『天津祝詞』-解説:出口王仁三郎/東方朔/惟神/惟神霊魂幸倍坐世/君の意味/ヨハネ伝/宇宙の声/竜は耳が聞こえぬ

◎天津祝詞解 出口王仁三郎聖師(出口瑞月口述)『霊界物語』第30巻 海洋万里 巳の巻より

あまのりかいはかつて皇道大本叢書の『祝詞釈義』として出版されたものを、ずいげつ出口でぐちさぶろう聖師)がさらていせいしたものです。出口王仁三郎せいは『大祓祝詞解説』にいて、天津祝詞について、「 すなわちそぎはらい祝詞のりとことで、正式にそうじょうする場合にはここで天津祝詞を奏上するのである。だいたいにおいてべると、あの祝詞は天地間一切のだいしゅうばつを、てんしんむかってめいぜらるる重大な祝詞である。「ふと」はしょうで、くりかへして、天津祝詞をたたへたまでである。大祓祝詞解説(2)」…とべられています。また「宇宙にはアオウエイのだいおんだんなくひびいてるが、人々がはっするただしからざることたまによってはこれにごるのであるから、つねに天津祝詞を奏上しておんりつの調節をおこなふのである。」(天津祝詞と五大父音 玉鏡 昭和8年10月)とも語っております。天津祝詞奏上者はこの祝詞のと重要性をまえたうえで、あめつちもとおや すめらおほかみ様と八百万の神々様に対し、奏上をおねがいたします。かむながらはへ(※1)



あま  のり 

たかあまはらかみつまりす、かむ かむみこともちて、すめおやかむぎのみことつくむかたちばなはらに、そぎはらたまときなりせるはらひおほかみたちもろもろまがこと つみけがれを はらたまきよたまへとまをことよしを、あまかみ くにかみ よろづかみたちともに、あめふちこまみみふりたてきこしめせとかしこかしこみもまをす。



△高天原 ぜんだいちゅうしょうさいは『大祓祝詞解』をよ。

△神つまります いんようげんじっそうじゅうじつしたうへにもじゅうじつすること。

△神漏岐神漏美 いんやうけいつかさどかみがみ

△命もちて ことたまによりてのここまではほぼおほはらひ祝詞のりとかいちゅうおなじ。

△皇御祖 すめすべなりむ、とうみなどういつげんよりづ。みづ空気くうきむといふのは、こんにゅふしてぶったいあひだとういつやすらかにちんていすることである。ひとがこのむといふのもはりどういつだいしゅさいしゃとうもとあんじゅうするである。しそれがげんざい世界せかいじょうたいやうそうの大主宰者をうしなってると、らんごとみだれ、人の心はにごり、じんみん流浪るらうってさんする、いはゆるむにまれぬことる。( ミ )はたいしゃく( ソ )はしんである。

△神伊邪那岐命 ( カム )はさけむのなどとどうゆうし、宇宙うちゅうばんゆうじょうぞうたまぎのみこと様にかんしたるけいようてきけいである。伊邪那岐命様は(※2)くわけいやうけいしんで、宇宙にけるあらゆるかつどうこんげんつかさどり、だいしゅうばつだいせいつねこのかみぶんたいぞくするのである。世界せかいけんゆうかい )におひて伊邪那岐命の仕事しごとぶんしょうたまふのが、つまくにとこたちのみことで、神諭しんゆいはゆるおほたてかへといふのはだいしゅうばつけっこうの事なのである。宇宙間におここときゅううちにもおこり、地球のうちおこことは宇宙全体にもえいきょうおよぼす、りょうりょうかんれんかけになってる。さらすすんでしょうぎのみことそぎはらひいっこくいちぐんにもおこり、いちぎょういちそんにもおこり、いっしんいっにもおこる。へうめんこうでいして「伊邪那岐命様がきゅうしゅうたちばなはらといふところで、そぎおこなはれ、そしてはらひはしらおほかみたちをおみにった」などとかいしゃくすると、さらようりょうない。いっそうくはしきことは大祓祝詞解説にるからさんしょうされたい〔 大祓祝詞解説(1) 〕。

△筑紫の日向  しんみそぎはらひだんと同一ひっぽふである。
『是以伊邪那岐大神詔。吾者伊那志許米志許米岐穢国而在祁理。故吾者御身之禊而。到坐筑紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也。故於投棄御杖所成神名。衝立船戸神。……( ここをちてぎのおほかみりたまはく、「われはいなしこめしこめききたなくにいたりてありけり。かれ、われみそぎせむ」とのりたまひて、つくむかたちばなはらいたりまして、みそはらへたまひき。かれ、つるつゑりし神の名は、つkたつふなとのかみ……)』  うんぬんとあるこれなり。『古事記』がひょうめんの解釈でわからぬとどうよう、こののりまたわからない。つくは「つく」である、きゅうきょくである(東方朔)かんぜんけつえんまんそくである。かずへば「」である。筑紫がきゅうしゅうわかれてるのもそれがためである。ろん「筑紫」とか「九州」とかめいきにおこったのでなく、地名はあとけられたので、ほんらいつくむかてんそうぞうさいからのである。地球のしゅせいが出來ぬぜんからせいりつしてゐることたまである。むかこうみょうへんじょうで( ヒムカシ )とどういつげんである。

△橘の小戸 これも地名ではない。たてせんとうすなはち先頭のたてぎょうたるアオウエイ〔 霊界物語ではアイウエオ 〕のだいおんす。おとである、ことたまである。宇宙間はさいしょ五大父音のことたまはたらきによりて修理固成がたのである。

△阿波岐原 全大宇宙間のことをいふ(※3)いちおんづつかいすれば、てんひらく、だいちゅうしんひろところうなばらはらなどとおなじ。

△御禊祓 しんたいだいしゅうばつこと

△祓戸の大神達 はらひはしらかみすなはおりはやあきぶきぬしはやよんしんである。すべだいしゅうばつしっこうさいしてはよろづかみがみつねこのほうめんわかれてかつどうかいし、もろもろまがごとつみけがれはらきよたまふので、あまかみたるとくにかみたるとをはず、また宇宙全体たると、地球全体たると、また一郷一村一身一家たるとをろんぜずして、ほうめんしゅうばつおこるのである。地球の大修祓、おほたてかへが開始さるる時には、神諭しんゆいはゆる あめかみいはかみかぜかみしんかみだいかつどうとなる(※4)

△天の斑駒 いちおんづつかいすればちかられいたいまったきの

△耳振立て聞食せ かつどう開始かいしたまへのたんみみくといふよりははるかしんゑんおもれるで、べんこうはなはばゆうづうはらさけなどのと同じくかつよう發揮はっきである。

(大意) 宇宙うちゅうてんばんゆういっさいだいしゅうばつは、れいけいしんぶんたんぞくする。げんざい世界せかい』においしっこうされつつあるこくかみおほそうおほせんたくも、結局つまり宇宙全体としてはぎのみことおんごとである。いくせんまんねんらいたいせきしたつみけがれがあるので、今度『世界せかい』ではじょうあらりょうひつようであるが、これがんだあかつきにはこくこくしょう掃除そうじしょうせんたくおこなへばよろしいので、だいたいおいてはうれうれしのぜんひとツのなかになるのである。すなはち伊邪那岐命のそぎはらひなる場合ばあひにもひつようあるものである。これがなければあとおほたてなほし、だいけんせつとうていないわけである。
 さてこのしゅうばつなにによりてしっかうさるるかとふに、ほかでもない宇宙うちゅうこんぽんだいげんどうりょくなるれいたいけいことたまである。てんあひだすなははら )はぜんこうみょうへんじょうこんぽんだいことたま( アオウエイ )がわたってるが(※5)、いざざいくわいはっせいしたとると、ことたまでそれをていせいじょきょしてかねばならぬ。ひと宇宙うちゅうけいりんじゅうだいにんびたるものであるから、せんとうだいいちたまみがき、そしてただしきことたま使すれば、てんこれおうし、宇宙のだいしゅうばつけっこうされる(※6)そのさいにありてわれわれしゃくにくたいしょうぎのみことかつようとなるのである。あめべばしゃりのおほあめり、しんべばしんてんどうだいしんはじまる。これがすなはち『そぎはらひたまときなりせるはらひおほかみたち』である。かくしていっさいまがごとつみけがれはらきよめらるることになるが、かかるさいに活動すべきせきびたるは、よろづあまかみくにかみたちでこれじょうれのごとはない。なにとぞしっかかつどうねがひますといふのが、たいようである。なんびとにっせきこれそうじょうしていっしんいっしゅうばつを完全にし、そしていちだい場合ばあひには、てんはらひきよむるのかくがなくてはならぬのであります。 


ことたまの ただひといきあめつちを つくたまひしもとおほかみ
ことたまの のりこへあめつちに ひびきて霊魂みたましんこくさかへつ
ふとのり いづことまもられて やすもとくぞうれしき

〔 完 〕


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『天津祝詞』-霊界物語バージョン

◎出口王仁三郎聖師(出口瑞月口述)『霊界物語』60巻「真善美愛」より、第一四章 かみごと

あななひけうのり

  あまのり

高天原に元津御祖皇大神 數多の天使を集へて永遠に神留ります  神漏岐神漏美の御言以ちて  神伊邪那岐尊 九天の日向の立花の小戸の阿波岐ケ原に。御禊祓ひ玉ふ時に成り坐せる。  祓戸の大神等  諸々の曲事罪穢を。祓ひたまへ清めたまへと申す事の由を。天津神国津神八百万の神たちともに 天の斑駒の耳ふり立てて聞こしめせと 恐み恐みも白す

たかあまはらに もとおやすめおほかみ あまかみ使がみ(※1)つどへてとことはかみつまります
かむ かむことちて
かむのみこと 九天つくしむかたちばなはらに。そぎはらたまときせる。
はらひおほかみたち
もろもろまがごと つみ けがれを。
はらたまきよたまへとまをことよし
あまかみくにかみよろずかみたちとも
あめふちこまみみふりたてきこしめせと
かしこかしこみもまを


たかあまはらに  もとつみおや すめおほかみ  あまたの かみがみを つどへて とことはに かみつまります  かむろぎ かむろみの みこともちて  かむいざなぎのみこと つくしの ひむかの たちばなの をどの あはぎがはらに。 みそぎ はらひたまふときに なりませる はらいどの おおかみたち  もろもろの まがごとつみけがれを  はらひたまへ きよめたまへと まをすことのよしを。 あまつかみ くにつかみ やほろよずの かみたちととももに  あめのふちこまの みみ ふりたてて きこしめせと  かしこみかしこみもまをす』

上野公園さん『神言会・大本教神諭解説 言霊




(※1)
○王仁三郎著「祈りは天帝にのみ」水鏡(大15/2)
いのりはてんていにのみすべきものである。かみさまにはれいはいするのである。わたしそのつもりたくさんかみさまれいはいする。そはあたかひとびとあいさつするとどうやうおいてである。まことかみさまただひとはしらしかおはしまさぬみなエンゼルである。


出口王仁三郎氏を囲む神霊座談会(3)
速志「いっしんきょうしんきょうについての御意見はいかがでしょうか」
聖師「キリスト教は一神教で『仏教は多仏教、日本のしんとうは多神教だからいかん』というけれども、あまてらすおほかみ様はひとつだ。キリスト教ではエンゼルというているが、エンゼルにはみなやくがあるのであって、日本ではエンゼルをよろずかみと呼んでいる。ふとたまのかみでもすべてのかみさんはみな一種のエンゼルだ。だちひこかみさんだとかあるけれども、霊界物語ではみなわかりやすいやうにせんでんしんにしておいてある」


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祝詞の作法

 出口王仁三郎聖師の『霊界物語』には、「天津祝詞」や「大祓祝詞」の解説の他、「感謝祈願詞」や「善言美詞」などの各種祝詞が収録されています。しかし、神様を真に敬うというのなら、ただ祝詞を読んでいれば良いなどという事は決してありません。今は誰もが知る有名な神社にも、動物霊や曲津神や宇宙人といった妙な存在が正神のふりをして、すました顔をして鎮まっていることがあります。下手に願をかけて変な因縁をつくるより、自宅の神棚で静かに神様を敬うことをお勧めします。神棚がないアパートやマンションの方は、壁掛け式の神棚を求めましょう。

 なお、自宅で祝詞を奏上する時でも、手と口を清めましょう。出口王仁三郎聖師が解説されているように、神棚とその前は一家の「小高天原」(※1)、すなわち神様が見ておられる公共のスペースであります。神社や教会で神様に礼拝するのと、自宅の神棚で神様に礼拝するのと、全く一緒であります。特に祝詞を奏上する時は、神様が一時的に降りてまいります。神様に対して失礼のないよう、身だしなみを整え身を清める(例えば天皇陛下から勲章を授与されたり、大臣に任命されたりというような晴れの舞台に、当人がアロハシャツや下着姿で行くでしょうか?)。神社に入る際に手水で清めるのと、理論は全く同じであります。ただし何事も極端に走る必要はありません。裸や下着姿で礼拝してはいけない、というだけです。普段着でも、外していたボタンをすべて留める、というような心構えで良いのです。

 基本的な作法につきましては大本信徒連合会さんの「作法」が写真入りでわかりやすく解説されています。各種の動作については「初級-巫女さん入門」より引用します。

○正座の作法
 正座は行事作法の基本であると同時に、とても大切な座り方です。まず立ち位置から正座に移る際の、着座の作法から説明いたします。動作としては、腰を下ろしながら、左足、右足の順で膝をつきます。この時、手は腿の周りにつけてください。そして爪先を立てたまま、踵の上に体を置きます。これが「跪居(ききょ)」という姿勢です。そこから正座をするのです。正座そした時は、丹田という臍(へそ)の下あたりに、ぐっと力を入れます。その時、体の中心に棒を一本入れたような感じで、背筋をピシッと伸ばしてください。頭は顎を引いて、5メートルほど先を見るような感じで据え置きます。顎が出たり、首が曲がったりしないように気をつけてください。お尻は、そのまま足に載せるのではなく、腿に力を入れて、少し腰を浮かすようにしたほうが長く座っていられます。足先は親指を重ねてもかまいませんし、重ねると痛いという方は、重ねずに座っていただいても大丈夫です。
 女性は、座った時に両膝をつけます。男性の場合は、座った時に膝頭と膝頭の間を拳一つ分、空間をあけるという決りがあるのですが、女性の場合はくっつけます。
 両手は、それぞれ腿の上に置いてください。そうすると、肘が自然と少し張りますけれども、それは脇につけなくても結構です。手に力を入れる必要もありません。ただ、必ず指先は揃えて、自分から見て「ハ」の字の形に両手を置いてください。以上が、正座です。

○立ち上る時の作法
 正座から立ち上る時の作法は、座る時と逆になります。
 まず、小揖しながら「一」と数えて体を戻します。そして腰を少し浮かせて、その下に爪先立ちした踵を入れます。つまり、跪居の姿勢です。そこから右足を出し、グッと立ち上がります。すると右足と左足の位置が当然ずれますから、左足を前に出して右足に揃えます。この動作を「進む起座」といいます。反対に、右足を引いて左足に揃えるのが、「退く起座」です。
 前に進んで立つのか、後ろに下がって立つかというのは、その時の状況によって異なります。次の行動が前進なら、進む起座、後退なら、退く起座と覚えておいてください。


○座礼の二礼二拍手一礼
「二礼二拍手一礼」というのは、神道において一番重要な作法です。
 まずは座礼の二礼二拍手一礼をお教えします。二礼二拍手一礼の「礼」、すなわちお辞儀ですが、体を傾ける角度ごとに種類が違いますので、注意してください。
 上半身の角度を45度に傾けるお辞儀を「深揖(しんゆう)」といいます。
 正座して肘を伸ばした状態のまま、ゆっくりと体を前に傾けて、掌をぴったりと床につけるお辞儀です。座礼の場合、着座した段階でまず神様に敬意を表して、この深揖をいたします。それを「着座深揖」といいます。ちなみに「小揖(しょうゆう)」というお辞儀もあり、こちらは15度の浅いお辞儀のことです。
 深揖のまま「一、二」と心の中で数えてから、一度体を戻します。
 ここまでは、二礼二拍手一礼の前段階です。

 続いて、90度まで腰を折るお辞儀「拝」に移ります。
 今度は、背筋と頭をまっすぐ伸ばしたまま、グッと腰を曲げ、自分で90度だと思う位置で止めてください。背中から頭に棒が入っているような感じで背筋を伸ばし、頭を下げすぎないように気をつけて、自分の背中が床と水平になるような姿勢をとるのです。この時、手は腿の上にあると邪魔なので、膝頭の前に置くようにします。指先をくっつけて揃えたまま、「ハ」の字の形を保ちつつ、ゆっくりと手を膝頭の前に移してください。こうして拝の形になったり「一、二、三」と間合いをとって、体を起します。手はふたたび腿の上に戻してください。このお辞儀が「一拝」です。
 二礼二拍手一礼ですから、2回、この拝を行ってください。すると連続の動作になりますので、少しだけ手の動きが変わります。
 一拝ではグッと体を曲げて、それからまっすぐな姿勢のまま完全に体を起しますが、二拝に入る時は一拝のあと、完全には起しません。直立する前、15度くらい体が前に傾いた位置で、肘をまっすぐ伸ばしたまま一度止めます。手先は床につけて、離れないくらいの位置に置いてください。そして、そこからもう一度、拝を行います。この二回目が終わった時点で、体を元の位置に戻します。

 続いて「二拍手」ですが、いきなり手を叩くのではなく、まず手を自分の胸の高さに持っていきます。高くなりすぎず、低くなりすぎず、また指は揃えて、両手を合わせる形にしてください。それから右手を、左手の指の第二関節あたりまで、ゆっくりまっすぐにスライドさせます。次に肩幅ぐらいまで両手を広げて、「パン! パン!」と叩きます。ただ、無理に大きな音を立てる必要はありません。「ペシャッ」という音になってもかまいませんから、力を加減して叩いてください。いい音が出る手の位置というのは、慣れてくれば自然にわかるものです。
 叩き終えたら、ずれている右手を左手と揃える位置に戻して合せたのち、手を下ろしてください。これが「二拍手」です。最後に「一拝」をして、座礼の二礼二拍手一礼は終わりです。


立礼の二礼二拍手一礼(一般的な神社での参拝)
 座礼の時と同じく、「二礼」からはじまります。立って腰を90度まで曲げると、膝の裏が伸びるように感じるはずです。同時に、ちょっと背中を反らすくらいのつもりで背筋を伸ばしてください。手は、腰が曲がるほど下に下がりますから、膝のお皿を隠すくらいの位置まで下ろします。そうしないと腰が90度に曲がりません。初めてされる方は、どうしても角度が浅くなりがちなので、ちょっと深めにお辞儀をしてみてください。そこまで曲げて、初めて正式な「礼」になります。
 これを2回繰り返すわけですが、座礼の時は二礼の途中で指先を床につきました。しかし立って行う場合はそれができませんから、体が15度くらい傾いた位置で、腿のあたりに手がくるような感じで止めてください。ここからもう一度、拝を行います。
 続く「二拍手」でも、手が胸の高さというのは先程と一緒です。この時、あまり手を伸ばしすぎずに、自然と肘が曲がる位置で止めてください。そこから同様に、腕を肩幅に広げ、合わせた両手の右手を引いて叩きます。そのあと、もう一度お辞儀をして、「一、二、三」で体を元の姿勢に戻します。これが立礼の「二礼二拍手一礼」です。




(※1)
「大祓祝詞解説(1)-霊界物語より」
△高天原に 『タカアマハラ』と読むべし、従来『タカマガハラ』または『タカマノハラ』と読めるは誤りである。古事記巻頭の註に『訓高下天云阿麻』と明白に指示されておりながら従来いずれの学者もこれを無視してゐたのは、ほとんど不思議なほどである。一音づつの意義を調ぶれば、「タ」は対照力也(なり)、進む左也、火也、東北より鳴る声也、父也。また「カ」は輝く也、退く右也、水也、西南より鳴る声也、母也。父を『タタ』といひ、母を『カカ』と唱ふるのもこれから出るのである。また「ア」は現はれ出る言霊、「マ」は球の言霊、「ハ」は開く言霊、「ラ」は螺旋の言霊。即ち『タカアマハラ』の全意義は全大宇宙の事である。もっとも場合によりては全大宇宙の大中心地点をも高天原と云ふ。いはゆる宇宙に向つて号令する神界の中府所在地の意義で『地の高天原』と称するなどがそれである。この義を拡張して小高天原は沢山ある訳である。一家の小高天原は神床であり、一身の小高天原は、臍下丹田(せいかたんでん)であらねばならぬ。


☆「拍手の意義」
○王仁三郎曰「拍手」(玉鏡、昭7/4)
 かしわは神様をさんこうする行為である。こんにちかんこくへいしゃではしんぜんで礼拝のとき、みな二拍手することになってゐるが、おほもとは四拍手する。ふるい祝詞にも「ひらげて──」といふことがある。八平手と云ふのはすなわち四拍手である。つまり大本は古式をそのままさいようしてゐるのである。
 大本ではれいおがむ場合は二拍手する。これは大神様を拝むときよりもえんりょしてるのである。またあらみたま様を拝むときは一拍手するのが本当である。これは遠慮するとともあいとうをもふくんでゐるのである。拍手のうちかたほど慎重にせねばならぬ。ただポンポンと、あたかも主人が下僕を呼ぶ様なやり方は、神に対してれいとなるのはもちろんである。


○王仁三郎曰「拍手の意義」(水鏡、大15/2)
 左手ひだりてひょうしょう右手みぎてを表象す。はくしゅするというあはしてかみ )となりてこゑはっす、そのおんタカとなる。アーのことたまあが、マーの言霊はえんまんそくしめし、ハーのことたまほうひらくのあらはし、ラーの言霊せんあらはす、すなははくしゅによりて、かみなるこゑてんあひだひろがりゆくなり。


○王仁三郎曰「隻手の声」(玉鏡、昭7/1)
 ぜんがくでいふせきrしゅこゑといふのは、あってさぬひそこゑしめしたもので、両手あってこそおとすことがるのである。ひだりからおんみぎからおんが出る。たか産霊むすびのかみかむ産霊むすびかみである。くして両手をてばはっするのである。隻手の声はおんをもってるだけできこえぬこゑである。また無理に隻手の声を出さうと思へば、右手でも左手でもよい。ほほをピシャリとつがよい、かならず隻手の聲がする。


○王仁三郎曰「左手右手」(玉鏡、昭8/12)
 ひだりふのはことみぎぎりことなので、がんらいむのが本当である。また左手をと云ふのは、ゆみの意味でゆみをもつからである。と云ふのはこれも弓をひく時の事で、ちょうみぎしたにくる、そして右の目でまとのぞむから「ほう」すなわちと云ふのである。


○王仁三郎曰「弓と蟇目の法」(玉鏡、昭8/12)
 ゆみは「きよめる」のよりそのる。それでものはら場合ばあいゆみでもって”ひきほう”をおこなふのである。ひきふのは、がまめぐあるとほりにとりおこはるるのであつて、がまふものはいちにちに一回いえしきの周囲をじゅんかいして家をまもるものである。


テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
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祝詞の心得

☆祝詞の心得

出口王仁三郎氏を囲む座談会(第四夜 第2回)
大崎「外国人が大本に入信しましたとき、礼拝はどうなりますでしょうか」
聖師「外国は、外国通りにやらしたらよい」
大崎「そうすると神床なんか作って神様を奉斎した時にはどうなるんでございますか」
聖師「奉斎したり、習慣によってしなかったりするけれども、別に奉斎せんでも、なんか形のあるものでも拵えて目標にしておればよい。日本人は神に仕うるべき人間として出来ている。そして外国人は祈る為に出来ている。日本は顕斎(けんさい)の国である。つまり形の上で祭るという事になっている。外国の方はただ天の神を信じたらよい。祈ったらよい。祭式なんかするのは、──日本は世界の親国やろうが(※1)、つまり村中の人は祈っておっても神主だけが氏神様のお守りをして祭っているようなものや。日本人が神様を大切にしてお祭りをすれば外国まで助かるのや、世界中の人が助かるのや、それが日本人の使命やがな。……外国人は写真ばかり祭っている」
富田「お札よりも聖師様の彫像なんかの方を喜んで祭るでしょうね」

○「惟神」 水鏡(大15/9)
 惟神(かんながら)と云ふ事は、天地の真象に倣ふと云ふ事である。
 又、大自然、或は真理のままと云ふ事である。

○「惟神霊魂幸倍坐世」 玉鏡(昭7/11)
 神様の御心のまにまに霊の善くなるやうお願ひしますといふので、神様に対する祈りの言葉である。それを祖霊の前で云ふのは、祖霊に祈って居るのではなくて、祖霊のために大神様に祖霊が幸はふやうにと祈るのである。

○「易」 月鏡(昭5/1)
 孔子の教は現世的のものであるが、晩年に至りて孔子自身も甚だ物足りなくなって、天に問ふやうになつた。周易即ちこれである。孔子が易によりて方針を定める様になった事は、即ち宗教心が出来たので、周易をこしらへた事に依って、孔子の名は残ったのであつて、之なかりせば孔子といふものは残っては居まい。
 天津金木は七十五声の運用であり、天津菅曽は七十五本を運用して天意を伺ふのである。易は五十本の中一本をぬき四十九本の運用であって二十六本だけ足らぬ訳である。但し、金木にしろ周易にしろ過渡時代の物で神代の遺物としてのみ価値あるものである。今は皆肉の宮に納まって居るから、その必要はないのである。

○「人間と現世」 月鏡(昭4/4)
『人間は幽界から現界ヘアク抜きの為めに送られて来たものだ』との説を真なりとするならば、そのアク(悪)さへ抜けたら、幽界又は神界へ引き取られる筈だから、何時までも長生して居る人間は、アク抜けが為ないために壮健なのだと思ったら、吾ながら、吾身が浅間敷くなって来るだらう。しかしながら人間は決して現界ヘアク抜きの為めに生れて来たのではない。神が天地経綸の司宰者又は使用者として、現世へ出したものである以上は、一日も長く生きて、一事にても多く神の御用を勤めねばならぬものである。朝夕の天津祝詞や、神言は其日其日の罪科、過ちを祓ひ清めて天来その儘の神の子、神の宮として神界に奉仕すると共に、現界に於ても人間生存上大々的に活動すべきものである。

○「祝詞奏上」 玉鏡(昭7/4)
 人間は往々にして無意識に祝詞を奏上することがある。さう云ふ時、祝詞が中途に止まると後がすぐ出なくなるものである。機械的に祝詞を奏げるのは全く蝉が啼いてゐるのと同じで、ただ囀るだけのやうなものである。これでは本当の祝詞奏上にはならない。また本当の信仰と云ふことは出来得ないのである。祝詞はベンベンダラリと奏上するのも宜くないが、駈足で奏上するのもいけない。

○「宇宙の声音」 玉鏡(昭6/4)
 この大宇宙には、アオウエイの五大父音が鳴りなりて鳴りやまず不断に轟いてゐる。そして此父音より発する七十五声の音響は種々様々に相交錯して、音楽の如く、鳥の声の如く、秋野にすだく虫の音の如く微妙の音声を絶えず放ってゐる。この微妙の音声は、天地進展の響きであつて、これによつて森羅万象一切が生育発達を遂げてゐるのである。言霊の幸ふ国、言霊の天照る国、言霊の助くる国等といふ言葉は日本のみの事でなく、天地森羅万象一切の進展的活動に対して称へたる言葉である。大声裡耳に入らずと云つて人間の聴覚力には限度があつて余り大なる音響も亦微細なる音響も聞きとる事が出来ないのであるが、言霊の大道に通じた人の耳には五大父音を始め森羅万象より発する七十五声の微妙の音声を聞く事が出来得るのである。
 大本開祖(出口なお)はいつも宇宙万有の微妙の声を聞いてその天造力の偉大さを讃歎されてゐた。然し老齢の為耳鳴りがしたのとは全然訳が違ふのである。人間の聴覚力は風雨雷霆の音や禽獣虫魚のなく声、人間同士の言語又は器物より発する音楽の外、宇宙の声音は聞きとる事が出来ないので、王仁が宇宙の声を常に聴くといっても容易に信ずる事は出来ないのを遺憾に思ふ次第である。

○「ヨハネ伝」 玉鏡(昭7/1)
 今日の牧師[注:キリスト教]に一番惜むべきは、ヨハネ伝福音書の第一章が真解出来ぬ所にある。「太初に道あり、道は神と偕にあり、道は即ち神なり」とあるが(※2)、言葉即ち道は充ち満つるの意味で高天原のことである。この天地は言霊の幸はふ国で言葉は即ち神である。祝詞や祈の言霊によって、よい神が現はれるのである。声の澄んだ人ほど魂はよい。

○「宇宙の声」 玉鏡(昭7/4)
 「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。

○「宇宙の声」 玉鏡(昭7/4)
 「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。

○「天津祝詞と五大父音」 玉鏡(昭8/10)
 宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。

○「天津祝詞と神言」 水鏡(昭2/2)
 天津祝詞は岩戸開きの折、天之児屋根命(あめのこやねのみこと)が岩戸の前で奏上せられたのが嚆矢(こうし)である。神言は神武天皇の時代、天之登美命(あめのとみのみこと)が作られたもので、児屋根命以来この時代迄全然無かつたのである。天津祝詞も神言も共に神世言葉で出来て居って、それを今のやうな言葉や、文字に翻訳したのは聖武天皇の時代、常盤(ときは)の大連(おほむらじ)がやつたのである。

○「無我の境」 玉鏡(昭7/1)
 真の無我の境といふのは人間としてあるものではない。「無我の様な感じ」を起すことはある。それは或る事業に没頭して、それに一生懸命になって居れば、他の仕事に対しては無我の境に入ることになる。併し夢中になって居る其仕事に対しては、決して無我ではない。精神統一といふが、これ又言ふべくして出来得べきことではない。祝詞を奏上しながらも種々なことを思ひ浮ぶるのが本当である。鎮魂といふのは「離遊の運魂を招いて身体の中府に鎮める」ことであるから、種々の雑念が集まり来るが当然である。その雑念は罪障に対する回想や希望となって現はれて来るもので、それを想ふのは、別に悪い事ではない。

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祝詞の作法 (神饌物)

☆神饌物

出口王仁三郎氏を囲む神霊座談会(3)
比村「この間、北海道の雑誌を見たら、お神酒の香(におい)を嗅いでも修業の妨げになる守護神が多いというて、神様に上げるのまで止めてると書いてありましたが、少し矛盾していると思いますが」
聖師「自分が嫌いだからというて上げんというような事はない」
比村「聖師様がお神酒を上げられたら」
聖師「ワシの肉体は嫌いだ。自分が撤饌後(てっせんご)いただいたら上げたんじゃない。教祖はん(出口なお開祖)は──『神様に上げるものといふたらお灯明丈けや。他の物は皆、こっちがいただくのや。神様がみな食べはったら誰もよう祭らへん』──と始終言われた。『今日はかしわ買ふて来い、今日は何買ふて来い』と云って、毎日五合も御酒を飲まれたら本当によう祭らんだろう。それでも召し上がっても供へる、自分が食べないでも神様に上げるという信念でなければならんのだ。主一無適(しゅいつむてき)というのは『神に仕ふること生きたる人に仕ふるが如し』という精神だ。家が無かろうが、自分が食えなかろうが、神様にお供えする、というのならば本当の信仰だけれど」


○「霊と食物」 水鏡(大15/11)
 霊の低いもの程沢山食物を食べるから、かういふ霊への供物は後が不味(まずく)ていけない。神様に御供へしたものは、ほんの少し食しあがつて後へ精気が入るから、それがお陰である。恰も美い香袋に手を触れると移り香が残るやうなものである。通りがかりの飲食店などの店に飾つてある鮓司などは、うまさうに見えるが、食べて見ると甚だ不味い、餓鬼の霊が味を吸ひ取つて行くからである。

○「線香は嫌ひ」 水鏡(昭2/11)
 信徒達が私を歓迎せんとて、香のよい線香をたいて待って居て呉れる所があるが、私は線香は嫌ひである。線香といふものは実は艮の金神様を呪って、家に入つて来られないやうにと、立てたものである。普通の香は構はない。

○「お給仕について」 月鏡(昭5/2)
 独身者などが、留守中神様のお給仕について困ると言ふのか。さうであらう。神様は心を受け玉ふのであるから、こちらの誠心さへ届けばそれでよい。だから出る前に沢山お米さんをお供へして、留守中のお給仕にあてる意味を奏上しておゆるしを願っておいたらそれでよろしい。

○「神饌物」 玉鏡(昭7/4)
 神様に蛸、大蒜(らっきょう)、薤(にんにく)などをお供へせないのは人間が忌むからである。蛸の様に骨のないものは魚ではない、字の通り虫の一種であり、虫に肖(に)たものである。また大蒜、薤などは悪い。然し黴菌を殺し、良い菌を育てる効能をもつてゐるものである。

○「八十平甕」 玉鏡(昭6/6)
 俗にカワラケ又はオヒラと云ふ八十平甕(やそひらか)は、素盞嗚尊様が信州の皆神山の土によって創製されたものである。今なほ神様に素焼を用ふるのは此流れを汲むものである。八十平甕を「素焼」と云ふのは素盞嗚尊様の素と云ふことであり、素とはモトと云ふことである。人間の素性、素直、素顔、素ツ破抜く、素町人、素裸の初めに素のつくのは、皆これに基くのである。

○「食膳に就て」 玉鏡(昭8/6)
 祝詞の中に「海川山野種々の物を平らかに安らかに聞し召して」とあるごとく、食膳の上の配置は、先づ向つて左向うに海のもの即ち海魚類を、右向うに河のものを、左手前に山のものを、右手前に野のものを、中央に種々のものを置くのが作法である。

○「神饌に就て」 玉鏡(昭9/1)
 元来 神饌物(しんせもの)は、同殿同床の制で、煮たものを差上るのが本義であるが、一々さうするの用意が出来ないので、生で差上るやうになったのである。生で上げますから、御自由に御料理をして下さいと云ふ意で、水から、お塩までお供へしてあるのである。


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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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