スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『惟神の道』(出口王仁三郎)より「神剣の発動」

「神劍の発動」

 政治宗教教育芸術おしなべて 今は地獄の風景となる(出口 王仁三郎)

 現代は世界の隅々まで面白からぬ思想が勃興し、人心日に日に悪化し、暴動や爆弾騒ぎが相次いで起り、天下は実に欄麻の如き状態である。かかる醜穢の国と成り果てたる以上は、どうしても御禊祓いの大々的御神業が開始されなくては、到底人間の智力、学力、武力などで治めると云ふことは不可能である。即ち絶対無限の金剛力を具有し玉ふ神剣の発動、神界の大祓行事により、日本国体の崇高至厳を根本的に顕彰して、地上天国を招来すべき時期に立ち至ったのである。
 現代人の多くは、天災地妖の如きは人間の左右し得るものでないと信じてゐるが、その実、天災地妖と人事とは極めて密接の関係があるのである。故に国家治平の時は天上地上倶に平穏無事であって上下万民が鼓腹撃壌の怡楽を享くるのが天理である。地上二十億の蒼生は、悉く御皇祖の御実体なる大地に繫殖するもので、万物の霊長とまで称えられ、地上を経営すべき天職を享け得て成長するのである。しかるにその天職をも知らず、法則をも究めずして、日夜横暴無法なる醜行為を続けつるあるは、実に禽獣と何等撰ぶ所が無いのである。
 そもそも宇宙が天之御中主神の御精霊体なる以上は、地上の生民等が横暴無法の行為を為せば霊界も亦乱れざるを得ない次第である。要するに天災地妖の原因結果は、いわゆる天に唾して自己の顔面に被るのと同一である。人間を始め動物や植物が、天賦の生命を保つ能はずして夭死し或は病災病毒のために変死し枯死する、その根本の原因は天則に違反し矛盾せる国家経綸の結果である。現時の如く天下こぞって人生の天職を忘却し、天賦の衣食を争奪するが為に汲々たるが如きは、実に矛盾背理の極みである。

 云ふ迄もなく、日本は世界を道義的に統一すべき神明の国であって、決して外国の経綸の如く、征服とか占領とかの無法横暴を為す事は許されぬ神国である。日本は皇典古事記の御遺訓に由り奉りて、国政の大革新を断行し、以て皇道宣揚の基礎を確立し、皇祖天照大神の御神勅を仰ぎ、世界経綸の発展に全力を盡さねばならぬ事は、国祖国常立尊の終始一貫せる御神示である。


スポンサーサイト

『惟神の道』(出口王仁三郎)より「皇道は神に基く」

「皇道は神に基く」

 満州事変の突発と共に、日本精神に還れ、皇道精神に目覚めよ、の叫びが高らかに唱へられた。しかして皇道の研究が卒然として起り、日本主義の読物がたちまち店頭を埋めるの遺観を呈した。その有様はこれを譬ふれば、春風に梢を鳴らす櫻(桜)の花ともいふべきか、遠く離れてそれを眺める者も、樹の下蔭に花の衣を着る人も、今を盛りの色に酔ひ、過ぎにし冬の寒さを忘れ、明日にも来らむ嵐を知らぬ風情であった。
 洵に、学者の教ふる惟神の道、思想家の説く皇道精神、そして軍人の叫ぶ日本主義、総て其の内容は精細を極め巧妙をつくしまた精力溢るるものがあぁつた。四十年間脇目も振らず、あらゆる試練を潜って皇道一本に突進んで来た自分でさへも、今更の様に思はず目を見張らなければならなかった。

 しかし余(王仁三郎)は、斯く皇道を叫ぶ人々の多くが最も肝腎な一事を忽(ゆるがせ)にして居る様に感ぜられた。しからば最も大切な一事とは何か。皇道は神より発する道であるといふことである。故に皇道に関する百の理論よりも、大切なのは敬神の一事である。神むながら言挙せぬ国が日本の本然の姿である。だからして神社参拝を実行しない者に皇道が判る筈はない。神様を吾家に齋かざる者に神ながらの道を説く資格は無い。神に一切を捧げ、神の心に融け込んでこそ、始めて皇道の真諦に触れることが出来るものである。神の無い皇道は稔る事なき徒花である。たとえ五色に色香は咲いても、稔らぬ花は栄えない。余が長い間、

『三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶ』

と云ったのは此処のことである。開いて散りて実を結ぶ、開いた花は散らねばならぬ。そして散った後に於いて始めて徒花と実の花が判って来るものである。
 満州事変直後、皇道の潮が澎湃として高鳴る時、今にも昭和維新が眼前に実現するかの如き勢を示した。実にここ数年間に、皇道の旗を掲げて革新日本の前線に踊り出た人々は無数である。
 しかし、開いて散りて実を結ぶ、開いた花は散らねばならぬ。今や皇道運動者に立別の嵐が吹いて居る。それは一度は通貨せねばならぬ必然の運命である。余は一面、これが早く来ることを待望して居ったのである。国家の大事を成す者は、如何なる時代に於いても金も名も生命も要らぬ赤誠の士でなければならない。故に真に神を信ずる者のみは、いよいよ辛酸が加わり益々試練が重なるにつけて、完成の日近づけりと心に歓喜を覚えるものである。永遠に栄えの実を結ぶ者は、唯神を信じ神の御心に生きる者のみである。


『惟神の道』(出口王仁三郎)より「天を恐れよ、神を畏れよ」

「天を恐れよ、神を畏れよ」

 孔子いわく「君子に三つの畏れあり、天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る」と。また賢王ソロモンいわく「エホバを恐るるは智の本なり」と。かくのごとく、古の聖賢は民を導くに「天を恐れよ、神を畏れよ」と教えたものである。しかるに今日の政治家や教育者たちは、かえって「天を恐るるなから、神を畏るべからず」と教えておるように思われるのである。
 人が何よりも天を畏れ、神以外の何ものをも恐れなくなった時、始めて理想の世界が地上に実現する。しかるに今日の学校教育は、何よりもまず試験を恐れさす教育ではないか。また今日の社会教育はどうか。あるいは権力を恐れしめ、あるいは金力を恐れしめ、また法律の制裁、科学の威力を恐れしめる教育が施されておるのではないか。
 権門の家庭ではその子女を養育するにあたって、いかに権力が今の世に偉大であるかを知らしめようと努力する。富を求める者は金力の強大性を力説し、法律家は法の制裁を恐れしめることによって地上天国が出現するかのごとく教え、科学者は何ものよりも科学の力の恐るべきを強調する。もし孔子の言葉を「正し」とするならば、今の世の政治は明らかに君子の道に叛ける政治であり、またソロモンの言葉を「賢し」とするならば、今日の教育家達はすべて智を得ざる徒であるといわれても致し方なき次第である。
 智者とは日を知る者の意である。日は熱と光の源泉である萬有生命の原動である。はたして今日の科学者に「生命の根本」を明らかにせる者は一人でもあるか。すなわち日を知れる智者なるものが、はたして幾何あるか。ここに、今日の科学が、今一段進歩したならば間もなく明らかにするであろう程度の、人間と自然界の関係を述べておこうと思う。

 人の心が平和と喜びと慈しみに充ちている時、すなわち愛善の精神に満たされている時には、その五体から明紫(めいし)の霊光を放射するものである。この明紫の霊光に包まれると、人間はもちろん、動物植物に至るまで、その精神的物質的成長力が旺盛になって来るのである。ゆえに子女を教育するに際してはもちろんであるが、動物を飼育し植物を栽培するにあたっても、常に愛の心をもってせなければ正しい結果をもたらすことはできないのである。
 今日、庭園なるものは金力を誇り権勢を示すために作られておるようでるが、実は庭園なるものはその樹木草苔によってその家人の特性を表現するものなのである。ゆえにいかに金をかけ人力を尽くしても徳なき家の庭園は観る人の目では、はなはだ貧弱にしか見られないものである。
 また人の心が乱れ、悲しみと憎悪に満ちている時、すなわち愛惡の精神が漲っている時には、その五体から暗赤の色を放射するものである。これは常に破壊性殺害性の力を有するものであって、そのために刺激を受けると、精神的にも物質的にも成長力を阻害されるものである。人によって何となく衣類器具等を汚し損する人がある。これも右のごとき破壊的色素の一つの働きである。
 しかして、かかる愛惡の霊的色素がだんだんと天地に充満してくると、その結果、肉体的には病を発生し、精神的には不安懊悩を誘発するに至るものである。この悪気を払い清める行事が禊祓である。しかして禊祓にもいろいろあって、斎戒沐浴もその一種である、神籬(ひもろぎ)による祓戸、祝詞奏上、鎮魂等、すべて禊祓の一方法である。しかして、もし人間が悔い改めと禊の業を修めずして邪気いよいよ天地に充満しきたる時には、祓戸の神の御発動となって暴風豪雨等によって邪気が清められるのである。神の恩寵もっとも豊なる我国において特にしかりである。
 ゆえに我国においては古来国難の当来する前においては、ことに自然界の変災が多いのであって、これは神が特に日本を愛したまう象徴なのである。余は最近の我国における天災地変について議論することを避けたい。
 科学万能主義者が過去の聖賢の言葉を否定する説に、同ずる人々を一々論難しても仕方がない。だが余は躓く石にも神の警告を感得する謙虚敬虔な心を持つ人は幸いであるというものである。天の異象を見、地の変兆を知らされても、神を知らざる者の眼は節穴同然、耳は木耳同様、まことに悲しむべき世相である。かかる世相を誰が招いたのであろうか。余は過去の聖賢とともに「天を恐れよ、神を畏れよ」と今の世に叫ぶものである。


惟神の道

平成27年も残りすくない昨今ですが、いまや三次元物質世界七度目の世も終わりに近づき、この世を創造した主なる神(92常立とこたちみこと)の三千世界の立替え立直し、最後の大審判、大峠がせまってきています。しかし人々の心に、最後の審判に向けた覚悟や、何かしらの緊迫感があるかといえば、それは皆無です。ニュース番組を御覧になれば、芸能人の結婚、東京オリンピック、マイナンバー云々、未来のことばかり取り上げています。かくいう私も、ともすれば世の流れに溺れてしまうこともあります。そこで、日本が生んだ史上最大の預言者……大本教の教祖 出口でぐち 王仁おに三郎さぶろう聖師の著作「惟神かんながらの道」を、見やすい形で公開することにしました。

原文は国会国立図書館デジタルライブラリー「惟神の道」で閲覧することができます。発行年月日は1935年(昭和10年)12月1日で、大本教が第二次大本事件で壊滅し、出口王仁三郎聖師が逮捕されるのは1935年(昭和10年)12月8日。わずか1週間です。第二次大本事件とともに、大本教関連の書籍(大本神諭、霊界物語、王仁三郎聖師歌集・論文等)はすべて発禁処分となりました。つまり、「惟神の道」は出口王仁三郎聖師の絶筆(出版されたという意味で)であり、ある種の遺言であり、預言書であるといえます。本著を紐解くと、王仁三郎聖師の危機感がヒシヒシと伝わってきます。三千世界の立替・立直し(最後の審判)を控えた末法の世に必要なのは、この危機感であると考えます。是非、一緒に読んでいきましょう。

 なお、旧漢字につきまして、読みにくいものは新漢字に変更しました。また王仁三郎聖師があえて意図をあいまいにしたり、誤解をまねきやすい部分について、捕捉となる漢字を添えました。したがって原文と全く同じでありません。原典(オリジナル)を読まれたい方は、上記の「国立国会図書館デジタルライブラリー」で閲覧してください。



 満州事変の勃發以来、覚醒した我同胞の間に皇道宣揚のこえようやく高まって来たのは、まことに喜ぶべきことである。
 私が神典研鑽けんさん曙光しょこうを見出し惟神かんながらの道をきわめむと思ひ立ったのは、明治二十七、八年の頃であった。この時分には、古典の研鑽者といへば、一部の古い意味の学者が多少命脈をいではゐたが、一般世人は一人としてかやうな古い、利益に遠い、世間にうとい学問に耳を傾ける者は無かった。しかるに私の研究が進めば進む程、世の中は益々ますます神典の研究を必要ならしめ、ひに世界を惟神の道に復帰せしめむとする熱情が勃然ぼつぜんとして私の心におこって来た。その後、大本開祖出口でぐち 直子なをこ刀自と協力して、惟神の道宣揚のために三十有八年活動をつづけて今日に及んだ。そして一時は世の嘲笑、非難、誤解、迫害の中に立ったこともあったが、愈々いよいよ天の時節は到来した。今や皇国は断然物質萬能ばんのう主義、欧米追随主義の迷夢よりめて惟神の道にかへり、皇国本来の大使命に邁進しなければならぬのである。
 本書はかつて人類愛善新聞紙上に發表された私の論説を収録したものであるが、現下の非常時に際し本書があらゆる方面にまれることを希望するものである。

 昭和十年十一月 出口王仁三郎




「九の数理盤(お米+梅干うめぼし=日の丸〔弁当〕) 常立とこたちのみこと

31 76 13 36 81 18 29 74 11
22 40 58 27 45 63 20 38 56
67 04 49 72 09 54 65 02 47
30 75 12 32 77 14 34 79 16
21 39 57 23 41 59 25 43 61
66 03 48 68 05 50 70 07 52
35 80 17 28 73 10 33 78 15
26 44 62 19 37 55 24 42 60
71 08 53 64 01 46 69 06 51

綾部から咲く九つ花九×九の数理盤」は、中心の「41」を経由すれば「」の形を秘める三六九弥勒の経綸。
米の教えは『他(田)救(鋤)すくいて世根よねとなれ』。

51+42+33+50+41+32+49+40+31=369
21+39+57+23+41+59+25+43+61=369
11+38+35+14+41+68+17+44+71=369
01+37+73+05+41+77+09+45+81=369


31 76 13 36 81 18 29 74 11
22 40 58 27 45 63 20 38 56
67 04 49 72 09 54 65 02 47
30 75 12 32 77 14 34 79 16
21 39 57 23 41 59 25 43 61
66 03 48 68 05 50 70 07 52
35 80 17 28 73 10 33 78 15
26 44 62 19 37 55 24 42 60
71 08 53 64 01 46 69 06 51


日本語あいうえ…41番目の言霊は「」。ラ(ら)は奈良ならでわかるように、を大きく示す。四方八方(光圀みつくに)にきらめく「火のすめら」にして、火の塊は太陽です。ただし、夜になれば地平線に没してしまう太陽とは違い、一人一人の魂の中核に秘められる「人に内在する良心神」ゆえに、真性天照あまてらすすめ大神おほかみの善光は、いかなる惡人も悪事も見逃さない、地獄の閻魔大王。大本神諭、丑寅の金神 9×9常立尊はこの世の閻魔とあらわれるぞよ。人の良心(かえりみる心、じる、じる、じる、じる、じる、じる)働きは、創造神(天地開闢の大神)92くに常立尊(92常立尊、くに常立御言みこと)の欠片の働きで、アダムとイブを誘惑した蛇のささやきを退治します。

92くに=九×二=十八18
弥勒みろくみろく666(6が三つ)=++十八18
みがいてたっする」達磨だるまは七ころび八き。日本語は、七度目の世を終わらせて、無限に続く「嬉し嬉しの弥勒369の世」の到来を告げます。皇国日本に常に立つ御言は、日本語。国常立尊様とは、日本語(言霊)そのものでもあるのです。瑞霊・出口王仁三郎聖師の「霊界物語」も、国常立尊(日本語)によって書かれているのです。


テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

壬申所感

○壬申所感

 大本は明治廿五年のきゅう正月元旦、開祖出口でぐち 直子なほこ刀自とじ国祖こくそ大神の神懸かむかかりがあって開教されたのであるが、今年をもって四十周年の記念祭を挙行した次第である。
 開祖の手を神様がつかはれて、神諭しんゆを書かれたが、その神諭には三十年で世の替り目が来ると示されて、それが十年延びると書かれていた。本年は十年延びて四十周年の日が来たので、世界のの字は「さんじゅう」と書いてあるが、人間も三十にしてつとひ、又それに三十年を加へた六十で本家がへりとふ様に、三十年、三十年で一段落となる。人間界のことはすべて三十年を以て一期とし、また神界のことは三千年を以て神の一世といふのである。

 みづのえさるの年は「さる」とふので、世人が縁起をかついで結婚を見合すといふが、これは間違ってゐる。みづのえさるは、すべてのわざはひみづ洗禮せんれいに依って洗いるの意で、本年は其の年まはりになってゐる。佛教ぶっきょう所謂いはゆる「法」の字は"さんずゐ(水)"に去ると書く。これも水の洗礼の義になるのである。法はまたダルマ(達磨)で、ダルマの巨眼は日月じつげつの姿に表現される。これは日月揃うた弥勒みろくの意でもある。この弥勒出現して水の洗礼に依って世を清めるのである。

 今年はいよいよ吾々われわれの頭上に火の粉が落ちかかって来た。この火の粉はうあっても打拂うちはらはねばならぬ。此事あるは、ずっと前に神様から聞いてゐた。大正元年から蒙古もうこを日本に引きつけて置く必要を神から聞かされて、自分は入蒙にゅうもうの準備として乗馬の稽古けいこをしたりして、愈々いよいよ蒙古入りの決行を考へてゐた時、大本の所謂いはゆる十年事件が起り、延期して大正十三年に入蒙が実現出来たのであった。當時とうじ私の入蒙は、バインタラでちょう作霖さくりんのために、邪魔ははいって失敗した様に世間では見てゐたらしいが、私自身は決して失敗ではなく、おほいに成功であったと信じてゐた。
 蒙古のアルホラ大庫倫クークーロン成吉思汗ジンギスカンの挙兵以後六百六十六年にして、ナランオロスからイホエミトボロハナ(大活神)が出て来るというふ豫言よげんがあったが、ナランロスミとは、づる国といふ意味であり、また其活神は五十四歳の人だと豫言されてゐて、丁度私がその時五十四歳であったので、いよいよ日出づる国から五十四歳のイホエミトホロバナ(大活神)が来たといふわけで、蒙古から大歓迎を受けたのであった。
 当時人類愛善あいぜんの精神を以ての地に人民愛撫の基礎を作って置いたのが、今回の満蒙問題の勃発に當って、世界こう卍字まんじ会との共同的活動を実現し得た結果となったのである。人類愛善主義の拡充を以て世界大和合だいわごふの働きをせねばならぬのが、づ満州とう四省統一の基礎を造る為に日出麿ひでまろ(人類愛善会副総裁)を満州に出張せしめた次第である。


テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。