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『おさながたり』 まえがき

☆出口すみ子 著 『幼ながたり』

○まえがき

 幼い頃の思い出、
 そこには、垂乳根(たらちね)の母がおられます。
 父が、幼いきょうだいが、瞼の中に生き生きと去来してきます。
 それは、遠く過ぎ去ったものであろうと、誰にとっても懐しい大切なものであります。

 私の生まれましたのは、明治の十六年、
 後に大本教祖となった母の、末女である私は、母とともに、大本創世(おほもとのはじまり)の歴史を歩んできたのであります。

 ──世の多くの人々の生涯と比べても、それはどえらい道でありました。
 それは今の人びとの耳には、
 明治のはじめの、それも、日本の、とある片田舎におこったこととして、はるかな遠いところに起こったものの音としか聴きとれないかも知れませんが。
 それほど、今ごろの若い人には見当のとれないこともたくさん入り混っていましょう。
 私の母が生きた道、母とともに私が歩んできた道というものは、それが、どんな時代であったにしましても、人間の生きてきた姿として、今日の人々にも、またこれからの人々にとっても意味のあるものがこもっているのではないかと思うのであります。
 そういう意味で、私の身のまわりにおこったことを書き述べるだけのことが、他の方々にとっても意味あるものとなれば、私の幸いとするところであります。

  要荘(かなめそう)こころおちつく八日間 幼なき時の思ひ出かたりぬ
  つぎつぎに思ひひろがり 幼(をさ)などき 山に柴刈る姿うかびて

(昭和二十四年冬 偶居 要荘にて)

《もくじ》

「1 父のこと」
「2 母の生いたち」
「3 因果応報ばなし」
「4 石臼と粉引きの意味」 地のミロクと天のミロク 必読
「5 父の死」
「6 わたしのこと」
「7 奉公」
「8 幼なき姉妹」
「9 母は栗柄へ」
「10 母の背」
「11 屑紙集めと紙漉きのこと」
「12 清吉兄さん」
「13 蘿竜の話」
「14 お米姉さん」
「15 久子姉さん」
「16 不思議な道づれ」
「17 仕組まれている」
「18 おこと姉さんの幼時」
「19 王子のくらし」
「20 ご開祖の帰神」
「21 霊夢」
「22 教祖と大槻鹿造」
「23 牛飼い」
「24 ねぐら」
「25 不思議な人」
「思い出の記1 料亭づとめ」
「思い出の記2 神火」
「思い出の記3 天眼通」
「思い出の記4 直日のこと」
「思い出の記5 夫婦らしい暮しの日」
「思い出の記6 尉と姥」

出口直日「母を想う」

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テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

『おさながたり』 父のこと

○1 父のこと

 めいぢなる二十五年のはつ春に 神のうぶ声いまもわすれじ

 父のことや、母のむかしのことは、母の口から直接に私が聞かされたものです。私は、母のそばに一番多くおりましたから、私はいつも、母に抱かれながら本当のことを話して聞かされました。
 私の母、大本教祖に関していろいろとまことしやかなウソが伝わっていて、私はなんとかして本当のことと、真実の大本の歴史を今のうちにハッキリさしてもらいたいと思っていましたが、なかなか出来ず、少しは紙にも書いておりましたが、こんど、岡山から“こんじん”さまの御神体が入ってから、思っていたことが口をついて、すらすらと出るようになりました。

 やっぱり時節だと思います。
 それで、父のことから書き初めます。

 父は養子で政五郎(まさごろう)といい、実家は綾部近在の岡(おか)の境で、今も岡の八幡神社の裏手に、当主の四方順三郎といわれる方がついでおられます。四方の家はゆうふくな百姓でありましたが、父は宮大工となりました。とても立派な腕の方で、まだ汽車の開通してないころでしたが、そのころ、綾部近在十里四方で父の名を知らない人はなかったということです。
 建築をたのまれ、図面を引きに行っても、テンゴウ(じょうだん)ばかりいうて、アハハアハハと笑いながら図面を引かれ、それでいてまことに立派な図面が出来上がるのに、皆ビックリさせられたそうです。
 腕がよく、どこからも、かしこからも─政五郎さん─政五郎さん─と注文にこられるので、大工仲間からは大変そねまれ、ある夜、石原村の吉蔵という父の一番弟子が上町の喜兵衛という人の宅の前まで行くと、夏であるのに戸をしめて、家の中で大工仲間が集まって何かヒソヒソと話している声がふと耳に入ったので、戸の外から縁にこしかけ、ソッと聞いていると、「……政五郎を殺してしまおう……」という相談でした。明治初めの日本の田舎ほまだこんなものが残っていたのです。吉蔵はこれは大変とおどろいて父のところにかけつけてくれ、それで父は翌日、組頭に話してお酒を都合してもらい、それをもって上町の大工等のところに行き、話をして事なくすんだということがありました。

 父は、大工仲間にはそねまれましたが、とても滑稽な面白い人でした。子供たちには阿呆口ばかりたたくので、ひどう好かれました。仕事に出かけられますときには、いつでも大工道具を手ぬぐいでグルグルとくくって手に持ち、それからわざとふんどしをプラリとさげ、ふんどしの端に石をつつんだりして歩くというオチャリぶりで、父が外に出ると子供たちが追っかけてついて行くといったぐあいの人でした。
 父が亡くなってからも、よく私たちは「政五郎さんの子供とちがうかいな」と知らない人から呼びかけられ、「あんたとこのお父さんはホンマに面白い人やった」と聞かされることがたびたびありました。
 父は、ことのほかお酒が好きでした。しかし人からのふるまい酒は他の酒好きの人のように呑まず、いつでも並松の一本木の「虎屋」という煮売酒屋が父の一生の酒呑み場所で、かならずそこへ呑みに行くことにきめておりました。
 そのことで世間では虎屋のおかみさんと父との間に情交あるように噂して、そっと母のところに告げ口にくる人もあったそうです。(もちろん、母はそのような話に耳をかされるはずもなく、父が亡くなってから、母の信じていたように父が清廉な生涯を送ったことが世間の人にもわかったということを母は話しておられました)
 父は建前のときにも定った祝いだけのものは呑みましたが、それ以上はほかの大工のようにあとまで残って悪呑みは絶対にしたことがなく、与えられただけ頂くと、さっさと表に出て自分で虎屋へ出かけました。そこで自分の金でこころゆくまで呑んでいたそうであります。
 父は家のことなどは考えずに思う存分に呑んでくるのですが、母は明日頂く米がなくなっていても不平一ついわれず、父は母の心中にも気づかずにただただ呑み暮したようです。
 家の暮しがどうにもならないときであろうと、父は、仕事のかえりに串柿を十二連(千二百個)もエッサ(沢山)買ってかえり、「ホラみんな食えよ」という工合でトンと家計のことは判らぬ人でした。
 またヒョウキンもので、綾部の亀甲屋をうけおって落成祝いのとき、そのころ綾部に初めて芸者ができてお祝いの席に出てきました。他の大工は初めての芸者のこととて恥ずかしがって顔を赤くし、芸者からおしゃくをしてもらうとキチンとかしこまってお酒をのんでいたそうですが、おどけものの父はデンと大あぐらをかいて、股の間からチョコンと出し、その先にご飯粒をチョンとひっつけ、知らん顔をしてお酒をのんでいたという人でした。
 父と母とは、人もうらやむほど仲のよい夫婦でしたが、母は無口なキチンとした方でしたので、父のような人は家で仕事をしていても窮屈だったのでしょう。家にいるときは毎日いくたびか表に出て必ず近所の家に行き、アーアーと背伸びして「ああ口に虫がわきおった」と言っていたといいますが、父と母とは全く正反対な性格の人でした。

 あるとき父が、母の福知山におられる妹さんが大病であるというので、その見舞いに出かけたことがありました。父がつくと病人は危篤で、母の実家では「すぐに綾部にいって姉のおなおを呼んできてくれ」とたのまれたので、父は承知の助とばかり、さっそく綾部をさして急ぎました。ところが父は途中で村芝居に出会いました。昔はよくあったにわか小屋建てのもので、ちょうど石原村まで戻ったところでこの村芝居にぶっつかりました。悪いことには、これがまた父の三度の飯よりも好きなもので、ちょっと見ているうちにだんだん面白くなり、とうとう大切な用件を忘れてしもうて、この村芝居に見ほれていただけでなく、巡業の村芝居について、その翌日も家に帰らず、その間に病人は亡くなってしまわれ、福知山から飛脚が綾部に着いたときにもまだ父は村芝居を追っていたといいます。
 父はまた村の集会に行っても、いねむりばかりしていて、「政五郎さんの意見はどうや」と聞かれても「あゝよいよい、それでよい」という調子でした。

 そうした父とつれそった母は、八人の子をかかえ、口にはだされなかったが、心中ハラハラとして大変なご心労をなされたことでしょう。
 組内の人が、私の家の困窮を見るにみかね、ひさ子姉さん[注:開祖三女 福島久子]が二才ぐらいの時に、無尽をしてくれることになりました。昔は無尽をしてもらうと、組内の人へ酒の一パイもふるまい、食事をだし頭を下げよくよくお願いするのです。明日はいよいよ組の人が無尽のことでうちに集まってくれるというのに、父はどこへ行ったのか行方がわからず、いろいろ手配して探したところ、どうやら福知山へ行ったらしいということで、ともかく明日はどうしても父にいてもらわねば、集まってくれる人にすまぬと、母はひとり気をもんでおられましたが、夜の十時になっても帰ってこず、つつしみぶかい母もジッとしておれなくなり、何とかして父を連れもどして明日の朝、父の不在が父の恥とならぬよう、他人の笑い者にしたくないとて、二才になったばかりのひさ子姉さんをふところに入れ、雪のしんしんと降る中を福知山に向かわれました。
 その夜は、雪が道をかくし、寒さは寒し、夜は更けるなり、狐の足あとでも、犬の足あとでもあってくれたらと思われたそうですが、八幡さんのところまでくるは来たものの、どうにも動きがとれず、岡の父の実家の戸をほとほととたたかれ、夜更けに藁をたいてもらって、こごえる手足を温(ぬく)め、そしてまた道もわからぬまでに降る雪の中を歩かれ、とうとう父をさがしあてられたのです。
 母は、このことが他人に知れれば夫の恥になると、ひたかくしにかくされましたが、組のうちの一人がどうして知ったのか、「おなおさんはどうやら夕べ、あの雪の中を福知山までいっちゃったらしいでよ」と話しているのを耳にされ、非常に恥ずかしい思いをせられたということです。
 とにかく、父はそんな工合でしたが、名人肌の人で、大工としての生涯で、間違いは只一度、柱を一本少し短かく切っただけと聞いています。
 父の仕事の立派さはかいわいに名を売っていましたので弟子もいくたりかとりました。年期が来ると、そのあとの一年か二年はお礼奉公をさせるのがそのころの習慣でしたが、父は弟子が役に立つようになると、かえって年期よりも早く帰したものですから、弟子はみな栄えても、自分はいつも貧乏していました。あまりにお人好しで、貸したお金は催促もできず、建前を請負っても因業なことの出来ない人であったばかりでなく、仕事をすればいつも損をする、といった少しもお金をうちにもってかえることがありませんでした。そのために、自分の妻や子がどんな苦しい気持ちに堪えているか、というようなことは少しもわからないふうでありました。
 それでも母さまは一言の不平もなく
「どんなに貧乏はしても心までは貧乏はせぬわいな」
 と言われてせっせと働かれたのです。
 夜分、あたりが寝しずまっているころ父が「おなおや、今年は何貫貧乏したのう。いくら借金したのう」といわれると、母が「そうですなア」と、うなずいていられるふうの寝物語りの声が、近所のきん助さんの家に聞こえたことがあったそうです。

 私の生まれたころには、土地や家倉もつぎつぎと人手に渡って、家にのこったものといっては、いろはの文字と同じ数の四十八坪の土地だけでありました。
 それが、艮の金神さまの神霊が初めてお降りになった坪の内の屋敷であります。いまも綾部梅松苑の大榎(おおえのき)の本の元井戸のあるところです。私は三つくらいのとき、清吉兄さんは十二歳くらいとおぼえていますが、艮の金神さまが母の体にかかられたころ母は饅頭屋を始めておられました。若いころ福知山の饅頭屋に奉公されていたことがあり、鰻頭の作りかたをおぼえられたのです。
 夜なべをかけて、きちっとすわられた姿で、母のひかれる大きい石臼から、雪のように白い粉が吹きこぼれて、こころよい不断の音が響いていた光景は、いまも目に新しく私に甦ってきます。そして、その母の、端然と坐られた、もの思い深げな姿が、世の根の神がかかられた頃の母につながる印象であります。


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『おさながたり』 母の生いたち

○2 母の生いたち

 母が、石臼をまわされて、粉をひかれましたのは、私の生まれます前から始められていたのであります。
 あるときは、おりょうさんを背に、私をふところに入れて粉ひきをされましたそうで、私は、母のまわされる石臼のたえまなく動く音をどんなに心地よく聞いていたことでしょう。不思議にもその時の記憶がかすかに虹のように美しく残っています。
 母はこの世を創られた神が直きじきかかられ、大本の教を開かれたのでありますが、この石臼ということにつきましても、深いご神意があるのです。しかしそれを話します先に私の母、大本教祖の生家のこと、生いたちのころに、さかのぼります。

 教祖さまのお生まれは、福知山の紺屋町で、ただいまは中川という医者の人が住んでいるところと言われていますが、母が寝物語りにきかしてくれた話では、いまの中川という人の家の隣りも、もう一軒先きの隣りも、母のうちの屋敷でその先の両隣りには、貸家があり、いまの屋敷にくらべて、たいそう大きなものであったのです。
 母のお祖父さんの代は、郷泊もされ、苗字帯刀御免のお上大工で、いつも二本差しで仕事に行かれていたものだそうで、母のお母さんが、福知山に嫁にこられた時代は、母の家も、まだまだ裕福なころでありました。お蔵の中にはいっても、あまりたくさんの道具で、真ッ直ぐに歩けなかったということで、土用干しをされても、干しきれないものを、屋根の上まで持ち上げて、干されていたそうです。
 それが神様のお取り上げになる時節がきまして、どういうことで貧乏をされましたのか、ほどなく道具類も何もかも売り払わねばならぬということになり、教祖さまのご生誕されましたころには、大分と家計も苦しくなっていられましたようです。
 教祖さまご生誕の天保八年という年は、有名な天保の大飢饉でありまして、貧家の人は米の洗い汁をもらいにゆくという難儀な年で、小判をくわえて死んでおるものが、ほんとうにあったという話をわたしは教祖さまに抱かれながらたびたび聞かされました。
 教祖さまは三人きょうだいでありまして、兄さんは清兵衛、教祖さまは“なか”、妹さんは“りよ”といいました。
 祖母になる人に、後妻で、おたけという方がありました。その方はずいぶんとむずかしい人でありましたそうですが、教祖さまのお母さんは「このむずかしい、やかましい姑さんの、そばにきたということは、神様が自分の力試しをして下さるのである。このお祖母さんを、鬼にするのも、仏にするのも自分の心ひとつである」と言って、一度も不服に思われることなく、真心をつくして姑につかえられたので、たいへん姑さんの心を動かし、別人のように心が変わられて、お祖母さんには、この嫁でなくては、夜も日も明けぬというようになってしまわれたと言うことも伝えられています。
 そのように教祖さまのお母さんのおそよという方は、一つの悟りのようなものを自らもっていられましたようで、どんな難しい人でも、こちらから誠をもって接し、真心をつくしたなれば、知らずしらずのうちに、きっとよくなってもらえるので、これほど誠をつくしているのに、なお向こうの方から無理をもちかけてくると思うのは、未だこちらの誠心が足らぬので、それは一つには自分の前生からの罪である、ということをいっておられたということであります。
 そういうわけで、姑と嫁の中も睦じくゆきましたが、くらしむきはおいおいと逼塞になりかけてきまして、貸家を売り、つぎには屋敷も小さく分譲られるようになりました。

 そうこうするうちに、祖父祖母も亡くなられ、教祖さまのお生まれになったころは、お父さんの五郎三郎さんは、甘酒売りをなされ、お母さんは他家の糸紡ぎをされるというような有様でありましたが、お父さんは教祖さまが五ツか、六ツの時に亡くなられ、その後はお母さん一人で細々と暮しをたてられました。
 それがため教祖さまは、同じ福知山の米久呉服店へ子守り奉公をされることになりました。
 乱雑なことのお嫌いな、つつしみ深いご気性と、陰日向のない骨身をおしまれない働きぶりは、主人の感動するところとなりました。
 また、半期ごとに主人からおくられたお仕着せの衣地も、お給金も、そのままお母さんにわたされ、三度々々の食膳にめずらしいものがあると、一走りしてお母さんに届けられるなど、孝養をつくされましたので、福知山三孝女として藩主の表彰もあったそうです。
 年期三年の米久の奉公が終わると、川北の衣川清太夫、それから泉屋清兵衛という饅頭屋などに、つづいて奉公されました。
 どこにゆかれましても、評判のよかったのは勿論でありますが、奉公ばかりしておっては、いつまでも一人のお母さんに安心してもらえぬので、十五の年からは糸引きを稽古されました。糸紡ぎも大へんお上手で、あの、おきびしいご気性そのままの立派な糸をひかれて、仕事も他の人の二倍はされていたそうです。その賃金はお母さんに貢がれ、一人の母をいたわる上にもいたわられました。

 この教祖さまの子供のころからの親孝行なことや、常々からの行ないを、感心してじっと見ていたのが、綾部の出口家のお祖母さんでありました。いつも綾部から福知山にきては「わしの子になりてくれい」と言われ、教祖さまがなにかの使いで綾部にゆかれますと、「どうぞ、わしの子になりてくれい」とたのまれたそうです。出口のお祖母さんは“ゆり”という方で、教祖さまのお母さまの妹になりまして、綾部の上町の別の出口で惣右衛門(そううえもん)といううちから出られたのでありますが、ある日、教祖さまが糸引きをされているところへ、わざわざ会いにきて「もしもわしの死ぬようなことがありたら、どうぞおまえは綾部にきて出口の後をついでくれよ」とよくよくたのんで言い置きをされたのであります。
 出口のお祖母さんは、出口家にもらわれるまでに許婚がありました。それは志賀というところのいとことの間にきまっていましたが、なにか理(わけ)がありましたのでしょう。出口家に嫁入りされて、四十くらいのとき、後家になりました。同じころ志賀のいとこも“やもめ”になりまして、いつとなく相思の仲となっていました。
 これを知った喜平という人が、ある日、お祖母さんのところへ来て「このごろ人の噂に聞いたのやが、まだお前も若うはあるし、丁度よいことである。早速に、志賀にゆかれい、後は株うちのものと相談して添わしてやるから」というので、お祖母さんは、親切に自分を思うてのことと信じて、一も二もなく志賀のいとこのところへゆかれました。喜平ともう一人常七という人は、川糸の出口小平の家から分かれたのですが、出口家とは同じ株内になっておりました。この三人はお祖母さんを出して、出口家の財産を分ける悪企みをしたのです。
 ところが、近所の人が大勢で迎えにきて、ようやく喜平たちが出口家の財産を取ろうとしていることに気づかれ、大へん腹をたてられ夜通し歩いて、福知山にゆき、教祖さまに出口の家の後を継いでくれいと言い置きをされ、そしてその晩に、井戸にはまって国替えをされたのであります。

 それで教祖さまは出口の家を継がれることになりましたが、教祖さまより先に、辻村藤兵衛という人の仲立で、岡の堺の四方治兵衛という家の五男の豊助さんという人が、養子として来初(きぞ)めをしたのであります。この方が入り婿して政五郎と改名されたのですが、当時、父は石原村で大工の年期中で、来初めがすむと、もとの親方につとめに帰り、いっとき出口の家は戸閉めとなりました。
 それでは、ご先祖さまに、すまぬというので、教祖さま十八の年に綾部に移られることになりました。
 綾部に来てみれば、親類はあっても、薄情な者ばかりで、教祖さまが若いのと、出口家の様子に暗いのをよいことにして、出口の通帳を持ち出して、勝手にするなど、またお祖母さんに金を貸していたというては田畑を自分の名に登記してしまい、また蔵の中に預けておいた物を返してくれいというて道具をもち運ぶやら、教祖さまの初めての綾部生活は、日々をいやな思いで過ごされねばなりませんでした。
 六カ月ほどは一人で留守をされていましたが、清廉なお気持ちの教祖さまにとって、あまり気持ちの淋しくなる事ばかりが続いて、こらえきれぬので福知山に帰ってしまわれました。

 その晩、福知山で寝(やす)まれていると、出口のお祖母さんが、大へん恐い顏をして、夢に出られ──出口の家の屋根に上りて、瓦をめくっては、教祖さまに、ぽん、ぽん、ぽん、と投げつけられる──ので、あまりの恐ろしさに眼がさめてみると、大へんな熱が出ていて、それから四十日も高い熱のまま病床につかれることになり、一時は仮死の状態に入られました。再び気がつかれまして、それからは病気もおいおいとよくなり、全快された二十歳の年に綾部に帰られたのであります。
 お父さんの年期もあき、綾部で結婚生活に入られたのであります。そのころの出口の家は、大正八年ころの出口の家の住居と寸分違わないものであったとのことです。


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『おさながたり』 因果応報ばなし

○3 因果応報ばなし

 明治はじめのころの、冬の暮しの楽しさば炉ばたで火を焚くことでありました。
 檜葉(ひのきば)などをくべると、ばちばちと音をたてて、眼のあたりを淡紫に染めて部屋にこもり、少し渋味のある、ほろ甘い空気の好ましい味わいは、檜葉をたいた時が一番でしょう。
 私はこの冬、要荘(かなめそう)にいましても炭火はほんの手あぶりと煙草火ていどにして、訪ねてくれる人があると、暖をとるには、檜葉などを火鉢でたいてあたります。口をとがらせて、フウフウと吹きながら檜葉のけぶる中から、火の色をみるのが懐かしくて好ましいのです。
 私は裃を着せられたような、きゅうくつなことは性に合いませんので、ふだん着のような気安さでこれをかいています。

 昔は出口家の隣に刀の研師があって、研屋という名で呼ばれておりました。
 出口のお祖母さんの時代はことさら仲良くゆききしており、お祖母さんが志賀へゆかれる時には、いろいろ大切なものを預けられました。
 その時には自分は死ぬるつもりでなかったので、相当にいろいろなものを預けてゆかれましたが、お祖母さんが教祖さまのところへ出口の後継ぎをたのみにこられたとき、「このさき私にもしものことがありたら、研屋にあずけておいた品を、おまえさんが受取りておきなされ」といわれ、志賀で亡くなられたのであります。
 この遺言がありましたので、教祖さまは綾部にうつられますと研屋を訪ねられましたが、研屋では「そんなものはいっこうに知りませんが」という返事で、お祖母さんの亡くなったのをよいことにしていました。ところが、研屋には姉をお松といい、弟を喜市(きいち)という息子一人娘一人の子持ちで、親子四人が何不足なしに暮しておりましたが、息子の喜市は大きくなると“ばくち”にこりだし、放蕩に身をもちくずしてゆきました。
 ここに不思議な因縁の蔓のからみあいと言いますか、先に祖母をだまして志賀にゆかせた喜平の一人息女が研屋の喜市と恋仲になりました。
 相手は極道息子のことであり、喜平が自分の愛娘との関係を「どんなことがありてもやれぬ」というたのは無理もありません。
 しかし二人はどうしてもはなれぬといい、その間に関係ができ娘が妊娠をしましたので、喜平は腹を立てて娘を勘当してしまいました。
 喜平の娘は男の子を産むと、産の肥立ちがわるくて、産児をのこして死んでゆきました。
 それからというものは、研屋の喜市はよけいやけくそになって、“ばくち”の打ちつづけで、とうとう研屋の家をつぶしてしまいました。
 喜市は、生まれたばかりの児に砂糖湯をこしらえて側においただけで、炬燵の火も消えている床に、おしめもぬれたままで寝かせて、家には戸をしめたまま何日も帰らないことがありました。
 ある時、喜市は打つ“ばくち”も打つばくちも敗けつづけて、とうとう質におくものもなくなるまで敗けきって、さりとて死ぬるというわけにもゆかず、しょんぼりと家にかえって、赤ん坊はもう死んだであろうとのぞいてみると、命冥加というものは不思議なもので、パッチリと眼をあけて息をしていました。それから喜平がどうなったかは聞いておりませんが、この子供のことを聞いたのが、川糸の小平であります。
 小平には子供がなかったので、そのかわいそうな子供を抱いてかえり、こしらえ乳で育てましたところ、不思議にもその子供は大きくなることができました。
 私もよく覚えておりますが、私が子供のころ小平の家に遊びにゆきますと、火鉢のそばに、ちょうど灰猫のような顔をして、がりぼしの痩せた“すね”をだして坐っていたのを思いだします。
 そのころその人は十二、三の年でしたが、後ろからみると五ツ六ツの子供のようで、前にまわると大文字屋のように頭ばかりが大きくて、ギロリと眼をむいた、子供だか、年寄りだかわからないような感じで、それを見るたびに私はおかしゅうて吹きだしてしまいました。

 研屋の末路もこのようなことになりました。
 出口のお祖母さんをいきどおらした喜平の家はその後火事のため屋敷は黒土になりました。その時の喜平の家の火事は、大火事にひろがり、その火元をだした喜平は人々のうらみの的(まと)となり、そのころから喜平夫婦は永い病にかかり苦しみはじめました。その病は今でいう胃癌という病でしょう。腹は減るし食べると腹一面が痛くてたまらず、口には食べたし、食べると苦しむというふうに、四、五年の間に体は衰えて骨と皮とになり、腹ばかり大きくふくれて餓鬼草紙の餓鬼のように苦しみぬいて、そのあげくに息をひきとりました。
 この喜平にたった一人息子がのこっていまして、この息子が家内をもらって子供が七人できましたが、その子供たちはどうしたことか、大きくなると次々に死んでゆきました。
 そのはてに家内にも死なれて、晩年は誰一人身のまわりの世話をしてくれるものもなく、孤涯(こがい)をかこちつつ七十六のころさみしい死に方をしました。
 この人は私の二十五、六のころまで生きておったので、私もよく知っております。杖をついてよぼよぼとして町にちょいちょい買物にきました。私も困難の時代ではありましたが、わずかでも都合して米をはこんであげ、味噌、醤油を持っていってあげました。人としては別に悪い人ではなかったのですが、親の罪をうけたのであります。
 喜平は後継ぎもなくなり、小平は後継ぎができず、喜平の娘と研屋の息子の因果のより合いから生まれた孤児(みなしご)が以前には福知山に住んでいたということであります。

 こういうことは、悪いことはできないという天からの教えであります。
 ここにもう一つ、研屋の息女の姉のお松のことをつけ加えておきます。
 お松は喜市の極道で、わが家もなくなり、あちらこちらで奉公をして暮しておりました。
 あるところで主人の息子に思いをかけられ、自分も好きになりましたが、昔のこととて、主人も親戚も、召使ごとき者を入れるとは、とばかり承知してもらえず、二人は恋いこがれるあまり、夜のまに手に手をとって京都にのがれました。
 京都では男は時計屋に奉公をし、お松は別のところで女中をするなど苦労をしながらも、逢う瀬を楽しんでいましたが、この男がまた“ばくち”にきょう味をおぼえ、それがこうじて七、八年も懲役にゆくことになりました。
 その男の名はたしか熊さんといったと思いますが、熊さんの刑がすんでお松さんが迎えにいった時、二人は行先きのことを考えると真ッ暗で、困りはて都会ではどうにもならぬので、二人はもとの綾部に帰ろうということになりましたが、旅費もなし、そこで二人が珍妙な道中をして歩いてかえることになりました。
 腹がへってくると、はじめに熊さんが気狂いの真似をして食べもの屋にとび込み、店に売ってあるものをつまみ食いをし、そのあとからお松が走ってゆき「この人は気が狂うているから許して下され」という断わりをいってすまし、熊さんの腹がふくれると、こんどはお松が気狂いになりトットッと行き当たりの饅頭屋などにとび込んで、饅頭のつまみ喰いをし、そんなことをしてとうとう綾部までかえってきたそうです。
 綾部にかえって、裏町に一間をかりていましたが、また熊さんが懲役にゆくということになりました。せっかく恥ずかしい思いをして綾部まで帰ってきたものの、熊さんがひっぱられていった後のお松は途方にくれていましたが、お松は無尽をしてもらい、本町のダイショウカンの家を借り宿屋をはじめました。それが大へん繁昌しまして、熊さんの刑がおわって迎えにゆく時は女中の二、三人も使っている花月という宿屋になっていましたが、そのうち熊さんは女中にきていたお竹という女と深い関係になり、それがため、お松は狂人(きちがい)となり死んでゆきました。
 わたくしは十五のころでありましたが、不思議にもこの花月という宿屋に奉公にゆかせられ、お梅という名で呼ばれていましたので、そのいきさつをよく知っています。

 そのころ私は、お松さんはあれほど苦労してつくった財産と、貞節をつくしてきた夫の熊さんを自分の使うていた女中にとられ、気が狂うて死んでゆくとは、このよしあしを何故に神様はわけなさらないのか、この世というところは訳のわからぬところだと思っておりましたが、いまになって考えてみると、先祖の罪がめぐりめぐりてきたのであると、これはなかなか恐いものであると思っております。
 大きな火事も初めは小さいところの火の粉の飛び火から始まるのであるから、悪いことはどんな小さなことも、つつしまねばなりません。
 今の世は悪いことがズリコする程にいっぱいになっていますが、末法の世もいよいよ済み、みろくの世となるのでありますから、これからはちょっとも悪いことはできませぬ。


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『おさながたり』 石臼と粉引きの意味

○4 石臼と粉引きの意味

 眼をつむって、じっと過ぎこしかたを振り返ってみますと、人の一生というものは本当に夢のようであります。幼ないころのことが一度に浮かんできまして、あれも書いておきたい、これも書き残しておきたいと思って、ときには筆のはこびが後先を違えて走っていることを、書いたあとで気づくのです。

 私の父は一生の間に三百軒の棟上げをやったと言いますが、一代でこれだけの家を建てた大工は珍しいそうです。父は人気のよい大工で、かいわいの仕事はみんな父のところへ来るということになり、他の大工はあがったりということになったのでしょう。本宮に八郎兵衛という大工がいまして、この人が父の人気をねたみ、妙々(みょうみょう)さんという神様に父を呪い殺す願かけをしました。ところが願かけの一週間目に八郎兵衛さんは、明日娘を嫁入りさすという或る財産家の嫁入り道具を盗み、それが大事になり、それからの一生を牢屋に入ったり出たりして、とうとう最後には首を吊って死んでしまうということになりました。その後にも八郎兵衛さんの家からは盗人が出たということです。
 そのころの本宮村はそんなに多い家数でもなかったのですが、宮津の監獄では綾部から来る人はみな本宮村からの人ばかりだといって不思議がったということです。
 今はだんだんとそうした人はいなくなりましたが、以前はまともな人は二、三軒くらいなものだったでしょう。大本に反対したことでも本宮村の人が一番でした。宗(むね)さんという人がいましたが、大本のお祭りに地方から大勢の人が参拝に来るのをみて、デンと坐って「何じゃい、大本さん大本さんと阿呆らしい。見てみい、びんぼう人ばっかり来らや」と悪口のありったけを言っている処へ、電報が入り、見ると、妻と子供が鉄道にひかれて片腕をもぎとられた、という報せであったということがありました。
 藤兵衛さんという人は、父を出口家へ入れた仲人でしたが、親切ごかしに父に金をかしては田や畑を取り上げて一時は大変物持ちになりましたが、今はみるかげもなく跡継ぎもなくなるようになり、まことに不思議やと思っております。
 しかしこういうような本宮村に私の祖先が住んでおり、教祖さまがおいでになって、あるにあられぬご苦労をされ、また私が生まれましたのは、大本のお筆先にありますように太古からの深い因縁によるものであります。

 明治十六年二月三日の節分、旧明治十五年十二月二十六日 白梅の薫る頃、私は教祖さまの三男五女の末っ子として、綾部新宮の元屋敷に生まれました。そこは昭和十年十二月八日におこりました政府の二度目の大本弾圧ですっかりこわされましたが、昭和十年の事件までに綾部の大本に来られた人は知っていられます、あの石の宮のありましたところで、石の宮の天の御三体の大神様がお祀りしてありましたあそこで、私は生まれたのであります。
 教祖さまが私を腹に宿されましたのは、教祖さまの四十七才の時で、同じ年、私の姉のお琴さん[注:開祖次女]にも赤ちゃんができましたので、教祖さまは恥ずかしく思われてか、腹帯をきつく締められていて、近所の人々は教祖さまの身重なことに気がつかなかったそうです。それで私は近所の人の知らぬ間に生まれまして、人びとは“おなおさんの子はどうしなはったんやろう”と言うたくらいであったと聞いています。私は、七月児で、生まれたときは片方の掌の上にのったほど小さな赤ん坊だったそうです。産声を挙げると、あと三日ほどは泣かなかったのですが、それが少したちますと、とにかく早くから口が利きだしまして、教祖さまも「この子は口が三年先に生まれております」とおっしゃったくらい、ようしゃべったと聞いています。

 教祖さまが綾部においでになった頃の家は、いまの本宮の大島家と同じ型でした。大島の家はうちの家を真似て造ったそうで、綾部では瓦屋根をふくには格式がいって、本宮では出口家が許されて瓦ぶきの立派な建ものであったと聞いています。
 それから三度目に建てた家が私の生まれた家で、四十八坪の土地に八畳と六畳と店に板の間が二畳との小さな家でした。
 性来暢気な父は、自分の大きな家を人手に渡し、その家が上町の人の手で他処へ移されるにつき自分たちの住居としてさきの小さな家を建てたのですが、普通の人ならションボリとなさけない気持ちでいるはずのところ、ベニガラを塗った上方風の建前ができ上がった時に、よい機嫌で「稲荷のような家たてて鈴はなけれど中はガラガラ」と、即興を唄って、いとも陽気でいたそうです。
 その家で私が生まれまして、また教祖さまが後に帰神(かむがかり)になられたのです。しかしこの因縁ある家も、私が八木に奉公にいっているうちに、大槻鹿造さんが角蔵さんに売ってしまいました。

 父は前に書きました通りの無頓着な人であり、そのころの教祖さまのご苦労はあるにあられぬものになっていたようです。父は町に芝居がかかると、どんな時でも出掛けて行きました。そういう時、いつでも教祖さまは苦しい中から父の好みのものを心配され、父の弁当を作って渡されましたが、父は帰りには必ずお酒に酔って踊りながら「酒ニ酔ッタ酔ッタ五勺(ごしゃく)ノ酒ニ 一合(いちごう)飲ンダラ由良之助」などと唄っていたものです。そんな日が続いても、教祖さまは一心に石臼をまわされて饅頭をつくる粉をひかれましたが、ある時、ただ一度、さびしげに石臼に半身をもたれ、じっと首を垂れていられたことがありました。私はその時ほんのいたいけな子供でありましたが、なにも分からないうちにも、その時の教祖さまのいつにない寂しげなお姿を覚えております。少し大きくなってからもその時のお顔を思い出して心を痛めることがありました。
 その時、教祖さまのお気持ちをさびしくしたものは、家の生計を少しも考えられなかったお父さんのことでなく、私たち子供に明日はどうして食べさしてゆこうという悩みであったのです。
 遠いおぼろな私の記憶の中では、私が母のふところで眼をさました時は、いつでも石臼を手に廻していられました。私がむずかればあやされ、そのうちに眠っていった時のことを私は覚えています。

 教祖さまの作られた饅頭は、清吉兄さんや久子姉さんが町に出掛けて売りに歩かれました。そのころの出口の家運は衰え、家に残っているものとては、教祖さまが朝に夜に手にかけていられた石臼一つだけでありました。しかもこれは出口家先祖代々が使って来たもので、教祖さまはその石臼に頼って生計をたてられたのですが、これには深い意味があることを私は悟らしてもらうことができます。教祖さまのご苦労がにじんでおるこの石臼は今でも残っております。
 これは大変大きな世界の立替え立直しの型だと私は思っています。私たちの住んでいるこの現実界の他に霊界という世界があって、この二大境界によって宇宙はなり立っています。そしてこの宇宙には型という働きがあるのであります。母の使った石臼は天と地の二つの型であり、その中心に要(かなめ)の棒があり、これをゴロゴロとまわして粉を作るものですが、地の石は地の大神つまり大地の“みろく”さま、上の石は天の“みろく”さま、この天と地の“みろく”さまがカッチリと天地に組み合わされて、要の神が真中にあって、天地の神様がグレングレンとまわって子(こ)(粉)を生む大きな型であったのであります。そして天地の石がピッタリ息が合って初めて粉は出来るのであって、そのうえ中心の棒がシッカリとしていないと良い粉(子)は出来ません。天、地のみろくさまが天と地(上と下)に組み合い重なってシッカリした棒を中心にしてピッタリ息を合わせて立派な良いサラツの粉、すなわち子供、つまり“まめひと”たちが生まれ、初めて世の中はその新らしい粉(子)、つまり“まめひと”たちによって良い世をつくるという深い深い神秘があると信じています。

 母は、そのように深いご神意のあります石臼を廻して、夜もろくろくに眠らずに励まれました。そのころは貧しいうちにも母さんはいつも私達の傍にいて下さいましたが、その幸いも過ぎてしまいました。
 父が病気になり、ずっと寝つくということになりました。父の病いは長引き、母の苦労は想像することの出来ないものとなりました。それは今の時代の人にはいうても分かってもらえんご苦労であります。と言いますのは、貧乏人とか労働者とかいうものが、今以上に虐げられたころで、その時代に女手一人で一家を支えることの至難なことはとてものことでありません。
 しかし、どのような貧困の苦しいさ中にありましても、教祖さまは世間の人達にありがちな貧乏くずれはみせられず、粗末な着物でも、いつも折り目正しく清潔にされ、髪などもいつもキチンと結われ乱れたことはありませんでした。そのことば私の童心にもはっきりとおぼえておりまして、それを私のひそかな誇りとして、母を慕って来たのであります。

 教祖さまは饅頭屋ではいよいよ生計をたててゆかれなくなりました。そのころの綾部の町には、仕事という仕事がありませんでした。そこで教祖さまは古ボロを買いに出られることになりました。
 そのころおひさ姉さんは岡の父の実家に奉公していましたが、教祖さまが病気の父をおいて商売に出掛けねばならなくなって、呼びもどされました。
 教祖さまは朝早く起きて、先ず天照大神を念じておられました。そうして出てゆかれます時はいつもきまって私どもに「家のまわりに雑草一本でも生やさないよう気をつけて採り(※1)、内外を綺麗に掃除して下され、それから藁一すじでも他人の物に手を掛けてはなりませぬぞ。お前達が浅間しいことをしてくれると、この母の首に縄を掛けることになりますよ」とやさしい声で言われ、姉のお龍さんと私には、幾厘か残して出かけられました。
 帰られるのは夜の八時頃はまだ早い方だったと思います。友達はいなくなり、夜遅くまで待っておりましてもなかなかお帰りはなく、他の家々は戸を閉めてしまい、その時の心細さ淋しさはいまだに忘れられません。いつも上町の辺りまで迎えに行きました。遠くの方から足音がシトシトと一歩一歩近づいてまいりますので、飛んで行って「お母さん帰って来なはった」といいますと、母も喜びまして一緒に家に帰りました。
 それから兄と姉が手伝って一つ一つ紙屑は紙屑、古つぎは古つぎ、毛類屑は毛類屑と選り分けまして、それを売りに出まして、それからお米を買って晩い御飯を頂くのでした。その頃は何というても米一升は四銭五厘という時代でしたが、一文銭つなぎの二拾文を商売の元金とされて、米代だけをもって帰られるのがなかなかでした。今から思ってみると淋しいものでした。

 そのころ、母は一度も腹一ぱいの食事をされたことがないと聞いています。母の留守中はひさ子姉さんが炊事をやり、おりょうさんと私が父の看病をしました。教祖さまは商売に出かけられる時、よく私とおりょうさんを呼んで、自分の弁当のおにぎりをだして「これをたべよ」と言って、おいてゆかれました。
 父は病床につきましても「おナオや酒買うて来てくれ、梨買うてきてくれ、甘酒こしらえてくれ」と教祖さまに無理をいっていました。それを教祖さまはそのままきかれていました。三年もの月日、父は病みついて母さんに苦労をかけるので、みかねた久子姉さんが「いっそのこと父さんが早く死ねば、母さんはこれほど苦労なさらぬのに」ともらしたところ、教祖さまは歎かれまして「お前にとってはタッタ一人のお父さんやで、鉄の草鞋で探してもお前のお父さんはここに寝ておられるお父さんより外にはないのや、また母さんには二人とない夫やから、私はまだまだお世話が足らぬと思っています。もう二度とそんなこと言わずと按配よう世話をして上げてくだされや、もしものことがあったら一生くやまねばなりません」とさとされました。
 父のことは、すべて大本の教を開かれました教祖さまのご修行じゃったと思いますが、困窮は更にふかくなり草粥を食べることが多くなってきました。そんなになっても教祖さまは「私は要りませぬから、お前達が食べなよ」と言って自分は食べずにすごされることがありました。

 ある冬の日でありました。いつものように教祖さまは、やさしい笑顔を残されて商売に出掛けられましたが、夜になって何時まで待っても戻ってこられないので、「母さんは! 母さんは! どうしちゃったんやろう」と、淋しく眠られない夜更けを床の中で姉さんと抱きあって、ただ耳をすまして教祖さまの帰ってこられる足音の聞こえるのを待っていました。
 教祖さまは綾部から三里、五里も離れたところまで商売に行かれることがありましたが、その日も遠く出られたらしく、その帰り綾部から三里ほど先の普甲峠まで帰ってこられますと、夕方から降りだしていた雪がにわかに激しくなり、たちまちのうちに道も分からないくらいに積もり、引返すことも進むことも出来ず、それまでもこの峠路は三度ばかり死にかけられるような危い目に遭われたところで、丁度峠のなかばごろまで来られますと、教祖さまの体はくたびれきってしまわれて、背に負われた荷物を雪の上におろして、それに身をもたらせながら、どうしたらよかろうかと思案にくれられました。家に帰らねば病気の夫と、夫の世話をしている子供たちが待っているなり、これはこうしておれぬと、そこで勇気をおこして吹雪の峠を越えられ無我夢中で家に帰ってこられました。
 これまで教祖さまが、そのとき普甲峠で落ちられたと伝わっていますが、それは違います。教祖さまはどうしたものかと悩まれましたことは事実ですが、どんなつらい時でもしっかりと踏んばって進まれました。
 夜もだいぶん更けて、髮の上や肩の雪を払われながら教祖さまが戸口に立たれました時には、さすがの父さんも床の中から掌を合わせて母の姿を迎えていました。それからの父はすっかり変りまして、教祖さまが商売に出掛けられますときにはいつでも母さんを拝んでいました。教祖様はこんなご難儀をなされても、家の生活については、一口も親類の人びとに話されませんでした。一番上の姉(米)はその時分は楽に暮しておりましたものですから、「こんなに苦しんでおるのに母さんは何で言うて下さいませぬか」と母をなじったこともありました。

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真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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