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『大本神諭』について

h25feb01a筆先

西暦1892年(明治25年)旧正月/新暦せつぶん2月3日夜、京都丹波たんば地方の田舎町綾部あやべで、極貧生活を送る57歳の出口でぐち なおという未亡人に、うしとらこんじんを名乗るたたり神が、かかられました。直さんの出口家は、既に帰幽きゆうした放蕩家ほうとうかの大工のおっとによって完全に没落していましたが、娘や息子達はとついだり手に職をつけたりと、徐々に明るいきざしも見えはじめていました。しかしうしとらこんじん帰神きしんによって出口直さんの生活はすべていっぺん、神の預言よげんしゃとしての第二の人生がはじまったのです。

出口直さんにかかった艮の金神は「さんぜん世界せかいたてかえたてなおし」をなおさんの口を借りて叫びましたが、なおさんが「叫ぶとキチガイ扱いされます」と神様に訴えたのと、こうとうの発言では証拠が残らないという理由により、半紙にすみで神様の言葉を無心に書きつづりました。このふでさきを、ナザレのイエスやお釈迦しゃか様に匹敵するといわれた稀代きだいの霊能力者・出口でぐちさぶろう( 出口直さんの娘婿 )が取捨選択・編集して、大正時代の日本に発表したのが、私達が知るところの『おおもとしん』です。王仁三郎聖師は、"うしとらこんじん"の本名は、日本神話で隠された創造神/国祖神 くにとこたちのみこと様だと審神さにわ(出現した神の本当の名前やしょうたいを識別し、正義せいぎかみじゃあくかみかをしんぱん・判定すること)しました。そしてなおさんは国常立尊様のわけみたま、自分はとよくもみこと(国常立尊様の妻神)の分霊だと発表しました。王仁三郎聖師の元で、大本教は公称信者100万人に至るまでにはってんします。

しかし皇室関係者や陸海軍将校までが信者となっているとあらば、あらひとがみ・天皇を頂点とする世界有数の宗教国家・大日本帝国が大本教の存在を許しておくはずもありません。いかなるカリと霊能力があろうとも、宗教国家の権力には勝てず。1935(昭和10年)12月8日以降の第二次大本事件で大本教はかいめつ、出口王仁三郎とすみ夫妻は7年ちかく刑務所に放り込まれました。1942年8月7日、第二審で治安維持法無罪判決が出て王仁三郎・澄子夫妻は保釈ほしゃくされます。同日、奇遇きぐうにもアメリカ海兵隊はガダルカナル島に上陸、泥沼の消耗戦に巻き込まれ大日本帝国の崩壊は加速してゆきます。1945年、大日本帝国は無残に敗北、大日本帝国と大本教は、まるで一緒にしんじゅうしたような結末を迎えました。

出口王仁三郎聖師は1948年(昭和23年)1月19日に亡くなり、カリスマを失った大本教はすい退たいしました。一方、王仁三郎聖師の手法は、弟子達がぎます。王仁三郎(大本教)は、独立した弟子が教祖さんになるのも特徴的でした。代表例だけでも、浅野あさのさぶろうさんは日本スピリチュアル協会(江原えはらひろゆきさんの系譜)、谷口たにぐち雅春まさはるさんは「生長の家」、岡田茂吉もきちさんは「世界救世教」(世界真光文明教団/崇教真光系)、植芝うえしば盛平もりへいさんは合気道、岡本天明てんめい氏は日月神示ひつきしんじなど、それぞれの開祖や集団のリーダーとなり、これらは現在でも一定の勢力と影響力をほこります。こうして王仁三郎聖師や弟子達の活動により、出口なお開祖と大本神諭は忘れられてしまいました。

しかし、王仁三郎聖師は「三千世界の大化物」と大本神諭(国常立尊様)にわれる規格きかくがいの、じょうしきはずれの、トンデモない人(※1)。歌人でもあった彼は、第二次大本事件を回顧かいこした歌集の中で、『大本神諭』について以下のような和歌わかを残しました。

問題にされたる霊界物語は皆御神諭の義解にぞある
筆先は神々教祖に懸られてしるし玉ひし神言なりけり
霊界の守護神または精霊を教へ玉ひし神諭筆先
御神諭は毛筋の横巾も違はぬと月座の教祖は宣らせ給ひぬ
また一つは現界人に警告を与ふるための厳の神筆
人みなを昔の神の大道に改めたまふ神諭の主意なり

善心で読めば善なり悪神で 読めば怪しく見ゆる筆先

勝手なる解釈を絶対に許さざる筆先なれど曲解せる犬
霊界の邪神に対する警告の神諭を不逞不敬とする曲
月の座に起りし凡ての出来事は世界の型になるとの御神示
御神示は一切万事実現し世人の驚く時来るべし
御神示に毛筋の横幅違はぬと神の実在証し給ひぬ
神諭(ふでさき)はきたりきたりと実現し人の改心促し給へり



○出口王仁三郎著「水も漏らさぬ経綸」 玉鏡(昭7/8)
 たいもう、大望、と御神諭にあるうしとらこんじん様、三千年あまりての經綸しぐみまくも切っておとさるる時機じき次第しだいちかづきつつあるのであるが、この大神業は人間の想像の範囲はんいだっした目覚めざましいものだとかんがへらるる。このことを知りたものが世界にたった一人ひとりある。らすと出口なおでもあまりのおどろきとうれしさとにこうがいするによって知らせてない」もうされてる……。
 王仁わたしはかつてわずか金五十銭をもって金龍殿建築に着手したのであるが、周山の山奥でふとたヒントは王仁をしてミロク殿、黄金閣と、次へ次への建築を成就じょうじゅさす動機となった。 王仁が山の辺に立って一服いっぷくして居ると、樵夫きこり達が杉の丸太を伐り出していかだとすべくしもへ下へと流して居る。流すといってもチョロチョロとした細い渓流で、太いはしを流すにやっとぐらいの水量である。どうして太い丸木を流す力などあるもので無い。そこで見て居ると、樵男達はその渓流に一つのせきを造った。だんだんと水がたまって杉丸太をうかべるによい量となると、やがて材木をころがしむ。そして一度に水を切って落すと、ほとばしる水勢によって丸太は勢いよく流れ出す。かくて一本 二本と流し、なりの数に達した時、また第二の堰を切って落す。かくのごときものをたびかさねてついに本流にと流し出し、そこで筏に組んで悠々ゆうゆうたる大河へと運び出す。はしを流すにも足らぬチョロチョロ流れも、おいて、時はゆうに大きな材木を流し出すちからとなる。
これだ、王仁はかうしたことに教へられて、なり大きな建造もまた他の多くの仕事も易々やすやすとやってた。だがさうした仕事はうしとらの金神 国常立尊様の御経綸に比較すると、実に千万ぎゅう一毛いちもうにもあたいせぬことである。
いちあって仕組しぐみと、たびたび神諭に出てるが、例へば三千年かかってめたおほきな湖水のやうなもので、いよいよ切って落さるるとふ事になると、そのいきおいのもうれつさは想像のほかにあるでは無いか。しかも一度っておとされたら最後、めるのにまた三千年かからねばならぬわけである。だから「一度あって二度無い仕組」ともうさるるので、この水溜たるや、ちょっとらされぬ仕組、すなわ『水も漏らさぬ仕組しぐみなのである。
 三千年と云うても実数の三千年では無い、何十万年といふとほ神代かみよの昔からの経綸であるといふ事は、たびたび神諭や霊界物語によってしめされて居る通りである。 大本の神業はつきに進展して、今や全世界にその福音がべ伝へられつつあって、その偉大なる仕事は世人の注目の焦点となって居る。だが、それも経綸しぐみのほんの一部にしかぎないので、此処ここみずたまりがあると云ふ事を知らすめの、ほんのらし水である。神様の御仕事の広大無辺なる事は人間にわかるものでは無いのであるから、かれこれ理屈りくつを云はずに、神様にしたがって信仰をはげむがいっとうである。
 太平洋の中央には深いみぞ穿うがたれてて大きな烏賊いかが住んで居るが、その烏賊いかの大きさは直径が三里もあるのである。足の長さは一里にあまり、時々水面に浮び出てだいなるぎょせんなどを足でからんでグッと引き込んで仕舞しまひ、ゆうゆう海底に沈んで馳走そうにありつくのである。海竜が現はれたなどと云ふのは、実はこの烏賊いかあしなのである。かういふ事を聞いても世人はなかなか信用すまいが、事実である。 古事記の八岐やまた大蛇おろちこうを読んで見ると
 「其眼はほお漿ずきごとくにあかく、身一つにして頭と尾は八つにわかれ、身にはこけひのき、杉の木などおひしげり、長さ谿たに八谷やたに、山の尾八尾にわたり、其腹はことごとくに常に血ただれたり云々」
 ……とあるが、背に木のえた動物なんかすくなくないので、大地は生き物であると昔から云ふが、大きな陸地だと思うてそのうえうまれ、其上に住み、其上をたがやし、しかして其上に墳墓ふんぼを築いて居ると、実は一つの大きな動物の背の上であったと云ふ、おとぎばなしのやうな事が事実となってあらはれて来ないとも限らない。いや実際さういふ動物が何千年もねむったやうにジッとしてて、一つの大きな島だと思はれて居る動物が居るのである。人間の頭にわいたしらみは、其処そこを安住の地としてそこで生き、子を生み、子孫永久の繁殖を願うて居る。それが人間とふ一動物の肉体の一部分であると考へないと同じ事である。かういふ大きな動物が動き出したら、それこそ大変である。へのときには、どういふ事が起って来るかもわからないのである。



『大本神諭』とは何だったのか? 答えが、かみこうえんさんの『神言会-大本教神諭解説』です。『大本神諭』でひんぱんに言及される「綾部から咲くここのはなは苦労の花、まことからいちりんうめはな経綸しぐみ。これがいたらまんまつだいれぬばなであるぞよ。日本はかみくにうしとらこんじんくにとこたちみことが仕組みたりんの経綸、みついちりんてのひらかへして三千世界を立替立直すぞよ。神がおもてにあらわれて、善と悪とをけるぞよ」の” ここのはな ”を解説されています。

[九つ花に咲く一輪の言霊の経綸]

・・・です。本ブログは『大本神諭』全文を掲載しており、原文については、国立国会図書館デジタルコレクションの『大本神諭・天之巻』を御覧ください。

さて、日本人にも馴染みのない国常立尊(くにとこたちのみこと)様とは、どのような神様なのでしょうか? 国常立尊様を主祭神として、本殿でおまつりする神社は、多くありません。最も有名な神社は、先年噴火したおんたけさんおんたけじんじゃ。あるいは江戸城( 大江戸 )総鎮守としての日枝ひえ神社が、おほやまくひのかみ様・なみ之命のみこと様・たらしなかつひこみことと共に、この国常立尊様を、相殿におまつりしています( 日枝神社公式ホームページ )。
 またちまたのブログやホームページでは、「国常立尊は悪神ルシファーだ」とか、「古代日本の指導者だった」とか、「宇宙人の大ボスである」とか、さかんに悪名を宣伝しているかたもおられるようです。ですが、出口なお開祖の大本神諭で国常立尊(くにとこたちのみこと)という御神名に「九二とこたちのみこと」というルビがふられています。上記のふでさきにも『 で九゛ち 』が『 出口(でぐち) 』と表記されています。『 く 』=『 九 (9) 』であることに、異論はないと思います。そこで「が二つ、常に立つ御言みこと」? 九が二つならぶ、並ぶの旧字は"竝"、九を二つ立てて九×九 (9×9)=81文字。

「九の数理盤(お米+うめぼしまる〔 弁当 〕) とこたちのみこと

壱 31 76 13 36 81 18 29 74 11
弐 22 40 58 27 45 63 20 38 56
参 67 04 49 72 09 54 65 02 47
四 30 75 12 32 77 14 34 79 16
五 21 39 57 23 41 59 25 43 61
六 66 03 48 68 05 50 70 07 52
七 35 80 17 28 73 10 33 78 15
八 26 44 62 19 37 55 24 42 60
九 71 08 53 64 01 46 69 06 51

この数列でなければならない理由は、龍宮の乙姫〔 おと 〕様が示しています。龍宮の乙姫〔 おと 〕様の御使いはかめ。そのかめ甲羅こうらきざまれたほうじんを基準にしなければならないからです。



九×九の数理盤(九二常立尊)の数字を色分けしてみます。

31 76 13 36 81 18 29 74 11
22 40 58 27 45 63 20 38 56
67 04 49 72 09 54 65 02 47
30 75 12 32 77 14 34 79 16
21 39 57 23 41 59 25 43 61
66 03 48 68 05 50 70 07 52
35 80 17 28 73 10 33 78 15
26 44 62 19 37 55 24 42 60
71 08 53 64 01 46 69 06 51

九区画を分割し、その中心の数字をひとけたになるまでしてみます。

31 76 13
22 40 58
67 04 49
四〇40=4+0=霊界 

36 81 18
27 45 63
72 09 54
四十五45=4+5=霊界

29 74 11
20 38 56
65 02 47
三十八38=3+8=一十一11=1+1=霊界

30 75 12
21 39 57
66 03 48
三十九39=3+9=一十二12=1+2=霊界

32 77 14
23 41 59
68 05 50
四十一41=4+1=霊界

34 79 16
25 43 61
70 07 52
四十三43=4+3=霊界

35 80 17
26 44 62
71 08 53
四十四44=4+4=霊界

28 73 10
19 37 55
64 01 46
三十七37=3+7=一〇10=1+0=霊界

33 78 15
24 42 60
69 06 51
=6+0=霊界



40(四霊界)+45(九霊界)+38(二霊界)
+39(三霊界)+41(五霊界)+43(七霊界)
+44(八霊界)+37(一霊界)+42(六霊界)
369みろくの世界)

綾部から咲く九つ花九×九の数理盤」は、中心の「41」を経由すれば「」の形を秘める三六九弥勒の経綸。
米の教えは『他(田)救(鋤)すくいて世根よねとなれ』。

51+42+33+50+41+32+49+40+31=369
21+39+57+23+41+59+25+43+61=369
11+38+35+14+41+68+17+44+71=369
01+37+73+05+41+77+09+45+81=369

31 76 13 36 81 18 29 74 11
22 40 58 27 45 63 20 38 66
67 04 49 72 09 54 65 02 47
30 75 12 32 77 14 34 79 16
21 39 57 23 41 59 25 43 61
66 03 48 68 05 50 70 07 52
35 80 17 28 73 10 33 78 15
26 44 62 19 37 55 24 42 60
71 08 53 64 01 46 69 06 51

『縦(立て)に九神、横に九神で八十一神の働きが出ます。これが「九二トコタチ」となるのです。【言霊】です。そして、これに数字をたてよこななめが同じになるように配置してもうあげげます』

日本語あいうえお…と思い浮かべ、あ=1番目、い=2番目、う=3番目…と数えて行くと、41番目に来る文字(言霊)は「"ラ"」となります。「ら」を漢字変換すると、「良」や「羅」や「蓏」が出てきます。巡洋艦「長良ながら」という船や、「」という苗字がありますね? しゃぶつの東大寺が鎮座ちんざするのは、県で、おほきくしめす〔 奈 〕。「ら」=「良」。81文字は日本語のならび。

三六九弥勒経綸しくみ九二とこたち御言みこと(九×九)の中心、『四一41』=良〔 ラ 〕のひかりが四方八方をあまねてららす『あまてらすすめら大御神おほみかみ』(水戸みと〔癸〕のみつくに)。人には魂〔 たま 〕が宿やどり、その中心には創造神の欠片わけみたまが秘められる。そのわけみたまは「良心の叱責しっせき呵責かしゃく」として働くがゆえに、「魂=云鬼=鬼が云う」のは「良心の呵責」だと、言葉ことば仕組しくみりっしょうできます。

ことたまの あまくにたふとさは かみこえながらにく(霊界物語第三巻余白歌)

大本神諭いわく『うしとら〔 艮 〕の金神・国常立尊は、この世の閻魔えんまとあらわれるぞよ』。人間として生きていれば、たましいは如何なる身分であろうと、国籍や人種や身分や職業や学生であろうと、金持ちや貧乏人であろうと、有名人や一般人であろうと、善人や悪人であろうと、ろうにゃく男女なんにょにかかわらず、必ず胸の奥に存在しています。つまり、全人類のたましいの中核には、創造神が閻魔大王という形で活動なされています。えん〔 閻魔 〕大王(日本語41番目の言霊)の善悪正邪の審判はあまねくく公正公平にして、全宇宙・全次元・三千世界に逃げる場所なし。如何いかなる罪も惡も見逃さず、隠れた善行も忘れない。「41」から外周(□)にむけ八方(圀)へ輝く善光〔 ぜんこう 〕。

徳川とくがわ みつくにの「とく」は「十四の心を行う」。
ひ-01、ふ-02、み-03、よ-04、い-05、む-06、な-07、や-08、こ-09、と-10、も-11、ち-12、ろ-13、ら-14、ね-15。
光圀(みつくに)でわかるように、圀で「」と読み、国も「」。国常立尊(くにとこたちのみこと)は圀常立尊(くにとこたちのみこと)。中心の41()から国(九九くに)の隅々まで八方向に善光が照らすくにとこたち御言みこと(真性天照すめら大御神)。夜になれば地平線に沈む太陽と違って、この善光(煌=火のすめら)は、昼夜を問わず、あらゆる人間のたましいの中心でかがやきます。

31 76 13 36 81 18 29 74 11
22 40 58 27 45 63 20 38 56
67 04 49 72 09 54 65 02 47
30 75 12 32 77 14 34 79 16
21 39 57 23 41 59 25 43 61
66 03 48 68 05 50 70 07 52
35 80 17 28 73 10 33 78 15
26 44 62 19 37 55 24 42 60
71 08 53 64 01 46 69 06 51


また41(ら)良心から八方向に放射される善光は、魂の心棒(軸)に巻き付いたへびれいを斬る「天のむらくもつるぎ」、じゃ〔 破蛇
〕の霊剣です。「じゃの道はへび」、大きな蛇をだいじゃと云うように、じゃしんじゃしんに通じます。魂のしんぼう(柱としてあらわれた良心神)に巻きつくへびの様子を御覧ごらんください。

蛇霊WHO01
世界保健機関(WHO)の紋章。ギリシャ神話の神アスクレーピオスの象徴たる杖。アスクレーピオスは医術をきわめて死者を生き返らせたため、世界の秩序は乱れてしまいました。そこで冥界の王ハデスの抗議により、オリンポスの主神ゼウスがいなづまをもって撃ち殺したとされます。しかし、「棒状のものに蛇が巻き付く」という図式は、どこかで見たことがありませんか?

こちらは、不動明王ふどうみょうおうけん

倶利伽羅剣01

○由緒 『本品は豊臣棄丸の遺品なり。棄丸は豊臣秀吉の長子にして母は浅井長政の女(淀君)なり。秀吉石河伊賀守を傳役として愛育せしが天正十九年八月(西暦1590年)三歳にして夭折せり。棄丸の誕生するや蒲生氏郷その出征を賀し贈るに此刀を以てせり。思うに豊公が愛兒護身の具に小刀を索めし折柄、氏郷の献上に係るものならん。中身は備前尚宗の在銘、鞘は従前より附属せるものの如く恐らく足利初期の降らさるものならん。全体を梨子地とし其上に蒔絵の線書を以て波を描き、利剣は銀を嵌入し之に頭を鍍金の高肉彫とし、全身を厚手蒔絵とせる倶利伽羅龍を纏はしむ。往昔、弘法大師勅を奉じて神泉苑に請雨経法を修したり故事より意匠を採り来りしものの如く、経義の説く所に依れば倶利伽羅龍は不動明王の化現にして、惡魔外道忽ち降伏するの意を表はせるものなり。』(国立国会図書館デジタルコレクション)

 垂直に屹立きつりつしたつるぎのレリーフに、鱗体の蛇( 横向き )がからみつき、刀身を頭からみこもうとしています。悪魔外道(じゃしんじゃしん)は降伏するどころか、「つるぎとして現れた良心神」をみにきているのです。
 また旧約聖書における蛇は、人間の先祖(アダム、イブ)に「善悪を知る木の実をとって食べてみなさい」とささやいて誘惑した張本人。アダムとイブがエデンのそのから追放される「しつらくえん」の原因になりました。またヨハネの黙示録では、惡魔王サタンの正体について「としいたへび」と記述しています。人間にりついたじゃれいが魂の中核「 良心神 (41) 」を呑み込むと(倶利伽羅不動明王剣図のように)、良心が働かなくなり、不動明王の剣・・・魔を退散させると同時に煩悩ぼんのうや惡因縁を断ち切る弥陀みだ利剣りけんの働き・機能がうしなわれ、善惡正邪の判断が出来なくなります。不倫の愛で強盗殺人をおかした警察官のようになります。

お釈迦様と蛇霊(1)
お釈迦様と蛇霊(2)
お釈迦様と蛇霊(3)
お釈迦様と蛇霊(4)

蛇霊の囁き(誘惑)をはねのけるのは、愛ではなく良心。
人にないざいするりょうしんかみは、八方向の善光〔 光圀 〕を放って、八岐やまた大蛇おろちを退治する素戔嗚尊のごとき御活動。
良心神を日々の生活で発揮する善〔 譱 〕人を善〔譱〕光寺ぜんこうじへ導くのはうし〔 丑 〕で、牛はてんじん様の御使いとして、各地の天満宮に鎮まります。天神は時にたたり神となり、その形相はまさにおになれば、鬼の角も「牛」でしょう?
大本神諭、出口王仁三郎(おにさぶろう)の本名は上田喜三郎(きさぶろう)で、うしとらこんじんの筆先に「鬼三郎(きさぶろう)と改名せよ」と出たので、あんまりじゃと「鬼(き)」を「鬼(おに)」と読み替え「おに(王仁)三郎」。ひっくりかえせばうんの呼吸のおう様は、鬼の形相なり。そしてたたりの漢字は「かみしめすがゆゑに〔 出+示=たたり 〕」。惡人や蛇神(蛇霊)にとって、魂の中心に隠された太陽神天照大御神ラー41の譱光は、青鬼(すけさん)と赤鬼(かくさん)を連れて、惡代官や惡徳商人を成敗する水戸みとみつくに公のごとし。
もし、いままでせつぶんの日に「鬼は外~福は内~」と、鬼さんにり豆を投げつけていたら、ただちにあらためてください。それは、邏卒らそつというおにとしてあらわれた本当の正義の味方(創造神の警察官)を追い払う行為であり、無意識に「私は惡の味方です」と宣言する行為だからです。人に内在する良心は閻魔大王(鬼達の総指揮官)として働く創造神のわけみたまであり、「鬼は外~」で鬼に煎り豆をぶつけるとは、閻魔大王(正義)に刃向うことを意味します。生きているうち現実三次元世界ならそれで良くても、四次元世界五次元死(四)後(五)の世界では通用しない。ですが、閻魔大王(良心神)をないがしろにしてきた罪と惡習も、悔い改めればゆるされる。

預言者イエスは述べ伝えました。「悔い改めよ、主なる神の御国は近づいた」。
出口直開祖・出口王仁三郎聖師は宣伝します。「〔 主 〕神が表にあらわれて譱と惡とを立て別ける」。
『神言会-大本教神諭解説』



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テーマ : 心に響く言葉・メッセージ
ジャンル : 心と身体

役員信徒の爲に/霊界物語は皆日本の事

出口王仁三郎著「役員信徒の爲に」 王仁文庫(第8篇)大日本修斎会

 しょくんしゃうごとく、ぜんこくしんぶん ざっおほもとたいするなんこうげきは、きんらいまたまたさかんになってて、みやこの大新聞も、田舎いなかの小雑誌もおほもとことかねば、なにけんしきでもあるやうに、みなふでそろへてててります。そしてそれだいぶんは、皆もないきょもうちゅうしゃうてきなものであることしゅうとほりであります。
 が、けんにも『のないところにはけむりたぬ』とってとほり、これの記事のいづみなもとには、たとれがちゃうされたものとはへ、にはかならやくいんしんじゃあやまれるげんこうげんいんしてるものがらうと思ひます。すなはち、にゅうしんあさき信者や、またおほもとしんずゐとらざるけんきゅうしゃあやまれるげんこうが、ちょうきの新聞記者にってしんしょうぼうだいてきつたへられ、それが『いちけんきょへてばんけんじつつたふ』てきてんせんでんせらるるにいたったものとしんじます。ゆゑこのさいしょくんもっとつつしんでいただきたいものはくちであります。ことわざにも『くちわざはひかど』とひ、またしんにも「このおほもとけんからは、ゆびいっぽんさすこともまことをしへであれども、おほもとやぶるものは、おほもとなかよりしゅつげんするぞよ」とか「ちからいっぱいようしたつもりで、ちからいっぱいじゃをする」( 御用したつもりで…大本神諭 明治37年7月12日 )とかおほせられてます。このさい 役員 信者 諸氏にはじゅうぶんに口をつつしんでもらはねば、かへってしんかいけいりんさまたぐることとるのであります。
 ふでさき〔 大本神諭 〕はすべてかくじん身魂みたまそうおうにとれるので、ちょうかがみごとく、たいしゃこころただしければうつった姿すがたただしいが、たいしゃこころよこしまであればよこしまうつりてとんだちがひになるのであります。
 むかしはなしがあります。あるへいかつぎが、しょうがつがんてうなんでもたいことって、ふくまねかねばならぬとおもひ、近所のものしりもとって、『ふくかみびんぼうがみされ、かきそとにメソメソ』とうたへとおしへられました。そのおとこおほよろびてかへり、がんじつあさになって『ふくかみびんぼうがみされ、かきそとにメソメソと』ととがてんとうして、せいはんたいになってるのみもらず、いっしょうけんめいってたとまをします。ふでさきちょうこれとどうやうに、かんじんところちょちがへても、とんでもないちがひになってしまふのです。
 やくいん しんじゃ しょなかには、おほたてかへたいへんてんぺんさいおこるとか、たいしょう十一ねんにはてんがヒックリかへるとかふやうなことを、げんじつごとくに、ぜんせんでんするかたもあるやうにきますが、すべてかいどうらんよろこぶのはあくこころであって、斯様こんなひとうへべたへいかつぎもおよばぬ、おほとりちがひをしてられるのであります。すなはこれひとしんちゅうに「いっさくいたせばこのつぶれてしまふなれど、ここまでひらけてつぶすことは、どうしてもかみしのびないから、うしとらこんじんなりとして、ひとでもおほさせ、むしけらまでたすけたいのが、このほうねがひであるから、まんいちことがあれば、てんおほかみさままをしわけがないから、ここのところすいりょうして、どうぞいちにちはやかいしんしてくくだされよ」( 一度にすると人が減る…明治31年旧5月5日 )( ここまで開けた世界…明治31年旧11月5日 )( すいりょう明治32年旧正月18日 )とある、にんあいの大神のおほこころとららず、ぜんぜんところちがへてるのであります。
 しんにはかみごころかへれと、じゅうきょうかいになってますが、かみごころとはぜんぜんはなれ、おほかみためくにためつくところの、いはゆるわがをすててかいたすけの」をすることであります。すなはかみてんじょうきゅうこううんよくし、こうしついやさかえにさかたまこといのり、しもばんみんふくたいへいたのしむやうになるのをねがふのがかみごころであります。であるから、天變地災などはなるべくきやうに、ひとでもおほくのひとすくはるるやうおほかみ様にがんし、またみづからもつとめるやうにならねば、けっしてしんりょかなまつることはぬ。しんには「たいなんせうなんまつへて、せうなんやう」( 祭りかへ…大本神諭、明治35年7月11日/小三災 )とありますが、このたいなんと云ふのは ふう すい  くわだいさんさいことで、せうなんとは  べう せんせうさんさいことであります。ぜんしゃじんりきもって、かんともがたいものでありますが、こうしゃかならずしもさうではありません。われわれじゅうぶんかいしんしてかみごころかへれば大難を小難にまつへていただき、また小難はぬやうにまもっていただけるのでありますから、このさいしょくんじゅうぶんかみごころになって、惡魔あくまげんかたしりぞけていただかねばならぬ。かのみならずわがくには、らいことたまさちはあまくにでありますから、ことへば善き事きたり、わることへば惡い事が來ます。ゆゑあまてんぺんさいしょうどうすると、そのことたまためじっさいそれをしょうらいさすことになるのであります。ゆゑ王仁三郎いままでしんれいかいじょうで『おもふことありて』とうたんで、いろいろちゅうまをしげたのですが、こんかいついないしょうとうきょくしんぱいをかけるやうになってました。内務省ではきんらいそうかいどうやうはなはだしきをうれへ、このほうめんとりしまりおほひにげんじゅうにしてられるのですが、こんねんいたりていよいよてんちょうちゅうしんとなったわがおほもとが、天變地災やにちべいせんそうげんてきせんでんをやっては、えいきょうするところすこぶじんだいなのであります。ことにちべいせんそうせつごときは( 大本神歌瑞能神歌 )、がいこうじょうにもすくなからぬしょうきたすとのことですから、とくちゅうねがひます。
 私はこんにち綾部あやべけいさつしょしゅっとういたして、はら高等課長、えんどう綾部署長たちひのうへしょしゅちゅうをうけましたから、それについてすこみなさまはなしいたし、はんせいたうとおもふのであります。
 だいいちこうしつそんげんぼうとくするがごとげんつつしむやうにとふ、まことそうがいな注意であります。
 そもそわがこうどうおほもとどうみんしんらくがいたんし、けいしん そんのう あいこくててけっしたものでありますから、おほもとより敬神尊皇愛国をったなら、あとにはなにもののこらぬのであります。ただためひとためわすれてじんすゐし、まよへるひとびとかみあいつたへ、これかいしんさせてすくふ、これおほもとこんぽんせいしんなのであります。しかるに、今回おもひがけずもかかるかいたのは、まことなんたる意想外なことでありませう。じんへいしゅちょうしゅたいし、これほどかんな、またはづかしいことはいのであります。王仁はかかる誤解のしょうじたげんいんを考へて見ますに、今のたいしゅれいじゅうになりったじんは、ぜんことあまかへりみないが、あくことになるとたいへんよろこんできしたがるものですしたがってげきとっげんろんかっさいをうけるところから、おほもとでんどうしゃちゅうけっはやひとたちは、ややもすれば、けうな、おほもとの根本精神にはいれいする――すくなくともそのやうに誤解さるるやるな――げんろんすやうであります。じょうじゅつおとゆき炭団たどんちがへたやうな誤解も、ところからしゃうじたものでせう。しょくんは「でんどうしゃことこうあたかげんごと」とのしんまえに( 伝道者の言葉… 裏の神諭二 )、よくよくはんせいあらんことをせつぼうするだいであります。
 こうどうおほもとこうりょうせいばんせいいっけいてんしょく)、けうてんじゅしん)、くわんてんじんどうつね)、ざうてき)であります。しんせいかみさまつかまつじょうは、今迄のやうないやしいしゃうほふめねばならぬなどひとがありますが、じんみなしょくげふめて、のりばかさうせうしてたら、国家こっかうしてしてけませうか。かくごとき誤解はなにものたるかをらぬからであります。諸君はこの政教慣造のべつあきらかにたいとくしていただかねばなりません。
 だいゆうざいさんてっぱいだいぞくせいする注意で、これいてもだいじんに誤解されてるやうであります。
 すべて天地間のいっさいぶつは、『とよあしはらあきみづくには、わがそんきみたるべきなり』と云ふしんちょくほうじて、あめしたしろしめたまふ、わが てんのうへいしょゆうであらねばなりません( 出口王仁三郎天皇説について )。すなはてんしたそつひんわうあらざるはのであります。しかるにいま我々がにんちょくによって、私有財産をゆるされるのは、しんみんせきごとたまふ陛下のしんりょるものと、ありがたく感謝しまつらねばなりません。であるからおのそうとうな生活をなしてくにる財産は、いただいててもけっしてさしつかへないのであります。ただこんにちなりきんはいごとく、せきひんに苦しむ人をかへりみずして、おのかいらくためにのみむさぼるやうな事はしないで、ゆうあればこうえきためきょうせよと云ふに過ぎないのであります。わづか五十年のじんせいにのみつうようする財産をむよりも、まつだいほろことなき霊魂みたまとくめ、われわれさけぶのであります。ぶっきょうでもくやうに、すべてぜんいんにはぜんあり、あくいんにはあくがあります。このせいおこなじんどうんだひとは、しんかいにてはまことにけっこうにしていただき、永遠の幸福をたのしみるのであります。ことがよく了解さるれば、たるよくめ、みずからをそこくにおとひとこそ、まことよくらざるものふべきではありませんか。わがおほもとにてはかるけんより、すなはかたちあるきんぎんざいほうよりも、しんちゅうけいざいほうおもんぜよとふ意味において、私有財産を重んじ過ぎるなとふのであります。
 また日本の国家はかみの昔より、しゅ しんさんとくかんながらゆうたまへる、へいおやしたちょうあふいだ、いちだいぞくをなしてます。ゆゑたがひはんもくさうとうすることなく、つねあひあひたすけ、もっこんぜんたるいっだんらんをなさねばならぬのである。これすなはじんがうするせいしんてき大家族制度であります。
 しかるになかにはこれけいたいじょうこととなし、きょうさんしゅ、社会主義などに誤解されるやうにかれるひとがあり、ために当局よりまれ、しんかいけいりんさまたぐるやうなことになるのであります。またけんぽうたてかへにはくなるとかひともあるさうですが、すべて憲法はみな、陛下のきんていになったもので、そのはいみなぎょしますことでありますから、われわれじんみんなにまをしぐべきわけがないのであります。
 それから、しん かみなり あめ などふ天変地災にいては、先にべたことをよくたいとくして、かるがるしきげんもっとつつんでいただかねばならぬのであります。
 ふでさきには「ほんぐうやまみやたら、だまりてりて出來るやうになる」 「ものひたいやうなあひだまことでない」 「なんとしたしづかさだらうと、けんからふやうにならぬと、かみおもてにならぬ」( 何とした結構な教…明治36年旧6月8日 )( 世間から云われる…明治37年旧11月3日などとよくをしへられてあります。私はところから、しんはっぴょうはせやうとおもったことさいさんありましたが「へんじゃうにょおほもと經綸しくみじゃして、しょせつひろめ、あとをらうとする」なぞと誤解されてはと、ちゅうちょしてました。さうしてところへ本月五日にいたまきはつばいきんめいたのであります。私はこれみなしんかいくみと、ありがたくこそおもへ、けっしてへいなにいのであります。ふでさきただいちまいでもよくはらればそれでよいのですから、しょくんいままでしんにゅうねんはいどくになれば、まきはなくともすこしさしつかへはあるまいとおもひます。
 つぎちんこんしんでありますが、當局でもこれはいさすことはぬが、なるべくせぬやうにしてれとふことです。いったいこのつぎちんこんしんしんぱふは、ほんしょしゅうとうの国家のじゅうてんしるされてあり、だいほんこくけうじうえうなるようをなしてます。そのげんかしこくもこう あまてらすおほかみおんときにあり、ゆゑれきだいの陛下はそくしきふしは、かならちんこんさいおこなはせらるるのであります。またきゅうちうはちしん殿でんすなはちんこんかみさままつってあります。ゆゑしんつぎちんこんしんするならば、れはやがこくきょうこぼち、いてはこうしつそんげんぼうとくするけいおちいるのであります。しかながら、今迄おほもとひとびとがやってたのは、そのかたちうへにもそうがあり、あまらんようぎてました。なかにはそのげんしんもくてきらずに、さかんにデモちんこんをやってひとせうせうではなかったやうであります。そのうへ、地方のはっけうしゃなどが、びょうためちんこんけにるのを、ちんこんをうけたはっきょうしたやうにでんせらるるとう、カナリのめいわくへいがいを認めましたので、私はたいわんとうきょくきんするよりもさらに以前において、じゅうぶんの注意をしたのであります。
 そもそちんこんしんぱふは、かみかしこくも てんのうさまこくへいてんたいだうより、しもばんみんしゅうしんさいの基本であって、じつわがしんこくじゅうようでありますから、まんまんいちちんこんきんするやうな事がありとすればこうしつめ国家のめ、だんじてゆるされないのであります。しかせんだったいわんかんけんちんこんを禁止しましたにいては、われわれひとことこうないとふ殘念なだいおこなちんこんしんせいちんこんでなくて、前にまをしげたやうなデモちんこんらんよういんしてると思ひますから、むをなきりをるのであります。らんぼうこくたいせいしんとぼしき某地方の官憲といへども、みなさんがしんせいなるちんこんほうしゅうされるのを禁止するはづはない。えうするに我々のめいつみと思うて、みづかいまむるよりほかにありませむ。そのすぢの御注意のてんこれくらゐなものであります。
 最後にいちごん おくことについてまをします。けうさましょうてんは大正七年十一月六日でありましたが、たうはかのりうかうせいかんぼうしゃうけつきはめてて、共同墓地にがなかっため、今の奥津城のの使用を願ひ出たのですが、なかなかゆるしがず、御昇天後二十八日目の十二月四日に、ようやきょの通知状がたのであります。かもほんそうはあと二日にせまってるので、各地青年隊がいっしゃうけんめいに努力した結果、やっとあのつちまんじゅうだけきづけたのであります。しかもとせっけいけっしてああふのでなくて、ほうけいいしんで、その上にひょうてるていであったのです。ところそのあの奥津城は、かしこくも めいたいていりょうる。けいだとなんおこりました。じっさいさうであるとしたら、けいしん そんのう あいっくなるおほもとしゅもとり、けいけんなる教祖様もけっしてこころよくおもはれないにちがりません。こころある信者は、このてんおほいかんおもってられるやうでしたから、私もだいさんだいも大変心配して、いちねんさいまでにもとせっけいどほり改築しいと思うて、一 二回ある法律家にひましたが、十年後までかいちくすることはならぬとのことで、こころならずもあのままにしていたのですが、今回ねがって許可をけんとうがつきましたから、三年祭(すなはち本年の十二月六日)までには、もとの設計通りに改築することにいたしました。皆様に誤解のなきやうにねがひます。
 また ほんぐうやましん殿でんを( しんぐう )とほうなどなるのをけますが、しんぐうなるしょうかんぺいたいしゃ以上でないと、ほうじゃうもちひられませぬから、今後は しん殿でん 又は だいしん殿でん とんでいただかねばなりません。




『新月の光』下巻、361ページ「○霊界物語は皆日本の事」
 九回読んだらだいわかっただろう。『れいかいものがたり』はみんなにっぽんことである。アメリカやいんの事にしてあるが、みな日本の事である。いままでしんじゃだましてあったのや。ひっしているので、あまりしいのでわらっていた。(中略)そんなことわかろうものなら大事件になるから判らぬようにいてある。(しょう21年3月22日午前9時)


○出口王仁三郎曰「小三災」 玉鏡(昭8/7)
 まっぽうおこしょうさんさいふのはびょうせんであるが、うえと云ふのはしょくりょうけつぼうとのみってはならぬ。経済上の飢饉ききんもある。びょうと云ふのも、たんからだむとかいするのはあやまりである。そうてきの病気もこのなかに入るので、こうどうせいちゅうあゆむのがけんこうしゃであって、けい〔 註:よくきょく 〕だのけい〔 註:よくきょく 〕だのとふのは思想上のびょうにんである。とくあかい思想〔 註:きょうさんしゅしんろん 〕などはこうこうはいった大病人である。
 いくさ兵器へいきをもってのいくさの意味だけではない。せいせんしょうせんなどなどいろいろある。議員選挙においても、「あの人にもらはねばならぬ」と選挙人の方からこんもうするのがあたりまへで、候補こうほのりをあげてちく鹿ろくじょうしのぎを削るのはすなわち戦争である。名誉、屈従外道げどう等によって政治せいじない。
 だいさんさいふうすいについてはふまい。ただこれはじんりき如何いかんともすることが出来ない天然現象である。ひたすら神様にいのって惨禍さんかすこしにてもすくなからむ事をねがはねばならぬ。火とふのはだけの事ではない、大地だいち地震じしんことである。


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『大本神諭』 明治25年旧正月・・・日

○明治25年旧正月…日(天の巻)

 さんぜんかい  いちひらく  うめはな、  うしとらこんじん(※1)りたぞよ。
 うめひらいてまつおさめる、しんこくの世になりたぞよ。日本はしんとう、神がかまはなけぬ国であるぞよ。がいこく獣類けものの世、つよいものちの、惡魔〔 あく 〕ばかりのくにであるぞよ。日本もけものの世になりておるぞよ。外国人にされて、しりの毛(※2)まで抜かれておりても、まだめんくらがりの世になりて居るぞよ。これでは、くにちてはかんから、神がおもてあらはれて、三千世界のたてたてなおしをいたすぞよ。
 用意をされよ。この世は全然さっぱりさらつの世に替えてしまふぞよ(※3)。三千世界のおおせんたくおほ掃除そうじを致して、天下てんか泰平たいへいに世を治めて、万古まんご末代まつだい続く神国の世に致すぞよ。神のもうした事は、一分いちぶ一厘いちりん ちがはんぞよ。すじよこはばほども間違いは無いぞよ。これが違ふたら、神はの世にらんぞよ。

 てんこんこうくろずみみょうみれいさきばしり。とどめにうしとらこんじんあらはれて、世の立替を致すぞよ。世の立替のあるといふ事は、かみばしらにもわかりて居れど、うしたら立替が出来るといふ事は、判りて居らんぞよ。りんまでは知らしてあるが(※4)、モウいちりん肝腎かんじんの事は、わかりて居らんぞよ。三千世界の事は、何ひとわからんことかみであるから、さびしく成りたら、綾部のおほもとまゐりて、お話をかしていただけば、何もも世界一目ひとめに見える、神徳をさずけるぞよ。

 神となれば、スミスミまでも、気をけるが神の役。うへばかりくても行かぬ、かみしもそろはねば世はおさまらんぞよ。洋服では治まらん、かみしも〔 裃 〕そろへて人民を安心させて末代まつだい潰れぬ神国の世に致すぞよ。用意をされよ。あしもとから鳥が立つぞよ。それが日本をねらふてくにとり〔 国獲り 〕であるぞよ。までも自由にいたして、神は残念なぞよ。日本の人民、盲目めくら聾者つんぼばかり。神が見ておれば、井戸のはたに、茶碗を置いたがごとく、あぶのふて見ておれんぞよ。外国人〔 がいこくじん 〕よ、今にうしとらの金神が、へんぽう返しを致すぞよ。

 根に葉の出るは虎耳草ゆきのした、上も下も花咲かねば、このは治まらぬ。うへばかりくても行けぬ世。しもばかりくてもこの世はおさまらぬぞよ。

 天子てんし綾部あやべに、仕組しぐみいたしてあるぞよ(※5)てんてんこしらへて、もとむかしかへすぞよ。ようふくてウロツクようことでは、日本にほんくにおさまらんぞよ。こっかいびらきは、人民が何時いつまでかかりてもひらけんぞよ。神が開かな、開けんぞよ。ひらいてせう。とうきょうもと薄野すすきのるぞよ(※6)永久ながうつづかんぞよ。あづま〔 吾妻 〕のくには、ひとれののちくらがり。これにく人民はないぞよ。神はけるぞよ。此世このよおにおうじょうさせて、がいこくを、地震じしん かみなり あめ らして(※7)、○○○ねば、世界はしんこくにならんから、昔のおほもとからの神の仕組が、じょうじゅ致す時節がまはりてたから、苦労はあれど、バタバタとらちをつけるぞよ(※8)わかりた守護神は(※9)一人ひとりなりと早く大本へ出て参りて、神国の御用ごようを致してくだされよ。さるかはりにつとあがりたら、万古まんごまつだい、名の残る事であるから、神から結構に御礼おれい申すぞよ。世界中の事でるから、何程なんぼ智慧や学がありても、人民では判らん事であるぞよ。この仕組しぐみわかりてはらず、判らねば成らず、判らぬので、改心が出来ず、世の立替の、まつだいに一度の仕組であるから、全然さっぱり、学や智慧ちえすてしまふて、うまあかの心(※10)たちかへらんと、見当が取れん、六ヶ敷むずかしい仕組であるぞよ。いままでの腹の中の垢塵ごもくを、さっぱり、してしまはんと、今度の実地じっちまことは、わかりかけが致さん、大望たいもう仕組しぐみであるぞよ。

綾部03本宮山
〔 由良川より見る綾部本宮山。 〕

 うじがみ様の庭のしらふじうめさくらは、ぐちなお御禮おれい庭木にわきに、さしたので在るぞよ。しらふじさかえば、綾部くなりてすえみやこと致すぞよ。ふくやままいづるそとがこひ。四方しほうは宮の内(※11)あやはまんなかになりて、こんりんおうで世を治めるぞよ(※12)。綾部は結構なところ、昔から神が隠していた、世の立替の、真誠まこと仕組しくみ地場じばであるぞよ。

 世界くにぐにところどころに、世のたてへを知らすかみばしらは、沢山たくさんあらはれるぞよ。みなうしとらこんじん くにとこ立尊たちのみことの仕組で、世界へ知らしてるぞよ。おほかたわたりた時分じぶんに、綾部へ諸国の神、守護神をあつめて、それぞれの御用をもうしける、とほとい世のの世のもとの、りゅうぐうやかたたかあまはらであるから、何を致しても、綾部の大本のゆるしの無き事は、りんひっくりかへるぞよ。みな神の仕組であるから、われわれがと思ふて致しておるが、皆うしとらの金神が、ばかかして使ふてるのであるぞよ。この神は、ひと手柄てがらをして喜ぶ神で無いぞよ。おほもと仕組しぐみわかる守護神でありたら、たがひに手をき合ふて、世のもと立替たてか立直たてなほしを致すから、これまでの心をいれへて、大本へて肝腎の事を聞いて、御用をつとめてくだされよ。三千世界のかみがみ様、守護神殿に気をけますぞよ。たにだにがわの水も、おほかわすえとつに仕組しぐみ。綾部もとまことの神のすまひどころ。

 と日本のたたかひがあるぞよ。このいくさは勝ちいくさ、神がかげから、仕組が致してあるぞよ。神がおもてあられて、日本へ手柄てがらいたさすぞよ。露国からはじまりて、モウいくさがあるぞよ。あとは世界のおおたたかひで、これからだんだん判りて来るぞよ。日本は神国、世界をひとつにまるめて、ひとつのわうをさめるぞよ。そこへ成るまでには、なかなか骨が折れるなれど、三千年あまりての仕組であるから、日本のちて居れる守護神に、チット判りかけたら、神がちからけるから、大丈夫であるぞよ。世界のおおとうげすのは、神のもうすように、素直に致して、ドんなろうも致す人民でないと、世界の物事はじょうじゅいたさんぞよ。神はくどう気をけるぞよ。
 この事ける身魂みたまは、ひがしから出て来るぞよ。このかたいでになりたら、全然さっぱりの守護と成るから、世界中にしんとくひかかがやかみになるぞよたいしょうを綾部の高天原のりゅうもんやかたに、さんならんことが出てくるぞよ。中々大事業たいもうであれども、昔からのいきがみの仕組であるからべつじょうは無いぞよ。

 いったんたたかひおさまりても、あともんちゃくは中々おさまらんぞよ。神がおもてあらはれて、かみがくとのちからくらべを致すぞよ。がくはモウみたぞよ。神には勝てんぞよ(※13)


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『大本神諭』 明治…年…月…日(火の巻)

○明治…年…月…日(火の巻)

 至仁至愛みろくかみ(※1)御出おでましになりなさる時節じせつが参りて、おほくにとこたちのみことぐちらしていた世がせまりて来たから、世界中の人民がかいしんを致さねば、この世ではモういっすんも先へはけず、後へ戻ることも出来できんぞよ。
 此世このよの来ることを、明治二十五年から今につづいて知らしておるのに、チットモききれがいが、くに同士どうしの人の殺し合ひといふやうな、こんなつまらんことはないぞよ。
 一人のじんみんでも神からは大切であるのに、くっきょうざかりの人民が皆なりて、としより小児こどもばかり残して、あとさきかまはずのやりかたであるぞよ。こんなおほきな天地てんちつみおかして、まだ人の国まで取らうと致しておるのは、むこさきの見えぬあく所作しょさであるから、どの国がちゅうさいに出ても、天地の大神のゆるしのなき事には、いつまでもらちかぬぞよ。かけたふねであるから、どちらの船も後へく事もならず、すすむ事も出来ず、まことのちゅうさいもはいらず、つまらん事がるから、外国のしゅごうじんながらくの間、気が付けてありたぞよ。

「あまりが強いとしくじるぞよ」と、何時いつふでさきで気がけてあるぞよ。「何国どこにもけん強い国であると思うて、われよしのやりかたでがんると、為損しそこなひが出来るから」ともうして、くどう知らしてありたが、今のありさまそのとほりではないか。これからしんだいになるから、今までの様にあまり頑張ると、れの思ふやうには、の先は一寸も行かんぞよ。の強い守護神ほど、思はくはちはせんぞよ。

 これまでの心を全然さっぱり入れかへてしまうて、天と地とのもと創造こしらへおほもとかみへおびを致さねば、われいちりきりて居ると思ふのが、大間違であるぞよ。「なにごとみなかみからの事であるから、取違〔 ちがひ 〕をいたすなよ」と、先に気をけてあらうがな。

 われいちりきると思うて居ることを、「霊魂みたましょうらいいんねんだけの事を、天地の神からさせられて居るのである」とこと判然はっきりとわかる時代がめぐりて来たのでるから、これまであくの守護神のやりかたも、九分九厘までは、トントンびょうに思ふやうに来たなれど、モウ九分九厘であくのやりかたは、輪止りんどまりとなるのが今の事であるぞよ。今までは、あくく時節でありたぞよ。これくらがりのでありたぞよ。

 この先は智慧やぶつでは国はたんぞよ。一日も早くおうじょういたさんと、世界の物事がおくれておるから、ふでさきでいつも同じ事を気をつけるぞよ。むこうの国のありさまは筆先どほりに成りて来ておるから、日本の国の守護神に早くわからんと、たてかへが十二年おそくなりておるから(※2)なにかの事の実地じっちが始まると、「まだまだ世界にははげしき事が来るぞよ」ともうしてるが、一度もうした事に違ひはせんぞよ。世のもとから神はわかりておるのであるから、むこうの国にあれだけの事があるのに、日本の人民は、「われさへけら、国はどうなりてもかまはぬ」とは、全然まるきりけものであるぞよ。神のじきじき御魂みたまもらうておるからは、すえには神にもまつられる結構なものでありながら、人はこけやうがたふれやうが、われさへ善けりゃいでは、ばんぶつちょうとはまおされんぞよ。世界は今が罪穢めぐりしゃくせんなしであるから、「罪穢めぐりのひどいところ程、きびしきいましめがあるぞよ」とまをして知らしてあるが、この世界はあとにもさきにも無いみせしめがるぞよ。

 用意をなされよ。たてかへつのあらかへであるから、かみたちかへりて(※3)万古まんごまつだいひとすじになるとほとい事のはじまりであるから、みなの人民の思ひが違うておるぞよ。おほもとは今では粗末そまつなとこでるなれど、この広い世界に、ほかにまたとない大神の世のもととうといとこであるから、全部すっかり判けて見せたならば、余り大きな仕組しぐみであるから、思ひが大違ひでびっくりいたすぞよ。「天地のビックリばこひらくぞよ」ともうしてあるが、このビックリ箱が開いてひらをかやしたら(※4)、どんな人でも驚愕いたして、改心せずにはれん事になるが、其処そこまでかんうちにチットわからんと、つまらんコトがあるぞよ。

 このおほもと(※5)にちにちかぶり付いて居るものに、チト早くわからんと、何処どこからもこれからは判る守護神が出て来るから、はずかしうなるぞよ。何事もちっと判りて居らんと、面目めんぼくない事が出来るぞよ。まんしんとりちがひ〔 鶏違ひ 〕が一番こわいぞよ。誰にらず慢神すると、われの心が大変えらい様に思へて、人から見て居るとはなたかうてぞよ。はらなかまことさへりたれば、どんな事でもるなれど、上から見てよくても、心の中に誠が無いと、實地じっちまことじょうじゅいたさんぞよ。


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プロフィール

真善美愛

Author:真善美愛
真善美愛まことと申します。東日本大震災の後、上野公園さんの『神言会-大本教神諭解説』に出会い、ぐちなお開祖・さぶろう聖師を通じてうしとら〔 艮 〕こんじんくにとこたちのみこと様に導かれます。それ以降、天の御先祖様(万軍の主、創造神)のお役に立ちたいと、良心神(個々の魂に宿る天帝の分魂、天照皇大御神)を奉じて活動しています。

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