉仕いたすお道でございますが、この御用には、特に、心の持ち方が大切でございます。心の持ち方の善し惡しは、そのまま霊界へ、霊界から現界へとひびいてまいるものでございます。神諭に「この直は、この世の亀鑑にいたす身魂であるぞよ。この人をみて、神の御用を聴いてくだされ」(※2)とございますように、まずは、開祖のご生涯に、お照らしをいただき、お互いによく省みて、日々のご用に、いっそう励んでまいりたいと存じます。
 どうか、よろしくお願いいたします。(昭和57年11月6日)

(※1)
大本神諭 『明治32年旧6月3日』
 艮の金神が御礼申すぞよ。永らくの経綸いたした事の初発(はじまり)であるぞよ。上田喜三郎(うえだ きさぶろう)殿、大望な御世話が能う出来たぞよ。御礼には御都合の事じやぞよ。)九曜の紋を一つ殖やしたのは、神界に都合の在る事じやぞよ。今は言はれぬ。此事成就いたしたら、御礼に結構にいたすぞよ。綾部世の本、金神の大本と致すのじやぞよ。艮の金神はチト経綸が大きなから、この方で世話に成らねば開けんのじやぞよ。

伊都能売神諭 『大正8年2月13日』
 大本の十曜の神紋は、世界統一の標章であるから、この神紋の由来を知らねば肝心の神秘が分らぬぞよ。九重の花が十曜に化りて咲く時は、万劫末代しほれぬ生き花で在ると申して、今迄の神諭(ふでさき)に出して在ろうがな。この九つ花が十曜に開く其時は、如何な鼻高も如何な悪魔も改心いたして、今までの自分の思いの違ふて居りた事が明白に分りて帰順(おうぜう)いたすぞよ。三千世界の世の元を締固めた折に、一生懸命に大活動を致した誠の神の因縁を説いて置くから、万(よろず)の神々様も人民も、よく腹へ呑み込みなされよ。

○上野公園 人に内在する良心神「薩張りで改める。〇に十字は世を救う神。」

 大本教では大本教神諭の「九つ花」に「九曜紋」を持って来ました。これだと九つ花から一輪の言霊の経綸が出ません。そして、大本教神諭に神示として、神界の都合があるので「十曜紋」に変えるで、現在の大本教は九曜紋から「十曜紋」に変えました。聖書には男女の預言者に1260日間説かせるがあります。大本教の出口王仁三郎聖師は、聖書の予言の男女は大本教の出口なお開祖と出口王仁三郎聖師のことだと述べておられますが、そんな証拠はどこにあるのだとなります。出口王仁三郎聖師は大本教弾圧事件で1260日間牢に入っていたので、予言は達成されたと言われていたのですが、それでは出口なお開祖に1260日が出て来ません。
 では、大本教神旗の十曜紋を作図してみましょう。作図するには、まず正九角形を描かなければなりません。一角が40度になります。ここで、不思議なことに気付きます。それは、正九角形の総和は「1260」度だと言うことです。たぶん、ここは気付いても意味が隠されているとは思わずに通り過ぎてしまいます。 一つの三角形の総和は180度ですから、残る二角は140度です。それが九つありますので、140×9=1260です。この「1260」の数字で、聖書の1260の数字を思い出すはずです。聖書には幾ヶ所か1260の数字が出て来ます。しかし、1260の意味は不明ですね。1260日に何の意味があるのかと首を捻るところです。私が子供の頃に臨まれた声は、旧約聖書は我が書なり。されど、そのままに読めば意味を間違える。秘め書であるので、意味を解読しなさいと告げられたのです。
 大本教から、出口なおさんと出口王仁三郎さんの二人の予言者が出られることで、大本教神諭と霊界物語は神の書であることが解るわけです。それを隠しているのが十曜紋の神旗なのです。十曜紋で、出口開祖と出口王仁三郎聖師の1260が出るわけです。ですから、大本教神典を外して神の教えを解読することは不可能に近いのです。また、その役割は「イロハ」で「ン」を加えて四八音。今では、これはヨハネ(四八音)役だと理解されつつあるわけです。完全に聖書の日本版なのです。

(※2)
大本神諭 『大正4年旧6月8日』
 変性男子の御用は大望な御用であるから、男でも出来ず、女ではなほ出来ず、この世にこれ程大望(たいもう)な御用は、誰も出来んのであるぞよ。大神様のじきじきの御霊統(おちすじ)の、国常立尊の御霊が、半分の御霊を変化て女に致して、変性男子の身魂に致して、今度の二度目の世の立替があるのは、世の元からの天地の先祖は、末代の事が判りて居りての、初発から造へてある御身魂であるから、これ程苦労が永いのであるぞよ。「この身魂が世界の亀鑑(かがみ)である」と申して、初発から御筆先に出してあらうがな。こういふ世が参る事がよく判りて居るから、何も世の元から造へてあることの、時節が参りて来たのであるぞよ。

<戦後の大本教、出口直日さん聖美さん紅さん。大本信徒連合会の出口直美さん、愛善苑の出口和月さん。九曜紋が神様の経綸により十曜紋となった真の理由を説明できたでしょうか? 出口直はイロハ48音でヨハネ(四八音、音=ね)なれど、出口王仁三郎も又ヨハネ。だから霊界物語第十三巻で、今大本にあらわれた変性女子はニセモノだの発言です。>


テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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